(1)
「学祭荒らし?」
焼きそばの模擬店でクラスメイトと昼食を取っていた森野皓は、通りかかった弓道部の後輩から「学祭荒らし」の噂を聞いた。
「他校生らしいんですけど」
「俺、早押しクイズに出てるの見ました。とにかくものすっごく強いんですよ。そいつらが参加した他のコンテストも全敗らしいです」
「ふうん、学祭荒らしねぇ」
興味無さげに答えた森野は、焼きそばの中に入っていたピーマンを脇に除けた。ピーマン抜きでと頼んだのに、容赦なく入っている。数ある食べ物系模擬店の中から選んだのは、次期弓道部主将・杉浦祥吾のクラスが運営する焼きそばの店だった。杉浦の嫌がらせであることは言うまでもない。
私立遥明学院高校では、十月の第一週に学園祭が催される。水曜に体育祭、金曜土曜に文化祭と言う日程で組まれ、『秋茜祭』とも呼ばれていた。
今日は最終の土曜日。この日は生徒から申請された招待状があれば、家族以外の他校生も訪れることが出来た。なので外部参加型のイベントが集中する。スポンサーを募ってささやかながら、それでも高校生にとってはありがたい賞品が用意されるので、参加型イベントはどこもそれなりに活況を帯びていた。
部外者が参加するとは言え、ほとんどは在校生が賞品を取って行くのだが、今年はどうやら違うらしい。午前中から出没している「学祭荒らし」は、参加するイベントの目玉商品を、ことごとく掻っ攫って行くのだと言う。
「四、五人のグループで、体力担当と頭脳担当に分担してるみたいなんですよね」
「俺たち、大丈夫かなぁ」
午後、弓道部は引き継ぎ式を兼ねた演武を披露するので、焼きそばを食べ終えた森野はクラスメイトと分かれ、後輩たちを引き連れて模擬店エリアを後にした。
背後で不安そうに後輩たちが話している。弓道部も部を上げて、とあるイベントに参加していたからだ。もちろん優勝狙いである。
「大丈夫だって。岸上で負けるわけないだろうよ」
森野は心配していない風に答えた。事実、まったく心配していない。
弓道部が参加するのは、毎年恒例の『チキチキ! 女装っ子〜奇跡の一枚コンテスト!』と言うイベントだった。タイトル通り、女装して奇跡的に撮れた一枚を出展し投票で順位を競う、人気イベントの一つである。もともと女装系コンテストは男子校にはつきもので、一時期、いくつものイベントが乱立したが、最終的に遥明学院高等部では件のコンテストだけが残った。理由は「ポラロイド写真で参加」と言う手軽さと、豪華な優勝賞品にある。
「身内の贔屓目を差っ引いても、岸上、ダントツじゃん?」
写真が張り出されているイベントブースの前で足を止め――様子を見にわざわざ通ったわけなのだが――、掲示板に張り出されている写真の一枚を森野は指差した。胸当てのある女子仕様の弓道着姿に、付け毛の三つ編みでお下げ頭にしたその額には白い鉢巻、弓を番えて引き絞り、キリリと的を見据える、どこから見ても凛々しい美少女が写っている。
「確かに」
「プレヒレサンドは手に入ったも同然」
森野は腕組みし、満足げに笑んだ。
プレヒレサンドとは正式名称を「みやこ屋のプレミアムヒレカツサンド」と言い、学食パン部門不動の人気第一位を誇るサンドイッチである。老舗人気店・みやこ屋ベーカリーの看板パンで、店頭価格一個三千円が学内では破格の一五百円で販売されていた。生徒の懐具合から言って、月一個腹に収まれば良いくらいの高価なパンである上に、一日五個の限定販売のため、「授業をさぼるしかない」と言われるほど手に入れることは難しかった。その大人気のプレミアムヒレカツサンド一日一個無料券三十枚が、『チキチキ! 女装っ子〜奇跡の一枚コンテスト!』の優勝賞品なのである。
弓道部は総部員数二十五人。山分けしてもまだ五枚余るが、それは当然三年生のものだ。
「こればっかりは体力知力関係ないかんな。まず素材が物を言うんだから」
弓道部の『素材』は一年生部員の岸上純太である。第二次性徴期がまだなのではと思えるほど骨格が子供で、華奢で中性的な容姿をしている。変声もまだのため無粋な喉仏がない。当然、髭をはじめとする無駄毛も見当たらなかった。平凡な顔立ちながら、ちょっと目元にラインを引いて、色つきのリップクリームを唇に塗れば、どこからみても清楚な大和撫子の出来上がりである。ちなみにそれらのメイクは、大学部にいる岸上の姉が施してくれた。写真撮影当日、岸上だとわかっていても、多感な思春期の少年たちはドキドキしたものである。と同時に、勝利を確信した。
外部からもコンテストに参加は出来る。公平を期す意味で某社のポラロイド使用がルールになっていたし、飛び入り参加者のためにカメラの貸し出しもされていた。実際、数枚の外部参加の写真も混ざっている。しかし今のところ森野の言う通り、岸上の対抗馬に相応しい『美少女』は見当たらない。
「もしその『学祭荒らし』がこれに出ていたとしても、今見る限りじゃ岸上に勝ててねぇよ。これから出るにしたって、飛び入りじゃ勝ち目ないね。学祭荒らし、ざまぁ」
高笑いする勢いで森野が言った。ポラロイド写真で手軽にとは言え、在校生はそれなりに準備して選びに選んだ一枚を出品しているのだ。午後三時の投票受付終了まで三時間、投票はすでに始まっていた。今からの出品では分が悪すぎる。
「何が『ざまぁ』なんだ?」
背後から声がかかった。振り返ると風貌からして高校生には見えない四人が立っている。森野に声をかけたのは、雰囲気でリーダーだとわかる男だった。森野と目が合うと「ひさしぶり」と言った。どうやら顔見知りのようなのだが、森野の記憶にない。
「誰だっけ?」
「おまえ、その髪型に相応しく、おつむの中も鳥なんだな?
天然パーマでふわふわした鳥の巣状態の森野の髪を、男は指で弾いた。この威圧的なオーラには覚えがある。初対面でもお構いなし、気さくといえば気さくなのだろうが、常に上位にいる余裕がそうさせるのだ。
彼の後方が視界に入り、少し離れたところにこちらの様子を覗って待機している三人が見えた。遥明学院のものとは違う制服姿は他校生だとわかる。人の顔を覚えるのはあまり得意ではない森野だったが、そのうちの一人にはつい最近、会ったような気がした。
「あ、何とか海斗」
「そりゃ後ろにいる弟だろ? なんだよ、弟の名前は覚えてて、俺は忘れてんのか?」
「弟? あー、北斗か!」
「呼び捨てかよ」
男は苦笑した。
「去年一回こっきり会っただけで覚えてるわけないじゃん。それも他校生なんてさぁ」
「海斗のことは覚えていたくせに」
「そりゃ今年の夏に会ったからだよ。いくら俺だって、それくらいなら覚えてら」
「『いくら俺だって』か。鳥頭だってことは自覚あるんだな?」
北斗と名乗った男は皮肉ったように笑った。森野は口をへの字に曲げる。彼の連れ三人、それと森野の傍らにいる後輩から笑い声が漏れた。
森野は完全に思い出した。フルネームは唐沢北斗。去年、夏休みに入ってすぐの頃、テニス部との交流試合に来ていた他校生だ。あの時は三年生だったのだから、「元」と言うべきか。いつものごとく練習をサボってブラブラしていた森野が、通りかかったテニスコートでちょっと足を止めた時に出会った。縁もゆかりもないはずなのに、彼の手によって弓道場に引き戻されたのである。おかげで部活終了時間まで、インターハイ初出場でテンションが上がるOBをはじめとする諸先輩の監視の下、みっちり弓を引かされた。
忘れはしても思い出すことは出来る。
前はジャージ姿でイチローもどきのスポーツ刈りだった。今日は私服で髪も幾分伸び、パッと見の印象は違うのだが。
(でも、このえっらそうなオーラ、覚えてる)
身長は十センチも変わらないのに、高みから見下ろされるかのような威圧感。年上であっても意に介さない森野でなければ萎縮するだろう。事実、さっきまで森野の傍らにいた後輩たちは、一歩二歩、引いている。
「で、こんなとこで何たむろってんだ?」
唐沢は森野が見ていたホワイトボードに目をやった。ランクさまざまな美少女もどきの写真が貼られているのを見て、「男子校だなぁ」と感想を漏らした。
「あんたこそ、何でここにいるんだよ?」
「ここのテニス部に招待されたんだ。ここの学祭って面白いなぁ、いろいろイベントがあって。楽しく稼がせてもらったぜ」
唐沢は満足げに笑う。
(『学祭荒らし』って、もしかしてこいつらか)
森野は引き潮のように引いて行った後輩に視線をやる。『学祭荒らし』をその目で見た一人が肯定の眼差しで応えた。
「それで、何なんだよ、このイベント?」
唐沢の問いには連れの一人が、答えて簡単に説明する。どうやらここの卒業生らしく、招待したテニス部関係者と思われる。
「みやこ屋のプレミアムヒレカツサンド三十個が優勝賞品とは、なかなか豪勢だな」
みやこ屋は人気店なので、唐沢も知っている風だった。
「外部参加者が優勝したら、プレヒレサンド三個の引き換え券プラスクーポン券五千円分だよ」
説明していた卒業生が付け加えると唐沢は、
「なんだ、そりゃ。いっぺんにランクダウンじゃねぇか」
と不満げに言った。
「当たり前だろ、ここの生徒のための賞品なんだから」
それに対し、あきれたように森野が返す。
「でもまあ、みやこ屋のクーポン券が五千円分ってのは、そそられる。あそこはカツサンドだけじゃなく、どのパンも美味ぇから」
どうやら唐沢の興味を引いたようで、写真の受付と投票締め切り時間を確認している。よもや本人が出るとは思えないから――想像したくもないが――、参加するとしたら連れの誰かを生贄にする気だろう。森野はその顔ぶれを見て「無理だろ」と心の中で独りごちた。少し離れたところに立ち、こちらを遠目に窺っている唐沢弟の一行も、どこから見ても普通の男子高校生だ。岸上純太の敵ではなく、プレヒレサンドは依然、弓道部の胃袋に近い。
「いた。先輩、そろそろ用意しないと」
別の方向から声がかかる。杉浦だった。唐沢が森野より先に「よう」と応えた。
杉浦も唐沢とは面識があった。同じく去年の夏に出会っている。サボり魔の森野を見つけて部活に連れ戻すのが杉浦の役目なのだが、その時は唐沢が結果的に手伝ってくれた形になった。
森野とは違いすぐに唐沢のことを思い出した杉浦は、体育会系らしく頭を下げた。
「去年と状況変わってないな。相変わらず後輩困らせてんのか?」
唐沢は森野と杉浦を交互に見る。杉浦が苦笑いし、森野はそれをねめつけた。
「違ぇよ。この後、引退式があんだよ。俺は今から行くとこだったっつーの。あんたが呼び止めたんでしょうが」
「引退式?」
「役の引継ぎの儀式みたいなもん。ちなみに次の主将はこいつな」
森野は杉浦を指差した。差された杉浦はちょっと緊張気味に、再度唐沢に頭を下げる。
「なるほど、主将って面構えだ。で、おまえの用意って?」
唐沢のこの言葉に、弓道部の後輩たちが吹き出した。今しも笑い出しそうになるのを、森野の手前、とりあえず抑えたようだった。一応、サボり魔で、らしいところが全然なくとも、先輩で主将だから、配慮したのだろう。
「俺が引き継がせる方なの」
「え?! おまえ、主将なの?」
「あんた、いい加減失礼だな」
森野が主将に据えられたのは、少しでもその地位を自覚し、練習に励んでくれればと言う前任者達の期待があったからだ。期待は裏切られ、主将になってもサボり癖は治らず、自覚の芽生えはこれっぽっちも見当たらなかったが。おかげで二年の時からその代わりを務めさせられた杉浦の信任は厚く、主将にも満場一致で選ばれた。
だから自分が主将の器ではなかったことも、それらしい仕事をしなかったことも充分承知だ。だがしかし、唐沢に大仰に驚かれ、見た目で判断されたのにはカチンと来る。
「見に来られますか? 演武を兼ねているので、部外者も見られますよ」
杉浦が唐沢に言った。
「演武って言うと弓を射るのが見られるのか?」
「そう言うこと。俺のカッコいい姿見せてやんよ」
「『むがのきょうち』な? あ、今、平仮名で言ったのわかったか?」
「ほんっとうに失礼だな」
森野はそう言うと、唐沢が声を上げて笑った。今度は後輩たちも我慢しきれず笑う。
森野はまだ文句が言い足りなかったが、杉浦が「本当に行かないと」と腕を掴んで引っ張るので、仕方なく部室の方へと足を向けた。
半ば追い立てられながらも振り返ると、唐沢一行はまだ『チキチキ! 女装っ子〜奇跡の一枚コンテスト!』のホワイトボードの前に立っていた。
(2)
部室に着替えに入ると、副将の上芝知己が着替えを終えたところだった。森野の顔を見るや、
「それで? どないな感じやった?」
と尋ねる。
「何が?」
「チキチキ。見てきたんちゃうんか?」
ロッカーの扉を閉めて、近くのパイプ椅子に腰かけた。学校行事や秋茜祭のイベントに興味のなさそうな上芝が、『チキチキ! 女装っ子〜奇跡の一枚コンテスト!』に興味を示したことに、森野はちょっと意外な感じを受ける。
「へえ、おまえでも気になるんだ?」
「あたりまえやろ、プレヒレサンドなんて、俺、食ったことないんやから。これが最初で最後のチャンスかも知れんしな」
「去年も一昨年も、チキチキはあったじゃんよ?」
「あの面子で期待出来たと思うんか?」
森野は去年と一昨年の弓道部代表を思い出してみる。代々、弓道部は一年生を生贄…もとい、一年生にこの大事な任務を託してきた。上級生に比べ体格的にまだ、女装に耐えうる率が高いからである。但し、いくら小さくても女装が似合うとは限らない。森野が一年の時は、ぽちゃかわタレントの路線を狙って、ぽっちゃり色白の部員で参加したが、どう贔屓目に見ても女装した伊集院光だった。二年の時は今度副将になる小橋裕也に伊達眼鏡をかけさせ理系女子で勝負したが、選んだ眼鏡がまずかったのかアラレちゃんにしか見えなかった。どちらも写真を撮る時点ですでに諦めムードが漂っていて、結果も一部マニアな票を集めたものの、優勝には程遠い得票数だった。
「その点、今年の岸上は期待出来るやろ?」
「化けたよなぁ。目なんて1.5倍になってたじゃん。化粧恐るべし」
「一種のアートやな。原型わからんくなってるし」
「岸上の姉ちゃんも化粧取ったら、俺たちわかんないんじゃね? 素はそっくりだって岸上言ってたし」
二人は声を上げて笑った。
着替え終えてロッカーの扉を閉めると、森野の胸の中に何とも言えない感覚が広がった。遥明院高校の競技用道着を身につけるのは、今日で最後なのである。これからも弓道は続けていくつもりだし、卒業まで部活に顔を出す予定にはしていた。しかしそれはもう現役部員としてではなく、OBの立場になる。
森野は熱心に部活をしてきたとは言い難かった。どころかサボってばかりで、下級生をお目付け役を付けられる始末。弓道場には毎日顔を出さされるものの、弓を引いたのは他の部員の一年分にも及ばない。
(最後だから? まさかなぁ)
人はそれを「感慨」と表現するのだろうが、森野には存在しない語彙なので、ただ「妙な感覚」として胸がざわつくのを、不思議に思った。
「ちょっとは引いとけ言うてたで?」
上芝の声に、ぼんやりとしていた森野の思考が現実に戻る。
「誰が?」
「おまえの兄ちゃん」
「兄貴、来てんの?」
「毎年、引継ぎ式、OBは見に来てるやんか。一本も的中せんのは恥ずいから、肩ならしとけってよ」
上芝はそう言うと、部室のドアを開けた。
「去年、おまえも俺も皆中だった」
「俺らは皆中やったけど、瀬戸先輩も高橋先輩もボロボロやったやろ? 引き継がせる方は感傷的になるから、外す率高いらしいで」
上芝が部室を出たので、森野も続いた。
「珍しい。言われた通り練習する気なんだ?」
「まあ最後くらいは、言うこと聞いとかんと」
最後――そう言えば上芝とチームメイトとして公式に引くのも、これが最後になるかも知れなかった。森野は付属の大学に進むが、上芝は外部の大学を受験する。それも関東ではなく、生まれ育った関西の。次に会うのは、敵としてになるだろう。
森野と上芝は入部以来、似たもの同士の問題部員として一絡げに扱われていた。どちらも練習に顔を出さず、来てもすぐに姿をくらます。上芝にも下級生のお目付け役があてがわれ、森野同様、逃げては捕まり、捕まっては逃げると言ういたちごっこを繰り返す三年間だった。
それほどの問題児であるのに誰も匙を投げなかったのは、こと弓に対して、この二人が別格だったからである。ただ優れていると言うのではなく、その行射には抗い難い魅力があった。そして的前に立つ二人は弓に対して真摯であり、それを無意識に人は感じるからこそ、捨て置けない。
森野の射は、『剛にして剛を制す』力強さがあった。基本や型に囚われない。射るリズムも独特で、時として逸った印象の引きも見せる。指導者が時として眉を顰める射であったが、そのどれもが存在感となり、標準的な体格であるにも関わらず、見るものに「大柄」のイメージを植えつけた。集中力が生み出すプレッシャーが場を制し、圧倒するのだ。誰も真似の出来ない射である。
森野とは対象的に、上芝の射は基本に忠実で、流れるように美しい繊細さがある。後輩にはお手本にし易い射であり、誰もがそれを目指したい、鍛錬すれば手に入るかも知れない、理想的な射として人を魅了した。森野もその一人である。しかし森野を惹きつけた上芝の射は、周りが見たものとは違う。
それはたった一度見たきり。引き絞る音も的中する音も感じさせない、水の中を進む滑らかな軌跡の幻を見せる射。周りが全て『無』となり、その射に意識が囚われる。実際、森野はそのたった一射に囚われたままだった。その射をもう一度見たいがために、弓道を止めずに来た。森野をインターハイ個人優勝に導いたのは、その「たった一射」のおかげなのである。
上芝はと言えば、そんな森野の純粋な心構えに影響されて、自分の射を見失う恐怖を感じていた。まったく射に他の人間同様に圧倒され、圧倒されるがゆえに抗いたい、勝りたいと言う欲を捨てきれず、同じ空間で行射すると集中出来ない。だからこそ森野を避けての練習となり、サボり癖がついてしまった。「自分の射を取り戻したい」と言うことも、外部進学の理由の一つとしてある――新学期に入って部の引退が近づき、上芝の外部進学希望を知った時、二人は初めて互いの射への想いを語り合った。
以来である。こうして普通に話すようになったのは。
「じゃ、俺も練習するか」
「森野こそ、ほんま心入れ替えたんやな?」
「ど真ん中に皆中させて、あいつらねじ伏せとかねぇと。俺様の偉大さを思い知らせとく」
冗談とも本気ともとれる森野の言葉に、上芝は乾いた笑いで答えた。
今日、きっと上芝はあの「一射」を引くだろう。森野が追い求めた幻の一射を。それは演武の最中か、それとも練習のうちでか。いずれにしても見逃したくないと思った。
「あ、うるせぇのが来てる」
まだ練習引きの時間であるのに、弓道場にはOBたちが顔を見せていた。もちろん森野の兄の姿もある。
「そう思うんやったら、おまえも部に顔出すんはほどほどにしとけよ。そろそろ杉浦たちも解放してやらんと、嫌われるで?」
「もう充分嫌われてるって。も・ち・ろ・ん、おまえもな」
二人は並んで入り口で一礼し、中に入った。
(3)
「なかなか盛況じゃねぇか。女子も結構来ててびっくりだ。マイナーそうなのになぁ」
引継ぎ式を兼ねた演武が終わり、着替えも後回しで第一体育館に向かおうとしていた森野は呼び止められた。見ると唐沢たち光陵組である。彼らも弓道部のイベントを見学に来ていたのだ。弓道部前主将の瀬戸も一緒である。去年の夏、練習をサボっていた森野を唐沢が捕まえて弓道場に連れ戻し、それを引き取ったのが前主将なので、顔見知りと言えた。
「俺だってビックリだ。それになんであそこに女子がたむろってんだ?」
瀬戸が横目で廊下を指した。
「あれは『出待ち』」
森野は興味なさげに、しかし少し忌々しげに答えた。それで瀬戸が「ああ」と納得したように頷く。
「出待ちって誰の?」
唐沢がそう言うと同時に、華やかな歓声が上がった。見ると弓道場から後輩組が出てきた。積極的な女子が数人動き、一人の部員の行く手を遮る。
「杉浦。インハイで『今大会一のイケメン』とか何とか祭りあげられちゃった可愛い後輩です」
可愛い後輩といいながら、全然思っていない森野である。
インターハイ関連の記事で、各競技のいわゆるイケメン(男子)、キレカワ(女子)選手の特集が組まれ、その中に杉浦が入っていた。ここら界隈のローカル誌にも取り上げられたものだから、ちょっとしたブームが起こり、二学期に入ってからは校門で出待ちする女子中高生の姿が日常化していた。今日もどう言う伝手を頼って招待状を手に入れたのか、唐沢の言う通り、結構な人数の女子の姿が弓道場に見受けられた。当の杉浦は根っからの体育会系で、新主将を拝命したこともあり、それに浮かれる余裕などない様子だった。
「確かに、並んだ四人の中じゃ、ダントツ、キラキラしてたな。でもまあ、貫禄ではおまえが勝ってたんじゃないの? ほぼ、真ん中に当たってたし。それに弓やってる時はなかなかイケメンだったぞ?」
「野郎に褒められても嬉しかない」
森野は口元をへの字に曲げた。
「おまえの場合は限定イケメンだけど。でも前に会った時とちょっと雰囲気変わったな?」
「そうかな?」
「前は見るからにヤル気無し男だったけど、面構えがこう締まったと言うか。高校日本一になると、やっぱ貫禄ってもんが人を変えるってことか。それとも引退する今になって、最上級生の自覚が出てきたのか?」
去年一回会ったきりで、自分の何がわかるんだと森野は思ったが、一応、相手は他校の、それも「先輩」なので、聞き流す。
「日本一なんて関係ないね。結果的にそうなっただけで、狙ったわけじゃないからな。だから貫禄も何もねえの。いつも自然体」
森野の答えに唐沢の目が少し見開き気味になった。
「前もそんなこと言ってたな」
「そうだっけ?」
「インハイに出ようが、日本一になろうが、ぶれないところはまあ、すごいかな」
その表情は感心した風にも取れたが、森野にはなぜ彼がそんな顔をするのかわからない。「前も」とは去年の夏のことなのだろうが、あの時、唐沢とどんな会話をしたかさえ覚えていなかった。しかし褒められているようなので、気分は良かった。
「俺、部活は引退する気ねぇよ。ここの上に行くの決まってっから、残りは後輩をビシビシしごくんだ」
「自分はサボり魔だったくせに、迷惑なヤツだな」
元主将の瀬戸が呆れたように言った。「そんな資格がおまえにあるのか」と言いたいのだろう。瀬戸もその前任の主将・副将も、森野には手を焼いた口である。そしてどうせなら、「後輩」と言うものが出来た時点から指導を開始して欲しかったに違いない。
「杉浦たちの邪魔だけはするなよ。それからしごくならちゃんとしごけ。もう他のとこは来年目指して動き出してんぞ。せっかく二年連…」
「あー、はいはい」
瀬戸の言葉の途中で生返事をして、ふいと廊下の壁にかかる時計に目をやった。まもなく十五時三十分。『チキチキ! 女装っ子〜奇跡の一枚コンテスト!』の結果発表と、表彰のセレモニーが始まる時間だ。新旧の主将・副将コンビ以外の部員の姿はすでになかった。インターハイ個人優勝、団体ベスト4に続く快挙が待っている。森野にしてみればインターハイの成績などより、よほど意義のある「快挙」だった。
OBの相手は新しい主将の杉浦と副将の小橋にまかせて、とにかく『チキチキ! 女装っ子〜奇跡の一枚コンテスト!』の表彰式が行われる中庭に行かなければ、輝かしい瞬間に立会いそびれる。
「おい、森野、どこ行くんだ?!」
瀬戸の叫び声を久々に背に受けながら、森野は一目散に駆け出した。
(4)
選挙番組などでお馴染みの造花の赤いバラが、カラーコピーで目一杯拡大されたポラロイド写真の周りを囲むように留められた。吹奏楽部有志の吹くファンファーレの後、パーティーグッズの小さな金色のくす玉が割れ、紙ふぶきと共に「おめでとう」の短冊が落ちる。歓声と拍手、冷やかしの口笛の入り混じる中、特設ステージに呼ばれて上がったグループは、はたして弓道部ではなかった。弓道部一年の岸上純太は、残念ながら二位だった。
バラで飾られた拡大写真は、白いシャツに紺色ベスト、赤いリボンタイ――どう見ても蛍光ピンクの靴紐を代用――と言う一般的ないでたちの『女子高生』が、呼ばれて不意に振り向いたバストショットだった。化粧っ気がない言わばスッピン、ショートヘアが伸びた中途半端な髪型だったが、ふんわりと風をはらみ、陽光にキラキラと光っていた。何気ない写真、そして規定通りであれば性別は男子であるはずなのに、そん所そこ等の女子高生のレベルを遥かに越えている。まさに『奇跡の一枚』。聞けば午後に提出されたにもかかわらず、以後の票を全てさらって言ったのだという。誰もが納得の一枚であり、実物がどれほどのものか関心の的となっていた。
その期待の中、壇上に現れたのは、写真ほどではないにせよ充分鑑賞に堪え得る実物――タイは外されていたが、写真と同じシャツにベスト。ただボトムはグレイの制服ズボンで、見るからに男子ではあった。
うおーと一際テンション上がる地鳴りがごとき歓声。
「あー!」
優勝を確信し、一番前を陣取った森野は思わず叫ぶ。被写体ではなく、そのあとに続いた一行に向けてである。総勢五人の中の一人がニヤリと笑い、そんな森野にこれ見よがしに手を振った。
「か・ら・さ・わ〜〜」
「むかつく、むかつく、むかつくーっ」
表彰セレモニーの間、森野は呪文のようにそう呟き続けた。期待が大きかっただけに落胆はかなりのものだった。光陵の生徒がいなければ、優勝は間違いなく弓道部の岸上だったのだ。
優勝を逃したこともだが、それ以上に悔しいのは唐沢の後輩に負けたことである。ステージ前の最前列中央に陣取っていた森野は、見たくもない表彰セレモニーを特等席で見るハメになった。恭しく目録を受け取ったのは被写体本人ではなく唐沢だった。その時に森野に向けられた「ふふん」と言う上から目線の笑みと言ったら――実際、ステージの上と下では、否が応でも見下ろされる格好になる――更に悔しさが上塗りされた。
そんな悔しさに塗れた『チキチキ〜』が終了し、まもなく今年の秋茜祭の催事が全て終わる。陽の傾きと共に始まる後夜祭や、その後に行われるクラスや部活単位の打ち上げの準備のため、見物人は三々五々と散って行った。
弓道部もOBを招いての打ち上げが予定されている。森野と共に落胆の表情で中庭を後にした後輩たちは、足早に離れて行った。すでに着替えを済ませた他の三年生は、打ち上げの時間までには戻ると言って途中で分かれた。
残されたのはまだ道着姿のままの森野と上芝で、二人はダラダラとした足取りで部室までの廊下を歩く。
「何とかあいつをギャフンと言わせる方法はねぇかな」
「今回はしゃーないやろ? 厳正なる投票の結果なんやから。実際、利害が絡んでなかったら俺でもあっちに入れたかも知れん」
「それでもあいつに連敗してんのが腹立つの」
去年の夏は勝負事ではなかったが、敗北感を味わった。今年は純然たる勝負である。唐沢は森野たちがあのイベントの優勝候補で、賞品を楽しみにしていたからこそ、エントリーしたに違いないのだ。
「あっちはインハイ目指してたけど予選敗退やなかったっけ? 俺らは二年連続出て、森野は今年個人優勝したんやから、その点では大勝利やろ?」
「俺は同じ土俵で勝ちたいの!」
「同じ土俵なぁ」
練習をサボっていたところを連れ戻されたのと、文化祭の一イベントでの――それも出場したのは本人たちではない勝敗が、同じ土俵と言えるのかどうなのか。上芝の呆れたような表情はそれを言いたげだったが、森野は気づきもしない。
廊下がT字で分かれているところで二人して足が止まる。
「俺、ちょっと」
ほぼ同時に、同じ言葉が出た。
右と左。森野と上芝の足先はかすかに左に向いていた。その先には弓道場がある。
二人は互いの顔を見た。
ニヤリと口元だけで笑い、
「むしゃくしゃするし」
「打ち上げまで、まだ時間あるしな」
と言った。
それからあたりまえのように左の廊下へと、二人して踏み出した。
※ 弓道部の引き継ぎ式の模様は、
放課後シリーズ本編『あきあかね』でお読みになれます。
※ 森野皓と唐沢北斗の出会いのエピソードは、
放課後シリーズ本編『ある夏の日に』でお読みになれます。
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