矢を番(つが)え、呼吸を整える。
馬手(めて=右手)には弦、弓手(ゆんで=左手)には弓。
双眸は二十八メートル先の一点に向けられる――『気』が、身体に満ちるのを待ちながら。
森野皓(ひかる)はただ一つの『射』を、この三年間、追い続けて来た。「剛をして剛を制す」と言わしめた森野の射とは対極にある、上芝知己(うえしば・ともみ)の射だ。
高校一年の春、伝統と作法に縛られ、基礎練習に明け暮れる日々が性に合わず、退部しようと思った矢先に見た彼の『射』は、ひと目で森野を虜にした。
静かで柔らかな気の中に、緊張感を伴った力強さが確かに存在する。見る者を惹きつけて、決して目を逸らさせない一射――その『射』は強烈な印象を森野に残したが、それ以後の上芝の射には見られなかった。
たった一射。森野はそれを再び見るために弓を続けた。上芝が弓道場に居る時は、その場に居合わせるようにした。練習の身の入り方にムラ気がある上芝は、十数本で切り上げることもあったが、どんなに短い時間であっても必ずその後ろに位置を取り、彼の射を見つめ続けた。
それも今日で終わる。二人の道は一旦、分かれることになったからだ。森野は付属の大学へ進級、上芝は生まれ育った大阪に戻り、地元で進学することを決めている。
「自分の射を取り戻しに行くんや」
森野が求めて止まないあの『射』を、上芝自身も求めていたことを知った。それを語った時の彼の目に、あの『射』と同じものが見えたように感じたのは、錯覚ではなかったはず…と森野は思う。
上芝の射位は一人置いて後方。その射を見ることは出来なかったが、気は背中に感じられた。彼は今日、この場であの『射』を放つかも知れない。
それをイメージするために、森野は目を伏せた。
呼吸に合わせ、弓を静かに打ち起こす。
満ちた気を放つ準備が出来るまで、視線は的を見据えたままだ。
頭上で一度、静止した矢は、ゆっくりと口割り(=唇の合わせ目)の高さまでに引き分けられる。
頬には矢の、胸には弦の存在が感じられた。
杉浦祥吾(しょうご)は小間使いのようにこき使われた二年間を思った。
新入生歓迎会の日、弓道場脇に設けられた受付の長机に、森野皓はさも退屈そうに座っていて、杉浦が通りかかると、待ってましたとばかりに声をかけて来た。
「ねえねえ、そこの彼氏ぃ、良かったら、覗いてかない?」
覗いたことがそもそもの始まり。弓道部と言う物珍しさと、「即レギュラー」と言う言葉に釣られて入部した杉浦を待っていたのは、サボり魔・森野のお守り役だった。一年の時は基礎練習を嫌ってサボる彼を探して走り回り、二年では主将となっても変わらない彼の尻拭いで、部の運営を押し付けられた。
何度、心の内でキレてちゃぶ台をひっくり返したか知れない。しかし現実でキレなかったのは、森野皓の『射』を知っているからだ。
平均的で、取り立てて恵まれた体格ではない森野だが、その射は他を寄せ付けない圧倒的な気を放っていた。並外れた集中力が、周りを支配する。
お守り役を押し付けられ、一番多く彼の射を間近で見てきたにも関わらず、杉浦の射はむしろ、基本に忠実な上芝知己と似ていた。彼の射が初心者には恰好の手本になると言うこともあったが――森野の射は唯一無二。誰にも引けない、誰をも寄せ付けない。
今、目の前にその森野の背中がある。引き分けた両腕が、大きな翼のようだった。
この『射』に惹かれていた。この『気』に惹かれていた。気圧されそうになりながらも、近づかずにはいられなかった。
杉浦は踏み開く自分の足に、力を込める。
微動だにせず、見つめるのは四寸の星(=的の中心)。
気力を保ち、欲を捨て、迷いを払い、秘めた想いを鼓舞する。
すべては次の、ただ一瞬のために、無限とも例えられるその静止は在った。
上芝知己は、不思議なほどの静けさを感じていた。この三年間、感じることの難しかったそれが、高校最後の行射で蘇る。
一人置いての前方には、森野皓が立っていた。相変わらず、圧倒的な気が場を制している。この気に中てられ、上芝はいつも平常心を保てなかった。
入部して初めて見た時の森野の射は、まったくの素人のものだった。練習嫌いで姿がすぐに見えなくなる。当然、上達するわけがなく、退部するのも時間の問題だな…と誰もが思っていた。
いつの頃からか、そんな森野の射が変わる。練習嫌いのはずの彼の姿を、道場で見かける時間が増えたかと思うと、次に上芝が意識して射を見た時には、まるで違う気を放っていた。
的前に立つ森野は、一瞬にして別人の目となる。どこにそれほどの集中力を隠していたのか、何ものも寄せ付けない姿に、上芝は畏怖せずにいられなかった――自制心が保てない。その射に挑みたくなる欲望が、上芝本来の射を奪って行く。だから彼の射から逃げた。もともとのムラっ気を隠れ蓑にして、なるべく同じ空間にいることを避ける。自分の射を取り戻すために、大阪に帰ることを決めた。
「俺はあのイメージをずっと追いつづけてんだ。いつかああいった弓を引きたいって。止めないで続けたら、俺も引けるのかなって」
森野の射を変えたのは、自分の射だったことを上芝は知った。あの『射』を生み出した本人が、知らずにその『射』を恐れていたとは、なんて滑稽なんだ…と、上芝は肩の力が抜けたことを覚えている。
この、心身を包む静寂はとても懐かしい。大丈夫、そう遠くない将来、自分は『射』を取り戻せる――矢道を進む森野の『気』を感じながら、上芝は思った。
気が熟して放たれた矢は、空気を割いた。
離れてなお、残る感触を忘れがたく、射手は『射』を反芻する――幾度も、幾度も。
的を射抜き、安土を超え、見えない空間を永遠に走り続けよとさえ、願いながら。
小橋裕也(こはし・ゆうや)は前で引く上芝を凝視する。射が変わった。『射』と言うよりも『気』。以前のピリピリとした緊張感を伴ったそれとは違う。
森野と同じ空間で引く時、上芝はいつも緊張していた。淡々と行射するものの、明らかに的中率は低下した。上芝は弓道場で森野を避けている――小橋はそう思っている。
「力任せに引くだけの、威圧する射ぁやんけ。見てるだけで疲れるわ」
小橋が一年の時、冗談まじりに上芝が森野の射を評したことがあった。その言葉が心に残り、時々、漠然とした違和感となって思い出された。それが何かを小橋なりに理解したのは今年のGW合宿。森野の射に威圧され、上芝は平常心を保てないのではないかと。
なのに今の上芝からは、独特の緊張感が感じられない。代わってしなやかな気を、その身に纏う。的を見据える横顔の、眼鏡の奥に見える瞳は、水のように静かだった。森野とはまったく違う射と気を持ちながら、同じく周りを圧する。誰をも寄せ付けない。こんな彼を見るのは初めてだと、小橋は思った。
「あいつの本当の射をもう一度見るために、俺は引いてんだよ」
と森野がGW合宿で漏らした。これが彼の言う上芝本来の射なのだ。静を以って一射絶命を為す――基本に忠実で、ただ正確なだけの射ではなかった。ふざけた顔の裏に、こんなものを隠していたなんて。
(最後の最後になって、なんで今なんだ、ちくしょう!)
上芝の弦音(つるね)が響く。小橋は吹っ切るように息を吐き肩の力を抜くと、キュッと口元を引き結び、的に目を遣った。
後夜祭の準備が始まる頃、辺り一面はオレンジ色だった。その色に影を作るようにして、とんぼの群れが飛んでいる。遥明学院の文化祭・通称『秋茜祭』の名の由来となった赤とんぼだ。森野と上芝は誰もいなくなった弓道場に座って、そのとんぼを目で追っていた。
遥明弓道部の三年生は、夏の大会が終わると引退していたが、正式には文化祭内の催しとして行われる引継ぎ式を以って、引退とされた。これは新旧の主将・副将が交互に行射していくもので、創部以来の伝統だ。後進の指導に以後も顔を出す三年生はいたが、やはり引継ぎ式が終わると気持ち的には線引きがされた。感慨に耽っているわけではない。しかしなんとなく去りがたい気持ちで、森野と上芝は未だに道着姿のままだった。
「俺は引きにくるけどな」
「だから、嫌がられるゆーとるやろ」
「あ、今日、小橋が怒ってたのは俺のせいじゃねぇぞ」
「誰が怒ってるってんですか?」
二人の背後から声が聞こえた。振り返るとそこには杉浦と小橋が立っていた。彼らは引き継ぎ式の後片付けやら、打ち上げの準備やらの為に、すでに制服に着替えている。小橋の声に森野はニヤリと笑って「おまえ」と指差した。
「怒ってませんよ、あきれてるだけです。出し惜しみしちゃって、まったく。後輩を向上させようって気、なかったんですか?」
と、小橋は上芝をねめつけた。上芝は肩をすくめて見せるだけで、森野が代わりに応えた。
「こいつはこんなヤツ。面倒くさがり屋で基本的にものぐさだから」
「人のこと、言えないっしょ」
杉浦が割って入った。森野は彼を手招きする。腰を屈めて近づいたその頬を思い切り抓った。
「だからこれからは俺が、後輩が向上したくなるような射を見せてやるっての」
頬の痛みに耐えながら、「え、まだ来る気なんスか!?」と杉浦が言った。森野の指に、更に力が入る。
「イン・ハイ優勝者の射が見れるんだぞ。いい勉強になるだろ?」
「おまえのは見本にならへんって」
上芝に窘められて、ようやく森野の指は杉浦の頬から外れた。
「なら、おまえも一緒に来ればいいじゃん。実技指導担当で」
「おまえは?」
「精神面&解説担当」
「あほくさ、俺は受験生やっちゅーねん」
「はいはい、そこまで」
今度は小橋が割って入った。一瞬、沈黙の後、四人は一斉に笑い出した。普段の道場ではありえない笑い声だ。神事にも通じる弓道のための神聖な場所は、余計な私語は一切禁止されている。それに、こんな穏やかな気持ちで接したことはない。上級生二人と後輩二人の関係は、言わば逃げる者と連れ戻す者だったからだ。
一しきり笑った後、後輩二人は先輩達がまだ道着姿なのに気がついた。
「早く着替えて来てくださいよ。みんな、待ってますから」
小橋が追い立てるようにして、二人の肩を叩いた。
「打ち上げ、面倒くせー」
大きく伸び上がりながら、森野は立ち上がる。
「最後くらい、ブッチしないで、ビシッと決めてくださいよ」
抓られた頬を擦りながら、小姑よろしく杉浦が言った。
「ビシッと決めたところで、今までが今までやから、説得力、まるで無しやぞ」
上芝はまだ座ったままだ。
「誰も期待してませんよ。けじめです、けじめ」
小橋が上芝の腕を引っ張る。「やれやれ」と上芝は立ち上がり、「小橋、きっつーい」と森野が茶化した。
前主将・副将コンビは最後まで見張られながら、ようやく道場の出口に向かう。
新主将・副将コンビは最後まで二人から目を離すまいと、その後ろについた。
先の二人が立ち止まり、振り返ると一礼する。後輩の二人も続き、そうして四人は弓道場を後にした。
にぎやかな話し声は廊下の先へと遠ざかり、残ったのは群れる秋茜――安土の前で、『四射』の余韻を楽しむかのように…。
end.
2006.09.20
|