[ Kiss scene ]
                 scene4




 呉羽はふと目を覚ました。と言っても目は半分も開いていない。
 片方の手を伸ばす。隣にいるはずの上川の身体はなく、手は虚しくシーツを滑った。
――ああ、そうか。今日は平日だったな。
 時計を見ると午前六時を回ったところだった。上川はシャワーを浴び、一度自宅マンションに戻ってから出勤するので、平日の夜を一緒に過ごすとなると、この時間に起床しなければならない。此処、呉羽の自宅兼仕事場から出勤すれば、あと二時間はゆっくり出来ると言うのに。
「なぁ、あの話、真剣に考える気、ないか? ここが嫌なら、別のところを探してもいいし」
 シャワーを終え、髪を十分に乾かしてからリビングに戻って来た上川に、淹れたてのコーヒーが入ったカップを差出ながら呉羽は言った。
 二人が世間的に言う恋人同士――但し秘密の――になってから半年近くが経った。週末をどちらかのところで一緒に過ごすことから始まったが、今では平日にまで二人でいる時間が侵食している。平日に関しては、主に呉羽が出向いていたが、上川が残業で特に遅くなる日などは、会社から近い呉羽の自宅に彼が泊った。
 休前日以外は『一緒に寝るだけ』と言う不文律だったが、どれだけ自制したところで、時々は破られる。好きな相手が傍にいて、尚且つ想いが通じ合ったばかりなのだ。それが長い時を経ての成就なら、自制しろと言う方が無理なのである。
 負担は上川の方が大きい。それなのに平日だと彼は午前六時には起きて、一度帰宅してから出社するスタンスを変えなかった。せめて着替えのスーツを一着だけでも置いておけと言う呉羽の提案に一応は従った彼だが、それはいまだにクローゼットの中にクリーニング店のビニール袋をかけたまま吊るされていた。
「俺に付き合っておまえまで一緒に起きる必要、ないんだぞ?」
「そう言うことを言っているんじゃない」
 呉羽の提案は『置きスーツ』から数歩進んで、『一緒に住もう』に至っている。
「俺はおまえの身体を心配しているんだよ。残業して、夜更かしして、早起きして…じゃ、疲れも取れないだろうが?」
 呉羽のこの言葉に、上川が呆れたように息を吐く。
「夜更かしの部分は誰かさんが協力してくれれば、省略出来ることだと思うけどな」
 これを藪蛇と言う。確かに、自制の箍が先に外れるのはたいてい呉羽からだった。夜更かしはそこから派生したものだ。しかし「たいてい」であって、上川からアプローチしてくることがないわけではない。それに――。
「おまえだって拒まないじゃないか」
「それは…」
 上川が答えを濁す。手を出すのは呉羽からでも、彼がその手を突っぱねることはなかった。
 上川は時計を見ながらコーヒーを流し込むように飲み干すと、ソファの背もたれにかけたワイシャツから手早く身に着け始める。
「送ってくから、ちょっと待て」
 呉羽は彼に近づいて、ネクタイに伸ばす彼の手を掴んだ。
「いいよ。おまえは寝てろ。急ぎの仕事、抱えているんだろう?」
 上川のその言葉を、呉羽は唇で吸い取った。それから彼の眼鏡を外し、再び口接ける。半ば無理やりのキスであるのに、やはり上川は拒まなかった。それはつまり、上川も呉羽のことを求めてくれていると言う意味ではないのか。
「そうやって俺を心配するくらいなら、同居の話を真剣に考えてくれ」
「呉羽」
「社に遠慮しているのか? 俺は一応、円満退職だったぞ。それにそっちの仕事を優先して受けているじゃないか」
 名実共に社で一番の建築設計士だった呉羽の退社・独立は痛手だったかも知れない。独立してからの呉羽は海外からの仕事も増えた。上川の会社が受注した仕事でも、「設計は呉羽一樹に頼みたい」と条件を出す取引先も少なくなかった。呉羽は自分を育ててくれた会社でもあるからと、相場より下げた契約で請け負ったりもしていたが、もしかしたら内部ではよく思っていないのだろうか。
「それとも、俺のことで社が何か言っているのか?」
「それはない。うちに頼めば呉羽一樹が設計を受けてくれると噂されて、逆にありがたいくらいだ。だからこそ、けじめが」
「けじめ?」
「一緒に暮らせば、更に『友達の誼で頼め』と言うことになりかねない。今だってうちを優先することで、本当にやりたい仕事を断ることになっているんじゃないか?」
――あれを気にしているのか。
 二人がこう言う関係になって間もなく、アメリカの某都市から公園リゾート内美術館の設計依頼がきた。同じ時期、古巣からのオフィス・ビルの依頼も重なり呉羽は後者を受けたのだ。美術館はビクトリア朝様式を下敷きに現代の感覚を加味すると言うクラシック・モダン、斬新な建築デザインが得意の呉羽にとって、新境地となりうる仕事かも知れなかった。あと二日、美術館の依頼が早ければ、そちらを受けていただろう。いや、上川とのことがなければ、確実に前者を受けていた。
 アメリカの話を受ければ、しばらくはそれで忙殺される。場合によってはしばらくの間、赴任しなければならなかった。掴んだばかりの上川の腕を、呉羽は放したくなかった。仕事に私情を持ち込んだのは、後にも、そしてこれから先もあれだけになるだろう。
 仕事はこれから先も入る。いや、『獲る』自信はある。しかし人間の心は、時期を逃すと取り返しのつかないことが多い。
「俺は嫌な仕事は受けないよ。そんな性格だって知ってるだろう?」
 しばらく呉羽を見つめていた上川は、「そうだな」と納得して笑った。学生時代、そして再会して同僚となってからの呉羽の所業を思い出しているに違いない。
「まあいいさ。でも本気で考えてくれ。急がないから」
「眼鏡を返せ」
「ダメ。ゆっくり朝飯食ってけ。今日は置きシャツと置きネクタイで行けばいいだろう?」
「この前着て行って、マンションだ」
「じゃ、俺のを着ていけばいい。会社の奴らに見られるのが嫌なら、送るのは駅までにするから」
 呉羽は一歩も引かない。
「ガキだな、まったく」
「『大学生』なんてまだまだガキだろ?」
 呉羽の言葉に、上川の眉間に皺が寄った。
「何で大学生が出てくるんだ?」
「大学生のあの日からやり直してる」
 大学生のあの日――四年生に上がる春休み、下宿のアパートでキスをした。初めて上川への気持ちを自覚し、そして戸惑って距離を取り始めた日。
 上川がため息をついた。呉羽は心の中で「勝った」とつぶやく。
「わかったよ、シャツとネクタイ、貸してくれ」
 呉羽の想像通りの答えをした上川は、自分の腰に回された腕を外そうと手をかける。呉羽はそれを拒否して、再度、彼を引き寄せた。
「急がなくても、まだ時間はある」
 そう言うと、もう一度、彼の唇を塞いだ。




                 (2013.02.10)


呉羽と上川はは卯月屋novels短編・掌編『秘密は秘密のまま』の登場人物です。
『秘密は秘密のままに』の作中では、上川は既婚者で、呉羽が過去の想いを告白し、呉羽の退職・独立を機に道は分かれたはずでした。
その後、彼らに何があって、このSSの関係に辿りついたかのエピソードは只今製作中でして、夏か秋かに公開予定ですので、今しばらくお待ちください。

※拍手SSは新作がUPされますと、古い方は卯月屋シリーズ『Kiss scene』のページに、必ず移動されます。


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