※ この作品はHP公開三周年を迎えられたオリジナル小説サイト『輝』様に、
  日頃の感謝と親愛の気持ちを込めて捧げた作品です。
  同名小説『輝』と拙作『放課後シリーズ』のコラボ作品となっております。
  小説『輝』のあらすじはこちら(別窓)。






[ ある夏の日に ]





(1)


 私立遥明学院高校の校門をくぐると真正面の校舎の屋上から垂れ下がる、『祝 弓道部 個人戦・団体戦インターハイ出場』と書かれた幕が目に入った。
「ふん」
 唐沢北斗は鼻を鳴らした。他校の、それも種目違いであるにもかかわらず、インターハイ出場の文字を見ると複雑な気分になる。
 唐沢が所属する光陵学園高校テニス部は、あと少しのところでインターハイ出場に手が届かなかった。彼ら三年生にとっては高校生活最後の挑戦だった。最後――そのことが去年、一昨年とは違う感情を生み出しているのかも知れない。
 唐沢の最も嫌いなことは「悔いを残す」と言うことだ。だから今まで、どんな時も、どれだけ反感を買おうとも、正しいと思ったことは、やりたいようにやってきた。周りが「俺様主義のカリスマ」とあだ名するくらい強引だったことは否定しない。しかし、唐沢が行なった自分が悔いを残さないための『徹底』は、結果的に、誰にも悔いを残させなかった。今回のインターハイ予選も、出来ることを全てした末の敗退で、みんなの心は速やかに来期へと向けられている。
 で、あるのに。
(ざまぁねぇ)
「部長?」
 次期部長の佐藤が声をかける。唐沢は先頭を歩いていたはずだが、気が付くと後方に下がり、一年生にまで追い越されそうになっていた。一年生の中には唐沢の弟がいて、こちらを見ている。まるで珍しいものでも見てしまった…と言うような表情だ。目が合うとフイッと視線を逸らした。相変わらず可愛気がない。
 唐沢はぼんやりと浮かんだ言い知れぬ感情を追い払い、現実に意識を戻した。
 歩速を上げて元の位置につく。副部長の秋光(あきみつ)がニヤニヤと笑っていた。
「何だよ?」
「唐沢でも感傷に浸ってんのかな…って思ってな」
「感傷? 何で俺が?」
「だってもうすぐ俺ら引退じゃん。こうやって練習試合で他校に来るのも、今日で最後だと思うし」
「もう引退してるっつーの。今日はあくまでも付き添いだろーが」
 インターハイ予選を敗退した時点で、三年生は引退したも同然である。正式な引継ぎはまだ先になるとしても、次期部長・副部長が決まり、部は新体制で動きつつあった。今日の練習試合も三年生は免除のはずだったが、コーチが所用で来られず、名ばかりの顧問――テニスが趣味の古典教師――の引率では心もとないとのことで、部長の唐沢と副部長の秋光が付き添いで呼ばれたのである。
「とか何とか言って、相手をコテンパンにする気でいるくせに。ラケット、何本持って来たんだか」
 秋光は唐沢が肩から下げるラケット・バッグを指差した。試合の時に持ち歩く本数が入っていることを見透かされている。
「るせーぞ、秋み…」
「るっさいんだよ、杉浦」
 秋光に反論しようとした唐沢の言葉に、別の声が重なった。こちらに向かって近づいてくる二人組が見える。紺色の袴姿。一人は足早に二、三歩先を歩き、もう一人はその後ろにぴったりとついていた。
「わかったって言ってっだろ、何度も何度も。おまえは先に戻ってろよ」
「わかってないから、何度も何度も言ってんでしょーが! 俺、何回もまた探しに出んの嫌ですから!」
「あー、うるさい」
「とにかく、連れて戻れって先輩命令なんです。離れませんからっ」
「俺だって先輩だぞ」
「却下!」
 先を行くのは先輩で、後に続くのは後輩と言う図式らしい。唐沢達の脇を目もくれずに通り過ぎようとしたが、後輩の方が気が付いて足を止め、頭を下げた。大人である顧問の姿を視止めたのと、揃いの見慣れないジャージから他校生だとわかったからだろう。だがその一瞬が先輩にダッシュさせる隙を与えてしまった。後輩は「しまった!」と盛大に顔をしかめ大慌てで後を追い、見る間に二人の姿は小さくなった。
「なんだ、ありゃ?」
 思わず唐沢が呟くのに、秋光が「さあ?」と答えた。




(2)


 練習試合の相手は私立遥明学院高校である。同じ都内にある学校だが地区違いなので、関東大会まで顔を合わせることはない。実力はほぼ拮抗し、コーチ同士が古くからの知己ということもあって、年に数度行われる練習試合の相手の中に必ず名が挙がる。
 今回のインターハイ予選では、光陵も遥明もいいところまで勝ち進み敗退した。来年度に期待がかかり、予選終了間もなくから積極的に部は動き始めた。この練習試合もその一環だ。
 特に光陵は今年のレギュラーのうち二人が残る。成田友章と唐沢海斗。まだ一年生で、後者は唐沢の弟である。彼らの実力は抜きん出ていて、すでに中学の頃から有名を馳せていた。二人をレギュラーに抜擢する際にかなりの軋轢を部内に生んだが、それが良い刺激に転じて、一年生には技術的な、上級生には精神的な向上をもたらした。
 来年、再来年には彼らが中心となり、インターハイを狙うことになる。十分、射程圏内だった。
 三面の一番手前のコートに成田友章が、その隣には唐沢海斗が入った。レギュラーだったとは言え、体格的には一年坊主である。
 今年の予選に二人はダブルスで出場した。戦績は六割弱。技術的には申し分なかったがスタミナ不足は否めず、試合が長引くと不利だった。落とした試合のほとんどは相手チームにその弱点を突かれ、長期戦に持ち込まれたことによる。身体作りの時期をすっ飛ばして試合に出させたのだから、それについては二人を責められない。これからしばらくは体力面の強化が最優先となる。
 それとメンタル面。試合度胸はある。追い詰められても慌てない冷静さを、一年生ながら二人は持っていた。これは中学時代、同年代に強力なライバル達が存在し、厳しい試合をこなして培われたものに違いない。
 しかしその冷静沈着なゲーム・メイクが、時として命取りになった。見極め、引き際が『キレイ』過ぎるのだ。特に唐沢の弟・海斗は、妙に冷めたプレイをする時がある。
(いったい何時まで、ナメたプレイしやがる気だ、海斗)
 もともとシングル・プレーヤーの成田と海斗は、来年以降、シングルス1、あるいはシングルス2としてチームを引っ張らなければならない。生半可なプレイでは、そこそこ勝てても頭打ちになり、結果は今年と同じになるだろう。たとえインターハイに進めたとしても、小手先で通用するほど全国は甘くないはずだ。
「遥明の一、二年じゃ、成田や唐沢の相手にならないな?」
 後輩達の試合を一緒に観戦していた秋光が言った。さっきコートに入ったと思った成田が、握手をしているところだった。成田は1ゲームも落としていない。海斗の方も間もなく終わる。
 唐沢は交換したオーダー表を見た。だいたいが同学年同士の対戦になっているが、成田と海斗の相手は一学年上の次期レギュラー候補が宛がわれていた。オーダーには載りながら、どちらの学校も三年生は模範試合扱いか、もしくは見学と言う格好になっている。
「よし、午後にもう一試合させる。成田の相手は湯沢、海斗には国枝だ」
 唐沢はオーダー表の紙面を弾いた。湯沢は遥明の部長、国枝は副部長で、共に引退が決まっている三年生である。
「え? 国枝はおまえと『えきじ(エキジビション・ゲーム=模範試合)』だろ?」
 国枝は遥明学院高校テニス部不動のシングルス1である。唐沢は本戦で当ったことはないが、練習試合の相手は必ず彼だった。勝ち数で言えば唐沢の方が多いのだが、楽に勝たせてもらえたことがなく、1セットマッチではたいてい、タイブレークにもつれ込んだ。光陵期待の一年コンビに胸を貸してもらう相手として不足はない。
「海斗に国枝をぶつけるのか? 成田じゃなく?」
 秋光が意外そうに言った。成田の方が国枝の相手として相応しいと見ているのだろう。
「海斗で行く。俺でも簡単に勝てない相手だからな、ちったあ意地を見せるだろうよ。昼に湯沢と国枝にナシ(話)つけるから、おまえもそのつもりでいろよ」
「じゃあ俺達の今日の相手、誰よ?」
「もちろん俺は国枝、おまえは湯沢。最後にスカッと勝って、気分よく帰ろうぜ」
「試合で消耗してる奴に? それって汚くね?」
「勝負にきれいも汚いもあるか。結果だ。結果が伴なわなきゃ、それまでの努力は負けた時の言い訳にしかなんねえ。それにな、」
 唐沢はベンチで談笑する成田と海斗を見る。
「俺達が楽勝出来るかどうかはわかんねえぞ。あいつらがどれだけ消耗させてくれるかにかかってっからな」
「そりゃ是非とも頑張ってもらわなきゃだな」
 



(3)


「すごく期待してるんだな、唐沢? 僕達に頭下げに来るなんてさ」
 テニスコートに隣接した中庭の大きな楠木の下で、唐沢は昼休憩を秋光と遥明の湯沢・国枝の四人でとっていた。その席で唐沢は遥明の二人にオーダーの変更を申し出る。変更と言うよりも二戦追加の『お願い』だ。もともとの部長・副部長でのエキジビション・ゲームはそのままだから、相手に負担をかけることになる。追加の二戦が一年生相手だと聞いて、二人は簡単に承諾してくれた。
「期待ってか、おまえとこの二年が不甲斐ないからだろ。一年相手に1ゲームも取れない負け方すっから、練習になんねえっての」
 一方的に頭を下げるのは唐沢の主義に反する。歯に衣着せぬ物言いでチクリと嫌味も沿えておいた。湯沢は「確かに」と苦笑した。
「国ちゃんの相手、その完勝やらかした方じゃないんだ?」
 湯沢が箸でオーダー表の『成田知章』の名前を指す。成田は中学の頃から有名だった。高校在学中にインターハイ上位は間違いないだろうと噂されていて、ダブルスながら一年でレギュラー・メンバーに名を連ねたことは、当然のことと受け止められている。唐沢海斗もそれなりに名を知られていたが、成田と比べるとネームヴァリューは低かった。
「『国ちゃん』はその後で俺とだからな、二試合もタフな試合させたら申し訳ねえだろ? 俺なりの配慮さ」
「なんか、作意、感じる……けど」
 国枝が消え入りそうな声で、控えめにコメントした。唐沢が一瞥すると、慌ててカレーパンを頬ばり知らぬ顔をする。試合では長身から繰り出すサーブと、右フォア・ハンドの鋭いストレート・ショットで相手を翻弄する国枝だが、普段は大人しく、唐沢のようなタイプを苦手としているようだった。
「僕には配慮、ないんだ?」
 湯沢が助け舟を出す。
「その後が秋光相手なんだから、とんとんだろ?」
 名前を出された秋光が、湯沢を見て肩を竦めて笑った。
 四人が昼食に専念し始めた時、紺袴が駆けてきた。まっすぐ楠木に向かってくる。四人の姿を見とめると、立ち止まって体育会系らしく「ちす」と頭を下げた。見た目からして一年生、唐沢はその顔に見覚えがあった。ここに着いてすぐ、校門近くで見かけた二人組の一人だ。
「ここにはいないよ?」
 楠木の後に回り込もうとする彼に国枝が声をかけた。振り返った紺袴はキュッと唇を引き結び、再びぺコリと頭を下げると、その場から離れて行った。
「ここに来た時も見かけたけど」
と秋光が湯沢に尋ねる。
「ああ、あいつらは弓道部。ちょっとした有名人」
 弓道部――唐沢インターハイ出場の垂れ幕を思い出した。全国区なのだから、有名人には違いない。そんな唐沢の心中を読んだのか、「違う意味でね」と湯沢が続ける。
 去年まで遥明の弓道部は廃部寸前の弱小部活だった。それが一年生の森野と上芝が入部してから飛躍的に結果を出し始め、この一年で全国への切符を手中にするほどになったのだとか。もちろん、今回のインターハイのメンバーにはその二人も入っていて、上位入賞も夢ではないと期待されているらしい。さぞかし毎日、厳しい練習をこなしているのだろう。
「ところが、その一年、あ、今は二年か、その二年コンビは練習嫌いでさ、毎日毎日、弓道場を逃げ出してるって話」
 それを探しだし連れ戻すのが杉浦と小橋と言う一年生部員の役目。その姿は放課後の風物詩になっていて、他の部員の名前は知らなくとも、二年の森野と上芝、一年の杉浦と小橋の名前は、知らない者はいないくらいだと湯沢は笑った。
 唐沢は校門で出会った二人のやり取りを思い出す。もう一人は『森野』か『上芝』か。
「さっきのが探してたのなら、相手は森野だ。髪が天パ(天然パーマ)だっただろ?」
 色素の少し薄めの髪が、たんぽぽの綿毛のようにふわふわ揺れていた。弓道や剣道、柔道など「道」とつく部活は一種独特の雰囲気があるものだが――少なくとも、光陵では――、『森野』はそれからかけ離れていた。
 全高校生の憧れと言っても過言でないインターハイに出られると言うのに、ベストを尽くすべく練習に励まないとは。これがテニス部員だったら、根性を入れなおしてやるところだ…と、唐沢は『たんぽぽ頭』に脳内でツッ込んだ。
 それでも一瞬見かけただけの、他種目の部員であるにもかかわらず、妙に印象に残っている。全国に出るだけの器量を持つ人間は、違う何かを持ち合わせているのだろうか?
「ふん」
 あの垂れ幕を見た時の複雑な気分が、唐沢の胸のうちに蘇った。




(4)


 国枝の得意はオンザラインに決まるストレート・ショット(相手の横を抜くショット)だ。しかし午後からの唐沢海斗との試合では、第4ゲームの段階で出ていなかった。国枝のフォア・ハンド・ストローク(フォア=ラケットを持つ側で打つショット)を警戒して、海斗はフォアと比較して弱い彼のバック・ハンド(バック=持ち手とは逆側)にボールを集中させていた。この常套的な作戦が功を奏しているのかと言うと、そうではない。
(良いように打たされてやがる)
 その試合をフェンス越しに見ている唐沢は、眉間に皺を寄せた。国枝のオンザラインのストレートは、勝負が佳境に入れば入るほど、効果的に多用される。つまり伝家の宝刀だった。それが出て来ないのは、彼が追い込まれていないことを意味する。実際、精度がフォアほどではないバックからのストレートでも、海斗の脇を簡単に抜いて行った。
 それにバックを狙われることなど承知の上なのだ。国枝は正確なショットでボールを散らし、海斗はベースライン上で右に左にと走らされていた。そこから出されるボールは確かに国枝のバックを狙えてはいたが、それだけではゲームにならない。コースの組み立てが出来た上で初めて、バックを狙う価値も出る。今の海斗はまるで、国枝の弱いバックのために練習台となって、球出ししているようなものだった。
 その状況を打破するためにネットに出るタイミングを計るが、中途半端なリターンでは、目の覚めるようなパッシング・ショット(前進してきた相手の横を抜くように打つ)の餌食にされる。そんなわけで海斗は、未だに自分のゲームをキープ出来ずにいた。
「実力の差…かぁ」
 隣で秋光が低く呟く。
 ネットプレイからのドロップショットが教科書通りに決まり、国枝は第4ゲームも簡単にキープした。寸でのところで拾えなかった海斗とネットを挟んで相対する。国枝の唇が微かに動いた。海斗の形相が一瞬だが変わったことを、唐沢は見逃さない。
「第6ゲームはブレイクするさ」
「次は第5ゲームで、海斗のサービス・ゲームだぞ?」
「国枝のフォアを見極めるのと体力回復に1ゲーム使うだろうから、キープは無理だ」
 第5ゲーム、海斗は組み立てを変えた。それまでの消極的な戦法ではなく、あえて相手の得意なフォアにボールを出し始めたのだ。第4ゲームまで走らされた海斗は、体力の消耗が否めない。第5ゲームもベースラインに釘付けにされていたが、今度は走らされているのではなく、自らがイニシアティブを取る様子見のラリーに変わっていた。だからボールも身体の近くに戻ってくる。国枝のフォアに出したボールは、甘いところに入ると強烈なリターンが来た。海斗は無理はせず、そのコースを目で、そして心でもう一度軌跡を追った。
 海斗は第5ゲームを落とした。それも0(ラブ)ゲーム状態で。伸びすぎた前髪で目の表情は読めないが、口元に不敵な笑みが浮かんでいるのを何人が気づいたか。
 次のゲームは誰もが国枝のキープを疑わなかった。これまでの流れからして、オンザラインのストレートを見ることもないだろうと。しかし海斗は粘る。第6ゲーム最初の国枝のファースト・サーブを、ダブル・ハンドのライジング・ストローク(打点がバウンドの途中)で叩いた。一挙にゲームを決めるべくサービス・ダッシュでネットにつこうとした国枝より、海斗のリターンが早い。
「リターン・エース。まぐれにしちゃ、いいとこにあたったな?」
「狙ったんだよ。あいつの辞書に『まぐれ』なんて言葉、あるか」
 唐沢は口をへの字に歪めて、秋光に答える。
 続く2ポイント、3ポイント目を、海斗は良いリターンからの展開で取り、0−40とリードした。それまでのゲームを簡単にキープ&ブレイクしていた国枝は、リズムが無意識に単調になっている。海斗は見抜いてサーブのコースを読んでいるのだ。
 サービスの体勢に入った国枝が、トスアップしたボールを打たずに手で受けた。風に流されてボールの軌道がぶれたようにも見えたが、多分、自分のリズムが単調になっていることに気づいたのだろう。リスト・バンドで汗を拭い、海斗を見た。あらためてゆっくりと高くトス・アップする。インパクトは強く、速いボールがセンターラインに向かった。そのゲームでは低い打点で返していた海斗だが、足が止まる。ノータッチ・エースだった。それを合図に国枝が反撃に転じ、海斗のリードは「あっ」と言う間に消えた。
 「デュース(勝負が決まる局面での同点)」と「アドバンテージ(デュース後のポイント。もう1ポイントでゲームが決まる)」のコールが交互に響く。1ゲーム5分かからなかった時間が、第6ゲームだけで15分使っていた。国枝側のアドバンテージ・ポイントは、オンザラインのストレートで決まり始める。
 粘る海斗、かわす国枝――デュースになって20分近くの我慢の末、海斗がようやく国枝のサービス・ゲームをブレイクした。
「ま、こんなもんだろ」
 コート上で国枝が唐沢の方をチラリと見る。手を振ると苦笑いを返してきた。


『もしあいつに1ゲームも取れない状況が見えたら、俺の名前出して煽ってくんないか?』


 午後の練習が始まる直前、唐沢は国枝に耳打ちしておいた。第5ゲームに入る直前に彼がどんな言葉で煽ったかは知らないが、原動力足るに充分なものだったことは、第6ゲームの海斗の戦いっぷりでわかる。
 海斗はテニスに対してわだかまりを持っている。もともと自ら進んでテニスを始めたのではなく、テニス部に入部したのも、兄が入っていたことが理由のひとつだった。本人の意思とは反比例して実力を伸ばし、中学一年にしてレギュラー入りを果たしたが、大事な大会の日、個人的な理由で無断欠場した。テニス部始まって以来の不祥事である。周囲の反発は凄まじかったし、唐沢は海斗が試合を放棄した理由を知っていた。だから退部も止む無しと覚悟したが、海斗は結局、部も、テニスも辞めなかった。その後、周りを黙らせるほど更に実力をつけたものの、本人の心の奥には迷いとわだかまりが残った。今一つ、テニスにのめりこめずにブレーキがかかっているのはそのせいだ。
(脚注1)
 そんな弟を不甲斐なく思うが、少なくとも勝負への執着心があることは証明された。今後の希望はある。
 体力を使い果たした海斗は、第7ゲームを簡単にブレイク・バックされるだろう。今日のところはもう見るべきものはないと、唐沢は視線を隣のコートに移した。成田と湯沢が試合中だった。あちらの方はそれなりに試合になっているに違いない。
「こんな暑い中、よく動けるなぁ」
 背後で声が聞こえた。振り返ると見覚えのある『タンポポ頭』が立っていた。弓道部の森野だ。彼はちょっと足を止めたと言う風で、庇のあるコートの周りを通って、中庭に向かおうとしているようだった。
「毎日、こんな中でやってるからな、慣れてんだよ」
 唐沢は言葉を返した。独り言のつもりで言ったことに答えがあり、森野は唐沢を見る。
「光陵学園高校三年の唐沢っての。ヨロシク、『森野』君」
 答えが返ったことのみならず、見ず知らずの人間に名前を呼ばれて、彼は訝しげな表情を浮かべた。それでも相手が他校の三年生だからか、「どーも」と軽く会釈して見せる。一応、挨拶はしておく…程度なのが、その角度でわかった。
「インハイに出るんだろ? 練習サボってっと、無様な結果を見るぞ?」
「あんたに関係あんの?」
「無ぇけど、全国を目指して届かなかった身としては、出るヤツには漏れなく頑張って欲しいわけよ」
「全国なんて目指してねぇもん。大会出たら、結果的に決まっただけだし」
 意外な答えだった。体育会系の部活をする者なら、たとえ弱小たりとも一度は夢見る大舞台=インターハイ。出場出来ると言うことは、それなりに実力があり、活動もしている部に違いないはずだ。ましてや、ここの弓道部は去年まで廃部寸前の弱小クラブだったと聞いている。たった一年で全国出場を果たすには、たとえ個人の力があるにせよ、ある程度の努力があったと思うのに。そもそもインターハイの地区予選に出ることこそ、全国を目指す第一歩ではないのか。
「じゃあ、何のために部活、やってんだ?」
「何でそんなこと、あんたに言わなきゃなんねぇの?」
「単なる興味。目指してねぇのに、全国に出られる秘訣を知りたいと思ってな」
 森野はクスクスと笑った。
「何だよ?」
「インハイってすごいんだなって、思ってさ。うちの兄貴、OBなんだけど、大騒ぎしてんの。わざわざ高等部の練習、このクソ暑いのにつけに来てんだぜ? あんただって三年ってことは引退だよな? なのに、こうしてここに来てるし。それって来年のため?」
「優秀な後輩のためだ」
「そいつらが全国へ行くためってことだろ?」
「十分、狙える」
「そんな欲かいてっから、ダメなんじゃねぇの? 『むがのきょうち』って言葉、知ってる?」
 唐沢は森野を見た。興味を引くことを言った割には、本人の表情に緊張感はない。使い方は間違っていないが、言葉の意味を把握して言っているのかは怪しいところだ。少なくとも、
「今、無我の境地って平仮名で言っただろ?」
と言うことはわかる。
「意味が合ってるんだから、良いんだよ」
 茶化されたことは気にもせず、森野は道着の袷(あわせ)を掴んで、はたはたと胸元に風を入れる。フェンスから目を離し、中庭の方向をみた。
「ここ、やっぱあっちぃ」
 昼間、唐沢たちが休憩をとった楠木が大きく枝を広げ、涼しげな蔭を作って誘っている。森野の足が反応し、一歩、二歩と進む。
「おまえは無我の境地で弓道、やってんのか?」
「ただ引くだけさ。テニスだってそうだろ? ただボール打つだけ。それ以外に、何があんの?」
「目標はないのか?」
「目標はないけど、原動力はある」(脚注2)
「それは何だ?」
「さあね」
 用は済んだとばかりに、森野は中庭に向かって本格的に歩き始めた。唐沢はその手首を掴む。不意の行動に、森野は驚いて振り返った。
「おーい! 杉浦!」
 唐沢の視界の隅には、さっきから別の袴姿がうろちょろしていた。森野とセットの一年生・杉浦だった。唐沢が大声で呼ぶと振り返ったので、森野の手首を掴んだまま、その手を振る。杉浦は知らない相手から名前を呼ばれたことに驚きの表情を浮かべたが、傍らの森野の姿を見て慌てて駆けてきた。
「何で呼ぶんだよっ?!」
 森野が抗議の声を上げる。
「部長の苦労はわかるからな。特に扱いの面倒な後輩を持つ部長の」
 杉浦が不思議そうに繋がれている二人の手を見た。
「探しもの、捕獲しといたぜ。ついでだから、弓道場まで送ってやる。案内しろよ」
 唐沢は杉浦を促した。訳もわからないまま唐沢の上級生然とした迫力に圧倒され、杉浦は言われた通りに歩き出す。
「あ、おい、唐沢、まだ途中だぜ、海斗のゲーム」
 呼び止める秋光に、
「結果はわかってる。出番までには戻るから」
と唐沢は振り返らずに空いている方の手を振った。




(5)


 矢は独特の音を伴い、導かれるようにして的を目指す。
 射手が作り出す『気』が周りを支配し、グラウンドから聞こえていた雑音も、蝉の声も、全ては遠くに去った。
 聞こえるのはただ、的を捉える矢の音。
 弓道のことなど何も知らない唐沢だったが、その圧倒的な緊張感に自分が酔っていることを感じた。




 ようやく太陽が西に傾き始めた頃、光陵学園高校テニス部は帰途につくため校門に向かっていた。
 先頭を歩いていた唐沢は、正面玄関の脇からやはり校門に向かって歩いてくる一群に目を止めた。白の開襟シャツにグレーのズボンと言う遥明学院の夏服、見覚えのある『たんぽぽ頭』が見えて、森野達弓道部員だとわかった。
「よう、森野」 
と声をかけると、相手はあからさまに嫌な顔をした。唐沢は立ち止まって、彼らを待つ。
「おまえ達も今、帰りか?」
「朝からずっとだからな」
 森野は口をへの字に曲げた。
「昼過ぎまでサボってたくせに」
「あんたのおかげで、あれからみっちり引かされたんだぞ。朝からやってたのと同じだっつの」
 森野は唐沢に「送られて」弓道場に戻ってから、百連射させられたのだと言う。
 唐沢は弓道場でのことを思い出した。送りがてら、しばらく森野の引く様子を見学したのだ。それが目的で弓道場まで付いて行ったことは言うまでもない。森野を連れ戻すのに手こずっていた弓道部主将は見学したいとの他校生の申し出を快諾し、唐沢は生まれて初めて弓道場に足を踏み入れた。もちろん、弓道を間近で見たのも初めてだった。
 森野の射を見たのはたった数本。
 彼の集中力は並ではなく、弓道を知らない見ているだけの唐沢までをも取り込んだ。無我の境地に形があるのだとしたら、まさにあれが――森野の射がそれかも知れないと思った。
「少しは参考になったかもな。いや、ならないか」
 唐沢は呟いた。
 弟の海斗と森野は程度の差こそあれ同種の人間だと思っていた。せっかくの技量を持ちながら、本気にならずふらふらしている。唐沢から見れば、宝の持ち腐れだと。なのに森野は全国へ行く。この違いは何だろう。
 森野には弓道に対して迷いがなく、海斗にはテニスに対して迷いがある。その違いが、はっきりとわかっただけだった。
「何のことかさっぱりわかんねぇ。せいぜい来年に向けて頑張りなよ。有望なんだろ、後輩?」
「まあな。ただちょっと、雑念だらけで困ってる。あいつにこそ、弓道部を見学させるべきだったな」
 弓道の『気』に触れたなら、少しは海斗にも変化があったかも知れない。変われないはずはないのだ。実際、辞めずにテニスを続けている。完全にテニスを断ちきれずにいるのだから。
 唐沢は校門のところで固まっている部員の中に海斗の顔を探したが、紛れてしまって見えなかった。代わりに秋光と目が合い、早く戻れと促しているのが読み取れた。
「あいつって?」
「俺の弟。今、一年なんだ。有望株の一人」
「なんだ、兄貴の欲目かよ」
「欲目じゃねぇさ。あいつはきっと全国に行く。『唐沢海斗』って名前、よく覚えとけ」
 秋光の呼ぶ声が聞こえた。校門の外に移動し始めている。
 唐沢は森野の頭を、くしゃくしゃと撫でた。突然の唐沢の行動に、森野のみならず、周りにいた弓道部員も驚いている。
「インハイ、頑張れよ」
 唐沢はそう言うと、自分の仲間が待つ方へと足を戻した。






「カラサワ・カイトっている?」
 自分を呼んでいるヤツがいると聞いて、唐沢海斗は一年生への球出しを同じ二年生の滝澤に代わってもらい、テニスコートの入り口にやってきた。
 コートには場違いな袴姿。胸に『遥明学院高校 弓道部』の刺繍があり、他校から来ている弓道部だと知る。柔らかそうな天然パーマの髪がタンポポの綿毛のようにふわふわと揺れていた。
「俺ですけど?」
 まったく面識のない相手だった。相手もそうらしく、「ふーん」と海斗を見て、
「兄貴と似てねぇのな?」
と笑った。
「北斗と知り合い?」
「ちょっとね。去年の夏、うちに練習試合に来てたろ? あの時、お知り合いになったわけ。で? インハイ、どうよ?」
 海斗は口元を引き結ぶ。見ず知らずの相手にいきなりインターハイ予選の結果を聞かれるとは。
 前年、惜しいところで全国へ行けなかった光陵は、今年はかなり期待されていた。しかしいざ蓋を開けてみると、予想外に早い段階であっけなく負けてしまったのだ。その結果をわざわざテニス部でもない人間が聞きにきた。それも唐沢海斗を名指しで。
「負けました」
「なんだ、負けたのか」
 期待が大きかっただけに、周囲の落胆も大きかった。何度も口にし、聞かされもした「負け」と言う言葉は、さすがにそろそろ癇に障る。それでも相手が他校生なので、海斗はポーカーフェイスで「ええ、負けたんです」と繰り返す。
「もう一年、あるだろ? 絶対、弟が行くから名前覚えとけって言ってたぜ」
「北斗が?」
「うん、有望株だって、ノロケられちった。あ、やべ、うるさいのが来た」
 遠くで呼ぶ声が聞こえた。白い道着に紺の袴姿なので、同じ弓道部員なのだろう。
「じゃあ」
 慌てて駆け出そうとするのを、
「名前は?!」
と呼びとめる。
 相手は振り返り、短く「森野」と答えた。そして、自分に向かって走ってくる弓道部員を振り切るかのように、反対方向に走って行く。この光景を一年前にも見たことがあったな…と海斗は思い出していた。確か、練習試合で行った遥明学院高校の校門をくぐった時に。


『絶対、弟が行くから名前覚えとけって言ってたぜ。有望株だって、ノロケられちった』 


 兄は引退してから何も言わなくなった。卒業後、合宿等に指導の名目で他のOBと共に顔を見せることはあったが、海斗にも他の部員にも大した助言はなく、インターハイ予選を簡単に敗退したことについても、特別、コメントはない。
 海斗は森野の言葉を反芻し浅くため息をつくと、コートの中に戻って行った。
 



 その年のインターハイで遥明学院高校の弓道部は、個人戦で全国を制した。
 優勝したのは三年生の森野皓。その名前を新聞で見た兄の北斗が、
「『無我の境地』の勝利か」
と独りごちたのを、海斗は印象深く聞いていた。





                         end
(2008.08.02 sat)
                 




(脚注1)
唐沢海斗のテニスに対する「わだかまり」と「のめりこめない理由」については、『輝』本編の第3部24話25話(別窓)にて明らかにされています。


(脚注2)
森野皓の弓道に対する「原動力」については、放課後シリーズ『放課後の色はオレンジ』(別窓)で語られています。

  

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