Scorrendo



「やあ、ユアン、よく来てくれたね」
 ユアンがフロアに一歩踏み込むや否や、満面に笑みを浮かべたロジャーが出迎える。周りの人間が道を開ける中、彼は高速で歩み寄り、二人は互いにハグし合った。
「お招きありがとう。盛況のようだね?」
 中を見まわすようにして祝辞を述べると、ロジャーはユアンを奥へと促した。
 ロジャー・デイルはニューヨークで最も注目されるポップアーティストの一人である。写真と絵を融合させた作品で有名で、ここ数年はフォトモザイクに力を入れていた。明日からこのギャラリーで作品展が開催されるのだが、今夜は親しい芸術仲間や支援者、画廊関係者を招いてのレセプションが行われている。ユアンも招かれた一人であった。
 床と壁を黒で統一された空間に、色鮮やかな作品が展示されている。その中でもひときわ目を引いているのが、ピアノを弾くユアンをモデルにした作品だった。ロジャーがデッサンした下絵に細かく縮小した様々な薔薇の写真でモザイクして、ミュシャ風絵画に仕上げたものだ。
「Wow、これはすごいな」
「だろう? もうすでに何件か引き合いが来ているんだ」
 ロジャーはドリンク・サービスするギャルソンを呼び止めトレイに乗ったシャンパングラスを取ると、ユアンに手渡す。
「で、今夜は一人なのかい? 気を利かせて招待状は二人分送ったはずだけど?」
「ああ。君の作品を堪能したくてね」
 ユアンがそう言うと、ロジャーは破顔した。
「じゃあ、今夜はゆっくりして行ってくれ。後で場所を変えて飲みなおそう」
 彼のユアンを見つめる瞳に少しばかりの期待を感じ取る。以前はベッドを共にする仲だった。ただユアンはサクヤに熱を上げていたから特定の相手を作る気はなく、ロジャーも芸術家にありがちな恋多きタイプだったので、後腐れのない関係だったと言える。
「彼らが君を解放してくれるならね」
 ユアンは顎でロジャーの肩越しに見える友人知人を示した。別の方向からは、スタッフが呼びかけている。
「久しぶりに君と過ごせるチャンスなのに、逃す手はないさ。上手く抜けられるよう根回しをしてくるから、帰らずに待っていてくれよ?」
 ロジャーはそう言って、呼ばれた方に向かった。
ああは言うものの、今夜の主役である彼が、レセプションが終わったからと言ってこの場を後にすることは無理だ。友人ばかりの集まりならまだしも、スポンサーやメディア関係者もいる。ジャンルは違うが同じく芸術を生業にするユアンは、この手の会がどれほど大事かをよく知っていた。おそらく小一時間もすると「抜けられそうにない」と、申し訳なさげなロジャーが約束のキャンセルをしてくるだろう。しかし待っていてくれと言われた手前、すぐに帰るのもどうかと、しばらく作品を見た後、ギャラリーの一角に特設されたバーカウンターについた。
 実はロジャーの誘いにユアンはあまり乗り気ではない。彼がどうと言うわけではなく、ユアンには現在気にかかる存在がいて、そちらに心が占められていたからだ。
 気にかかる存在とは、リクヤ・ナカハラである。
 サクヤの双子の弟だと言うので期待したが、会ってみると姿、性格ともに兄には少しも似ておらず、ユアンのタイプでもなかった。その上第一印象が悪く、これから先、たとえ知人としてもつき合いはごめんだとさえ思った。
 ところがあれから一週間、リクヤの姿が脳裏から離れないでいた。世界を仕事場にしているユアンが帰国すると、コンサートに友人達とのホーム・パーティー、実家での家族サービスやデートなどの予定が目白押しで、その場その場では他のことを考える暇はないほどだが、ちょっとした時間の隙間に、リクヤの顔や病院でのやり取りがフラッシュバックする。おかげであれ以来、「デート」はほぼ皆無だ。
「あと一時間ほどでお開きなんだけど、待っててもらえそうかい?」
 背後から肩を叩かれ振り返る。知らないうちに小一時間経っていて、ユアンの読み通りロジャーが戻ってきた。彼の根回しはどうやら利いたらしい。
 ユアンの顔に予想外と出ていたのか、ロジャーが「どうかした?」と尋ねた。
「本当にいいのか?」
「ああ。ユアン・グリフィスと約束があると言ったら、みなさん納得してくれたよ。あれ? もしかしてキャンセル前提だった?」
 ロジャーがにっこりと笑う。親しい人間に対し自分の感情を隠せない性質のユアンは、「まあね」と苦笑を返した。
「一人で来たから、てっきり今夜は付き合ってもらえるとばかり思っていたのに。そう言えばこの間のディエゴのライヴも、終わったらまっすぐ帰ったね。身体の調子でも悪いのか?」
「いたって健康。今は誰ともデートする気になれなくて」
「そりゃまたどうして?」
「う〜ん、ちょっと気になる人がいてね」
「え? 君、操を立てるタイプだったっけ?」
 悪戯っぽい目をしてロジャーは言った。ユアンはサクヤに懸想していた頃も、情事をセーブしたことはない。ロジャーも数多の相手の一人だったので、ユアンの行状はよく知られている。だから否定せず、肩を竦めて見せた。
「気になると言っても、その手の気になるなのか、どうなのかわからないんだ」
「女?」
「男だよ。でもゲイじゃないかも。それに全然タイプじゃないし、第一印象は最悪だった」
「それでも気になるんだ?」
「まあ、ちょっとチャーミングだったけど」
 チャーミング――その言葉を発した瞬間、リクヤのあの時の表情が蘇えった。欲しいおもちゃを我慢し、強がって「欲しくない」と言う子供のような目に似ていると思うと、頬がフッと緩んだ。
「もしかして、恋に落ちかけているんじゃないのか?」
ロジャーがユアンのその頬を人差し指でつついた。
「まさか。タイプじゃないって言っているだろう?」
「タイプじゃないなら尚更だよ。タイプじゃなくても思い出して、チャーミングだなんて言ってしまえるんだからね」
 グリグリと思わせぶりに頬を押してくるロジャーの手を払いのけ、「一理ある」と呟いた。
「そろそろ戻る。その気がないなら今日は諦めるよ。その『気になる彼』とやらを見てみたいもんだ。君が本気になる相手は、面白いタイプが多いからね」
「面白い?」
「だって一筋縄じゃ行かない相手ばかりじゃないか。きっと容易に手に入らないものに惹かれる性質なんだよ。俺はそんな不毛な恋、ごめんだけどね」
 ロジャーは来た時同様、ユアンの肩を軽く叩き離れて行った。
 なるほど、ここまで気になるのは普通ではない。実際、リクヤのあの表情を見る寸前まで引きずり気味だったサクヤへの想いが、すっかり消え失せている。
「ふむ」
 翌日、ユアンはリクヤ宛てに花の配達をフラワーショップに頼んだ。とりあえずアプローチしてみることにした。彼のリアクションを受け、自分の感情がどう動くのか、それを確かめる意味合いもあった。
 食べ物にせよ何にせよ彼の好みがわからないので、無難に花にした。双子の兄・サクヤは芸術家だし、同じ血が流れているのなら美しいものは好きだろう。
 とは言え期待はしていなかった。リクヤの初対面での第一声から、ユアンに対して良い感情を持っていない、あるいはそれ以前、つまりまったく無関心に感じた。リクヤはそんな相手からの理由のない贈り物を受け取りそうにない。
「そうか、受けとってくれたんだね?」
 しかしリクヤに花束がちゃんと配達されたと言う報告を受け取ると、途端に気持ちが高揚する。受け取ったと言うだけの連絡に、彼自身が驚くほどに心が躍った。
 リクヤの反応は訝しげな様子だったものの実にそっけなかったらしい。その表情が何となく想像出来て、電話口でユアンの口元が綻んだ。同時にそれを見逃したことを残念に思い、浅い息が漏れた。午後にはロンドンに発つ予定だったので配達を頼んだのだが、飛行機を一本遅らせても自ら持って行けば良かったと後悔した。
 こんな感覚は久しぶりだ。
(久しぶり? いつと比べて?)
 相手の反応が気にかかる。少しでも好感触を得るとポジティブな気持ちになれる。すると一日中、頭の中は仕事である音楽と「彼」に占められる――三年前、サクヤを諦めるまで持っていた感覚。


『もしかして、恋に落ちかけているんじゃないのか?』


(ロジャー、確かに落ちかけてた。そして落ちちゃったよ)
 コンサートとレコーディングの打ち合わせで、アメリカに戻るのは一週間後だ。そんなに会わずにいたら、リクヤの中でユアンの印象は薄れてしまう。サクヤがそうだ。十七才の夏に参加した音楽院のサマー・スクールで知り合い、実技以外は同じクラスを取っていたにも関わらず、三日声をかけなければ初対面扱いされた。関心のない相手には、とことん関心がないのだ。リクヤからも似たところがあると感じている。
「ああ、ハミルトン? 僕だ。花を贈っておいてくれないかな。マクレイン総合病院ERのドクター・ナカハラ宛てだ。そうだな、真っ赤なバラの花束が良い。毎日じゃなくてもいいけど、三日以上は空けないように」
 自宅で留守を預かる執事にそう頼むと、ユアンは搭乗口に向かった。






 ニューヨークに戻ったその足で、ユアンはマクレインを訪ねた。ERの受付に真紅のバラが飾られているのを嬉しげに見ていると、呼ばれたリクヤがドクターの控室から出て来て、ユアンを見るや否や「こっちへ来い」と顎で方向を示した。先だって歩く彼は院外へと出た。傾く西日で辺りは金色に染まっていた。
「いい加減に、花を送ってくるのはやめろ」
 再会したリクヤの第一声である。彼の方が六インチほど身長が低いにも関わらず、ユアンを見下ろすかのような目力だ。普段のユアンであればこんな態度は許さない。しかし恋とは不思議なもので、横柄な態度も口調も、リクヤをこの上もなくチャーミングに見せた。何より、リクヤにちゃんと認識されていることが嬉しかった。三日と空けず薔薇を贈った甲斐がある。
「好きな相手には基本だろう?」
「迷惑だ」
「花は嫌いだった? じゃあ、次からは違うものにするよ」
「だから、そう言うことじゃないだろ。だいたい、好きな相手って何だ? おまえとは一回しか会ってないぞ」
 リクヤは白衣のポケットからタバコを取り出した。無造作につっ込んで来たのか、箱は潰れていて中身も曲がっていた。それを出来る範囲でまっすぐに整え、彼は口に銜える。但し火はつけない。ここが院外とは言え病院の敷地内なので自重しているのだろうか。
「回数なんて関係ない。恋に落ちる時は、一瞬でだって落ちるものさ。それに僕は恋がしたかった。そうしたら、目の前に君が現れたんだ。運命的にね」
 そう恋に落ちる運命だったのだ。でなければ、タイプでもないリクヤが気になるはずがない。
「とにかく花もプレゼントもお断りだからな。送ってきても、俺は受け取らない。じゃ、これで」
 しかしユアンの誰をも蕩かす甘い声に、リクヤは動じなかった。呆れたように言い放つと、元来た道を戻り始める。あきらかに脈はない様子だが、だからと言ってユアンは諦めず、背筋の伸びたその後ろ姿に向かって言った。
「あの時、君はとても切ない目をしていた」
 リクヤの足が止まり振り返り、「何のことだ」と言った。振り返って反応したことを「しまった」と思ったのか、かすかに口角が下がって見える。
「ドアから二人を見ていた時だよ。とても切なくて、僕は声をかけずにいられなかった」
「俺はそんな顔をした覚えはない」
 そうは言ったが、リクヤは「あの時」がいつなのかわかっている。ユアンがサクヤたちとここに来たあの日だけで、リクヤに声をかけたのはあれ一度きり。あの時、ユアンは彼の複雑な胸中に触れたと考えている。だとしたら、やり取りを忘れていたとしても、心の片隅に残っているはずだ。それが証拠に、「いつのことだ」とは聞き返さなかった。
「大事なものを取られたって顔をしていたよ?」
リクヤの片方の眉がピクリと上がった。
「その気持ち、よくわかる」
(そう、よくわかる。愛する人を他人に取られる気持ち)
 ユアンはサクヤをずっと天涯孤独だと思ってきた。死別なのか他の事情があるのか、両親や親族の姿が見えてこない。弟がいることも、最近になって知った。彼が弟を大切に想っていると、言葉少なく語る中に感じ取った。おそらく弟のリクヤも、兄に対して並みならぬ想いを持っている。サクヤを見つめる眼差し、会話の声音、触れる仕種の一つ一つが、言葉にしなくとも想いの深さを語っていた。
「気持ち?」
「サクヤを他の人間に取られるって言う気持ちさ」
 二人きりの双子の兄弟の、その一方に生涯のパートナーが出来たとしたら。
「ふん、俺は筋金入りのブラザー・コンプレックスだからな。そんな顔してもおかしくないさ」
 リクヤはあっさりとユアンの言葉を肯定した。「それがどうした」的なものを含んだ笑顔を乗せて。そんな彼を見て、ユアンは昔、母が寝る前に読み聞かせてくれた童話を思い出した。狐が木に実った葡萄をどうやっても採れず、「どうせ酸っぱいに違いない」と負け惜しみを吐いて諦める物語だ。
(「ちょっと」どころじゃない。君は、なんてチャーミングなんだ)
 サクヤとは違うポーカーフェイスは、いろんな表情で満ちている。天邪鬼なところが、ユアンの目には特に魅力的に映った。
「ますます好きになりそうだよ」
 目の前の彼を、どうにも抱きしめたくて堪らなくなった。ユアンは大きく両手を広げ、今しもリクヤを捉えようとするが、寸前で彼は身を躱す。
「生憎、女には不自由してないんだ。男を抱きたいとも思わないしな」
「僕は抱く方が得意だから心配ないよ。きっと君も満足するさ、男同士のセックスも」
 鋭い風切り音が鳴る。それが自分に向かって繰り出される拳が生んだ音だと気づきユアンはよけたが、あまりに瞬時だったため体勢を崩した。商売道具の手を気にしたおかげでまともに尻もちをつき、ひっくり返された亀のような、見た目、無様な転び方になった。
 硬いアスファルトで強か臀部を打った。すぐには立ち上がれないユアンを、リクヤが見下ろしている。
「誰が本気で殴るか。次、また戯けたこと言って見ろ、今度は頬骨、折ってやる」
 ベルの鳴る音が聴こえた。リクヤの胸ポケットにしまわれたページャーだった。それを取り出して確認すると、リクヤは今度こそ入口へと歩き出す。職場からの呼び出しだろう。
 尻もちをついたままのユアンは、どんどん前に進むその背中にもう一度呼びかけた。
「リクヤ、僕と恋愛しようーっ! 僕はあきらめないからー。追いかけるのは得意なんだー」
 追いかけるのは得意だ。サクヤをずっと追いかけていた。本当に欲しいものは、努力しないと手に入らないことも知っている。そしてその努力を、ユアンは惜しまないタイプだった。たとえ手に入らなくとも、存分にしなかったことで悔いを残したくない。
 ユアンの叫ぶ声に走り去るリクヤは中指を突き立てる下品なポーズで応えた。妙に子供っぽく、今日初めて見せた感情らしい感情。
 金色からオレンジ色に変わった夕陽に染まりながら小さくなっていく彼の背中を、ユアンはうっとりとした笑みを浮かべて見送った。





Scorrendo (スコルレンド=2音間をすべるように急速に奏する奏法)

Y31/R31=ユアン31才/リクヤ31才
(2014.11.29)   DOIN' JUST FINE(出会い編)ではりく也視点で読めます
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