ダブル・ハンド
=ピアノの連弾

MCAT
=
医科大学入学テスト
(Medical College
Admissions Test)




                          DOIN' JUST FINE



――――1


「今年の医学生、どう思う?」
「ここ三年の内じゃ最低だわ。リックだけよ、今の段階で使えるのって。もう一週間も経ってんのに、まだ銃創患者見て吐いてるヤツがいるしね」
「そうそう、寝不足で脳貧血起こしたのもいたよ。たかだか二十七時間勤務で」
「リック、いいよね。覚えは早いし、度胸はあるし、とってもファンキーだしね。みんな狙ってるわよ」
「でも、彼、セックスは最低だって」
「えーっ?! 何それ?! 誰が言ってるの?!」
「ミラが言ってた」
「なぁんだ。リックもあの巨乳に悩殺された口かぁ」
「もう自慢して大変だったんだから、デートの日はね。でも次の日の顔ったら」
「顔ったら?」
「『私はトイレじゃないわよ!』って、言う言う」
「そんなに激しいの?! つまり性欲の捌け口ってこと?!」
「キャー」


「って、ナース達が囀(さえず)ってたけど、どうなんだ?」
 患者を乗せた救急車が来るのを搬送口で待つ間、レジデントのケイシー・ライトが興味深げに聞いた。
「どうかなぁ、結局セックスは相性だから。彼女と合わなかったから最低なんでしょ?」
 りく也は肩を竦めてカラカラと笑った。
「じゃあ、本当にミラと寝たのか? あいつは尻軽で有名だぞ。ま、確かに胸は魅力的だがな」
「遊びだって割り切れて、いいと思ったんですよ。溜まってたしね。でも彼女とは次はいいや。ボリュームあり過ぎて、潰されそうだったし」 
 りく也の答えに、ケイシーの黒人特有の厚い唇が半開きになったかと思うと、次には喉の奥まで見えるくらい開いて、笑いが吹きだした。
 サイレンの音が近づいてくる。無駄口はそこで終わった。救急車が滑り込んできた。
 ここマクレインは大学付属の総合病院である。中原りく也は医学部の三年生で、一週間前からここの救急処置病棟(E.R.)で実習していた。医学部の学生は三年生になると、病院での臨床実習を始める。二年間で内科・小児科・外科・産婦人科・精神科などといった病棟をローテーションし、実践的な医療行為を学ぶのだった。
「患者は六十七才男性。芝刈りの最中に倒れ、意識不明です。心臓に既往歴有り」
 救急車から患者がストレッチャーに移される。救命士が現状を報告するのを聞きながら、患者を運び込む。もう一台、別の車が入ってきた。今日は朝から比較的暇だったのに、午後を過ぎると次々とコールされた。あと一時間弱でりく也は上がりだったが、また時間どおりには終われそうにない。E.R.では「予定通り」と言う言葉は、ほとんど死語で、それ故、医学生には人気がなかった。患者は重なる時には重なる。そんな時はまともに食事も休憩も取れない。生死をさ迷う患者も多く、的確な治療を効率よくこなさないとリスクが増えるので、プレッシャーもかかる。卒業後、選択する学生の数は、他の科に比べて格段に低かった。
「こりゃ挿管しないと、リック、こっちに来い」
 後から運ばれてきた患者を受け持ったチーフ・レジデントのカイン・バートリーが、ケイシーと一緒に治療室に入ろうとしたりく也を呼んだ。ケイシーが「行け」と顎で合図し、別の医学生の名を叫んだので、りく也は呼ばれた治療室に向った。
 こうして慌ただしく一日は過ぎていくのだ。リクヤ・ナカハラ、ロバート・ケニングス、カーラ・シンプソン、ジェフリー・ジョーンズの四人の医学生は、散々こき使われたあげく、治療の合間に繰り出される指導医からの質問に、答えていかなくてはならず、気がつくと帰宅していた…ということもままあった。
「この現状に慣れる日が、来るんだろうか」
 ドクター・ラウンジに戻ったりく也を迎えたのはロバートだった。魂も何も抜け落ちたようにぐったりとソファに凭れ掛り、天井を見るとはなしに見ていた。
「慣れて来ただろ? 心臓発作くらいじゃ、驚かなくなったぜ、俺」
 りく也は自分のロッカーを開けた。首にかけた聴診器を外す。やっとオフだ。ただし、予定時刻は五時間もオーバーしていたし、あと六時間で次の勤務が始まるから、帰っている時間はなかった。
「僕はまだダメだ。今日だってもう二回も吐いたよ。君は挿管してただろ?」
「死んだけどな」
 さらりと答えたりく也に一瞥くれて、ロバートはそのままソファに横になった。「まだ吐いてるヤツがいる」とナースが言っていたのは、どうやら彼のことらしい。
「あれ、もうオフだろう? 帰らないのか?」
「帰ってる時間がもったいないから、仮眠室で寝る。ロブは何時上がりだ?」
「君と入れ替わり」
「じゃあ帰る時、起こしてくれよ」
 りく也はポケットベルだけ持って、隣の仮眠室に入った。
 ヘッドボードのクリップライトを消す。部屋は真っ暗になったが、なかなか眠気が来ない。忙しい一日に高揚して、疲れているはずなのに、逆に冴えてしまっているのだ。少しでも眠って疲れを取っておかないと、仕事に差し支える。ミスは患者の生死に関わるからだ。だから、無理やりにでも目を閉じる。
 りく也が人生をやり直すつもりで渡米したのは三年前、二十七才の秋だった。以前、留学していた際に
MCATを受け、メディカル・スクールに入学したが、日本に呼び戻されて休学していた。
 彼はある財閥の後継ぎで、本来なら望む道を歩むことは出来なかった。しかし二十七才の夏の終わりに、りく也を縛っていた柵みがなくなり渡米、復学した。うとうととし始めると、感覚が麻痺してどちらが現実かわからなくなる。マクレインで研修している方が夢ではないかと思えて、眠気を拒んで入るのかも知れない。冗談で周りを笑わせ、フットワークの軽さでスタッフ・ドクターに重宝がられているリクヤ・ナカハラが、実は今が夢ではないかと思うあまりに不眠症気味になっているなど、きっと誰も想像しないだろう。
「リック、リック」
 それでもようやく眠りに落ちようとした時、自分を呼ぶ声に揺り起こされた。
「…今、寝たとこだぞ」
「帰る時、起こせって言ったろう? 僕は上がるからね、起きろよ」
 開けたドアからロバートが言った。彼のオフの時間が、りく也の出勤時間だった。いつの間にか、六時間経っていたらしい。
「わかった…、お疲れぇ…」
 少し身を起こしかけて、答える。「Bye」とロバートがドアから消えると、りく也はベットに引き戻された。
「リック、起きてください。患者が来るわよ」
 別の声がドアを開けて入ってくる。点けたライトをりく也の顔に向けて、看護師長のマーガレット・フォレストが容赦なく起こす。
「ほら、起きた起きた。ハイウェイで玉突き事故。三人、搬送されてくるから」
「わかったよ、マージ、起きるったら」
 今度はちゃんと起き上がった。また一日が始まるのだ。頭を振って覚醒を試みた。しかし一度睡眠モードに入った脳は、簡単に起きてくれない。再びベットを目指す彼の背中を、長年の看護師生活で鍛えられたマージの掌が、バンバンと叩いた。
「痛ってぇ…」
「二度寝するなんて、十年早い!」
 そう言って、彼女は足音も高く仮眠室を出て行った。看護師にかかると、医学生などようやく卵から孵ったひよこである。
 りく也はやっと重い腰を上げて仮眠室のドアを開けた。夜中だと言うのに、昼間同様の喧騒。到着した患者がストレッチャーに乗って運び込まれてくる。バタバタと忙しく走り回るナース達、怒鳴るように指示を出すドクター、救急病棟の日常風景だ。夢ではなく、現実。
 りく也はここの空気を確かめるように、大きく深呼吸して踏み出した。




――――2


 E.R.の受付係のピーター・スミスは辟易していた。
 今日は朝から救急外来が大繁盛。しかし野外コンサート会場で将棋倒しの事故があり、運び込まれた大勢の重態患者にドクター達は手一杯で、外来のことは必然的に後回しにされていた。あまりの待ちように、患者が受け付けにクレームをつけにきて、スミスは電話とその応対に追われて休む暇もない。その上、もう一人の担当メイスンが、渋滞に巻き込まれて大遅刻と来ては、患者の応対も横柄になる。それがまたクレームとなって、つまり悪循環の渦の中に、彼ははまりこんでいるわけだった。
「やっと、ランチだ」
 今回の医学生の中で一番使えないヤツ――スミスがそうレッテルをつけた医学生のロバートが、処置の済んだカルテをボックスに放り込んだ。この学生ときたら、ここのローテーションに入って二週間が過ぎようとしているのに、未だに血やら肉やらでグシャグシャの患者が運び込まれる度、トイレに直行する。医学部での成績は上位の実習生らしいが飲み込みが遅く、出来ることと言えばマニュアル通りのことばかり。その上、やることのトロさと言ったら、今日この忙しさは、彼が外来に入っているからではないか――スミスはそう思わずにいられなかった。自分がランチも休憩も取れていない現状で、スタッフやレジデントの後ろばかりついてまわるしか能の無い学生が、自分よりも先に、ランチを取るだなどと、どう考えても納得がいかない。
「ランチだと?!」
 ロバートに向き直って今しも怒鳴りそうになった時、
「すみません、ここにリクヤ・ナカハラはいますか?」
と背後からスミスに声がかけられた。
 振り返ると、二人の東洋人と長身の白人が立っていた。
「リクヤ・ナカハラ…、ああ、リック?」
 スミスが聞き返す。
「ええ、今日は出勤していますか?」
 一番背の低い東洋人が答えた。声をかけたのは彼らしい。
「リックは…」
 今日はスミスの視界に、リクヤ・ナカハラは入って来なかった。へらへらとしているが学生の中で技術的にはまあまあマシな彼は、ここでは重宝に使われているから、出勤しているとしたら救急搬送の患者を担当しているのだろう。
「今日は出勤してる。患者をICUに運んで行きましたよ」
 言葉が詰まったスミスの代わりに、ロバートが答えた。
「会いたいので、呼んでもらえますか?」
「あなたは?」
「兄です」
 スミスとロバートは思わず顔を見合わせた。その東洋人はどう見てもリックより年上に見えなかったし、彼に兄弟がいることなど聞いていなかったからである。
「伝えるけど、ご覧の通り今日は大忙しだから、リックもなかなか手が空かないと思うけど?」
 今度はスミスが答えた。リックの兄と名乗った東洋人は、まず後ろに立つもう一人の東洋人を、それから隣に立つ金髪の白人を見た。二人が時間差で頷くのを確認してから言った。
「構わない。待ちます」
 スミスはドクター・ラウンジで待てばいいと教えたが、三人はそれを断って、邪魔にならないところを求めて去った。
 およそ病院に似つかわしくない彼らを、患者もスタッフも一瞬振り返る。特に背の高い白人は俳優ばりの容姿で、歩くたびに見事な金髪が光を放つようだった。幾人かの女性が黄色い声をかけるところをみると、俳優なのかも知れない。あのリックの兄だって悪くない。不思議と目を引く美しさがある。人に見られることに慣れているようだから、ビジネスマンではないだろう。もう一人の東洋人はこの二人に比べてまるで目立たない存在だったが、逆にそのことが目を引いて印象に残った。
「何者かな、あの三人」
 ロバートは彼らの後ろ姿を見送りながら呟いた。その彼を二号処置室から呼ぶ声がした。
「あああ、ランチがぁ…」
 ロバートは額に手を当てて、大げさに天井を仰ぎ見る。もう一度呼ばれて、大きく息を吐いた後、二号室に走った。結局、彼のランチはお預けとなったわけで、スミスは「ざまあみろ」と胸の内で舌を出した。




「リック」
 ICUフロアでエレベーターを待っていたりく也の隣に、同じE.R.ローテーションの医学生ジェフリー・ジョーンズが並んだ。彼も『寄り道組』で、りく也とは同い年と言うこともあって仲が良い。遅刻魔のジェフリーはローテーション初日に大遅刻して顰蹙(ひんしゅく)を買い、ナース達から「リック以外は最低」と一括りにされていたが、慣れて持ち前の判断力の良さが発揮されると、その評価も上がって来ている。
「どうしたんだ、それ」
 りく也が白衣ではなくオペレーション・ウェアを着ているのを見て、ジェフリーが聞いた。
「食中りの患者に吐かれたのさ」
 肩を竦めて答える。エレベーターのドアが開いたが一杯で、二人は一台見送った。今日は休憩する間もないほど忙しい一日なので、ちょっとした休憩代わりだ。
「ハイ、リック。今日は何時上がり?」
 ICUのナースがりく也の元に歩み寄った。ポッテリした唇がマリリン・モンローのように色っぽい。
「七時。君は?」
「私は六時半。待ってるから今夜どう?」
「いいよ」
「じゃ、また後で」
 彼女は媚びたウインクをりく也に残し、ICUの中に入って行った。
 ジェフリーが横目でりく也を見た。
「相変わらず、お盛んだな、Dr.ナカハラ?」
 含みある目は笑んでいる。りく也のモテ様はマクレインでは有名だった。来るものは拒まず、仕事で帰れない日以外は、独り寝はないんじゃないかと言われているくらいだ。
「思いっきり疲れて眠りたいんだよ。疲れすぎて、自分で抜く気も起こらないし」
「うわぁ〜、やっぱりナース達の噂通りなんだな? リックは女を性欲処理の道具としてしか見てないってさ」
「本当のことだろ?」
「今に大やけどするぜ」
「だから相手を選んでる。お手軽で後腐れなくって、遊びを遊びと割り切れる相手。『相性』が良いに越したことはないけど、そこそこ気持ち良くしてもらえばいいし」
「じゃあ、商売女にすりゃいいじゃないか?」
「変な病気を移されても困るしな」
 しれっと答えるりく也に、あきれたようにジェフリーは息を吐いた。次のエレベーターが来て、今度は空いていたので乗り込む。
「サイテー。こんな男だって知らずにきゃあきゃあ言う彼女達が、気の毒になってきたよ」
「どうとでも」
 りく也は不敵に笑った。ますますジェフリーはあきれて、りく也の脇を拳骨で小突いた。
 エレベーターが一階のE.R.に着いた。降りた二人の学生にスタッフ・ドクターが、次に診る患者の指示を出して走り去って行く。病棟の様子は数時間前からほとんど変わっていない。相変わらず外来患者が待合室から溢れていた。
 ドクター・ラウンジで少し休憩を取ろうと思っていた二人の目論見は崩れ、通りかかるナース達に追い立てられるように、受付脇のカルテ・ボックスに向かった。
「あ、リック、お客が来てるぜ」
 指示された患者のカルテを探すりく也に、スミスが声をかけた。
「客?」
「兄貴だって言ってた」
 スミスの答えはりく也の予想外の、それも思ってもみないものだった。
「さく也?」
 だから半信半疑で聞き返す。
「や、名前は聞いてない」
 りく也は辺りを見回す。クレームをつける外来患者に、家族、ナースにドクター、清掃員、警備員。
「どこ?!」
「外来待合室の方には行ったけど、二時間も前だか…、って、おい、リック?」
 りく也がカルテを持ったまま、言われた待合室の方へ走り出そうとした時、その方向から歩いて来る目立つ二人組が目に入った。
 背の高い金髪の白人と、並んで歩く東洋人。その東洋人の顔を見るなり、りく也は叫んだ。
「さく也!」
 呼び声に東洋人は気づいてりく也を確認した。口元に笑みが浮かぶ。
 りく也の足が速くなった。自分へと見る見る近づいてくる彼に東洋人が、
「り…」
何か言おうとするより早く、りく也の腕が伸びて抱きしめた。まるで映画かテレビ・ドラマのワン・シーンのように。
 その様子を受付からジェフリーとスミスが、あっけにとられて見ていた。




 兄の中原さく也とは三年と半年ぶりだった。自分の足が地に着くまで、連絡しないと決めたからだ。
「りく、痛い」
 りく也の耳元でさく也が呟く。腕の力を緩めて、久しぶりの兄の顔を見た。懐かしい右目の下の小さなほくろを、彼であることを確かめるように指でなぞった。りく也を見つめる彼の目が、フッと笑んだ。
「どうしたんだ?」
 さく也を離して尋ねた。
「ここでローテーションをしてるって、メールをもらったから、顔を見にきた」
 さく也はヴァイオリニストで、ウィーンのオーケストラに所属しているから、簡単にアメリカのニューヨークくんだりまでは来れない。それを感じさせない口ぶりで、彼は答えた。抑揚のない物言いは以前と同じだが、目元口元にやわらかな印象を受ける。
「こいつ、誰?」
 りく也はさく也の隣に立つ背の高い金髪を見やる。彼はにっこりと笑って、さく也の肩に手を置いて抱き寄せた。りく也は持っていたカルテでその手を叩く。
 長身で金髪、ハリウッド・スターばりの容姿。直接会ったことはないが、知らないわけでもなかった。
「なるほど、『黄金のグリフィン』か。さく也のストーカーの」
「ストーカー?!」
 英語で言ったりく也の言葉に、彼が大仰に反応したから、間違いなくユアン・グリフィス本人だろう。アメリカ人のピアニストがさく也を追い掛け回していると、以前、さく也の友人の曽和英介から聞いていた。兄と違ってクラシックにはまったく縁がないりく也は、ユアン・グリフィスが半世紀に一人の逸材であろうと、関係なかった。
「ストーカーだろ? さく也のことを追いかけまわしてんだから」
「サ、サクヤ、君の弟は失礼なヤツだなっ!」
 白い首筋を真っ赤にしてユアンが怒ったが、りく也はおかまいなしで置き去りにし、さく也に目を戻した。
「元気そうだな?」
「りくも。ちゃんと医者になったんだ?」
 りく也のカッコウを見て兄が言った。「まだそれ以前」とりく也が答えると微笑む。以前のさく也では考えられない頻度だ。幼児期に母親から虐待を受けた彼は、思ったことを伝えたり、感情を表現することが下手だった。年の離れた恋人達は、さく也が何か言う前に察して先回りをしてしまうから喋る必要もなかったし、才能が勝負の世界にいるために、人とのコミュニケーションはヴァイオリンがしてくれたから、大人になっても子供の頃から比べればマシと言う程度だった。ところが―――
「加納悦嗣はどうしてる? うまくやってるのか?」
 加納悦嗣に恋をしたことで、彼は少しずつ確実に変わって行った。年も近く普通の社会人の加納悦嗣は、さく也が思うことを察してはくれない。態度で、言葉で示さなければ、伝わらないから。
「一緒に来てる。ユアンがプログラムに
ダブル・ハンドを入れたいって言うから」
「弾くのか、そいつ?」
「せっかく僕が一緒に弾こうって言っているのに、自分の指では金は取れないってYESと言わない。サクヤとだったら素直に弾くくせに。結局、今回も調律だけさ」
 さく也のかわりにユアンが答えた。自分はさく也に聞いているのに、まったくうざいヤツだ…と、りく也は彼を睨みつけた。さく也は答えを取られたからと言って、気にする風ではなかった。
「ここに来ているのか?」
「外でタバコを吸ってる」
「じゃ、挨拶でもしておくか」
と言って、手にしたカルテを思い出した。縫合室で肩の縫合を待っている患者のだ。ちょうどりく也を呼ぶスタッフの声も聞こえた。
「これはすぐ終わるから」
「今日は空けてる。待ってるよ」
 りく也はさく也にmouth to mouthの軽いキスを贈ると、縫合室に足を向けた。




――――3


 肩の縫合を終えると、次には脱臼の修復が待っていた。それからまた転んだ子供の額の縫合。貧血の主婦の腰椎穿刺をした後で、血液ラボに急ぎの検査結果を受け取りに行って――すぐに終わると思っていたことに、次々と付属される。りく也が受付に戻れたのは二時間後で、傾いた陽が室内をオレンジに染めていた。ようやく外来にも余裕が出てきて、診察の流れも平常に戻っている。受付にはメイスン一人だった。スミスはやっとで休憩か、もしくはオフになったのだろう。りく也はメイスンに「少し休憩してくる」と断って、搬入口に向かった。
 搬入口の中扉を開けようとして止めた。二十四時間体制のE.R.を開設してから閉じられたことのなくなった門扉の傍に、兄のさく也と東洋人が立って話をしている。相手は見知らぬ顔。
――あれが、加納悦嗣か
 さく也との身長差から見て、背はりく也と同じくらい。日本人にしては高いほうだ。目を引くほどの美形でもなければ、全身からオーラが出ているわけでもない。どこにでもいる男に見えた。
 何を話しているのか、さく也が楽しげに笑っている。声が聞こえてきそうだった。りく也は兄の口の端を少し上げて、何となく笑う顔しか知らない。彼を笑わせるために何でもしたが、りく也に出来たのはその程度だった。
 さく也を笑わせているのは加納悦嗣だ。弟の自分が望んでも与えてもらえなかったものを、他人の彼が与えられた。複雑な心境だった。
「ふん。まったくムカつくね」
 背後から自分の胸の内を代弁した声に、りく也は鋭く反応して振り返った。『さく也のストーカー』だったユアンが立っている。右手にコーヒー、左手にダイエット・コーラの紙コップを持っていた。
「何なんだ、あのイチャイチャぶりは。あんな風に笑うのなんて、サクヤじゃない」
 その容姿に相応しいテノールが、およそ相応しくない棘含みの言葉を紡いだ。鮮やかな青い瞳は、やはり相応しくない表情で門扉の二人を捉えている。
 りく也は彼を一瞥してから、外に目を戻した。
「じゃあ、どんなのがさく也だって言うんだ?」
「笑わないところがいいんじゃないか、クールで神秘的だ。そして音が雄弁に語る」
「ふん」
 りく也は鼻を鳴らした。マクレインではまだ見せたことのない、皮肉の色を含んだ笑みが浮かぶ。ユアンの二人を見ていた瞳が、りく也に落ちた。
「何がおかしい?」
「笑わないんじゃない、笑い方が下手なんだ。クールで神秘的に見えるだけで、あいつは普通の人間さ。おまえ、十七からのつきあいなんだろう? 何にもわかっちゃいないんだな? おめでたいヤツだ」
 さく也の見かけに惹かれるヤツはみんなそうだ。無口で無愛想なのをいいことに、都合の良いように性格付けをする。誰も本当のさく也を見ようとしない。彼らの理想の中原さく也を、勝手に理解したと思い込んでいるのだ。
 きつい物言いにユアンの唇がムッと引き締まった。おまえ呼ばわりされたことが気に障ったのか、「おまえ?」と繰り返した。
 りく也の笑みは自嘲のそれに変わった。
 自分は彼に八つ当たりしている。弟であるりく也が一番兄を理解していると思っていたのに、笑い声を引き出せなかった。そのことが悔しくて、さく也の上辺しか見ていないユアンに対して優越感を持ちたかったのかも知れない。
「リック、十分後にテレンスから一人搬送されて来るから、受け取ってくれないか?」
 バートリーがりく也の肩を叩いた。振り返ったりく也は、いつもの『医学生のリック』に戻っていた。
「ヘリですか?」
「いや、救急車」
「じゃ、出て待ってます」
「頼むよ」
 そう言うと、彼を呼ぶ治療室の方へ走り去った。外来患者は少なくなったが、今日運び込まれた将棋倒しのけが人には重傷者が多く、スタッフは大忙しなのだ。りく也は首をぐるぐると回し、搬入口のドアに手をかけた。
「八つ当たりだ、悪かったな」
 誠意の感じられない謝罪だったが、ユアンの唇の力が抜けて、美しい白い歯列が覗いた。笑ったのではなく呆けた、日本でいうところの『豆鉄砲をくらった鳩』…な顔になった。りく也が素直に謝罪したことは、よほど意外なことだったらしい。
「リク、」
 外に出る体勢に入ったりく也に、何か言おうと呼びかける。首だけで振り返り、
「その呼び方はするな。そう呼んでいいのは、さく也だけだ」
と言い捨ててドアを押し開けた。


                                    
                                            


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