名賀浦鎮守の一つ海那彦神社では、毎月十日に月次祭(つきなみさい)が行われる。普段は宮司が神饌(しんせん)を供えるだけの簡素な神事だが、名賀浦花火と重なる葉月のそれだけは特別で、昼も夜も見世が立ち、いっぱしの祭りの体を成していた。
今日はその葉月十日。帯刀は贔屓にしている茶屋女の浪路を伴って、宵の口から境内に足を運んでいた。
夜見世を覗きながらそぞろ歩いた末、浪路に強請られ一軒のしのぶ売りに足を止めたのが小半刻前。屋台見世の軒にぶら下がる風鈴仕立ての吊りしのぶを次々勧める店主と、「あれでもない」「これでもない」と選びあぐねている女、その傍らで退屈しながら辛抱強く待つ旦那と見える三人だが、その実は違っていた。
「先(せん)から確かに動きがあるようなんですがね、まだそれが何なのか掴めない。こちらも江戸入りの頭数を増やしてるんですが、これもなかなかで。変わりがないと言えばそうなんだが、どうもこちとらの気色が悪いって言うか。おまえさんのとこはどうなんだい?」
「こちらも清吉さんと同じさね。茶屋に来る連中も表向きは変わりばえしないんだけど、何だろうね、時々見かけない顔を連れてきたかと思ったら、どうも気配が違ってね。おかげで気が抜けないったら」
帯刀の本来の役目は名賀浦での内偵である。国許が関わる別件が、名賀浦で先ごろ起こった大規模な抜け荷事件と繋がった。首謀者たる廻船問屋が騒動の中で絶命し、表向きは一件落着となっている事件だ。繋がりを踏まえて調べを進めると、一介の商人(あきんど)がすべてを首謀したにしては無理があるとわかった。抜け荷事件には裏があり、それは『別件』にも通じているのではないか――国許の関わる『別件』には公儀が絡んでいた。帯刀が於菟二に見張られている所以である。
浪路と清吉はその帯刀の目となり耳となる子飼いの密偵であった。浪路は主だった大店やどこやらの家中、役宅住いが利用する名賀浦一の料理茶屋に茶屋女としてもぐり込み、座敷での話に聞き耳をたてる。清吉は物売りに身をやつして江戸と名賀浦を行き来しては、仲間と繋ぎを取った。そうして調べ、集めた各々の内情を持ち寄るのだが、帯刀が望むような動向は掴めずにいる。
「長帳場になりそうでやんすね、旦那?」
「急いては仕損じる。あちらもそう思い用心して動きが鈍いのだ。焦りは禁物、要は相手方に出し抜かれず、一歩でも先んずれば良い」
「それでまだ引っ付けてらっしゃるので?」
清吉が帯刀の肩越しに視線を走らせた。その先には於菟二の姿があるはずだ。
於菟二の素性を調べたのは清吉と浪路であった。二人は常々於菟二の始末を帯刀に勧めている。帯刀は今後、御役目の核となって動く立場だった。末端の小者とは言え、公儀の手のものについて回られたのでは、そのうち差し障りが出ると考えているのだ。怪しまれずに始末すると言って憚らなかったし、おそらくその手のことに慣れてもいるだろう――しかし。
「あれはあれでなかなかに面白いやつなのだ」
帯刀は今日もまた、清吉の言葉の裏にある含みを否とした。
「どうあっても怪しまれるだろうよ。また代わりがうろうろとするに違いない。手練れがついてみよ、その方が面倒だと思わぬか?」
「下っ端で命拾いしたな、あのガキ」
清吉は先ほどまでの商人然とした人好きのするものとは違い、皮肉めいた笑みを口元に浮かべた。本来の顔つきに一瞬ではあるが戻っていることに自分でも気づいたのか、すぐさま相好を崩し、笑みを作り変える。
「そろそろ『若様』にお会いせねばならぬな」
「伊の字の『若様』ですね? 承知いたしました、繋ぎを取ってみますよ。ですが、浮草のようなお方だから、すぐに捕まるかどうかねぇ」
浪路は苦笑しながら吊りしのぶの一つをひょいと手に取り、「これが良い」と帯刀に見せた。茶色く色づいた拳ほどの杉玉に、人の息で薄く丸く吹き整えた名賀ビードロの風鈴が下がっている。しのぶ玉も風鈴も夏の風物詩だが、名賀浦では、本来、苔玉であるものを杉玉に変え、季節の色合いに彩色したビードロを付けた。それを潮風に乗って来ると伝えられる妖し除けとして、年中、家の軒先に吊るすのである。
帯刀は懐中から財布を取り出し、幾ばくかの金子を清吉に渡した。
「やれやれ、本当に旦那に買わせるたあな」
金子を受け取りながら清吉が苦笑する。
「だってそのために夜見世に来たんじゃありませんか」
浪路が目の高さに吊りしのぶを掲げると、萩色と深緑の縞模様の風鈴が、ちりりんと涼しげな音を立てた。
「於菟二ではないか?」
キョロキョロと辺りを見回す背中に向けて、帯刀は声をかける。微かに肩を跳ね上げて、於菟二が振り返った。
「珍しいところで会うな? どうした? 誰かとはぐれたのか?」
と帯刀は聞くものの、於菟二が「はぐれた」相手が誰であるかは知っている。
清吉のもとを離れた帯刀は、浪路と共に他の見世をしばらく覗いて回った。もちろん「背後」に於菟二をくっつけたままである。そのうち悪戯心が出て、不意に視界より二人して消えてやると、慌てた於菟二が人出の増えた境内で帯刀を探し回った。その様を面白がって、今度は逆に後をつけ見ていたというわけである。浪路が「存外、あのぼうやを気に入っておいでなんですね」と笑った。
「こりゃ野田の旦那じゃありませんか。いえね、仕事の帰りなんでさ。祭りは久しぶりなもんで、近道がてら見て行こうかと。旦那こそ、どうしてここに? って、そりゃ野暮ってもんか」
驚いた顔を瞬時に引っ込め、手にした商売道具を見せると同時に、於菟二は帯刀が連れている浪路に目をやった。
浪路は特別目立つ美形ではなかったが、紺の滝縞柄の小袖に秋らしく萩色の帯をすっきりと締め、髪を当世流行りの玉結びにした姿には粋な色香がある。さほど女には興味のなさそうな於菟二だが、目が合って浪路が笑むと心持ち照れているように見えた。
「葉月の月次祭は名物の花火もあって賑やかだと聞いたのでな、あないしてもらっていたのだが、」
帯刀が浪路をちらりと見やり、「もう戻ると言うのだ」と続けた。
「うちのお店(おたな)からよく見えるんでね、今夜はお客でいっぱいなんですよ。帰らなけりゃ大目玉をくらっちまう」
それを引き取り、茶目っ気のある口調で浪路は言った。
「それじゃ旦那、あたしはこれで。またお店にもお顔、見せてくださいよ? これ、ありがとうござんした」
手にした吊りしのぶの礼を副えて会釈すると、浪路は境内の薄闇の中へ踏み出して行った。
於菟二はしばらく去って行く浪路の後ろ姿を見ていた。もしや茶屋女以外の何かを感じ取っただろうか。否と帯刀は思った。浪路も、そして清吉も手練れの密偵であり、用心深く市井に溶け込んでいる。そんな二人が「下っ端」と称するのだから、於菟二は密偵としてはまだまだ。とうてい浪路の正体を見破れるはずはない。
「おんなも、ちゃんといける口なんだな」
於菟二が人の間に消え失せた浪路から目を離し、帯刀を見た。
「ずいぶん仲が良さそうで。あの風鈴も旦那が買ってやったもんじゃねぇんですかい?」
「あれのことは贔屓にしておるが、おまえが思うような間柄ではないぞ?」
「『思うような』って?」
帯刀の言った意味がわかっているだろうに、於菟二が聞き返した。面白がって冷やかしているようにも、妬いているようにも見える。これが色事も使う草としての芝居なら、なかなか大したものだ。
「妬いているのか?」
「まさか!」
慌てて打ち消す於菟二の声音は大きくなり、芝居ではなさそうだ。妬くとまではいかなくとも、気にはしている。肌を合わせる相手ごとに懸想する性質(たち)なのか、それとも帯刀ゆえのことなのか。
「なんでおいらが妬くんです」
後者であれば悪い気はしない。
「わかった、わかった、おまえにも何か買ってやろう」
「いりやせんよ。おんな子供じゃあるまいし。夜見世のもんより、あんたのお宝の方がいいや」
はすっぱな、いつもの口ぶりに戻すものの、帯刀の目には愛々しく映った。目を眇めて笑うと、於菟二が怪訝そうにねめつける。
「まあそう申すな。いつも『それ』ばかりでは風情がなかろう?」
「なんの風情?」
「ついて参れ」
「だから」
まだ言い返そうとする於菟二などお構いなしに、帯刀は歩き始めた。
汁粉に団子、蕎麦に胡麻揚げ等々の屋台が並ぶ。水かし売りの水盥には瓜や西瓜が浮かび、目にも涼しげに誘っている。つい「一つおくれ」と頼んでしまう者もいるだろう。
縁日の夜見世は賑やかなものと決まっているが、土地の者が「葉月十日」と呼ぶ海那彦神社のそれは、江戸に勝るとも劣らない――と、活気に満ちた境内を帯刀は見回した。
とは言っても江戸の縁日や夜見世を特に知っているわけではない。こう言う祭事は庶民の楽しみであり、武家が表立って顔を出すことはないからだ。中には浪人面をして祭りを楽しむ家中はいたが、帯刀は今夜のように役目で場を使うだけだった。
今まで関心の薄かった縁日も、こうして役目抜きで回ってみると面白い。ゆっくりと歩を進めながら、帯刀なりにこの空気を楽しんでいた。
「旦那、的矢がありやすよ」
誘ったはじめこそ乗り気なさげだった於菟二も、祭りの気に中てられたのか、帯刀以上に楽しげである。
「いいとこ見せておくんなせぇ」
「侍がみな、弓矢を得意と思うなよ」
「やる前から言い訳ですかい?」
「申したな?」
煽りに乗った振りをして帯刀が的矢に挑み、続けざまに的中させると於菟二は小さな歓声を上げたが、「お侍なんだから、お手の物でやんしょ?」と負け惜しみも忘れない。
その場で細工して見せる飴売りの前では子らに混ざって感心し、童獅子のとんぼ切りには心付けをはずむ。
於菟二の浮かべる笑みに、心なしか常とは違う邪気のなさが見え、帯刀の頬も自然と緩んだ。
せがまれたわけではなかったが、帯刀は虫売りの見世で二匹の鈴虫が入った籠を、於菟二に買ってやった。
「いらねぇって言ってるのに」
於菟二はそう言ったが、虫籠の中を覗く横顔は満更でもなさげである。
花火の頃合いに夜は充分に更け、人の足はより良く見える方角へと流れていた。
海那彦神社の目と鼻の先、名賀浦の海の玄関口、大波止で花火は打ち上げられる。境内からも見えなくはないが、青野川にかかる蔵前橋と千石橋で見る花火が格別だと、名賀浦っ子のみならずに知られていた。帯刀と於菟二もご多分に漏れず、波止場近くまで足を運んだ。
橋の上は言うに及ばず、川面でも客を乗せた屋形船や小舟が所狭しとひしめいていた。そのように大そうな衆目の中、江戸で修業したと言う花火師が、漆黒の空に鮮やかな赤橙色の花を咲かせる。打ち上がるたび、辺りはまやかしの昼となった。しだれ柳に見立てたものが特に見事で、見物人の間からはやんややんやと歓声が上がる。江戸大川の花火を知る者、あるいは人伝に聞いた者だろうか、時々、江戸風の掛け声も聞こえた。
「さすが名賀浦名物と謳われるだけはあるな」
帯刀も素直に感動した。江戸詰の折に一度、筑前守の供を言いつかり、大川の花火を屋形船で見物したことがある。あれも見事であったが、名賀浦の花火もなかなかのものだった。
「そうでやんしょう? 隅田の花火と変わりゃしねぇ」
帯刀の内心を於菟二が代弁した。
「ほう? 江戸に行ったことがあるのか?」
帯刀が尋ねると、橙色に染まる於菟二の頬がピクリと動いた。「しまった」とでも思ったか。しかし答えるために帯刀に目を向けた時には、微塵も素振りに出しはしない。
「江戸から来た船子に聞いた話でさ。旦那は江戸をご存知なんでしょう? どうです、ここの花火は」
「うむ、引けを取らん」
於菟二は「やっぱりね」と得意げに破顔した。その笑みを照らすかのように、ひときわ大きな花火が開いた。
花火が終わると、家路に着く者、川縁や神社の夜見世に行く者、どこかで一杯引っかけて花火の余韻に浸る者など、見物人はおおむね三通りに分かれる。帯刀と於菟二はその三番目の類に入り、居酒屋に立ち寄って炙ったイカの一夜干しと、ぐい呑みの大きさに切り出した竹筒で飲む冷たい笹酒を腹に入れた。
二人の常からすれば酒量は軽く、酔いが回るほどではなかったが、於菟二の足取りはほろ酔い加減で鼻歌も付き、機嫌の良さがうかがえる。
賑やかな夜見世に、見事な花火。どちらも帯刀の今夜の段取りにも、是が非でも見知っておきたいものでもなかったが、たまにはこう言う夜も良いものだと、間を開けて前を行く於菟二を見て思う。
顧みれば、於菟二は終始上機嫌だった。
会うのは夜ばかり、どこかで飲み食いするにせよ、於菟二が帯刀の別宅に立ち寄るにせよ、寝間で朝まで過ごすことが主な目あてであった。睦言はあれども互いの素は見せない――役目絡みとなれば基本の一線であるが、近ごろ於菟二はぽろりと己を覗かせる。そんな素の一面に、帯刀の心は都度に少々ざわついた。
「どうかしやしたか?」
於菟二が振り返った。
「なぜだ?」
「にやけた面をしておいでだ。酔ってらっしゃるんで?」
「酔っているのはおまえだろう?」
心を見透かされたかのようで、話を於菟二自身に転嫁する。
「確かに、ちっとばかし気分はいい」
於菟二は両手を広げてくるりと回り、「こんなに楽しいのは久しぶりだ」と独りごちた。
「楽しかったか?」
「楽しかったですよ。夜見世も花火も。旦那はきれいどころが帰っちまって、今ひとつだったかもしんねえですけどね」
「いや、おれも楽しませてもらった」
於菟二は意外と言う風な顔をしたが、すぐさま破顔し、遅れて歩く帯刀が追いつくのを待って隣に並んだ。
「毎年、葉月十日は巡って来ように?」
「存外、仕事が忙しいんでやんすよ。花火の後の『お楽しみ』を見越して、めかしこむお客は少なくねぇですから」
「誘ってくれる者はおらんのか?」
「いるにはいるけど、それだってつき合いみてえなもんだからなぁ、気の張ることも無きにけりってね」
「では、今宵は違ったと?」
今夜の始まりは於菟二にとって、『仕事』であったはずだ。於菟二は帯刀を上目使いに流し見し、口の端を上げてにやりと笑う。
「さあ、どうでやんしょ?」
帯刀は「うまいな」と軽く受け流して歩を進める。岡場所風の駆け引きめいたやり取りに、帯刀の心は動かない。
それよりもむしろ。
「早く鳴かねえかな」
時折、下げた虫籠の中を、嬉しげに覗き込む於菟二の仕種に惹きつけられた。
「そう揺らされては、鳴きたくとも鳴けぬだろうよ」
於菟二の機嫌の良い足取りに合わせ、手にした虫籠は盛大に揺れていた。これでは帯刀の言うとおり、鈴虫は鳴けぬだろう。
「違げえねぇ。だったら早く帰ぇりやしょう」
虫篭を持った方の手で帯刀の袂を掴み、先を促した。またしても籠が大きく揺れて、帯刀が窘める。於菟二は慌てて袂にかけた手を外し、虫籠の中を見た。二匹の鈴虫は転げず籠の底でしっかり踏ん張っている。触角が微かに動いたので、大丈夫と言う風に帯刀に笑んでみせた。
幾分背の低い於菟二の見上げ気味の視線には、見張るもの見張られるものの躱し合いは感じられない。
帯刀は思わず見入ってしまった。於菟二は目を逸らすでもなく、しかし笑みはいつしか消えていた。ほんの少し踵を浮かせて伸び上がり、心持開いた唇が帯刀の口元に近づく。次には帯刀の唇は何のためらいもなく、於菟二のそれに押し付けられた。
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花火の間は在りようの薄れていた月が、遥か高みから二人を照らす。
秋を思わせる風が足元を過ぎて、まだ若い路傍のすすきを揺らす。
息を顰めて人間が行き過ぎるのを待っていた草の間の虫が、「もうよかろう」と鳴き始める。
呼応するかのごとく於菟二の手元で鈴虫が鳴いた時、ようやく二つの唇は離れた。
間近の於菟二の瞳が、戸惑いに揺れて見えたがそれも刹那、
「旦那も早く帰ぇりたくなりやしたかい?」
と、飄々とした態に戻った。
(於菟二を憎からず思っているのかも知れない)
形になりかけた自覚は、二人の間柄を変えるものにはならぬだろうことを、帯刀は重々承知である。於菟二にもまた役目の対象として以外に帯刀を見ている節はあるが、おそらく同様に、簡単には本音を口にしないだろう。
正直なのは、今のところ互いの唇だけと言うことだ。
「ああ、なった」
唇から次第に消えゆく温もりを、帯刀は少し惜しむように反芻した。
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