「すげぇな…」
気だるげに横になっていた於菟二が半身を起こした。帯刀の身体越しに庭を見やるので、釣られてそちらに目線だけを向けると、夥しい数の螢が、伸びたい放題になっている下草の間から飛び立っては、光の帯を宙に這わせている。
「これは見事な」
帯刀も感嘆の声を漏らした。この家(や)を借り受ける際に、「夏には蛍がそりゃあ見事な庭ですよ」と家主が自慢していたことを思い出す。庭と言っても一坪あるやなしやの坪庭風情だ。庭草なのか雑草なのか見分けのつかないものが育っている。確かに夏に入ると螢が飛び交うようにはなったが、正直なところ自慢するほどのものかと帯刀は訝っていた。偽りではなかったと言うことだ。
戸を開け放した縁側より一筋二筋、光跡が上がり込んでくる。於菟二は起き上がって蚊帳の一隅を開けると、団扇で追い追い、螢を内に招き入れた。
「蚊が入るぞ」
「ちっとまだったから、大したこたぁありやせんよ。ごらんなせぇ、風流じゃありやせんか」
二、三匹の蛍が蚊帳の中を舞う様(さま)は、於菟二の言うように風流だった。帯刀は「悪くない」と同意する。
その答えに於菟二が満足げに笑んでいる様子を、闇に慣れた目が捉えた。立てた片膝に肘をつき、細い顎を乗せると言ういつもの居住まいも薄らとわかる。もう片方の手で団扇を揺らし、起こった風が帯刀にも届いて汗を冷やした。蒸す夜ではあるが、汗の源はそればかりではなく、先ほどまでの房事の名残でもある。
二人がそう言う間柄になって半年近くが経っていた。今宵で何度目の逢瀬か、とっくに十指は折っていよう。
出会いと二度目は待合の小部屋を使ったが、三度目以降は帯刀の別宅であるこの一軒屋に場が移っていた。縁側で寝んでいたところに、「たまたま」於菟二が通りかかって住いと知れたからだ。
名賀浦奉行佐竹筑前守の内与力として役宅を与えられているにも関わらず、赴任してほどなく帯刀はここを借りた。もちろん逢引きに使うためではない。公とは別に帯刀に課せられた――そちらこそ本来の――役目には、市井の町屋の方が何かと都合が良かった。しかし今はもっぱら於菟二と過ごすためにだけ使っている。それと言うのも、於菟二がいつふらりと現れるか、否、常に帯刀を見張っているゆえだ。
廻り髪結の於菟二の実の顔は公儀の草である。『筑前守の懐刀、野田帯刀』の動向を探ることが役目らしいと、子飼いの密偵に探らせて知っていた。たかが下っ端の遣い草、始末は容易いが見張られるだけであれば害はない。江戸表との繋ぎの場所は別に作ればよい話だ。
帯刀は遠ざけていた煙管盆を枕元まで引き寄せ、一服つけた。螢のそれとは違う赤い光が、これもまた闇に浮かんだ。
立ち昇る紫煙の行方を、於菟二が団扇の風で螢とは反対の方向にさりげなく変える。存外、この於菟二と言う男は優しい心根である。帯刀がなぜか遠ざけもせず、黙って見張らせておく理由の一つかも知れない。
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「螢が好きなのか?」
飽きもせず螢を目で追う於菟二に、帯刀は尋ねた。
「生まれ育ったところが山間(やまあい)で、夏になると螢が飛んだんでね、それを思い出すんでさ」
「生まれは名賀浦と聞いたが?」
名賀浦は三方を山に囲まれてはいるが、陸地を大きく抉る入り江を中心にして、船での商いで栄えてきた。名が示す通り海の土地柄の印象が強い。
「ここから三里も行けば山ですよ」
於菟二はしらと答えを返す。それから再び庭に目をやった。
「旦那、『螢川』って知ってやすか?」
「螢川?」
「いっぺえの螢が群れて、流れる川のようになって移動する様でさ」
帯刀の方に向き直り、団扇を動かした。
「ほう?」
「めったと見られないらしいんですがね、おいらはガキん頃にいっぺんだけ見たことがあるんで。今夜みてえに月が朧で、雨上がりで、かなり蒸した。ふた親と妹とで夕涼みに出て小さな谷の側を通ったら、ぱあっと一斉に螢が舞いあがって、光の川のようになって谷の下手にざざっとね。そりゃあきれいなもんだった。はじめ螢と思わなくて、あいつぁなんだと親父に尋ねると、『ありゃあ、螢だ。珍しい。螢川を見られるなんて』って」
「ここもなかなかの数だがな」
「こんなもんじゃありやせんよ。大げさかも知れねぇけど、ガキの目には昼間のようだった。親父もおふくろもおいらたち同様はしゃいでね、しばらく螢川の後をみんなしてついて歩きましたよ。螢をみるとそん時のことをいっつも思い出すんでさ」
しばし黙って於菟二はまた庭を見ていた。知らず知らずに団扇の動きが止まる。親きょうだいに思いを馳せているのだろうか。
調べでは、於菟二は二親を一時(いちどき)に亡くしている。齢十二、身寄りはと言えば七つになったばかりの妹。その後すぐに盗賊の一味に拾われた。頭をはじめ一味郎党が獄門台に送られ、格別の恩赦を賜って公儀の草となるまで、於菟二は盗人として生きてきた。その暮らしがどのようなものだったか想像は難しいが、これだけの器量と帯刀に対する床あしらいを見るに、子供らしい暮らしではなかったろうと察する。
螢川を見た時のことは珍しい現象と相まって、早くに死に別れた二親との、数少ない記憶なのだろう。そしてこれまで交わした虚実ないまぜの睦言の中で、真と言って良い事柄ではないのか。それを思うと、柄にもなく帯刀の胸の奥に熱が生まれる。
帯刀は煙草の火を煙管盆に落とし込んだ。その音で於菟二は此岸に戻ったようだ。ただ思い出の中への刹那の埋没は不本意だったらしい。団扇の動きが多少なりとも早くなった。
於菟二の焦りが稚く、帯刀の口元が綻ぶ。目が慣れたとは言えこの暗さでは、それな表情の動きがわかろうはずもないが、於菟二は「何を笑ってらっしゃるんで?」と訝った。
「笑ってはおらぬよ」
「いや、笑っていなすった」
ぽいと団扇を放り投げ、於菟二は帯刀の顔を覗き込む近さに寄った。帯刀の口の端をつまみ、「ここが緩んでおりやすよ」と軽くひねる。
吐息がかかるほどに近づいた於菟二の口は実に艶かしい。この態で、この口を吸わないのは野暮と言うものだ。帯刀が於菟二のうなじに手を伸ばし、今しも引き寄せようとした――が。
「そろそろ螢を出してやらなけりゃ」
於菟二は身体を起こし、上を見上げた。
見ると飛ぶのに疲れたのか、螢が蚊帳に止まっている。於菟二がそっと立ち上がり、一匹ずつ柔らかく手で囲って蚊帳の外に出した。
寸でのところで逃げられた形になった帯刀だが、もとより本気で口を吸うつもりはなかった。
幾度にも及ぶ房事で、いまだに二人は唇を重ねてはいない。
於菟二は敵方の草である。得体の知れないものを仕込んでくるかもしれない。於菟二も誘う素振りをする割には、帯刀が応じる気配を見せると、何気なさを装って躱した。正体の知れているを考えてか、あるいは盗賊一味の中で生き抜くうちに身に付いた、己を守る術なのか。いずれにせよ用心には違いなく、それは二人の間柄の複雑さを示している。
帯刀は手を伸ばした。螢をすべて放ち終えて行方を見送る於菟二の足に触れる。踵から足首、脹脛、届く辺りまで手を這わせてやると、その意図を感じ取ったのか於菟二は帯刀の腕の中に戻ってきた。
体を入れ替え、すぐさま於菟二の足を割り広げる。
「旦那も好きだなぁ」
眼下の於菟二は笑ったが、身体は正直に昂っている。帯刀の熱い手が腿の辺りを撫で摩ると、於菟二は喉を反らせて、くくと鳴いた。
「夜はまだ序の口だ」
於菟二の細い首に露になった喉仏を、口の代わりに帯刀は吸った。
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