――いつか『恋』と知る時に――



(8) そして 



 壽一の婚約を、雅樹は母からの電話で知った。相手の女性は壽一とエスカレーター式私立の幼稚舎から大学まで、同級で過ごした言わば幼馴染とのことだ。財務官僚の父親と料理研究家の母親、そして母方の祖父は常に政界の中枢にいる実力者で、家柄的には申し分ないと言う。「ついに来たか」と雅樹は思った。
 壽一との関係をいつまでも続けられないとわかっている。物事には潮時があり、今回の件がそうなのかも知れない。壽一にはすべきことがある――八年前と同じ状況だ。
(八年前と同じ…か)
 八年前も壽一の為を考えてのことだった。あの時は躊躇いなどなかった。失うだけだと覚悟の上だったからだ。しかし今回は一時的にせよ得たものがある。いずれは失うとわかっていても、手放すとなると辛いものだなと、雅樹はぼんやりと思った。
 両家が九月にでも挙式させたい意向だと聞き、身の引き際は今だと知りながらズルズルと時間を消費していた雅樹に、威一郎から呼び出しがかかったのは盆明け直後だった。
 某社との契約改定の追加部分を確認したいと言う要件だったが、出向いてみてそれが口実だとわかった。メールのやり取りで済ませる程度のことだったからだ。そしてすぐに同席した秘書を下がらせたところを見ると、プライベートな話なのだと察した。
「まったく、あいつにも困ったものだ」
 コーヒーを運んできた社員も下がり、完全に二人きりになってから威一郎は口を開いた。
「壽一のことだ。一昨日、先方との挨拶をすっぽかしてな」
「先方?」
「斎川家だ。壽一の結婚相手が決まったことは聞いているか?」
 雅樹は母から聞いたと答えた。
「なんだ、本人からは聞いていないのか? 帰国してから時々会っているようなのに」
 心臓がドクンとなった。鼓動が一挙に早く強くなり、表情にまで響いてくるようだ。威一郎の言葉に他意はなく、話の入口に過ぎない。雅樹はコーヒー・カップに手を伸ばすことで、鼓動の音から自分自身の気を逸らした。
 一昨日の日曜日、双方の両親と本人達は正式に挨拶を交わすことになっていたと威一郎は続けた。両家はその席で結納と挙式の日取りを決めるつもりだったのだが、実家での待ち合わせ時間に壽一は姿を現さなかったらしい。先方にはひどい夏風邪に罹り、妊婦に移しては大変だからと言って、何とかやり過ごしたと威一郎は憮然として言った。
 壽一は金曜の夜から月曜の早朝まで雅樹のマンションにいた。そんな大事な予定があるとは一言も言わず、婚約の話さえ出なかった。
 いや、それよりも。
「妊婦?」
「実は斎川のお嬢さん、茉莉絵さんと言うんだが、妊娠しているんだ」
 そう言って威一郎は溜息をついた。
 壽一はともかく、母は雅樹に相手の妊娠の件は言わなかった。
 挙式は九月頃を予定していると聞いた時、やけに急ぐなとは思ったが、そう言う理由があったのか。とすると壽一は、斎川茉莉絵とも関係を持っていたことになる。
 三月に帰国してからか、それとも彼女とは向こうでも会っていたのか。
(ああ、やっぱり、俺とのことはゲームだったんだな)
 雅樹は自嘲気味に笑った――まだ期待していたのかと。
「壽一には誰か好きな相手でもいるのか?」
 自分の思考にはまり込んでいた雅樹の耳に、威一郎の良く響く低い声が入る。雅樹はゆっくりと目線を上げ、彼を見た。
「見合いをしないばかりか、茉莉絵さんとのことも乗り気ではなくてな。確かに遊びで失敗したバツの悪さはあるだろうが、自分の立場はわかっているはずだ。他に好いた女性でもいるんじゃないのか?」
「壽一からそんな話は聞いたことがありません」
「そうか。仲の良いおまえになら、何か話しているんじゃないかと思ったんだが。一昨日のことを問い質したら、風邪を引いて寝込んでいて電話が鳴ったことに気づかなかった、連絡しなければと気づいた時にはもう陽が暮れていた、と丸わかりの嘘をつく始末だ。まったく、可愛げのない」
 週末にはたいてい威一郎絡みの予定が入っているので、壽一が雅樹の元に訪れるのは平日か金曜の夜がほとんどだった。珍しく土日もいるので、「今週は予定はないのか」と尋ねると、「ない」とはっきりした口調で答えが返ったことを覚えている。
「そうなるとやはり、調べさせるしかないか」
 威一郎はコーヒーを啜りながら言った。
「調べさせる?」
「あいつの身辺をだ。ただわがままを言っているだけなのか、好きな相手がいるのか。もし別の相手がいるなら、諦めさせる」
 雅樹は血の気の引く思いがした。今度こそ、表情に出てしまいそうだった。
 威一郎は興信所を使って、壽一の身辺を調べると言っているのだ。鷲尾ほどの企業が使うところは有能だ。壽一の行動を調べるなど容易い。そして雅樹と時々ではなく頻繁に会っていることを知るだろう。傍目から見れば仲の良い兄弟と映るので、隠す必要がない。会うのはどちらかのマンションであるし、ただ食事をし、仕事の愚痴なりをこぼし合っていると言えば、変に勘ぐられることもない。
 問題は、身辺調査が雅樹に及ぶことだった。
 雅樹の性指向の対象は同性だった。はっきりと自覚したのは八年前の壽一との一件。それまでは気になる相手、つまり壽一がたまたま男だっただけだと思っていたのだが、彼と肉体的な関係を持ってしまってからは、自分は女性とは「ダメ」なのだと悟った。以来、性的に気持ちが昂った時は、その手の街をうろついたこともあったし、全く色断ちをしていたわけではない。
 今まで雅樹に対する信用と本人の用心深さから知られていないだけで、調べられれば簡単にわかってしまうだろう。雅樹がゲイとわかれば、壽一が見合いも結婚も乗り気でないことと二人が頻繁に会っていることを照らし合わせ、調査員は可能性の一つとして報告を上げるかも知れない。そうなれば当然、引き離される。会うことすら、許されなくなる。
「雅樹?」
 威一郎に名前を呼ばれ、顔を上げる。
「どうかしたのか?」
「あ、いえ、何でもありません。続けてください」
 とは言ったものの、それまでの威一郎の話はほとんど雅樹の頭に入っていなかった。
「私も息子の身辺調査などしたくない。雅樹、おまえからもこの結婚に前向きになるよう、言ってやってくれないか」
「お義父さん」
「おまえ達は昔から仲が良かった。少しは聞く耳を持つだろう」
(本当に、潮時だな…)
 壽一が欲するあの言葉を自分が言わないばかりに、壽一の立場や、威一郎の壽一に対する心証が悪くなる。雅樹が一言言えば済むことなのだ。
 初めから先は見えていた。本気になったところで叶うことのない想いだった。それならせめて、仕事の上だけでも壽一と繋がりを持っていたい。
「わかりました。話してみます」
 雅樹がそう答えると、威一郎は満足気に頷いた。
 




 
 
 
 壽一の部屋の合鍵は早々に渡されていたが、雅樹は使ったことがない。使う必要がなかったと言うべきだろう。壽一のマンションには、まず外で食事を済ませてから一緒に来るからだ。雅樹のところでは料理をする壽一だが、自宅ではコーヒーを淹れるくらいでしかキッチンを使わなかった。理由を尋ねると、自分名義のマンションを買うまでの仮住まいなので、汚したくないのだと言う。
「『あれを汚すな、これを汚すな』って、いろいろ細けえんだよ、あの親父」
 そう言った時の壽一の顔は幼い頃と変わらず、思い出すと雅樹の頬が緩む。
 一階のエントランス・ドアの前でポケットから鍵を取り出した。今日、初めて使う。そしておそらく最後になるだろう。鍵を差し込み教えられた暗証番号を入力して扉を開け、エレベーターで二十階に上がった。
 玄関に入ると涼やかな空気が雅樹を包む。帰宅時間に合わせてエアコンのタイマーがセットされているらしい。ただ部屋の主は盆休み明けで仕事が立て込んでいるのか、戻っていなかった。
 義父・威一郎お気に入りの大きなソファに腰を下ろし、寝そべるようにして背をもたせ掛ける。
 初めてここに来た夜、このソファでセックスした。押し倒されて、八年ぶりに壽一を目の前にした時、雅樹は心が震えたことを覚えている。屈辱とも怖れとも違う。自分はまだ壽一にとって、そう言う対象になりうるのだと言う悦び――口では「やめろ」と言いながら、気持ちはとっくに壽一に許していた。
 幾度となく夜を過ごす中、どれだけ彼の肩に腕を回したかったか、どれだけ欲情する彼自身に、指図されるのではなく触れたかったか。
 我がままで合理的、残酷なほど人を突き放すかと思えば義理堅く、人に対して率直で馴れ合わない代わり差別もしない。欲しいものを手に入れる為の努力を惜しまず、手に入れてしまえば途端に興味を失う。短所とも言えるが、努力することを厭わない我慢強さと言う点において長所でもあった。
 人としての『緩急』が壽一の魅力と言える。そして概ね『緩』が効果的に発動され、周りを惹きつけて止まないのだ。
 母がやんちゃな義理の息子を愛でるように、雅樹もまた血の繋がらない弟を愛していた。一人っ子の鍵っ子できょうだいがいたらと思い始めた時に母の再婚が決まり、弟が出来ると知って嬉しかった。それは早くに母親を亡くし、広い家に多忙で留守がちな父と、使用人と言う他人に囲まれて育った壽一も同様だったらしく、継母・継兄(まませ)のハードルを顔合わせの瞬間から飛び越える。利かんきで母や雅樹を困らせることが少なからずあったが、裏を返せば他人ような遠慮がなかったと言うことだ。
 壽一を弟として以外の感情で意識したのは、雅樹が大学一年、彼が中等部三年の夏休み。大学のサークル活動からの帰途、街中で偶然壽一を見かけた。彼は同級生らしい女の子と並んで歩いていた。壽一はともかく相手の方は嬉しそうで、よく見ると腕をからませている。壽一が勉強や遊びで家に連れてくるグループの中に、必ず数人の女子の姿はあったが、二人きりで歩く姿を見るのは初めてだった。心なしか壽一の表情が柔らかくも見え、意外に思ったことがきっかけだったかも知れない。
 異性と歩く姿が様になって、友達同士ではなく、未成熟ながらちゃんと男女のカップルに見える。近くまで来て壽一も雅樹だと気づいた。「彼女?」と尋ねると、「違ぇよ」と言って彼女の腕を振りほどく。目の前にしてあらためて見た壽一は、いつの間にか大人びた顔つきや体型になっていた。頭一つあった身長差は目の先にまでに縮まり、骨格も少年期から青年期に変わりつつあった。分かれてから振り返って彼らを見ると、また腕は組まれていた。壽一もそんな年頃になったのかと思った時、胸の中にざわつくものを感じた。
 それからだ。壽一の元を訪れる異性の姿を気にするようになったのは。気を付けて見ていると、壽一は文字通り「とっかえひっかえ」状態でガールフレンドを連れてきた。部屋ではおそらく勉強以外のことをしていただろう。帰り際の彼女達はたいてい、少女ではなく「女」の顔をしていた。そんな彼女達を見るたび、胸のざわつきは一層ひどくなった。
「ごめんね。だって久能君、私のこと友達としか見てないでしょう? 他に好きな人がいるみたい」
 大学のサークル活動で知り合い、交際していた当時の彼女はそう言って雅樹から離れて行った。「他に好きな人が」と言われて思い浮かんだのが、壽一だった時のショックと言ったら、自分はゲイかも知れないと思うこと以上だった。
(弟だと思っていたのに)
 奔放に周囲を振り回すことが多かった少年が男の顔を見せた途端、雅樹にとって弟ではなくなり、本人も知らずに来た「自分自身」を知ることになった。
 壽一が大学に進学した頃から、雅樹に対して興味を示し始めたのは、もしかしたら雅樹が胸に秘めながらも望んだことに、感応したからかも知れない。
(誘っていたのかな、俺)
 壽一の性格上、避ければ避けるほど追ってくることが雅樹にはわかっていた。それを知りながら彼を避け続けたのは、無意識に誘っていたのではないか。いつか壽一が行動を起こすとどこかで期待しながら――一言言えば済む今の関係を、ズルズルと続けているのと同様に。
 壽一が帰国して再会した日の夜、もう一人の「自分」が雅樹に問いかけた。関心を失わせるためだけに、割り切って彼のしたいようにさせたのかと。
 あの夜は答えられなかったが、今は言える。
(俺は…、ジュイチが欲しかったんだ。たとえ一回きりでも、あいつに触れたかった。だから、)
 玄関ドアが開く音がした。マンション入り口のエントランス・チャイムが鳴らなかったので、壽一本人が戻ったのだとわかる。
 大股で廊下を歩く音がし、ほどなくリビングのガラス格子のドアが引き開けられた。
(だから、ジュイチの性格を利用したんだ)
 入って来た壽一は、呆れたように雅樹を見る。時間はいつの間にか午後十一時に迫っていた。考え事をしていたせいか、それほど長く待った気はしない。
 身体を起こして座り直し、目の前に立つ壽一を見上げた。
「来るなら連絡しろよ」
(自分はいつも予告なしで来るくせに)
 雅樹は思わず笑みを漏らした。
「何だ?」
「何でもない。鍵をもらっていたから勝手に入った、ごめん」
「謝る必要ないだろ? 俺だって勝手に雅樹んちに行くんだから」
 一応は自覚があるのかと思うと、またおかしくなった。
「それで、どう言う風の吹き回しだ?」
 壽一は自分のネクタイを引き抜いて、雅樹の隣に腰を下ろした。ふわりとコロンの匂いが流れてくる。
「そうだな、会いたかったからかな」
 雅樹の答えに、壽一の眉間に皺が寄る。彼にとっては意外な答えだったろう。
「本当だ。会いたかった。それだけ」
 そう言って雅樹は微笑んだ。
 
 




 
 
 好キダ――



                       

(7)  top  (9)