――いつか『恋』と知る時に――



(9) 動物園



「まあ、雅樹、どうしたの?」
 玄関で母の早紀子は、少なからず驚いた声で雅樹を出迎えた。大学卒業後に独り暮らしを始めて以来、雅樹が実家に戻るのは、盆や正月、慶弔事などの特別な折に限られていた。今日は何の行事もない五月の週末である。雅樹は「近くで打ち合わせがあったから」と前置きをしたが、それなりに理由があった。
「お義父さんの具合はどうなんです?」
「それでわざわざ? 大したことないのよ」
 前夜、義父・威一郎が転んでケガをしたと知らされたからである。電話をしてきたのは早紀子なのだが、目の前の彼女の様子で本当に大したケガではないのだとわかり、ひとまず安堵する。
 縁側の廊下を威一郎の居室へと先導しながら、早紀子がケガの状況を簡単に説明してくれた。経団連の会合から帰宅して降車した際に、足首を捻ったとのことだった。
「甲の外側に小さなヒビが入った程度でね、ギプスはしなくても良いらしいのだけど、でもお義父さんったらすぐ動こうとなさるから、お医者さんが『少し固定しましょう』って仰ってね」
 その時の様子を思い出したのか、早紀子が可笑しそうに笑った。診察室でのやりとりが想像され、雅樹もつられて笑んだ。
 話しを聞きながらふと庭に転じた雅樹の目は、池の淵で黒いラブラドールと並んでしゃがむ子供の姿をとらえた。この家で子供と言えば、壽一の長男で今年八才になる奏一だろう。早紀子に「あれは奏一?」と尋ねると、
「そうなの。茉莉絵さんは今、お仕事でヨーロッパに出かけているから」
と答えた。
 壽一の妻・茉莉絵は奏一を出産後体調が戻ると、輸入品を扱う事業を立ち上げた。代官山にブティックを構え、通販用のサイトも運営している。ただし店もサイトもスタッフに任せきりで、彼女は買い付けを口実に、海外を頻繁に往復して留守がちだった。
 夫婦は結婚直後からほぼ別居状態にあるので、彼女の留守中、奏一は双方の実家に預けられたが、ほとんど鷲尾家の方で見ている。財務省事務方トップだった茉莉絵の実父は、退官後に取締役の一人として鷲尾のグループ企業に勤務し、著名な料理研究家である実母は、料理教室やメディア露出で忙しくしていた。
 威一郎と再婚するまで小学校教諭をしていた早紀子は子供の扱いに慣れていて、奏一も懐いていた。それを理由にし斎川家が子守を押し付けている感は否めないが、早紀子自身が生活に張りを見出しているようなので、今のところ波風は立っていない。
 それに奏一はゆくゆく威一郎や壽一の後を継ぐ鷲尾家の跡取り。幼い頃から見合った教育を受けさせる必要がある。両親との生活感は希薄だが、環境的には恵まれていると言えた。
(でもやっぱり、寂しいのかも知れない)
 父を早くに亡くし、母が帰宅するまで学童保育などで放課後を過ごした小学生の頃の自分を雅樹は思い出す。奏一の小さな背中に寂しさを見ながら、縁側から続く威一郎の居室の敷居をまたいだ。
「あなた、雅樹が」
 威一郎は早紀子の後ろに雅樹の姿を見とめると、読んでいた新聞を置き、老眼鏡を外した。
 一人掛けのソファにゆったりと腰をかけた威一郎は、一見、どこも悪く見えなかったが、目を足に転じると、左足首はギプスこそ施されていないものの、湿布や包帯で固定されて痛々しげに膨らんでいる。
「わざわざ来てくれたのか、すまんな」
「いえ、それより大丈夫なんですか? さっき母さんからは軽いように聞きましたが」
 威一郎が席を勧めたので、雅樹は向かいのソファに腰かけた。
「医者が大げさなんだよ。歩けないわけじゃないし、じっとしていればそれほど痛くないんだ。まあ、痛いのは自尊心でね。何でもないところで挫くなんて、自分では若いと思っていても、足元は年相応に覚束ないじゃないかって、少々落ち込んどるところだ」
 威一郎は苦笑した。
「ひびで済んで良かったですよ。それだけ骨が丈夫だと言うことでしょう? 完全に折れてしまう人もいるでしょうから」
「うむ、その点は医者にも褒められた。私くらいの年齢だとちょっと手をついただけでも骨折する人が多いってね」
 威一郎は、今度は自慢げに笑った。
「ケガをしたのが昨日だったのは不幸中の幸いでしたね? 土日は会社も休みだしゆっくり出来る。もしかしてゴルフの予定でもありましたか?」
「それは代わりに壽一を行かせることにした。プライベートの集まりだが、顔を売っておくにこしたことがない顔ぶれだからな。ただ、奏一には申し訳なくてなぁ」
 今日土曜日は奏一と動物園に行く予定だったと言う。動物好きの奏一は、それは楽しみにしていて、威一郎に急な仕事が入っていないかと、三日と空けずに尋ねたらしい。多忙な祖父には『前科』が二度ほどあったので、心配だったのだろう。奏一のその心配は、当たってしまった。
「今年はゴールデンウィークも、ろくに付き合ってやれなかったからな」
「私が代わりに行けたらいいんだけど、お父さんがこの通りではね」
「一人でも大丈夫だぞ、上尾さんや大野さんもいるし」
 威一郎は通いの家政婦達の名前を出したが、早紀子はにこにこと笑って返しはしなかった。社内のことには精通し、グループの動向を常に気を配り運営している威一郎が、自宅ではまったく役に立たず、早紀子に頼りっきりなのを知っている雅樹は、彼女の柔らかな笑みの意味がわかっていた。
 雅樹は庭を見た。奏一が池から離れ、先ほどのラブラドールに「ボール取って来い」をしている。自分を見ている視線に気付き彼が手を振ったので、雅樹は振り返した。
 大企業の次々代の後継者として、何不自由ない生活を送っている奏一であったが、家庭と言う点においては、クラスメイトより恵まれているのかどうか。両親は家庭内別居の状態である上にそれぞれ忙しく、長期休暇に家族団らんで国内外の旅行や娯楽施設に出かける率は、クラスメイトに比べて格段に低かった。現役並みの働きをしている祖父母についても同様である。
「明日、僕が奏一を動物園に連れて行きますよ」
 犬を追いかけて無邪気に走る奏一を見ながら、雅樹が言った。
「でもせっかくのお休みでしょう?」
「今、それほど難しい案件は抱えていないし、休みも籠るばかりじゃなく、たまには外に出かけないと」
 雅樹は奏一に声をかけた。犬と一緒に駆け寄り、縁側から上がって傍に立つ。
「明日、僕と動物園に行こうか?」
「本当?!」
 雅樹の申し出に奏一の表情が明るくなった。
「雅樹おじさん、明日は何もないお休みなんですって。奏ちゃんは明日何かあった?」
「ない! もう宿題もやったし!」
「じゃあ、朝から行けるね。おばあちゃんにお弁当を作ってもらおう」
「うん! 卵焼き入れてね、甘いヤツ!」
 頬を紅潮させて奏一は早紀子に言った。
「はいはい、奏ちゃんの好きなもの、いっぱい入れましょうね。やっぱり親子ねぇ。壽一さんも甘い卵焼き好きだったから」
 小中学校の遠足や運動会には、早紀子自らが必ず壽一の弁当を用意した。甘い卵焼きは欠かせないアイテムで、普段も時々、壽一は佐喜子に作ってもらっていたことを雅樹は思い出した。
「雅樹は? 何かリクエストはないの?」
「奏一の好きなものばかりにしてやって。僕は適当につまむから」
「奏ちゃんは椎茸の肉詰めが好きだから入れておくけど、あなた、食べられるの?」
「母さん、いくつだと思ってるの。大人なんだから椎茸くらい食べられるよ」
 雅樹の答えに居合わせた三人は笑う。縁側から中の様子を覗き見するラブラドールが、湧き上がった笑い声に愛らしく首を傾げていた。
 
 


 日曜日の動物園は天気が良いこともあり、家族連れで賑わっている。雅樹と奏一も傍目からは父子に見えるだろうが、「本物」ではない。両親に手を引かれた子供の姿を見て、奏一が落ち込みはしないかと雅樹は心配した。しかし奏一は別段気にする様子もなく、「次はあれを見に行こう」「今度はあっち」と動物園を満喫している。
「走ると危ないよ」
「平気!」
 奏一は元気に声を上げて、雅樹の歩みを促す。
 奏一は雅樹が初めて出会った九才の壽一と瓜二つだったが、性格は正反対と言えるほどに違っている。引っ込み思案で大人しく我慢強かった。どちらかと言えば性格は雅樹に近く、忙しい茉莉絵に代わり早紀子が育てたようなものなので、自然と似たのかも知れない。
 が「もしくは」と、雅樹は思う。結婚しても別居状態だった壽一と茉莉絵は、奏一の誕生を機に一応は同居するが、壽一は寝に帰るだけだった。さすがに子供の眼前で夫婦喧嘩をしないだろうが――と言うより、奏一が起きている時間に壽一が帰らないから見せようがない――、両親の冷めた空気を子供は敏感に感じ取るものだ。甘えがたい雰囲気に委縮して性格が形成されたのではないか。そう危惧していただけに、年相応にはしゃぐ奏一の様子に、雅樹は少なからず安心した。
「サイの角って骨じゃないんだ。毛とか爪とかと同じものなんだよ。それにね、『森の消防士』って呼ばれてるの。火を見ると足で消すんだって」(脚注1)
 見て回る動物の前で、奏一は都度、雅樹に知っている薀蓄を披露した。すぐに次の動物のところへ意識を移す他の子供達とは違い、熱心に説明のボードを読み、持参したスケッチブックに気になったことを写したり絵に描いたりする。
「奏ちゃんはよく知っているね」
「僕、大きくなったら動物のお医者さんになるんだ。どんな動物も治すお医者さんだよ。だからね、今から勉強してるの」
「そっか、偉いね」
 鷲尾物産の後継者であるかぎり、奏一のその夢は叶わない。今後、兄弟が出来れば可能性が無きにしも非ずだが、あの夫婦の間ではそれも望み薄だろう。
 壽一の時は威一郎の後継者教育が徹底していて、それ以外の選択肢を与えなかった。壽一本人も自分の立場を理解し、小学生の頃でも将来何になりたいかを、その口から雅樹は聞いたことがない。しかし奏一は屈託なく将来の夢を語る。
(子供と孫じゃ、また違うのかな)
 と、胸ポケットに入れた携帯電話が震えた。画面を見ると、「鷲尾壽一」と表示されている。雅樹は目を瞠った。
 茉莉絵との結婚話が出て関係を絶って以来、壽一とは仕事以外で顔を合わせていない。彼から雅樹に、直接電話がかかってこなくなった。奏一の年齢とほぼ同じ年月ぶりになるだろう。
「奏ちゃん、ちょっと待ってて。もしもし?」
“俺だ”
 少し掠れ気味の深い声音。仕事用ではない壽一のそれが、雅樹の耳の中を通り抜けた。
「ジュイチ」
“今、どの辺にいるんだ?”
「え?」
“動物園にいるんだろう? 違うのか?”
「そうだけど、なぜ?」
“動物園の近くまで来てるんだ。今からそこに行くから、場所を教えろ”
 壽一は今日、威一郎の代わりにゴルフに行っているはずだった。時間はまもなく午後二時。朝一番のラウンドスタートだとしても、終わるには早過ぎる。
「今日はゴルフじゃ」
“もう終わった”
 そう素気無く言うと壽一は、もう一度雅樹達の位置を尋ねた。キリン・カバエリアでサイを見ていると伝えると、「そこにいろ」と言って電話は切れた。
 雅樹はしばらく電話の画面を見つめた。
(ジュイチが、来る?)
 つんつんと上着が引かれ目線をやると、奏一が小首を傾げて見上げていた。
「ああ、奏ちゃん、今からジュ、お父さんが来るって」
「お父さんが?」
「もう近くまで来ているんだって」
 奏一は戸惑ったような表情を浮かべた。すぐには意味がわからなかったらしい。大人がゴルフに出かけると、たいてい夕方遅くまで戻らないと幼いながらも知っている。昼食用の弁当を食べてさほど時間が経っていない今頃に、ゴルフに行ったはずの父親が動物園に来ると聞かされても、ピンと来ないのだろう。「本当に?」と聞き返したのに対し雅樹が頷くと、奏一は嬉しそうに笑った。
 近くまで来ているとは言え、どの程度近くなのかわからなかったので、サイ舎近辺の動物を見て回ろうとしたが、奏一はサイ舎の近くから離れたがらなかった。壽一が来てわからなかったら困ると思っているのだ。普段、ほとんど一緒に過ごす時間がなくとも、子供にとっては慕わしい父親であるのか。それとも雅樹が知らないだけで、奏一といる時、壽一は父親らしい面を見せているのだろうか。
(あまり想像出来ないな)
 二十分ほどして壽一の姿が見え、奏一が気づいた。壽一も二人を見つけ、まっすぐ近づいてくる。脱いだ上着を肩から下げ、大股で颯爽と歩く彼の姿は人目を引いた。スーツ姿以外の壽一を見るのは久しぶりで、雅樹は緊張した。
「早かったんだな」
「池之端から入ってきた」
 電話の後、車を近くにある取引先の駐車場に預け、最短距離を選んできたらしい。
 二人の会話は、その二言で一旦途切れた。社交辞令を交わすほど他人ではなく、かと言って兄弟らしく親しげに話すには、年月と複雑な関係性が邪魔をする。
「で、どこからだ?」
 次に言葉を発したのは壽一だった。一瞬、黙り込んだ雅樹は目の焦点を壽一に合わせた。
「え?」
「サイはもう見たんだろう? どっちに回る?」
 それに答えたのは奏一である。但し言葉ではなく、「こっち」とでも言うように壽一のズボンのポケット辺りを引いた。
 壽一は奏一と並んで歩き始める。雅樹は半歩後ろに下がっていた。こう言う機会は滅多にないはずだ。
(出来れば二人だけにしてやりたいけど)
 そんな雅樹の思いなどお見通しとばかりに、壽一が振り返る。「帰るなよ」と言っているように雅樹には見えた。奏一も後ろに下がった雅樹を振り返り、手を伸ばした。大小の「同じ顔」に見られて、雅樹は苦笑する。どちらも表情の差こそあれ、不安げに見えなくもない。雅樹は奏一の手を取り、隣に並んだ。
 不安げに見えたのはあながち思い過ごしではなく、親子はどこか他人行儀だった。おそらくこうして一緒に出かけたことはほとんどない上に、親子の会話も少ない家庭環境であれば仕方がない。壽一は子供との接し方が、そして奏一は普段構ってもらえない父親にどう甘えていいか、それぞれわからず戸惑っている。会話が雅樹を介してとなるのは自然のなりゆきだった。
「奏ちゃん、僕に教えてくれたように、お父さんにも色々教えてあげてよ」
 せっかくの機会をこんな状態で終わらせるのはどうなのかと思った雅樹は、奏一に提案した。壽一がその言葉に「奏一は物知りなのか?」と反応する。
「よく知っているよ。絵も上手なんだ。スケッチブックを見せてあげたら?」
 奏一はリュックサックからスケッチブックを取り出し、壽一に開いて見せた。動物園に来てから書きとめた絵や文章を見て、壽一が関心する。
「すごいな」
 父親に褒められて奏一は満面に笑みを浮かべた。それから一つ一つ絵を見せながら説明を始める。壽一が特に興味を示すと、その動物をまた見に行こうとせがんだ。
 一度打ち解けると親子の距離は急激に縮まった。壽一は意外と子煩悩なのかも知れない。人が多くて見づらい場所では肩車をしてやったり、話を聞く時は子供の目線に合わせて屈んでやったりする。大人に対しては尊大な態度や物言いをするくせに、奏一には時折笑顔を見せた。子供相手に仏頂面は壽一もしないだろうが、それもまた雅樹には意外に映ったので
「子供は嫌いだと思っていた」
素直な感想として口をついて出た。対して壽一は口をへの字に曲げた。
「子供は苦手だ」
「でも奏一は別なんだ? やっぱり自分の子は違うだろう?」
 アイスクリームの売店を見つけて、奏一が食べたそうにしていることに気付いた壽一は、小銭を渡して買いに行かせた。
「義母さんが育てているせいか、奏一は雅樹に似てるな」
「あれくらいの時の俺を知らないくせに。それなりにやんちゃだったぞ」
「俺と比べたらやんちゃの類に入らないだろ?」
 雅樹は九才の壽一を思い出し、「確かに」と笑った。そんな自分をジッと壽一が見つめるので、面食らって視線を外す。
「先に帰るよ」
 売店に奏一がアイスクリームを買いに行った隙に、雅樹は言った。
「何言ってる」
「二人きりの方が良いだろう?」
「俺だけじゃどう扱って良いかわからないじゃないか。却下だ、却下」
 手に二つアイスクリームを持って奏一が戻った。一つを雅樹に渡したが、頼んでいない。
「好きだろ、ここのアイス」
 壽一はそう言って奏一と手を繋ぎ、次の動物舎へと歩き始めた。
 雅樹がこの動物園に来たのは、母の再婚間もない頃だった。今日と同じように弁当を持ち、早紀子と雅樹と壽一の三人で来たのだ。その時、ここのアイスクリームを食べた。好きだと言ったかどうか。食べたことも言われるまで雅樹は忘れていた。一緒に来たのはそれ一度きりで、そんな昔のことを壽一は覚えていたとは――それを思うとくすぐったい感情が雅樹の胸に広がった。
 


 
 陽が傾き、閉演時間が迫った午後五時前、三人は動物園を後にした。
 帰りは鷲尾家お抱えのハイヤーが迎えに来る手筈だったが、壽一の車に乗り合わせて帰ることになり、その旨を雅樹が連絡すると電話を受けた早紀子は驚いていた。当然、ゴルフに行っているものと思っていたからだ。午後二時から一緒だったとは言わずにおいた。帰れば奏一の口から知れるだろうが、言い訳は壽一本人にまかせた方がいいと雅樹は考えた。
 十時頃から閉園時間までの長い時間を過ごしたので、奏一は後部座席に乗り込むなり、電池が切れたかのように眠ってしまった。今まで鎹の役割をしていた子供が眠ってしまうと、何を喋っていいかわからず、大人二人は黙り込む。壽一はどうか知れないが、雅樹は居心地が悪かった。
 そんな時、携帯電話がメールを受信して短く震えた。相手は諏訪義人からだった――目下、雅樹とは友達以上恋人未満の間柄の歯科医だ。今週末は歯科医学会で関西に出張していた。
 メールの内容は「今、東京に戻ったから食事でもどうか」で、雅樹は「行く。出先だから折り返す」と返信した。
「この近くの駅で下してくれないか」
 雅樹の頼みに、壽一は横顔を向けたまま「誰だ?」と聞いた。
「友達」
 そう短く答えるにとどめる。壽一は「わかった」と言って、駅の方向を示す標識のところで右折した。
 諏訪との関係は友達以上恋人未満と言うより、ほとんど恋人に近い。毎週末はよほどの予定がないかぎりどちらかの自宅で過ごしていたし、諏訪はそろそろ一緒に住みたがっていた。壽一は雅樹がゲイであると知っている。「恋人」と言っても差し支えないのだが、雅樹はなぜか躊躇して言い換えた。
 車は地下鉄の標識が見える路肩に停まった。降りる前に、雅樹は今日の礼を言った。
「来てくれてありがとう。奏一、とても楽しそうだった」
「礼を言われる筋合いはない。俺の子だからな」
「そう、だな」
 雅樹はドアの取っ手に手をかけた。不意に右腕を掴まれる。
「ジュイチ?」
 掴んだのはもちろん壽一である。グッと彼の手に力が入り、引き寄せられた。咄嗟のことで雅樹の身体は傾ぎ、すぐ目の前に壽一の顔があった。雅樹は身体を反対方向に引こうとしたが、傾き過ぎてままならない。唇がスローモーションで迫る――と、その時。
「おうち、着いたの?」
 後部座席から奏一の声がした。壽一の手の力が緩み、雅樹は慌てて体勢を戻す。
 目をこすりながら奏一は身体を起こした。
「違うよ。おじさんは用があるからここで降りるんだ」
「帰っちゃうの? おばあちゃんが今夜はハンバーグにするって言ってたよ。雅樹おじさんの分もたくさん作るって言ってたよ」
 雅樹の答えにすっかり目が覚めてしまったようだ。運転席と助手席の間から身を乗り出した。
「僕の分はお父さんが食べてくれるよ」
 雅樹は奏一の頭を撫でた。
「今日は楽しかった、ありがとう!」
「僕もだよ。また行こうね」
「うん!」
 車から降りてドアを閉めると、奏一は窓を開けて手を振った。雅樹も振り返した。
 その手は先ほど、壽一に掴まれた方の手。運転席の壽一は雅樹を見なかった。
 車は走りだし、薄暮の中を去って行く。それを見送った後、あらためて雅樹は自分の右手を見た。上腕に壽一の手の感触が生々しく残っている。それを消すかのように、雅樹は擦った。
 いつまでも。
 



「腕、どうかした?」
 待ち合わせの場所で待っていた諏訪が尋ねた。雅樹が右腕を気にする素振りをして擦るためである。
「ぶつけたんだ。大したことないよ」
「そう? 何だか疲れて見えるけど」
 続けて聞かれ、雅樹は甥を連れて朝から動物園に出かけていたと答えた。
「ああ、それで、ラフな格好をしているんだな。出不精な雅樹にしては珍しいと思った」
「珍しいかな」
「珍しいよ。休みの日はたいてい家でゴロゴロしているじゃないか」
 連れだって歩きながら、諏訪が笑った。
 無意識にまた右腕に手が行きそうになるのを、雅樹は何とか抑えたが、諏訪はそれを見逃さない。
「腕、痛むんじゃないのか? 本当に疲れているようだし、外で食べるのはやめて、まっすぐ帰ってもいいんだよ?」
 確かに雅樹は疲れていた。一日中、広い園内を自分の四分の一に満たない年齢の子供につき合って歩き回ったので体力的に、そして途中で合流した壽一の存在で精神的にも。
 まっすぐ帰って、ゆっくりしたい。諏訪の申し出はありがたかった。
「ごめん」
「気にしなくていい。腹は空いてないの? 何か買って帰ろうか。それとも自分ちでゆっくりしたいなら、送るけど?」
 まっすぐ自宅に戻って、一人で眠る気にはなれなかった。きっと右腕に残った感触が、雅樹を眠らせない。諏訪を利用するようで気が引けたが、今夜は一人ではいたくなかった。
「君んちに泊ってもいいかな。出勤する時に一緒に出るから」
「構わないよ。今日の代休で明日は休みにしてあるんだ」
「だったら俺も半休取る」
 予想外の雅樹の受け答えに驚いたのか、諏訪は足を止めた。
「本当、珍しいな。明日、雨が降らなきゃいいけど」
「そこまで?」
「何だかとても甘えモードでゾクゾクする」
 諏訪はそう言った後、雅樹の耳元近く顔を寄せ、続けて囁いた。
「『抱いてくれ』オーラが出ているのは、気のせいかな?」
 雅樹は諏訪を横目で見る。
「かも知れない」
 雅樹の答えに諏訪が目を見開いた。それから雅樹の「ぶつけた」方ではない腕を掴んで引っ張ると、車道側の歩道の縁まで進み、手を上げてタクシーを止めた。
「義人?」
「雅樹の気が変わらないうちに、早く帰ろうと思って」
「食事は?」
「途中でテイクアウトに寄ってもいいし、出前でも良いよ。とにかく乗って」
 諏訪はそう言うと、雅樹をタクシーに押し込む。次に小ぶりのボストンバッグを二人の間に置き、最後に自分が乗り込んだ。行き先を告げ、運転手の意識が前方に向くや否や、バッグで隠すようにして諏訪は雅樹の手を握る。
 雅樹が抱かれる方に回るのは、三度に一度あれば良い方だった。雅樹と付き合うまで抱く側が多かったと言う諏訪は、二人のセックスの時も「抱きたい」と思っているらしい。それを抱かれる側に甘んじているのは、雅樹の意思を尊重しているからだ。愛し合うことには変わりないのだし、フィジカル面はもちろん、メンタル面でも気持ちの良いセックスにしたいと割り切っているのだろう。
 そんな優しい心遣いが出来る彼を、今日は利用している――数年ぶりに思い出した『機微』に混乱して。
「もしかして、強引だったかな?」
 黙り込んだ雅樹に諏訪は小声で尋ねる。「そんなことはない」と首を振ると、諏訪の握る手に一瞬、力が入った。
 雅樹はその手を握り返し、窓の外に目を向けて流れる景色を見るとはなしに見た。今、握られている手の感触より、右腕に残るそれが鮮明なことに、雅樹は困惑した。



※1)参考:中学生のための雑学うんちく集

(2014.07.26)                  

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