――いつか『恋』と知る時に――



(7) 転 機



「何だと?」
「だから、妊娠したって言ったの」
 その日、壽一は斎川茉莉絵に呼び出された。四月にあった壽一の帰国祝いの集まり以来だから、三ヶ月近くが経っている。
 何度かデートの誘いを受けたが、壽一は多忙を理由に聞き流した。彼女とデート、つまりはセックスする必要がなかったからである。壽一は空いた時間を雅樹との逢瀬にあてている。今の興味は雅樹にのみ向けられ、男盛りの身体にも不自由はない。
 ごくプライベートな件で、壽一も人に聞かれたくないと思うからと言われ、茉莉絵のマンションに出向いた。彼女の口から出たのは、妊娠したと言う話。
「ジュイチの子よ」
「何、馬鹿なこと言ってる。おまえとは四月以来、会ってないぞ?」
「その四月の時の子に決まっているじゃない。あれ以来、誰ともセックスしてないもの」
 そんなことが信じられるとでも思っているのか、この女――壽一はあからさまに疑う目を向けた。
 美人で自由奔放な社交家の茉莉絵は、『彼』が切れたことがない。壽一の知る限り、少なくとも大学在学中は派手に遊んでいた。壽一が帰国するまで男日照りであったはずがなく、四月からこっち誰とも関係していないと言う話も信じられなかった。第一、あの夜、壽一はコンドームを使っていた。
「コンドームだって完全じゃないのよ。中には不良品もあるかも知れないし、夢中になって外してしまうことだってあるでしょう?」
(こいつ、何か細工したのか?)
 だとしても壽一は動じない。自分の子であろうとなかろうと答えは決まっていた。
「じゃあ下ろせよ。請求書を回してくれたら病院代くらい出してやる」
 茉莉絵とは遊びの関係だ。花嫁候補の中に入っていても、彼女とは『ない』と思っている。
「下ろす気はないの。だって鷲尾物産次期社長夫人の肩書って魅力的じゃない?」
 壽一は冷めた目を茉莉絵に向ける。彼女はきれいに引いた唇の端を上げ笑みを作った。
 茉莉絵は現在アパレル会社で広報の仕事をしているが、いずれは自分のブランドを立ち上げたいと話していた。鷲尾には服飾部門もあり、社長夫人の肩書もだが野心を満たすためにも、壽一との結婚は魅力的なのだろう。
「それに私ももう三十才だし」
「結婚に興味はなかったんじゃないのか?」
「興味なかったわけじゃないわ。そこら辺にいる男じゃ嫌だっただけよ。結婚するなら最高の男がいいって決めていたの。ジュイチみたいなね」
「まるで狙っていたみたいな言い草だ」
「チャンスはあると思っていたから、最大限に利用しただけ」
 胎児のDNA鑑定は認められていない。たとえ生まれてからの検査で壽一の子ではないとわかっても、二人の間に性交渉があった以上、男側に責任を負わせる術はいくらでもあるだろう。それは後々、壽一のみならず鷲尾家にもマイナス要因になる。茉莉絵のバックには政界と財務省がついているのだ。
 壽一はそんな脅しめいた事情に屈しないし、むしろ受けて立つつもりでいた。
「勝手にすればいいさ。責任を取れと言うなら取ってやる。ただし結婚以外でな」
 壽一は話を打ち切って、茉莉絵のマンションを後にした。部屋を出る時、彼女がまだ何か言ったが、聞く耳を持たなかった。大方、「事を大きくするわよ」的な、つまりは威一郎に話を持って行くとでも言ったのだろう。
(親父がこの手のことで動揺するもんか)
 威一郎のことだ、茉莉絵の周辺を調べ上げ、小娘の浅知恵にはそれなりに対処するだろう。彼女の本来の素行を知れば、鷲尾家の嫁にとは考えないはずだ。
 ところが事態は壽一の思惑とは違う方向に動く。「小娘の浅知恵」は摂るに足らないことだったが、彼女のバックボーンには価値があったのだ。
 父・威一郎に呼び出されたのは、それから半月ほど経った頃だった。
 社長室に入った途端、いつもとは違う空気を感じた。執務席に座る威一郎は手元の書類から目を上げ、壽一を見る。不機嫌とも怒気とも取れる表情に、仕事で何か失敗しただろうかと考えたが、壽一に思い当たる節はない。
「そこに座れ」
 社内では壽一を一社員として扱うことを徹底している威一郎が、来客用のソファを指差したので、呼ばれた理由がプライベートであると察する。よもや雅樹とのことがばれたのか――壽一は警戒した。
 手にしたA4の茶封筒をテーブルの端に置き、威一郎は壽一の向かいに座った。
「斎川さんのところのお嬢さんを知っているな?」
 茉莉絵の苗字が出た。
(そっちの方か)
 どうやら彼女は実力行使に出たらしい。
「知らない仲じゃない」
「そうだろう。何しろ、妊娠していると言うことだからな。先方はおまえの子だと言っているが?」
「身に覚えはあるけど、俺の子かどうかはわかりませんよ。何しろ彼女には『ボーイフレンド』が多いから」
「確かになかなかの発展家らしい。一度、松永さんがお連れになってコースを一緒に回ったことがあるが、物怖じしない社交家で、かなりの美人だった。あれじゃ、男が放っておかんだろうな」
 松永と言うのは、過去三つの大臣職を歴任し常に与野党内で力を持つ代議士で、茉莉絵にとって母方の祖父にあたる。六人いる孫の内、女の子は彼女だけなのでかなり溺愛しているらしく、大学時代の夏休みには秘書として外遊に同行させたりもしていた。茉莉絵が世間知らずの令嬢ではないことを威一郎も承知しているが、花嫁候補からどうしても外せないのはそう言う事情があるからだった。
 威一郎は茶封筒を壽一の前に滑らせた。
「妊娠十三週目を過ぎたそうだ。中絶は可能だが死産として扱われる。死亡届けも出さにゃならんから、つまりは戸籍に疵が付く。嫁入り前の娘にとって、それは不味いというわけだ」
 壽一は茶封筒を手に取りもしなかった。
「俺の子じゃないかも知れないのに、責任を取れと?」
「お嬢さんは絶対の自信を持っているようだぞ。調べさせたら、確かに派手な夜遊びは控えていたらしい。彼女の方が一枚上手だったな?」
 威一郎は深く椅子に背を埋め、下目使いで壽一を見た。見下されたように感じたので、壽一はムッと唇を引き結ぶ。そんな息子の内心を見抜いたのか、逆に威一郎の口元は綻んだ。それから不敵とも見える笑みを浮かべ、今度は少し前のめりの姿勢を取った。
「なに、生まれて来る子がおまえの子でないなら、それはそれでこちらには好都合だ、松永さんと斎川さんに恩を売れる。おまえの子で男なら当然跡を継がせるし、娘だったら将来、おまえの役に立ってくれるさ。どう転んでも鷲尾に損はない」
 伸び悩んでいた会社を立て直しただけあり、威一郎の考え方は経営者として利に叶っている。壽一の『失敗』の相手が茉莉絵で幸いだったと云わんばかりだ。
 まだ三十才だからと急ぐことはないと口では言いながら、威一郎からのプレッシャーは日増しに強くなっていた。しかし壽一は帰国してから何かと理由をつけて見合いをしようとせず、言えば言うほど頑なになる息子の性格を知る父は、どうしたものかと思案していたに違いないのだ。そこへ今回の件である。
 茉莉絵の家柄の良さを考えれば、順序が逆――つまり『出来ちゃった婚』の体裁の悪さなど、変な女に手を付けられるよりははるかに良かったと思っているだろう。政界の実力者と財務省次官。政・官との関わりに何かと厳しい昨今、リスクを考えることなく双方とパイプを繋ぐことが出来る。
「考えておきます」
「おまえに選択権はない」
 欲しいものは是が非でも手に入れたいのと同様に、押し付けや嫌なことには全力で拒否したい性分の壽一は、威一郎の言葉に敏感に反応し、彼をねめつける。
「自分自身がしでかした失敗だ。責任はとらねばならんだろう? ちょうど良い機会だ、身を固めろ。早すぎる年じゃない」
「嫌だと言ったら?」
「許さん」
「だったら会社を辞める」
 壽一は立ち上がり、威一郎を見下ろして言った。
 威一郎は息子を見上げた。
「おまえには出来んよ。今、取り掛かっているのはおまえが中心で立ち上げたプロジェクトだ。わがままで金持ちの道楽息子な面はあるが、責任感は強いからな」
 威一郎は立ち上がって壽一と目の高さを同じくする。彼の方が背が低いにもかかわらず、目の前に立たれると存在感で威圧された。人生の経験値の差を、壽一は感じた。
「それとも誰か好きな相手でもいるのか?」
 威一郎が壽一をジッと見つめる。そう言われて壽一の脳裏に一人の顔が浮かびかけたが、像は結ばなかった。
「いねぇよ、そんなもん」
 一瞬のことだったが、威一郎は壽一の刹那な間を見逃さない。
「壽一、恋愛と結婚は別物だ。恋愛は個人だが結婚には家が絡む。特に、私の子である以上はな」
「わかってる」
「それならいい」
 話は終わったとばかりに、威一郎は壽一が中身を見なかった茶封筒を手に、執務席に戻った。
 壽一はいつの間にか握り締めていた拳に気づく。それを解くと部屋を出た。
 部署に戻る廊下を歩きながら、壽一は父との会話を思い返していた。正しくは、「誰か好きな相手がいるのか」と言うくだりである。あの時、誰の姿が脳裏の過ぎったのか、思い出そうとしても思い出せない。今現在、自分に恋愛対象と言える人間がいるだろうかと、再度確認する。
(やめた、どうでもいい)
 壽一自身、結婚と恋愛は別物だと理解している。幼い頃から鷲尾物産の後継者として教育される中で、必ず付いて回った思想だった。そう遠くない将来、花嫁候補の中の誰かと結婚するのだと覚悟していたが、その誰かが茉莉絵になろうとは。一番、有り得ないと思った相手だ。
 部署に戻って席に着くと、腹立たしさが倍増する。茉莉絵に対しては言うに及ばず、四月に彼女と関係した夜の自分に。むしろ後者の方が忌々しい。あの夜、壽一はガードが甘かった。ところどころ記憶が怪しいのだ。いつもは自分で装着するコンドームを茉莉絵に任せたかも知れないし、数回目には着けずにした可能性もある。
 ガードが甘くなったのは、別のことに意識を取られていたからだ。別のこと――横断歩道を渡る雅樹の姿。
「課長、三番にお電話です。川上産業から」
 八年間思い出しもしなかったのに、あれほど気になったのはなぜか。それを考えようとした時、外線電話が入り、壽一は仕事モードに引き戻された。
 




 
 
 
 ドアの開閉音がしたので、例によって足をはみ出たせ、ソファに無理やり横たわっていた壽一は、読んでいた雑誌から目を離した。時間は午後十時をとっくに過ぎている。雅樹の帰宅時間にしては遅く、「やっと帰ってきたか」と思うと壽一の眉間に自然と皺が寄った。
 威一郎と結婚の件で話してから半日憤懣やる方なく、壽一の気持ちはささくれ立っている。雅樹と食事にでも出ようと思っていたのに残業になるし、来てみれば彼もまだ帰っていないしで、更にイライラが募っていた。雅樹が帰宅したならすぐにでも押し倒して、快楽を貪りたい――壽一は身体を起こして腰を浮かしかけたが、リビングに入ってきた雅樹の様子を見て座り直すに留めた。雅樹はかなり疲れた様子だったからだ。
「来ていたのか」
 玄関に靴があるから来ていることはわかるはずだが、雅樹は確認するかのように言った。壽一は前日もここに来ていて、二日続けて来ることは今までなかったので意外だったのだろう。
「来る来ないは勝手だろ?」
 壽一の答えに彼は浅く息を吐き、「そうだな」と言って書斎代わりにしている部屋に鞄を置きに行った。そう言う動作をする時は、秘匿の必要性のある書類を持っている時で、取引先からの直帰か、仕事を持ち帰ったことを意味している。同僚か誰かと飲みに行って帰りが遅くなったのではなさそうだ。
 戻って来た雅樹はリビングを横切り、バスルームへと向かう。バスタブに湯を落とす音が微かに聞こえた。再びリビングに戻ってくると、今度は壽一の向かいに座った。
「先に風呂、入ってもいいかな?」
「飯は?」
「夕方に軽く食べたから、そんなに空いてない。ジュイチは?」
 ずっと待っていたと言うのも癪だったので、「食った」と答える。そんな短いやり取りの間でも、雅樹はうつらうつらとして今にも眠ってしまいそうだった。
 雅樹が働く法律事務所は、最大顧客の鷲尾物産の他にもクライアントを多数抱えている。雅樹は主に民事を担当しているが、弁護士として偏りがないようにと、時折、刑事も扱っているらしい。ここのところ国選弁護人として刑事を手掛けていて、精神的にきついのか、情事の後、死んだように眠っていることが多かった。
 身体が大きく横に傾ぐと、雅樹はハッと顔を上げた。
「先に風呂に入って来てもいいかな」
 さっきと同じ質問を繰り返す。疑問形ではあるが、言った時にはもう立ち上がってバス・ルームへと歩き始めていた。その後ろ姿を見て入浴中に眠ってしまうのではないかと壽一は思った。案の定、一時間近く経っても出てくる気配がなく、様子を見に行くと、バスタブの中で雅樹は眠りこけていた。
「雅樹」
 声をかけると薄ら目を開けた。
「溺れたくなけりゃ、もう出ろよ。それに待ちくたびれた」
「…わかった」
 雅樹はノロノロとバスタブから身体を出した。まだ居眠りの状態から脱していないようだ。
 浴室のドア近くに立つ壽一の横を通り、棚のバスタオルに手を伸ばした。一連の動作を黙って見ている壽一に気づき、「なんだ」と言いたげな表情をする。
「俺も今から入るから、そのままベッドで待ってろよ。どうせ脱ぐんだし」
「今日は疲れているんだ。ゆっくり眠りたい」
「『運動』したらよく眠れるさ」
 壽一は脱衣しながら雅樹に言った。雅樹は否とも諾とも答えず、ただため息に似た息を吐き、身体の水滴をタオルで拭き始めた。
 壽一は彼の濡れた髪に手を差し入れ引き寄せる。それから驚いて半開きになったその唇に口づけた。腰に腕を回し、後頭部を掴む手と共に動きを封じた。そんなことをしなくとも雅樹に抵抗の気配はなかったが、抱きしめずにはおれなかった。
 軽く舌を絡ませた後、雅樹を離した。彼の身体はキスに微かに反応している。それを見て雅樹は鼻で笑った。
「疲れてても、『ソノ気』にはなるんだな?」
 壽一はそう言うと、浴室に入り扉を閉めた。
 
 
 
 
 シャワーを浴びるだけにして、早々に浴室を出た。壽一が脱いだものはなく、新しい下着とパジャマ代わりの着替えが用意されている。壽一はそれをチラリと見ただけで、身に着けもせずリビングに戻った。スーツとシャツは椅子の背に皺にならないよう掛けられている。雅樹の律義さに壽一の引き結んだ口元の力が緩む。
 寝室に入ると、タオルケットに包まって雅樹が眠っていた。壽一が言った通りに何も身に着けていないことは、輪郭でわかる。
 壽一は明かりを消してベッドに入った。タオルケットを捲りもぐりこむと雅樹を背後から抱きしめる。それから片方の手を前に回し、心臓の辺りにあてた。当然ながら鼓動は伝わって来ないが、温かみは感じる。
「ジュイチ…?」
 壽一の行為に寝呆けの入った声が返ってきた。身体の向きを壽一の方に変えようとするのを抑える。
「いいよ、疲れてるんだろ? そのまま寝てろ」
 壽一の言葉に従ったのか、それとももともと起きてもなかったのか、ほどなく雅樹は寝息を立て始めた。
 鼻先にかかる雅樹の髪はまだ少し湿って、シャンプーの清潔な匂いがする。壽一はその匂いを嗅ぎながら露わな彼の首筋に口づけると、そのまま顔を埋めた。
 重なった背中と胸とで呼吸がシンクロする。午後からずっと壽一を支配していた不機嫌な気持ちは、雅樹の安らかな寝息と、合わさった体温と、同調する呼吸とで、ようやく解消された。
 そうして壽一もまた、眠りの底へと落ちて行った。



                       

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