――いつか『恋』と知る時に――



(6) 日 々



 帰宅すると、玄関の鍵が開いていた。まず脱いだままの、自分のものとは違う革靴が目に入る。雅樹はその靴を揃えて置き直し、廊下から続くリビングのドアを開けた。
 木製フレームでファブリックがグリーンのレトロなソファに、壽一が横たわっていた。独り暮らしだとベッドではなくソファで寝起きしかねないと思い、わざとコンパクトな二人掛けを選んで購入したので、幅も奥行きも横たわるには窮屈なサイズである。
「おかえり」
「…ただいま。シャツ、皺になるぞ」
「クリーニング出すから良いんだよ。それ、毎回言うのな?」
 壽一は起き上がって大きく伸びをし、首を左右に数度倒した。それからキッチンに移動すると、コンロやレンジを使い料理を温め始める。意外なことに壽一の趣味は料理で、雅樹が帰えるとたいてい夕飯が用意されていた。


『その口から俺を好きだと言わせる。本心から、俺が欲しいと言わせる』
 

 壽一がそう宣戦布告してからと言うもの、二人は何度も一緒に夜を過ごしている。始めのうちは壽一のマンションかホテルで会っていたが、知らない間に彼は雅樹の部屋の鍵を持ち、以来こうして、帰りを待つようになっていた。仕事を理由に雅樹が避けるからである。
 合鍵は何かあった時のためにと実家に預けてあったものを母から借り受け、自分用に新たに作ったのだろう。どんな理由をつけたかは知れないが、総じて母は壽一に甘かったので簡単だったに違いない。生さぬ仲と言うのもあるが、母は彼のやんちゃな性格を愛でていた。それは母に限らず、壽一の周りの人間ほとんどに言えることだ。跡継ぎの彼の教育に厳しい義父・威一郎でさえ、「しようのないヤツだ」と言いながら、多少のわがままや女癖の悪さには目を瞑る。
「何でも作れるんだな?」
 趣味と言うだけあって、壽一の料理のレパートリーは広く美味かった。お坊ちゃん育ちで、実家にいた頃はむしろ何もしないタイプだったのに、海外での八年は仕事以外でも成果があったと言うことかと、雅樹は感心する。
「おふくろの美味い飯に慣らされていたからな、向こうの外食って不味いんだよ。アメリカはともかくイギリスは口に合わない。それに毎日外ってのも飽きるしな」
「それ言ってやったら、母さん、喜ぶよ」
「余計なこと言うなよ」
 食卓での会話は、まだ二人が実家で生活していた頃と変わらなかった。雅樹の声音に笑みが混じるようになったが、そんな時、壽一が見つめるので、途端に気持ちが現在に戻る。
 食事の後は片づけや入浴。映画専門のチャンネルで目ぼしい映画が放送されていると観ることもあったが、会話はほとんどなく、一日の最後は必ず同じベッドに入っていた。一緒にただ寝るわけでは、もちろんない。
 壽一は欲情を隠さなかった。
「明日は出勤なんだ」
「土曜日だぜ?」
「急ぎの案件があるんだ」
「手加減するさ。もう黙れよ。興ざめするだろ」
 平日であろうなかろうと、壽一の訪れと同衾に雅樹の拒否権はない。しかし拒否権がないのではなく出来ないと言う方が正しいだろう。最初と二度目とそれ以降でのセックスでは違いが見られた。我欲を押し付けるだけではなく、忘我するほどに雅樹を追いつめる。壽一が施す時に荒々しい、時に穏やかな快感の波に翻弄される。
(ゲーム、そうゲームだ)
 事後、雅樹は自分に言い聞かせる。この情事は壽一にとって、雅樹に「好きだ」と言わせるゲームに過ぎない。「好きだ」と言ってしまえば壽一の関心は薄れ、この状況から逃れられることはわかっていたのだが――。
 背後に壽一の寝息を感じながら、雅樹は複雑な自分の心中を笑みなく嗤った。
 
 




 
 
「久能、今日の帰り、一杯やっていかないか?」
 終業時間が近づく頃、秋月が声をかけて来た。
「今日はちょっと約束があるんだ。悪いな」
「なんだ、最近つきあい悪くないか? さては『彼女』が出来ただろう?」
 秋月は察した笑いを浮かべる。ここのところ、雅樹は帰りに寄り道することがめっきり減った。それを憶測しているのだ。
 定時で事務所を出られる時、雅樹は早く帰るようになった。疲れていることが理由の大半だが、壽一が来ているかも知れないと思う心が少なからずあるからだ。来る日が決まっているわけではなく、遅い帰りを咎められたこともないが、壽一と今の関係になってから二ヶ月ほどにしかならないのに、いつの間にか習慣づけられてしまった。
 ただ今日はちょっと事情が違っている。いつもは予告なく雅樹のマンションや事務所が入るビルの近くで待っている壽一だが、今日は二、三日前に予定を聞いてきたのだ。
「違うよ。義弟(おとうと)と飯を食いに行くんだ」
「おとうと? ああ、あのえらく迫力のあるイケメン」
 秋月はひと月ほど前に壽一と顔を合わせていた。雅樹と彼の仲を疑っていたせいで、壽一の愛想笑いは威圧的だった。壽一が名乗らなかったので、秋月は自分が働く事務所最大の顧客・鷲尾物産の御曹司であること、また雅樹が鷲尾関連の出であることも知らない。
「仲良いんだな。僕も男兄弟が欲しかったよ。三人姉妹なんて喧しいだけだ」
「華やかで良いじゃないか」
 雅樹の言葉に秋月は肩を竦めて見せ、帰り支度をするために自分の席に戻った。
 壽一が待ち合わせに指定したのは、最近スタイリッシュを自負する人種に人気が出て来た地域の最寄り駅である。
 出る間際にクライアントから電話が入り少し遅れた雅樹は、改札からは少し離れた、しかし視界には入るところで待つ壽一の姿を見つけた。秋月が「イケメン」と称した時はピンとこなかったが、こうしてあらためて見ると人目を引く容姿だなと思う。雅樹が遅れたことを詫びると、「遅れたうちに入らない」と言い、壽一は先に歩き始めた。
 駅の裏側に回り十分ほど歩いた。細い路地を抜けたところに品書きの黒板を出したフレンチレストランがあり、壽一はそこの入口を開けた。
 表通りから外れたわかり辛い場所と平日であるにもかかわらず、店内はそこそこの客入りだった。女性スタッフが案内してくれたのはヨーロッパ調の庭に面した半個室で、店では一番良い席だとわかる。カップルで座るに相応しく、男二人なのは何だか照れくさい席だ。
「ボトルで頼んであるけど、飲めるよな?」
「あ、ああ」
 運ばれてきたのはシャンパン・ボトルだった。グラスに注がれた金色の液体が、細やかな気泡を立てる。壽一はグラスを持ち乾杯をする仕種を見せたので、雅樹も慌ててグラスを持った。
「誕生日、おめでとう」
 壽一はそう言うと、雅樹のグラスにカチンと音を鳴らした。
「え?」
 雅樹が呆気に取られる間に、壽一はさっさとシャンパンに口をつける。
 今日、六月二十日は雅樹の三十四回目の誕生日だった。
「覚えてたのか」
「おふくろが毎年、俺達の誕生日を祝ってくれてたから覚えてただけださ」
 確かに母は子供達の誕生日にそれぞれの好物を作り、毎年祝ってくれた。独立して家を出た今でも、誕生日前後には祝いの電話が入る。とは言え、八年も日本を離れていた壽一が覚えていたとは。
「意外だな、ジュイチが人の誕生日を祝うなんて」
 恋人にもこんなにマメなことをするのだろうかと、雅樹は壽一を見る。
「まさか。他のヤツの誕生日まで覚えてないさ、面倒くさい」
 ほどなく料理が運ばれてきた。創作的でカジュアルなフレンチを出す店らしい。カトラリー・セットには箸が入り、前菜の食材には小芋や牛蒡と言った和風な野菜も見られた。
 他の人間の誕生日は覚えていない――雅樹の首筋は熱くなる。
 高校時代から、彼の周りには見目良い異性の姿が切れない。特定の相手だったかどうかは知れないが、異性と二人で歩く姿も見かけたことがある。洒落た店の良い席を予約し、飲み物や料理を選ぶ段取りに雅樹は壽一の慣れを感じていたし、女性はこの手の『イベント』が好きなはずだ。
「別に誕生日じゃなくても、店は予約するだろ?」
「そうか」
「それに下心があるし」
 壽一はニヤリと笑った。
(ああ、そう言うことか)
 雅樹の首筋に生まれた熱は急激に冷めていく。
 これは壽一にとってゲームの一環なのだ。雅樹の気を引いて自分に向かせる。手に入らないもの、ままならないものを手に入れるための、人の「想い」をゴールにした残酷なゲーム。意識していないと忘れそうになる。
「どうかしたのか?」
 一瞬黙り込んで皿を見つめる雅樹を訝しんで、壽一が声をかけてきた。
「うまいな…と思って」
「そうだろ? 日本らしい食材使ってるところが味噌なんだ」
 雅樹の「うまいな」を料理のことと受け取っているようだった。
「道理で牛蒡とか葱みたいなのとか使ってあるわけだ。どうして知ったんだ?」
 押しの強さの中に、時折組み込まれる穏やかな対応。ゲーム攻略のための戦術なのだとしたら、本当に巧い。雅樹の「うまいな」はつまりはそう言う意味合いだったのだが、壽一の勘違いをそのままにして話を繋ぐ。
 その店での食事の後、もう一軒、立ち寄った。落ち着いた雰囲気のショットバーで、カウンターの中には豊富な種類のアルコールが並ぶ。「いろいろな店を知っているな」と雅樹が言うと、「だてに遊んできたわけじゃない」と壽一は肩を竦めた。
「まあ、リサーチも兼ねているんだ。外食部門から今後の参考にしたいと言われている。新しい店を探すのは結構、面白いからな」
「ジュイチのいる部署って、外食部門じゃないだろう?」
「会社がやっていることの一つには違いない」
 こう言う話は、普通のデートの相手にはしないはずだ。誕生日を祝ってくれた件といい、雅樹に特別感を抱かせる。下心のためと知ってはいても、錯覚しないではいられない。甘美な錯覚に意識がさらわれないように雅樹は唇を噛みしめる。我知らず飲むピッチが上がっていたらしく、壽一に窘められるほどだった。
 そこで小一時間過ごし、更に一軒梯子してからタクシーに乗った。壽一は雅樹の住所を運転手に告げた。これからの時間は、いつもの時間なんだなと雅樹はぼんやり思ったが、マンションの前に停まったタクシーから壽一は下りなかった。
「寄って行かないのか?」
「明日は早朝会議で早いんだ。帰る」
「そうか。今日は、その、ありがとう」
 雅樹がそう言うと、壽一は軽く手を振り、タクシーのドアが閉まった。傾斜のかかったマンション前から車はゆっくりと動き出し、スピードに乗ってすぐに小さくなった。
 昼間は夏の様相を呈してきたこの頃だが夜はまだまだ涼やかで、どことなく冷気を帯びた風が雅樹の頬を撫でる。今まで雅樹を包んでいた壽一の発する華やかな空気は、頬から広がる冷たさで払われてしまった。身震いするほどの寒さなどこの時期にあるはずがないのに、雅樹はそれを体感している。
 自宅に戻り、ベッドに俯せに倒れ込んだ。
 鼻腔は壽一の残り香を求める。この前彼とこのベッドを「使った」のは、四日前の週末だった。シーツは取り替えた。壽一の匂いが残っていると感じるのは、ついさっきまで一緒だったからだろう。
 ゴロリと仰向けに態を返し、腕で目を覆う。
(疲れた)
 三軒の店で飲んだアルコールや仕事による疲ればかりではない。この壽一との関係で生まれた、自分の内側でせめぎ合う二つの相反する感情に、雅樹は疲労していた。
 この疲労から脱する方法はわかっている。雅樹が壽一に「好きだ」と言えば良い。八年前のあの時同様、欲しいものを与えてしまえば壽一は満足する。本当にこの状況から逃れたいのならば、本心でなくとも「好きだ」は言えるはずである。
 そう、そこに本心がなければ。
 八年前ならまだ言えただろう。あれは訣別のための「儀式」だった。壽一に対する不確かで特別な想いを封じるための。彼が自分にいっそ無関心になってしまえば諦められる。その気持ちが大きかったあの時なら、簡単に言ってしまえたかも知れない。
 しかし今は言葉にして壽一が離れて行くことが怖い。再会してからの二ヶ月、壽一にとっては思惑あっての日々だろうとわかっていながら、雅樹は彼に惹かれている。再燃した「不確かな」想いは「確かな」に変化し、もう「好きだ」は壽一から離れがたいほどに心を持ってしまった。
 相反する二つの感情――「離れたい」「離れたくない」がますます雅樹を迷わせる。
(もう少し、もう少しだけだ。いずれは終わる)
 それはきっと遠くないだろう。壽一は鷲尾物産の後継者だ。会社を継ぐこともだが、更に次の世代を残す義務も課されている。何も生み出さないこんな関係を、いつまでも続けられるわけがない。
 それまでの間には自分の気持ちに折り合いをつけなければ、否、つけるのだと、雅樹は思った。

 

                       

(5)  top  (7)