――いつか『恋』と知る時に――



(5) 再 び



 午後六時を過ぎた頃、古びたオフィスビルから家路につくサラリーマン達が次々と出てくる。少し離れた路肩に車を止め、壽一は雅樹が出てくるのを待っていた。オフィスビルには彼が所属する法律事務所が入っている。
 金曜日の夜に見かけて以来、雅樹の姿が壽一の頭の中から離れない。斎川茉莉絵と一夜を過ごしたその足で雅樹の住むマンションに向かったのだが、まだ夜も明けきっていないと言うのに、マンション一階からのエントランス・チャイムには反応がなかった。
 居留守を使われたのか、それとも戻っていないのか――壽一の胸に過ったのは、ホテルに向かう、雅樹ともう一人の並んだ後ろ姿。
 部屋のドアの前で帰りを、あるいは出てくるのを待っても良かった。しかしその週末は威一郎に同行するよう申し付けられていた。平日は一社員だが、週末は後継者としてあちこちの会合に連れまわされるのである。必ず女性に引合されるところを見るに、見合いの前哨戦も兼ねているのだろう。月曜の今日、壽一には午後から社用で外出の予定が入っていた。社用車のまま直帰することにして、雅樹の職場の前までやって来た。
 直前に事務所に電話を入れ、雅樹がいることは確認済みだ。
「今日、晩飯、一緒にどうだ?」
「明日提出する書類があって、何時に終わるか時間が読めないんだ。せっかく誘ってもらったのに悪いね。また今度な」
 断られはしたが、今日は何時になろうと待つつもりでいた。
 目当ての雅樹は午後七時を少し過ぎた頃に出て来た。三人連れで、一人は反対方向に分かれて行った。後の二人――雅樹達は壽一が車を停めている方向に歩いて来る。車から降りて、待った。
「ジュイチ」
 雅樹の目が見開き、肩が緊張するのがわかった。壽一が来ていることは思いもよらなかったのだろう。
 壽一は雅樹の傍らに立つ人物を見る。金曜の夜、一緒だったあの男に似ていた。スーツに雅樹のそれと似たような襟章が付いているので、彼も弁護士なのだと知れる。
「通りかかったら出てくるのが見えたんだ」
「電話、仕事先からだったのか?」
 社用車を見て雅樹が言った。
「そう。でももう終わった。送って行くよ。その前に飯でもどうかな。そちらもご一緒に?」
 壽一はもう一人の男を見る。彼はぬいぐるみの熊を連想させる柔和な顔をしていた。
 「一緒に」とは言ったものの、壽一の目は拒絶の色を帯びていた。よほど鈍感でもない限り、読み取れるに違いない。
「弟なんだ。秋月も良かったら」
 壽一に続けて雅樹も誘ったが、秋月と呼ばれたその男は申し出を笑顔で断り、進もうとしていた方向を歩いて行った。
「乗れよ」
 先に車に乗り込み助手席のドアを開けると、秋月の後ろ姿を見送る雅樹を促す。雅樹は壽一を一瞥し乗り込んだ。秋月を威圧した目は、今度は雅樹に向けられた。そんな表情をする時の『弟』が引かないことを、『兄』は知っている。
 助手席のドアが閉まると、壽一は車を発進させた。途中、秋月を追い越す際、クラクションを鳴らすと、彼は気づいて手を振る。雅樹が手を振り返した。車はスピードを上げ、秋月の姿はアッと言う間に小さくなって消えた。
 ラッシュの時間からはズレたせいか、車の流れはスムーズだった。壽一は横目で雅樹を見る。雅樹は窓に顔を向けていた。
「あの男は、同僚だったんだな?」
「秋月? ああ、同じ事務所の弁護士だ。知っているのか?」
 口ぶりから察したのか、雅樹が問い返す。
「知らない」
 壽一はアクセルを強く踏み込んだ。車は加速し、急な角度で隣の車線に入ると、瞬時に二台を抜き去る。法定速度など、とっくにオーバーしていた。目の前に迫る信号が黄色に変わったが、減速する気配を見せない。
「ジュイチッ?!」
 車は赤信号になる前に交差点を渡りきり減速した。
「日本はせせこましくて運転した気にならない。時々、ぶっ飛ばしたくなる」
「だからって、事故でも起こしたらどうする気だ?」
「そんなヘマはしないさ」
 法定速度を保ったまま車は走り続け、繁華な区画を抜ける。すっかり黙り込んでいた雅樹だが、「食事は?」と口を開いた。壽一は答えない。食事は雅樹を車に乗せる理由に使っただけだった。
 ほどなく見えて来た高層マンションの地下駐車場に車は入って行く。壽一は濃いメタリックブルーの欧州車の隣に車を停めた。シートベルトを外し、後部座席から鞄を取るなど降りる準備を始める壽一に対し、雅樹は動かなかった。
「着いたぞ」
「ここは?」
「俺んち」
 帰国してから壽一は実家を出て独り暮らしを始めた。マンションは会社名義であるものを借り受けている。社用車を停めたのは来客用に確保したスペースだった。隣に停まる濃紺の車は壽一本人のものだ。
 壽一が降りようとドアを開けても、雅樹は座ったままだった。壽一は浮かした腰を戻し手を伸ばすと、彼の顎を掴む。それから引き寄せ、今しもキスが出来る距離まで顔を寄せた。その時、別の車が駐車場に入って来た。
「よせ」
 雅樹が顔を背ける。
「だったらさっさと降りろよ」
 壽一は彼の顎から手を外し、車外に出た。背後で雅樹が動く気配を感じ、ドアが開閉する音が続く。それを目で確認しロックをかけると、壽一はエレベーターの方に先立って歩き始めた。
 
 
 




 
 リビングの総革張りのソファはセミダブルのベッドとほぼ同じ大きさで、イタリア製の最高級品だ。青味がかったグレイの微妙な色合いと柔らかな手触りに父・威一郎が一目惚れし、入荷搬入まで一年近くを待ち手に入れた。この部屋を家具ごと借り受ける際には、くれぐれも疵をつけるなと厳命されたシロモノである。そんな面倒もあって、引っ越して一ヶ月近く経とうとしていたが、壽一はほとんどソファに座らない。
 そのソファに座らせるや否や、壽一は雅樹を押し倒した。逃げる顎を掴み強引にキスをして、彼のネクタイのノットに指をかけ緩めて解くと、一気に引き抜く。次にシャツのボタンに手をかけた。
「やめろ」
「あの時と一緒だな」
 八年前と同じだった。ソファかベッドかの違いだけで、こうして壽一は雅樹を眼下に置いた。「やめろ」と言った後は、雅樹はさして抵抗しなかった。
「あの秋月ってヤツにも、こうして身体を触らせたのか?」
 何を言っているんだと言う目で、雅樹が壽一を見る。
「先週の金曜日、二人でホテルに行っただろ?」
「ホテル? あそこのバーに飲みに行ったんだ」
「それにしては遅い時間だったけど?」
「あの時間からでもゆっくり飲めるところに入っただけだ」
 雅樹がボタンを一つ一つ外しにかかる壽一の手首を掴んだ。思いのほか強い力で、壽一は身体が泡立つのを感じ、一瞬、動きが止まった。半身を起こそうとして、雅樹の背中が浮く。それを壽一は再度、ソファに沈めた。
「どいてくれ」
 雅樹はシャツから壽一の手を引きはがそうと、更に力を込めた。壽一は彼に手首を掴ませたまま、強引にシャツの胸襟を開いた。
 引きちぎられたボタンが飛び、一つがガラスのテーブルの上を跳ねて行く。その音が、かつて雅樹に抱いた欲望を呼び起こした。消え失せ、忘れ去って久しかったものだ。
「ジュイチッ!」
 雅樹の手が、今度は壽一の胸を押し上げる。壽一はその両手首を一つにして、彼の頭上に縫いとめた。
 呼吸が荒くなって動く雅樹の胸に掌を這わせると、体温が直に感じられた。これからの行為で、どんどん雅樹の身体が熱を帯びることを知っている。表皮だけではなく、身体の『奥』も――濫りがわしい感覚の記憶が次々と蘇り、壽一を煽る。
「ジュイチ」
 拒絶の言葉を吐こうとする雅樹の口を、壽一は唇で塞いだ。
 
 




 
 
 何度目かの劣情の放出を終え、壽一は雅樹の身体から離れた。雅樹は仰向けのまま動かず、天井からの光に目を眇めもしない。軋むソファの微かな揺れにようやく数度瞬きし、のろのろと身体を起こした。
 壽一が冷蔵庫から水の入ったペットボトルを取って戻ると、雅樹は脱ぎ散らかされた衣服を拾い集め身に着けようとしていた。ボタンが飛んだシャツは皺くちゃ、スーツは二人で放ったもので汚れている。
「シャワーを浴びてきたらどうだ?」
「帰る」
「泊って行けよ 朝になったら送る」
「ここで眠れると?」
 雅樹が珍しく鼻で笑った。ぐらりと身体が揺れたので、壽一は支える。情事の後特有の臭いが互いから立ち昇った。
「とにかくシャワーを浴びてこい。送って行くから」
 壽一はそう言って、バスルームの方向に雅樹を押し出した。
 彼がバスルームに入ったことを音で確認すると、ソファを振り返る。同じレザーで作られたクッションは方々に飛ばされていたが、男二人でセックスした割には、思ったほど汚れていない。多少飛び散ったものを脱いだシャツでとりあえず拭う。後の手入れは朝一番にクリーニング・サービスに電話することにして、二人分の着替えを取りに自室に向かった。
 壽一は雅樹の後にシャワーを浴びた。その間に帰ってしまわないかと思ったが、雅樹は出しておいた衣服を身に着け、シングルチェアに座っていた。壽一は髪を乾かし、ゆっくり支度をした。
 部屋を出て地下駐車場に向かい、社用車ではなく壽一の車に乗り込んだ。その間、そして車が動き始めても二人は無言だった。
 助手席の雅樹は開けた窓から入る夜風に前髪をあそばせながら、真夜中の風景を見ていた。壽一はそんな彼を視界の隅に置いていた。
 今回も雅樹は、最初こそ抵抗して見せたが、すぐに観念したように身体の力を抜き、あとは快感に素直だった。『マグロ』には違いなかったが愛撫に感じていないわけではなく、壽一の背中に残った蚯蚓腫れの跡は、極まった彼が付けたものだ。
 同意なしに始まった行為を、そう簡単に受け入れられるものなのか。相手は同性で言わば征服されるに等しい。男として精神的に享受しがたく、これが自分なら最後まで激しく抵抗するだろう、少なくとも身体に情事によってではない傷をつけるくらいはするだろうと壽一は思った。
「なぜ拒まないんだ?」
 思ったことは言葉になった。雅樹は首を回し壽一を一見した後、また外に目を戻す。しかし答えは返った。
「逆効果だって知っているから」
 物憂い声は吹き込む風に紛れて聞き取り辛い。それもあって「え?」と聞き返すと、彼は前方に向き直る。
「逆効果だと言ったんだ。おまえは手に入らないものに執着するが、手に入ってしまえば興味を失う。抵抗して付き纏われても困るし、無駄にケガをしたくない」
 雅樹はシートに深くもたれかかり、「実際、もう気が済んだだろう?」と続けた。
 確かに、前回もそして今回も、すでに壽一の気持ちは雅樹から離れていた。自分の性格は壽一自身もわかっている。
(それを利用したって言うのか)
 だからと言って、女のように扱われることを選ぶものだろうか。
「雅樹は男が良いのか?」
 そう言えば、雅樹には昔から異性の影を見ない。彼は中学・高校・大学と公立で通した。当然共学で、バレンタインデーにはそれなりにチョコレートをもらって帰り、幼い弟妹に分け与えていた。壽一のように目立つ整い方ではなかったが、女子を惹きつけるには充分な面立ちをしている。いまだに浮いた噂がなく、独身を通していることを考えてみれば、異性に興味がない=ゲイなのではないか。それなら男と肉体関係を持つことも、異性愛者に比べれば抵抗がまだしも薄いのかも知れない。
 雅樹が怪訝げに壽一を見た。
「ホモなのかって聞いてるんだ」
 雅樹は「ああ」と納得する風に言った。壽一の疑問と推測がわかったのだろう。「くく」と喉を鳴らして笑った。
「身体くらい大したことないさ。よく言うだろう? 『犬に噛まれたと思えばいい』って。おまえと同じで、俺もすぐに忘れる」
 そう言うと、雅樹はまた顔を窓の方に向けた。
 壽一は唇を引き結ぶ。
 今回はともかく、前回は雅樹に想いを寄せての行為だった。壽一はそれまでに何度も「好きだ」と言葉にし、言葉にしなくとも態度で示し続けた。どうにも抑えられない気持ちの末に及んだ行為を、犬に噛まれた程度と一蹴するのか。そして快感に濡れた瞳も壽一を乞う言葉も、すべて計算づくのことだったのか――自分の性格によって信用を得られなかったことはどこかでわかっていても、プライドを傷つける雅樹の言い草には黙っていられない。再び壽一の心に火が点いた。
「身体くらい大したことない、すぐに忘れる…か」
 路肩に一旦、車を停める。
「ジュイチ?」
「だったら忘れられないようにしてやる」
 雅樹の腕を掴んで引き寄せた。今度は壽一の言う意味がわからないようだった。
「何を、言ってるんだ?」
「その口から俺を好きだと言わせる。本心から、俺が欲しいと言わせてやる」
 壽一の答えに雅樹が目を瞠る。凝視する彼の瞳が微か揺れ、それが壽一には抵抗に見えた。一瞬垣間見せただけの彼の、と言うよりも自分勝手な推測が、壽一の心に灯った火を煽る。
「これはまず手始め」
 そう言うともう片方の手で雅樹の後頭部を抑え、口づけた。

 

                       

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