永遠の音楽


(八)



 私は存外単純な性質(たち)で、言えばまだ子供であった。容子さんと会い、心の中を吐露した後は、憑き物が落ちた気分になり、どこからか力が湧き上がるのを感じていた。
 出征してからは当然ながら、家に戻ってからでさえピアノを弾いていない。容子さんが帰った後、久しぶりにピアノの前に座った。
 「こんなご時勢に」と非難されるのではないかと言う思いが、一瞬、私を躊躇させる。しかし蓋を開けて、そっと鍵盤に触れ、その硬質な冷たさを感じた時、躊躇いは消し飛んだ。私の指は、鍵盤の上を滑った。
 指が生み出す音楽は、瞬く間に辺りに広がる。防音設備などその頃の一般家庭にあるはずもなく、開け放たれた掃きだしの窓から、音は自由に外に流れて行ったが気にならない。耳から入った音楽が、私の身体隅々まで満たしてくれるのがわかった。
 私は『タイスの瞑想曲』を弾いた。
 私は『すみれの花咲く頃』を弾いた。
 記憶に残るヴァイオリンと、ソプラノの美しい声が、ピアノの旋律に乗る。
夢中になってどれくらい弾いたか知れない。何曲目かが終わって我に返った私の耳は、拍手の音を拾った。
 アップライト・ピアノは庭に面した縁側を持つ客間に置かれている。その庭に見知らぬ人達が立っていた。老若男女、身体のどこかしらに包帯や絆創膏が手当てされているところからみて、来院した患者だと知れた。
「良いもん聴かせてもらったよ、にいちゃん」
 頭に包帯を巻いた老人が手を合わせて言った。
「もっと何かやって」
 三角巾で腕を吊った少年が、縁側に歩み寄った。
 庭を囲む生垣の向こう側にも、通りがかりだと思われる数人が立ち止まって私を見ていたが、非難する目ではなく、むしろ少年同様、次の曲が始まるのを待っているようだった。
「じゃあ、『埴生の宿』を」
 私は再び、鍵盤に指を置いた。
――ああ、本当だ。僕にも出来ることがある。
 頭の中で容子さんが「そうでしょう?」と微笑む。
 私にも出来ることがあると思うと同時に、聴いてもらえる幸せを噛み締めた。
 翌日、男手を頼んで、ピアノを待合室の隣にある納戸に移してもらい、その日から独りきりの慰問活動を始めた。




 毎日のように日本のどこかが空襲で焼かれる日々が続いていた。東京も、あの三月十日で終わったわけではなく、四月に入って二回、五月に入って二回、大規模な空襲を受ける。結果的に五十パーセントの焼失被害を出し、東京は文字通り焼け野原となった
 私の家も全焼は免れたが、住居部分の三分の一を失い、家族で生活することは難しくなった。
 診察室の隣の納戸に移していたピアノが消火作業の際に水を被り、とうてい使いものにはならない。修理を頼もうにも状況的に無理であり、仕方のないことだがそのまま放置された。
「こんな状態ではいよいよ次は危ないかも知れんな。おまえ達は長野に行きなさい」
 父は母と兄嫁、孫達、それから私に長野へ疎開するように命じた。長野は母方に縁があり、父はいざと言う時のために小さな家を用意していた。兄達は父と共に東京に残り、類焼を免れた医院の方で寝泊りしながら診療を続けるつもりだと言う。
「僕も残ります」
「女子供ばかりをやるのは心もとない。おまえは義足にようやく慣れてきたところだし、ここは危ない」
 確かに義足は三キロ近くあり、慣れてきたとは言っても生身の足のようにはいかず、動きが鈍る。現に四月の空襲で逃げる際に転んで肩を脱臼し、まだ痛みが引かなかった。
 自分の役割が見えてきた頃だっただけに残念でならない。しかし容子さんの「生かされたことには意味がある」を思い出した。
――そうだ、この前の空襲の時だって、生き死には紙一重だった。
 長野に発つ前に新しい住所を知らせる手紙を容子さんに書いた。東京に残る兄達に、尚さん達からの手紙の転送を頼み、私は母達と共に長野に向かった。
 尚さんと信乃さんからは音沙汰がない。出した手紙が彼らの元に届いているのかも怪しい。私はひどく心配していた。
 本土でさえ空襲でかなりの痛手を負っている。前線の日本軍はどうなっているのか。「玉砕」の報は何度も耳にしているが、そこに尚さんや信乃さんがいるのかどうかわからない。戦死公報が入ってやしないかと、不吉だと知りつつも歩行訓練と称し、それとなく二人の家に様子を見に行ったこともある。もっとも二人の実家は三月の空襲で焼けてしまっていた。信乃さんのところは群馬の親戚を頼って行ったと聞き、尚さんのところは行方が知れない。あの夜に言問橋方面に向かう尚さん一家を見た人がいた。言問橋では多数の犠牲者が出ている――あるいは。
 長野に落ち着いて一ヶ月ほど過ぎた七月、容子さんから手紙が来た。返事が遅くなったことを最初に詫び――郵便事情も悪かったので、私は気にしていなかったが――、近況が綴られていた。


『私は今、近隣の町や村を回っています。アコーディオンで簡単な伴奏を自分でつけてね。鼎君のピアノが懐かしいです。今度、東京からいらした劇団の人達とご一緒することになりました。鳥取や島根、広島の方を巡演する予定です』


 西日本でも空襲はあったが、容子さんは運よく遭わずに移動出来ているのだと言う。東京で経験しているから、神様が許してくれているのかも知れないと書かれていて、その文面からは彼女の笑みが見えるようだった。
 私も近くの国民学校や、集団疎開施設の慰問に回っているのだと返事をした。義足にもずいぶん慣れ、歩く分には不自由しなくなり、事情が許せばそちらにも行ってみたいと書き添えた。
 容子さんは無事にしているのだとわかり、ほっとする。遠い異国や洋上にいると思われる尚さんや信乃さんの様子が知れないのは仕方がない。しかし同じ国内にいて、無事を確認しあえることがどれほど嬉しいか。文章からそれがわかってもらえればいいと願いながら、手紙を投函した。
 長く苦しい戦争の日々が、やっと終わりを告げるまでには、それから更に一ヶ月を要した。

   
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