永遠の音楽
(七) アメリカ軍の空襲が日本全土に行われるようになったのは、私が足を失くした頃からだ。軍事施設のある都市が主であり、帝都・東京も例外ではなかった。終戦までの間、百回を越す空襲を受けることになる。 特に昭和二十年(一九四五年)の三月から五月末までの六回の空襲は大規模で、その中でも三月九日深夜から十日未明にかけて行われた空襲は、後に『東京大空襲』と呼ばれるほど規模も被害も甚大だった。死傷者、行方不明者は十万人を超え正確な数はわからない。東京は市街地の三分の一以上を焼失したが、医院とそれに付随した高柳家のある界隈は奇跡的に焼失を免れた。 悪夢のような三月十日の夜が明けると、怪我人が次々と運び込まれ、入りきれない人々は前庭に横たえられた。野戦病院がどのようなところか知らないが、その時の高柳医院はまさにそれであったろう。父や医学生の次兄はその対処に追われた。 その頃には私も松葉杖で何とか動けるようになっていたので、出来ることは少ないながらも手伝おうとしたが、逆に足手まといになりかねず、母や兄嫁にも及ばない。私の気持ちを慮って、「あなたもまだ怪我人なのだから」とやんわりと手伝いを断られる始末だった。 焦げた臭いの空気が、辺りに漂っていた。その時はまだどれほどの被害なのか、私にはわからなかった。勤め先の大学病院の様子を見に行ったままだった長兄が三日ぶりに戻り、町の惨状を話してくれたが、それは想像を絶する凄まじいものだった。視界を遮る建物がないことや、散乱する焦げた瓦礫だと思った物体が実は人間であったこと、焼死体が吹き溜まりのように道路の脇に寄せられている様子を聞くが、とても現実とは思えなかった。 友人や師は無事だろうか、学校はどうなっているのだろうか。そして容子さんは。 容子さんの消息はしばらく知れなかった。彼女は浅草の叔母夫婦の家に下宿していたのだが、その辺りは一番被害が酷いと聞いていた。何とか行けないものだろうかと算段したが、そんな有様の町中を不自由な足ではとても歩けないと止められた。長兄が病院の行き帰りに様子を見てきてくれたのだが、 「何もなかったよ。どこかに避難しているかも知れないから」 と言った表情は硬かった。勤め先で十日当時の状況を聞いている兄は、避難は難しかったのではないかと思っているらしいことが、そこからうかがえた。 容子さんとの再会は半月ほどしてからだった。私を訪ねて来てくれたのだ。 「容子さん!」 「良かった、無事だったのね!」 彼女は私の姿を見るや否や、客間に案内した母の目も憚らず、私を抱きしめた。私が抱き返すとさすがに母もびっくりし、お茶を出すと早々に客間から出て行った。容子さんは出征の際にも駅に見送りに来てくれたし、足に怪我を負い実家に戻って来た時も見舞いに来てくれた。周りから見れば、将来を約束していてもおかしくない間柄に見えたことだろう。容子さん自身は私のことを弟くらいにしか見てくれていないのだが、ただ私はそう見られることに悪い気はしなかった。 それよりも何よりも、彼女の無事な姿を見られて本当に嬉しかった。火勢の激しい地域にいたと思われるのに、どこにも怪我がなさそうなことにも安心した。 しかし半月見ない間に、容子さんは痩せやつれて見えた。いつもの溌剌さのないことが気にかかり、不躾にも彼女の顔をまじまじと見てしまう。それに気づいたのか、彼女はにっこりと笑顔を見せてくれた。彼女らしさが戻る。私は笑い返した。 「心配しましたよ。様子を見に行こうにもこの足では難しくって」 「見に来てくれても、きっとわからなかったでしょう。うちは焼けてしまって跡形もなくなっているから。今は叔母と二人で八王子のお寺さんにご厄介になっているの」 叔母と二人――確か叔母さん一家はご主人と幼い子供二人の四人家族だったと記憶していた。子供はやんちゃ盛りの男の子で、子守をする時は大変だと容子さんがこぼしていたことも覚えている。「二人?」と思わず聞き返して、彼女の顔色が曇ったことで意味を悟った。 「それでね、両親が心配して、戦争が終わるまで叔母と岡山に帰って来いと言っているの。いつまでもお寺に置いて頂くわけにもいかないし、叔母もすっかり気弱になってしまって帰りたがっているのよ。だから今日は鼎君の様子を見がてら、しばしのお別れのご挨拶にね」 「そうですか、帰るんですか」 「今年に入ってから東京は空襲がひどいし、今回のこれでしょう? 食糧事情も悪くなってきているし。幸い、故郷(くに)は田舎で、目ぼしい軍事施設もないから」 故郷に戻るのは四月の中頃くらいを予定しているが、色々と片付けもあるのでそれまで自由な時間が取れないだろうと彼女は続けた。専科の残り一年は休学届けを出すことにしているらしい。 「また絶対戻ってくるわ。だってまだ何も学んでいないもの。最後の一年は思い残すことがないくらい、たくさんの歌を歌いたいの。もちろん岡山に帰っても勉強は続けるつもりよ」 ようやく容子さんらしい口調と表情が戻ってきた。やつれた頬にも心なしか赤みが差したように見える。 「鼎君にもこうして会えて、気持ちが楽になったわ。笑えたのは久しぶり」 「そんな、僕は何も」 少し元気を取り戻した容子さんとは逆に、私は気持ちが落ち込んだ。 容子さんは岡山に戻っても慰問活動を続けると語った。彼女の声は人々を元気付けるに違いない。翻って自分はどうだ。義足をつけての歩行訓練は行っているものの、まだ上手く歩けないでいた。元は二階にあった私の部屋だが、階段の上り下りが大変なので一階に移された。しかし敷居程度の低い段差にも注意する有様で、自由に歩きまわれるまでにあとどれくらいかかることか。 三月十日以降、通院してくる負傷者は後を絶たない。寝る間も惜しんで働く父や兄。看護婦にも今回の空襲で被害が出て人手が足りず、母や兄嫁も忙しく立ち働いている。それなのに私は何も出来ずにいた。ままならない自分の身体が歯がゆいよりも情けない。 「どうかした?」 私が黙ってしまったので、容子さんは話を中断した。 「いえ、何でも」 こんな弱音を、とても容子さんには吐けないと思った。二人の幼い従弟を亡くし、自身も命からがら火の中を逃げ延びた彼女に、家も家族も無事だった私が弱音を吐けるわけがない。 「話してみて」 容子さんは引き下がらずに私を真っ直ぐ見た。無意識に目を逸らしたことで、何事か鬱屈していることは見透かされている。仕方なく、今の自分の情けない状況を話した。 心のどこかで誰かに聞いて欲しいと思っていたのだろう、抑えることが出来なかった。もう一人の自分が「尚さんや信乃さんなら、容子さんに弱い部分を見せなかったはずだ」と叱責する。たった一才しか違わないと言うのに、男としての器量は大人と子供ほどに隔たりを感じた。 「何も役に立たない自分が、情けないんです」 そう結んだ私に、 「いいえ、出来ることはあるわ」 と、容子さんがきっぱりと言った。 「音楽がある。音楽で人の心を慰められる。身体の傷を治すことは出来ないけれど、心の傷は和らげることが出来る。そう思わなくて?」 「容子さん」 「鼎君は事故に巻き込まれたのに、足一本で済んだじゃない。ピアノを弾く腕ではなく、ペダルを踏む右足でもなく、なぜ左足だったのかしら?」 私は俯き加減だった顔を「ハッ」と上げた。 「十日の日に私は死んでもおかしくなかった。ううん、生きているのが不思議なくらい。でも、生かされたのには意味があると思う。何も出来ないと嘆くより、何が出来るか考えるべきよ。生きていて考えることが出来るのですもの」 「前向きですね」 「こんなに人が死んでいる時代なんですもの。命があることを幸せだと思わなくちゃ、わけもわからないままに殺されてしまった人達の分も精一杯生きなきゃ。きっと生かされたことには意味があるのよ」 容子さんは言った後、少し舌先を見せて照れ笑いする。 「実は、お世話になっているお寺のご住職の受け売りなの。ご主人や子供を亡くして、今にも後を追いそうだった叔母にね、おっしゃったのよ」 「『生かされたことには意味がある』」 彼女の言葉を反復し、噛み締めるように呟いた。 「そうよ。だから私は歌い続けるの。女らしいこと一つ出来ない私が、唯一、人に喜んでもらえることだから」 柱時計が午後二時を知らせた。容子さんは音のする方向を見上げて、「じゃあ、そろそろ」と腰を上げた。 玄関の三和土(たたき)に下りて靴を履いた時、彼女は思い出したように胸ポケットから二つに折りたたんだ紙片を取り出した。それを私に手渡す。 「実家の住所なの。それと、もしあの二人から手紙や連絡が来たなら、容子は岡山にしばらく帰っているからって伝えてちょうだい」 「はい、必ず」 私は紙片を広げて書かれた住所を見つめた。地理に明るくないので、それがどの辺りかさっぱりわからない。容子さんの実家は広島との県境で、海岸線より中に入ったところらしい。大阪から更に西、広島となれば九州に近いはずだと漠然と知っていたので、その遠さを実感する。 「元気でね」 「容子さんも。手紙を書きます」 「私も」 容子さんは玄関の敷居を跨いだ。私も後に続いて、門柱まで出て彼女の後姿を見送った。 また一人、傍から仲間がいなくなる。楽しかった時間が遠のいて行く。 「容子さん!」 小さくなる容子さんの背に呼びかけた。彼女が声に気づき振り返ると、私は思い切り手を振った。彼女もまた力強く振り返してくれた。 |