永遠の音楽
(九) 昭和二十年(一九四五年)八月十五日、正午、ラジオから一生聞くことが叶わなかったはずの天皇陛下の声が流れた。大東亜戦争、太平洋戦争、第二次世界大戦、様々な呼び名を持つ戦争が終わったのだ。 日本は負けたのだった。そんなことは、とっくにわかっていた。 兵士のみならず、一般人をも巻き込んで、いったいどれほどの命を吸い上げたことか。いつまで経っても降伏しない日本に対してアメリカは、二発の新型爆弾で空襲する。八月六日に広島、同九日には長崎。一瞬にして二十万に上る人々を殺戮し、後々まで死者と後遺症を持つ人々の数を増やして行った。「あと十日、終戦が早ければ」――その惨状を見れば、誰もが思ったことだろう。 原子爆弾の被害には心を痛めはしたが、私にとっては遠い世界のことのようであり、ともあれ戦争が終わったことを素直に喜んでいた。もう空襲に怯える必要はない。東京に戻り、学校にも復学出来るだろうと。 尚さんと信乃さんが帰ってくる。容子さんも岡山から戻ってくる。彼らは休学扱いになっていた。また四人で集まることが出来る。また彼ら三人の息の合った演奏を聴くことが出来る。そう思うと、私の心は期待で沸き立った。 住める程度にとりあえず修復された東京の家に戻って一週間ほど過ぎた頃、一通の手紙が届けられる。消印は岡山。差出人は鶴原妙となっていた。「鶴原」は容子さんの姓である。嫌な予感が頭を過ぎった。 容子さんには長野を引き払う際に、東京に戻る旨をしたためた手紙を出していた。彼女からは直前に手紙をもらっていたが、日付は七月の終わりになっていて、例によって郵便事情の悪さから遅れて着いたものだった。それから一ヶ月あまり、返信が来ないことにはそれほど疑問をもたなかった。終戦間もなく混乱している時期だったし、まだまだ生活網が戦争以前になるには時間がかかるとわかっていたからだ。 紙面に目を走らせ、その文章を見つけた。 『容子は八月六日、慰問先の広島にて新型爆弾の空襲に遭い、何とか実家に戻りましたものの、十五日に息を引き取りました』 ――『息を引き取りました』? 「嘘だ!」 私は叫んで手の中で便箋を握り締めた。大声に驚いて母が様子を見に来た。「どうかしたの」と尋ねる声にも、すぐには答えられない。 耳の中で、『埴生の宿』を歌う容子さんの声が響いていた。二度と聴くことの出来ない、彼女の美しい歌声。 私は立ち尽くした。ただ立ち尽くし、握り締めた便箋を呆然として見つめた。 悪夢だと思いたかった。これは戦争の後遺症が見せている悪夢なのだ。でなければ、悪い冗談だ。誰かにそう言ってもらいたかった。 小指に、容子さんと結んだ指きりの感触が甦る。「黙って行ったりしないでね」と、私が尚さんや信乃さんのように唐突に出征したりしないことを約束させられた。私は約束を守った。しかし容子さんが「黙って逝って」しまった。 膝から崩折れて、畳に額をつけ、号泣した。 生かされたことには意味があると、その意味を容子さんなりに考え、歌い続けることだと結論し、その意志に従って、人々の荒んだ心を勇気付け癒し続けた。 あれほど生かされたことを感謝し喜んでいたと言うのに、神は何と残酷なことをなさるのか。一度は業火の中から救い出したにもかかわらず、再び業火の中に彼女を置き去りにしたのだ。これほど酷いことがあるだろうか。 私にとっての悲劇はそれだけでは終わらなかった。 十月に復学手続きのため学校に出向いた。学校はあの激しい空襲を生き抜き、変わらず元の場所に在った。敷地内全てが無事だったわけではないが、授業に支障が出るほどではなく、次々と戻る学生の受け入れに追われていた。事務方は忙しそうだったが、皆、活気付いていた。 私の休学届けを受理した年配の女性事務員が健在で、互いに無事を喜びあう。男子学生のほとんどが、まだ復学の手続きに来ていないらしい。尚さんも信乃さんも休学しての出征だった。何か情報は入っていないか尋ねると、彼女は学籍簿を繰りもしないで顔色を曇らせた。 彼ら二人は学校では有名人だった。それでなくとも男子学生は少ない。休学届けを出して戦場に行った人間となると更に人数は絞られた。学籍簿を見るまでもなく、わかる消息は把握しているのだろう。 容子さんの実家からの手紙を受け取った時と同じ嫌な予感がした。 「ヴァイオリンの久永尚之さんはまだ。でもピアノの池辺信乃夫さんは」 事務員は皆まで言わなかった。 私は唇が震えるのを感じた。それを強く引き結び、彼女を見た。 「信乃さん、いえ、池辺さんはいつ亡くなったんです?」 信乃さんの死を肯定する言葉は苦かった。 「四月だそうですよ」 後になって、信乃さんは戦艦大和に乗艦していたことを知る。戦艦大和の存在は、戦後まで極秘にされていた。昭和二十年の九月の終わりに、新聞がその巨大戦艦の存在と、沖縄に向かう途中で撃沈され、三千人以上の乗員が戦死したことを記事にした。私もそれを読んだのだが、極秘裏に建造され出撃した戦艦に信乃さんが乗っていることは、当然ながら知りはしない。 「あなた、大丈夫?」 私はよほど辛そうな表情をしていたのか、事務員が顔を覗き込んだ。「ええ」と答え、事務室を離れた。 そこから先は記憶がない。どこをどう歩き自宅に帰り着いたのかさえ。姪が夕飯だと知らせに来るまで、私は出かけた時の形(なり)のまま、灯りのない部屋の中で座っていた。目の前には信乃さんから送られて来た葉書や手紙を並べているが、それもまた自覚なき所作だった。 一枚を手に取る。出征して間もない頃の葉書だった。居所を知らせる葉書をもらって、私は黙って行ってしまったことに「ひどい」と返事を書いた。それに対して「坊主頭を見られるのは恥ずかしかったから」と、本気とも冗談とも知れない返事をくれた。 その次に届いた手紙には制服姿の写真が同封されていた。すっきり襟足は刈り上げられていたが前髪は七三に分けて撫で付けられ、もう坊主頭ではなかった。小脇に制帽を抱えた姿は映画俳優――と言うより、宝塚の男役のように端整で美しく、写真の裏に「どうだい、男前だろう? 惚れたらダメだよ」と記されていて、吹き出したことを覚えている。その写真は私の手元にはもうない。容子さんが岡山に帰った後の初めての手紙に同封した。 「今頃、二人は会っているのかな」 今度こそ、信乃さんは容子さんと向き合っているだろうか。 そうであって欲しい、そう思いたかった。そう思うことで、私は二人を失った自分の心を慰めた。 |