永遠の音楽


(六)



 私と容子さんは勤労動員や授業の合間を縫って時間を作り、二人だけで慰問活動を再開させた。私達がまた演奏し始めたことをどこからか聞きつけ、以前回ったところが「来て欲しい」と声をかけてくれる。どれほど人々が音楽に飢えているかわかった。二人減ったことは一目瞭然で、子供は無邪気に尋ねるが、大人は事情を察して何も聞かなかった。
 二人で再開した後はクラシックが中心となった。親しみ易いものとしては日本歌曲を選ぶ。以前のように流行歌や俗な曲を容子さんは歌わなかった。回ったことがある慰問先ではその手の曲の要望もあったが、容子さんは丁寧に断った。
「歌ってあげたらいいじゃないですか?」
 私が尋ねると彼女は首を振り、
「鼎君のタッチが荒れたら、尚之さんが帰って来た時に叱られてしまうもの」
と答えた。
 尚さんは私が彼らの活動に参加することを最後まで渋った。それは私のタッチが歌謡曲などを弾くことで荒れてしまうことを危ぶんでのことだった。
「尚之さんは本当に鼎君の指のことを心配していたわ。『あいつには正道を歩いてもらいたい』って。『こんな時代じゃなければ、世界にだって通用する』ともね。すごく君のこと、買っていたのよ」
「そんな、大げさだよ」
 私は赤面した。尚さんがそこまで私のピアノを評価してくれていたとは知らなかった。むしろ、自分の未熟さが、尚さん達と行動を共にするに足らないと言われていると思っていた。
「怒っていたわ。自分の伴奏ばかりしたがって困るって」
「僕のピアノは、尚さんが作ってくれたようなものなんです。尚さんの伴奏をしたいと思って、一生懸命練習したから」
「その尚之さんが認めた腕なんですもの、大事にしなきゃだめよ」




 両親が願った「在学中に戦争が終わる」は怪しくなっていた。終わるどころか戦況は悪化の一途を辿り、事態は泥沼と化す。人的にも物的にも兵力が不足し、昭和十九年(一九四四年)の十月には徴兵年齢が満十九才に引き下げられた。それは在校の男子学生のほとんどが対象となることを意味する。
 前年の第一回には華々しく壮行会が催された学徒の出陣だったが、二回目以降は開かれず、学生達はひっそりと学校を去って行った。
 そしてその年の三月で十九才になっていた私にも、いよいよ召集の連絡が届く。
 私は約束通り、徴兵検査を受けるようにと連絡が来たその日に、容子さんに知らせた。ちょうど二人して慰問に出かける日だった。
「とうとう鼎君も行ってしまうのね」
 容子さんは複雑な表情で言った。
「手紙書きます。二人からは?」
「尚之さんからは時々。でも何ヶ月前のものが送られてくるの。信乃さんはさっぱり音沙汰なし。冷たい人だわ」
 信乃さんは私にはそれまでに二度ほど葉書をくれた。厳しい訓練で手が荒れて傷ばかり作っているから、とてもピアニストの手には見えないと嘆いていた。やはり郵便事情が悪いせいか、記された日付よりずいぶん後に届く。しかしそのことは容子さんには話さなかった。
 信乃さんは容子さんに要らぬ期待を抱かせまいとしているのだと思った。ますます逼迫した戦況に命の保障はない。想いがある相手との永の別れは辛いものだ。少しでもその辛さが和らぐように、早くこんな薄情な男のことは忘れてしまうようにと、信乃さんはきっとそう思っている。
 それは尚さんもまた同じだろう。だからあの最後の日、容子さんに想いを告げなかったのだ。奥手だからと言うのではなく。
 最後の慰問で容子さんは、私のために『埴生の宿』をアカペラで歌ってくれた。柔らかで美しいソプラノは聴く人の感涙を誘った。私の涙腺も緩んだ。
 この歌声をもう一度聴きたいと思った。尚さんが容子さんの歌を耳に奥に残したいと言った気持ちがわかる。どんな辛いことになっても、その時はこの歌声を思い出そう。『埴生の宿』はイギリスの歌だが、昔から日本語歌詞で歌われ、すっかり日本の歌として認められていた。そのせいか、誰も「敵国の歌」だと咎めなかった。原文では「我が家に勝るものはなし」と歌っている。必ず家族の待つ家へ、そして容子さんのもとへ戻って来よう。私も多分、彼女を想っていたのだ。形にさえなっていなかった。姉に寄せるものと同じだったかも知れないが、想いは確かに存在した。
 家では母が食糧事情の悪い中、赤飯を炊き、私の好きなものを出来るだけ作ってくれた。嫁いでいた姉達は、甥や姪を引き連れて私の出征祝いに来てくれた。たとえ本心でないとしても、時代は喜んで息子や兄弟を差し出すことを望んでいたから、家族はそれに従わざるを得なかった。
 徴兵検査を合格し、横須賀の海兵団に行くことが決まった。見送りの駅で、母は「あれに注意しろ、これに注意しろ」としつこく言って、汽車が出るぎりぎりまで私をホームに引き止める。家族や親族に混じって容子さんの姿もあった。
 ホームのあちこちで同じような光景を目にすることが出来た。威勢の良い万歳三唱の声も聞こえてきたが、誰も心の底から万歳とは思っていまい。白々しさに気持ちはむしろ落ちてゆく。それを払拭するため、私を見送る人たちも不本意ながら万歳三唱を行った。
 私は精一杯胸を張り、不慣れな敬礼をして汽車に乗り込んだ。




 そうして盛大に送り出された私だったが、二ヵ月後には出戻ってしまった。海兵団の武器庫で小火があり、爆弾や手榴弾などに引火する事故に巻き込まれたのだ。私は吹き飛んだ瓦礫の下敷きになって、左足の膝から下を潰され、切断する重傷を負った。
 容態が落ち着くまで訓練所近くの軍病院に入院し、年の瀬が押し迫った頃、実家に転院した。出征したものの戦場に出ずして、言わば新兵の不注意で怪我をし、家に戻ることになったので、場都の悪さと言ったらなかった。
「あなたが出征してから、ご飯も喉を通らなかった。たとえ戦地じゃないところで足を失っても、不謹慎だけれど神様に感謝したいくらいよ」
 私の部屋を病室に設えて迎えてくれた母は、二人きりになったほんの一瞬にそう言って泣いた。その姿を見ると、戻れて良かったとしみじみ思った。あの事故で何人かは命を落としただろう。幸運不運は紙一重だった。
「左足なら、ペダルを踏むのにも支障はないし、本当に運が良かったわね」
 見舞いに来てくれた容子さんもそう言って喜んでくれた。母同様、「不謹慎だけれどね」と言い添えて。彼女の言う通り、失ったのが左足なので、ピアノを弾くのにそれほど不自由しない。これが腕だったらと思うと、今更ながらにぞっとした。
 翌年の二月、信乃さんから手紙が来た。彼は海軍なので、海兵団の武器庫の事故のことは知ることが出来る。私が巻き込まれたことをどこからか聞きつけたらしく、容態を尋ねる文面だった。自分は戦艦の乗員として出撃を待つ身だと副えられていた。今、どこにいて、どの艦に乗るのかは機密になるため記されていなかったが、消印から広島にいることはわかった。尚さんの消息も知らせてくれた。尚さんは年明け早々に大陸方面に出征したのだと言う。
 ついに二人とも、もっとも似合わない場所へと行ってしまうのだ。音楽を奏でる為にあったはずの両手は銃剣を持たねばならず、美しい音色を聴くに長けた耳は、砲撃の音や死に瀕した断末魔の叫びを聞かされ続けることになる。それを思うと辛かった。不純な動機――尚さんの伴奏をしたいと言う理由――で音楽を続けていた私と違い、尚さんも信乃さんも心底、音楽を愛していたのに。
 武器庫の事故に遭った時、死を身近に感じた。そこは戦場ではなく、爆発したのは自分達を狙って放たれた砲弾でもなく、周りは味方ばかりの状況であったにもかかわらず恐怖した。
 尚さんが向かった先は紛れもなく戦地で、対峙するのは敵兵ばかりに違いない。
 信乃さんが乗ろうとしているのは逃げも隠れも出来ない海原に浮かぶ艦だ。
 開戦からこっち、どれだけの人間が戦地に散り、どれだけの艦が沈んだことか。
 神様は左足を代価に私を助けてくださった。同じように尚さんや信乃さんにも情けをかけてくださらないだろうか。
「どうか、あの二人の命をお守りください。二人はきっと、僕以上に素晴らしい音楽を作り出してくれるに違いないのです」
 私は手紙を握り締め、神様に祈った。

   
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