永遠の音楽


(五)



 尚さんは徴兵検査に問題なく合格し、陸軍の連隊に一旦配属された後、一月に特別甲種幹部候補生として予備士官学校に入校すべく、愛知県へと発った。
 彼がいなくなった後、私達三人としての慰問活動は、事実上、止まってしまう。
「昨日」までの仲間が従軍することになってみて、私達は初めて戦争を身近に感じた。それが無意識の動揺を生んだのだと思う。一人抜けたことによる精神的な穴を埋めることが出来なかった。加えて、いずれは信乃さんや私も尚さんの後に続くだろうと言う確信に近い推測が暗い影を落とし、集中力を奪う。尚さんがギリギリまで話さなかったことが理解出来た。
 学校と言う空間が変わってしまったことも、慰問活動を停止した原因の一つであった。勤労動員での拘束が長くなり、それでなくとも減っていた授業やレッスンの時間は、最低の域に達していた。自由になる時間は、本来学ぶべき音楽を優先するようになり、専攻も学年も違う私達三人が集まることは少なくなって行くのは自然の流れだった。
 そして年が明けて二月、二十歳の誕生日を迎えて間もない信乃さんもまた、徴集されて学校を去った。
 私と容子さんは尚さんの時同様、「今日が最後」のその日まで、最後の日だったことさえも知らされなかった。尚さんは私達に見送りをさせてくれたが、信乃さんは何も言わずに行ってしまったのだ。
「容子さん」
 夕方遅くに容子さんが私を訪ねて来た。玄関先で良いと言って、彼女は襷がけした布袋の中から白い封筒を出した。彼女から宛名のないそれを受け取った私の手は、いっぺんに冷える。裏返すと特徴ある右上がりの文字で、「池辺信乃夫」と差出人の名が書かれていた。
 嫌な予感がした。封は開けられていて、容子さんがすでに読んでいることがわかる。私は中の便箋を取り出した。


『しばらく留守にするから、後はよろしく。カナちゃん、帰ったら約束のブラームスを頼むよ』


 信乃さんの口調そのままの、たった二行の文章。文面に落とした目を上げて容子さんを見た。彼女の色白の肌が、電灯の光を受けて更に白くなっている。うっすらと青みを帯びた影が、頬に差していた。私と目が合うと、彼女には不似合いな皮肉めいた表情が浮かんだ。
「あの阿呆は行ってしまったわ」
 そう言った後、無表情になる。
 動員先が違えば、二、三週間、顔を合わさなかった。専攻が同じでも、練習室の小窓や廊下の向こう側などで信乃さんの姿を見かけるのはほんの時折だったので、徴兵検査などで登校しなかったことは知る由もない。それは容子さんとて同じだろう。彼女の専攻とは棟が違うし、姿を見かけないことに疑問を持たなかったはずだ。
「帰ったら、その手紙を叔母から渡されたの。お昼頃に来たらしいわ。すぐに彼の家に行ったのだけど、横須賀に発った後だった」
 信乃さんの家に行った足で私のところに来たのだと言った。手紙の文面には私の名前もあったからだ。
 容子さんは、尚さんの時以上に取り乱すものだと思っていた。彼女は信乃さんのことを異性として好いていたに違いないのだし。しかし彼女の目に涙はなかった。頬にも流れた跡はなかった。あるいは流すだけ流して乾いてしまったのかも知れない。憔悴してはいるが落ち着いていた。尚さんが召集された時、すでにこの日を覚悟していたのだろう。それだからこそ、涙がないことが逆に痛々しく感じられた。
 私は信乃さんの文面に再び目を戻した。
「鼎くんは黙って行ったりしないでね」
 文面に見入っていた私に、容子さんがはっきりした口調で言った。
「容子さん」
「もう黙っておいていかれるのは嫌なの。だから、約束して」
 容子さんは右手の小指を私の前に突きだした。引き結ばれた唇に、有無を言わせない意志が見て取れる。私が指を出すまで、引っ込める気配はなかった。
 彼女の細長い小指に、自分の小指をかけた。途端に、キュッと強く小指同士が結ばれる。子供じみた行為ではあるが、裏切ることの許さない意味を持つ力強さだった。
「ねえ、またみんなに聴いてもらいましょうよ。私、歌うから、鼎くんは伴奏をしてくれない?」
 容子さんは結ばれた二つの小指を見つめた。
「うん」と頷いて、私もまたその小指を見つめた。

   
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