鄙某日(後編)


 静生が教鞭を取った中等学校の先輩教師で、文理科大の同窓でもある田井中が訪ねてきたのは、十一月に入って間もなくのことであった。静生が帰郷する際に駅まで見送りに来てくれたのが最後だったから、二年ぶりの再会である。
「お久しぶりです。こんなところまで、わざわざどうしたんです?」
「まさかこんなに遠いとは思わんかった。駅から一時間も歩くしかないって知っとったら、来んかったよ」
 父と共に畑に出ていた静生が佳代の知らせで戻ると、田井中は母屋の囲炉裏端に少々疲れた面持ちで座っていた。この辺り特有の山からの吹きおろしに凍えたのか、囲炉裏に被さるように猫背になって、小柄な体格が一層縮んで見えた。
「君はすっかり百姓だなぁ」
 田井中は静生のなりを見て、感心した風に言う。
 佳代は来客用に茶を入れた後、静生の代わりに畑へと向かった。残った二人は近況などを話し合った。田井中は佳代を見て静生が結婚したものと思ったらしい。静生が亡弟の嫁だと盛大に否定したので、田井中はおおらかに笑った。
「嫁さんがいるなら、今更身動きも取りにくかろうと思たが」
 田井中はそう呟いた後、合点したように一人頷くと、静生の方に身体ごと向き直る。
「もう一度、教職に就く気はないか?」
 囲炉裏でようやく暖まり、背筋が伸びていつもの姿勢のよい彼に戻っていた。さきほどまでの穏やかな表情は消え、真面目な眼を向ける。
「教職に?」
「一日に発行された官報は、もう読んだか?」
 ここでは官報はそうそう読めるものではなかったが、木本の家は静生が戻ってから新聞を取っていたので、田井中の云わんとすることが推測出来た。静生は、「兵役法改正のことですか」と逆に尋ね返した。
 戦況がますます厳しくなり、年々、召集の条件が広げられている。十月一日には在学徴集延期臨時特例が公布され、兵役猶予の大学生と高等専門学校生は、理工系と教員過程系の学生以外、徴兵延期措置が撤廃された。そしてほどなく兵役法の改正がなされ、四十歳までだった兵役対象年齢が満四十五歳に引き上げられたのである。これによって静生にも召集がかかる可能性が出て来た。
「理数系、技術系の教師は兵役が免除されるともっぱらの噂だ。君はもともと化学専攻やったし、教えることももちろん出来る。うちの中学ではないんだが欠員が出てな、心当たりがあればと頼まれたんだ」
「それでわざわざ」
「今のままやったら、すぐにでも召集がかかりかねん。それでなくとも、君には前科があるからな」
 『前科』とは教師を辞めたきっかけ――出征する元教え子に「生きて戻れ」と言った件である。教員に対する指導不足の責任を問われかねないため、校長も教頭も一教師が辞めた理由は報告していないが、どこから漏れるか知れない。それでなくとも教師は、昔から共産主義への傾倒=アカかぶれを疑われ、当局の見る目は厳しかった。官憲には裏の名簿があって、そこに名前が載ると悪い意味で優先的に戦場に送られるとも実しやかに言われていた。
「お気遣い、ありがとうございます。わざわざこんな山奥に足まで運んでもらって」
「まさか断る言うんやないやろうな?」
 田井中は驚いた風に言った。今は就かずに済むなら兵役に就きたくないのが、誰しもの本音だろう。静生は田井中の言葉に頷いた。
「ここには年寄りと女子供しかおりません。百姓としてはまだまだ力不足やけど、こんな僕でも少しは使いものになるんですよ」
「戦争に取られたら一緒じゃないか。親父さんも教師に戻れと言うやろう?」
 この話を実生に聞かせたなら、きっと田井中の意見に賛成するだろう。すでに三人の息子を戦争で失っている。残った息子を召集されるくらいなら、たとえ遠く離れ、田畑の仕事で自身が難儀しても、教職に戻れと言うに違いなかった。もともと父は静生が教師を辞めたことに反対だった。文理科大学を卒業して、世間的にも立派な職業についた自慢の息子だったからだ。
「今求められていることを、僕は子供達に教えられんのです。きっとまた、前と同じことを繰り返してしまう。そうなったら紹介してくだすった田井中さんにご迷惑をかけることになるでしょう」
「木本」
「もし保身のために教職に戻ったとして、本来僕が召集されるところ、誰か別の人間にそれが回っていくことになる。それはかつての教え子かも知れんし、その子の父親かも知れん。その負い目を背負う強さは、僕にはないんですよ」
「惜しいよ、君こそ教師に向いてると思うのに。前のことかて、何も間違ってない。生きて帰ってこそ、後々国の役に立つ。国のためになる人を育てることこそが、我々教師の仕事でもあると言うのになぁ」
 腕を組み、田井中は溜息をついた。
 静生が固辞したので、田井中はそれ以上教職への復帰を勧めなかった。「気持ちが変わったらいつでも相談してくれ。僕が辞めて君を後任に推すから」と冗談とも本気とも取れる念押しをして、彼は帰って行った。その後ろ姿に静生は深々と頭を下げた。




 新しい年の訪れは、見慣れた風景も少しばかり晴れやかに見せた。時節柄、戦前のような迎春準備は出来ず、不安も付き纏う正月となったが、どの家もこの時のために取っておいた白米を炊き、ささやかながら新年を祝う。そして氏社への初詣には、戦争の終わりを切に願った。
 穏やかに三が日が過ぎ、松の内も間もなく開ける一月六日に、それはもたらされた。
「木本静生さんですね?」
 一目で役所の人間だとわかる男が夕方、静生を訪ねてきた。応対に出た静生は、その男が何者か安易に想像出来た。おそらく役場の兵事係であろうと。
 自分がそうだと名乗ると、彼は鞄の中から薄紅色の紙を取り出した。それから両手で持ち直し、「おめでとうございます」とだけ言って静生の前に広げて差し出す。その紙には「臨時召集令状」と書かれていた。いわゆる赤紙である。静生は黙って、しばらくその文字を見つめていた。
「ありがとうございます」
 我に返ってその紙を受け取った。
 十一月の終わりに徴兵検査がなされた時点で、ある程度覚悟をしていた。だから戸惑いはなかった。それでも心は正直で、静生はじわじわと暗影が自分を包むのを感じた。
 二週間後に入営せよとあり、正月気分は吹き飛んだ。家の中には重い空気が流れ、幼い征一だけが静生の召集を無邪気に喜ぶ。子供達にとって兵隊は国を守る英雄であった。都会と違って、田舎では戦争以前とそれほど生活に変化がなく、ラジオで流れてくる美化と誇張に彩られた戦果と、学校で教わる軍国の美学が、戦争の負の側面を覆い隠しているのだから無理からぬことだ。
「おっちゃん、兵隊さんになるん? すごいなぁ、すごいなぁ」
 父親の征雄が戦死した時、征一は物心がやっとつくかつかないかで、死の意味も理解していなかった。今も理解するのは難しいだろう。その上、「父親は国を守って死んだ英雄」と教えられれば、いない寂しさより憧憬が強くなるものだ。幼友達に自慢しに行くと言うのを、佳代は常にないきつい口調で推し留めた。叱られたように感じた征一は、わけがわからず半べそをかくが、佳代は硬い表情で押し黙ってしまった。
「小豆が少しあったじゃろ。今夜はそれで赤飯炊いたってくれんか」
 実生がそう言うと、佳代は「はい」と小さな声で答え、征一の頭を一撫でして台所へと向かった。征一もその後を追い、囲炉裏端には実生と静生の親子が残る。
 静生は自分が今どんな顔をしているかわからなかった。父は普段と変わらず口元を引き結び、日に焼けた浅黒い頬を静生に向けている。
「おまえも行くんやなぁ」
 どれくらいか経って、実生は火箸で囲炉裏の火をつつきながら呟いた。
「静生、佳代を嫁にもらわんか?」
「お父ちゃん」
 意外な父の言葉に、火箸の動きを見ていた静生は顔を上げる。
「何、言うてるんです。佳代ちゃんは征雄の」
「征雄は死んだ。もう帰ってこん」
「だからって」
「せめて嫁をもろて、何かここに遺して行ってくれ」
 三人の息子を亡くし、生まれた時から見知っている近所の青年達も次々と帰ってこない現実が、いつしか父の中で出征すなわち戦死の予定調和が出来上がっているのかも知れない。静生は帰って来ないものと思っている。そして是が非でも生きて戻れとは言わず、形見を遺して行けと言う。
「お父ちゃんは僕が戻らんと思てるのに、佳代ちゃんにそれを望むんか?」
「佳代はおまえを好いとる。嫌とは言わんじゃろう」
 静生は首を振った。
「生きて帰って来たんならまだしも、今から出征する言うのに、結婚してくれとは言えんよ」
「出征前に嫁をもらうんは珍しいことやない。それに出征があってものうても、折みて言うつもりやった」
 世間ではありがちではあった。召集令状が来て見合いをして即座に決める。夫はすでに出征し、花嫁一人が写真に納まると言うのも珍しくない。そこには好いた好かれたなどの感情はなく、跡取りや子孫を遺すことが優先されるのだ。たとえ子はなせずとも結婚した事実は残り、立派に成人して生涯を終えた証にもなる。
 静生は首を振った。
「佳代ちゃんと結婚はせんよ。この家には征一がおる。あの子の中には僕の血も流れとるから、子供もおんなじだ。僕の子供を遺す必要はないよ」
「静生」
「それに、僕は帰ってくるつもりやのに、そんな出鼻をくじくようなこと、お父ちゃんも言わんで」
 静生は父を見て笑みを作る。実生は囲炉裏の火に目線を落としたままで、静生を見なかったが。
「こうして召集がかかるってことは、この年でも健康と言う証拠や。立派な身体に産み育ててくれたことをありがたく思ってます。どこまで役に立つかは知れんけど、精一杯勤めてくるつもりだから、僕が帰って来るまでどうかお父ちゃんも元気でおってください」
「…帰ってきたら、佳代を嫁に迎えてくれるか?」
 どうしてそこまで佳代との結婚にこだわるのだろうか。あるいは婚家に縛り付けておくことへの負い目がそうさせるのだろうか。無口で、これまで静生が独身を通していても何も言わなかった父が、こうも勧めてくるのは珍しい。
「それはまた、帰ってから」
 静生は明確な返答は避けた。答えは「否」と決まっていたが、息子を全員戦地に送り出す親の気持ちを考えると、それを口にすることは憚られた。
 居間と勝手場を隔てる障子の向こうで、かすかに影が揺らぐ。佳代が聞いていたかも知れないと思った。
 


 
 二週間などあっと言う間だった。指定された入営地までの距離もある。用意やら身辺の整理やらをしている間に、気がつけば出発が明後日に迫る夜になっていた。
 実生に「帰ってくる」とは言ったものの、それが成されない可能性も考えている。その場合、少しでも残された家族の手を煩わせたくなかったので、人に譲れるものの――主に本などだが――目録を書いた。
(形見分けみたいだ)
 あらかた片付けを終えると、書いた目録を机の引き出しに仕舞う。その引き出しの中に征雄の婚礼写真があることを思い出し、取り出した。
 真ん中の小さな破れ目で縦に山折にした。
(おまえや和雄や昭雄は、どんな気持ちでいたのかな)
 写真を首から提げた守り袋の中に入れる。その古びた守り袋は逆子だった静生が無事に生まれるよう、死んだ母が氏神でもらってきたものだ。教師をしていた頃も肌身離さず持っていた。もちろん今回の出征にも持って行く。守り袋の中に入れておけば写真を失くす心配もない。逝く時は共に逝ける。
 しかし静生は思いなおし、袋の中から写真を取り出して元通りに広げた。そして再び引き出しの中に入れる
(帰って来た時に、またここを開ければいいんだ。生きて帰って、ここに座って)
 引き出しを閉める際、征雄の隣に座る花嫁姿の佳代が目に入った。
 佳代との結婚について、実生はあれ以来口にしない。彼女は聞かされていないのか、いつもと変わらぬ様子で家や畑の事をこなしていた。帰って来たなら、父はその話を蒸し返すかも知れない。それはそれでまた悩みの種だが、悩めると言うことは幸せなことなのだろう。無事に帰ってこそ悩めるのだ。
 下の納屋部分で音がした。冷たい外気を感じた静生は、階段状の梯子の上から見下ろす。戸は閉まっていたが、屋内が冷えているので、確かに誰かが開けたものと思われた。すでに夜は更け父は就寝している時間である。納屋に用のある者は他にはいないはずだった。泥棒などついぞ聞いたことのない村であるし、よもやと思ったが静生は様子を見に階下へ下りた。
 少し戸が開いている。そして外に人の気配を感じた。静生は一応身構えて、確認のため戸を引いた。
「佳代ちゃん」
 戸袋を背にして佳代が立っていた。
 


 
 夜這いの風習が少なからず残るとは言え、噂にはなる。その手に関して男には寛容でも、女に対しては時として厳しい。独り身同士であれば、すなわち婚前交渉と見なされ、過去には気に副わぬ相手との結婚を余儀なくされた例もあった。ゆえに寡婦とは言え充分に若い佳代を、こんな時間、自室に招き入れることを静生は迷った。
 佳代の様子は話があり気に見える。それとわかりながら「母屋に戻れ」とは言えなかった。迷っている間に、佳代が「話がある」と先に言ったものだから、尚更である。
 風は防げても足元からしんと冷える納屋では、凍えて話どころではない。
「ここは冷えるから、とにかくお上がりよ」
 静生は佳代にそう言って、階段を上り始めた。
 火鉢に炭を足し、文机の前に敷いた座布団を佳代の方に滑らせて勧めた。彼女はそれを脇に置いたまま使わなかった。
「話って何?」
 膝の上に置いた手に目を落としていた佳代は、静生の言葉に促されるように顔を上げ、キュッと唇を引き結び答えた。
「嫁として、お帰りを待ってたらあきませんか?」
 佳代は再度、唇を引き結んだ。
「それは親父に言われて来たんか?」
 佳代は芯はしっかりしているが、おとなしい人である。このようなことを自分から言い出す性質ではないと静生は思った。だからまっさきに脳裏に浮かんだのは実生の顔であり、あの話をされたのではと勘繰った。
「いいえ、うちが待っていたいんです」
 佳代は首を振り、続けた。
「うちは征雄さんの嫁で、まだ亡うなって三年しか経ってません。征一もおるし、大学出のお義兄さんの嫁として合うた女やないことはわかっています。お義兄さんが『要らん』言うのも仕方ない」
「佳代ちゃん」
 佳代はやはり、あの日の父と静生の話を聞いていたのだ。あるいはそれ以前に、実生から話があったのか。
「僕はそんな理由で、親父の話を断ったんやないよ?」
 静生は笑んで見せた。極度に緊張している佳代の気持ちを、少しでも緩めたかった。
「この前言うたよね? 佳代ちゃんはこの家に縛られる必要はないんだよ。まだ若いんだから、僕やのうて別の人と一緒になって、新しい所帯持ったらいい」
「お義兄さん」
「僕の方こそ佳代ちゃんには似つかわしくないよ。十四も年上やし、征雄のように頼れられる性質やない」
「そんなことありません。年の差なんて全然感じないし、うちの従姉かて十七も年上の人に嫁つぎました。それに征雄さんがよう言うてた。シズ兄さんは優しいて。我慢強いし人の痛みもようわかる人やて」
「征雄が?」
 征雄が自分をどう評していたのかを、思いがけず聞かされて、静生は動揺した。初めて知る話だ。
「うちもそう思います。会う前は中学校の先生で、校長先生になれるかも知れんくらいのお人や言うので、厳しい偉ぶってる人かと思てました。でも違った。征雄さんがいつも言うてたとおりに優しくて物知りで。和雄お義兄さんや昭雄さんが亡うなった時、この先自分にも何かあったら、きっとお義兄さんがここに戻ってくるから、頼りにしろと言うてました。腕っぷしは強くないけど、きっと力になってくれるって」
 佳代の口から語られる征雄の言葉で、静生の心はますます色めき立つ。しかしそれは表に出せる感情ではない。
「今度は僕に何かあるかも知れない」
 静生は気を静めて言った。
「こんな年寄りまで召集するほどになってるんやから、戦況は厳しいはずだ。おそらく僕は外地に行かされる。親父には帰ってくると言うたけど、戻れない率の方が高い。佳代ちゃんはまた未亡人になってしまうよ?」
「それでもいいんです」
 佳代はきっぱりと言った。
「お義兄さんの、静生さんの嫁として待っていたいんです。…万が一、戻って来なかったら、静生さんのお墓を守って行きたいんです。あきませんか?」
「せっかくの佳代ちゃんの好意だけど、僕には受け取れん」
「うちのこと、嫌いですか?」
「嫌いやないよ。妹やもの」
「妹…」
「征雄の奥さんやもの、妹には違いないよ。そうとしか見られない」
「静生さんはあの人が生きてる時、一度も帰って来んかった。うちらが一緒のとこ、一度も見てないんに?」
「うん。夫婦らしいしてるとこは一度も見たことないけど、でも征一がおる。二人が夫婦やった証の。あの子はこまい頃の征雄そっくりや。佳代ちゃんを『おかあちゃん』と呼ぶたびに、征雄は結婚していたって思い出す」
 思い出すのではない。
(思い知る)
 静生は心の中で言い直した。征雄は佳代を愛し、その身体を抱いたのだ。そうして征一は生まれた。実家に戻ってしばらくは、その事実を目の当たりにすることが辛かった。
「今はここにあの子はいません。今夜だけ、今夜だけでいいんです。うちを女として見てくれませんか?」
 佳代はそう言うと、綿入り袢纏の結び目とモンペの腰紐を解き、縞木綿の上着の合わせに手をかけた。
「佳代ちゃん?!」
 今しも胸元を広げようとする佳代の手を、静生は慌てて掴んで止める。佳代はそのまま静生の腕の中に倒れ込み、胸に顔を埋めた。
「嫁にしたくないならそれでもいい。せめて、静生さんの子をうちにください」
 くぐもった声が、静生の胸元から上がってくる。佳代の細い肩が腕の中で震えていた。
「声でうちとわかって萎えてしまう言うなら、声は出しません。女郎を買うた思て抱いてください」
 その『本気』を静生は申し訳なく思った。
 自分は佳代の想いを受け入れることも、願いを叶えてもやれない。しかし静生がどう理由付けしようと、女としての最後の手段に出ている佳代には通用しないだろう。ここまで思いつめた彼女に対し、静生はどんな方便も思いつかなかった。
 静生はやさしく佳代の肩を掴み、自分の胸から押し戻す。それから半分脱げかかった佳代の袢纏を肩まで引き上げた。
「たとえ佳代ちゃんやのうても、僕は抱くことは出来んよ」
 涙に濡れた頬を指で拭ってやる。
「生きて…帰れんかも知れんから?」
 佳代は頬にある静生の指に触れた。
「それは方便。僕は女の人を抱くことが出来んのや」
 静生の指の温もりを愛おしむように閉じていた佳代の目が開く。
「好きになって触れたいと思うのは女の身体やない。僕は、そう言う性質の人間」
 佳代の頬から手を離す。それから少し距離を取って座りなおした。
「…それも方便でしょう?」
「これは真実(まこと)」
 静生は文机の方に手を伸ばし、引き出しを開けた。中からあの婚礼写真を取り出すと、佳代の前に置いた。佳代はそれを手に取り、「うちらの」と呟いた。
「それが僕の好きな人」
「え?」
 佳代が静生を見た。静生は笑んだ。
「亡うなって三年経つけど、まだ忘れられん」
「まさか」
 静生は真ん中の折り目の端にある破れ目を指差した。
「半分に切ってしまおうかと思った痕やよ」
 佳代の手の中から取り上げ、静生は写真に目を落とした。
「これを送って来られた時、どれほど辛かったか。どれほど佳代ちゃんに嫉妬したか知れん。写真そのものを破り捨ててしまおうか、征雄だけを残そうか。僕、醜いやろう?」
「静生さん」
「好きになったんが男なんはともかく、母親は違ごても血は繋がっとる弟やなんて、畜生道にも悖る。でも好きな気持ちは抑えられんかったよ。もしかしたら弟として可愛い思てるんの延長かも知れんけど。でも征雄の姿はまだまだはっきりと思い出せる。声も何もかも」
 写真の征雄を指先で撫でた。
「死んでしもたから、僕の中には良い思い出しか残ってない。僕の心は征雄が持って行ってしもた。そやから佳代ちゃん、僕の帰りなんか待たんで、」
 静生が言い終わらないうちに、佳代は立ち上がった。頬を濡らしていた涙はすっかり乾き、表情は消え、色を失っている。静生の秘めた想いをはからずも聞かされて、戸惑った末の無表情なのか。しかし佳代の目にはまたすぐに涙が溢れ、両手で顔を覆うと、そのまま階段を下りて行った。その間、一言も発しなかった。
 さぞかし幻滅しただろう。今夜ここに来るのは、かなりの勇気が要ったはずだ。思いつめて身を投げ出した静生には好きな相手がいて、それは自分の死んだ夫だと言われては動揺しないわけがない。それも禁忌の恋だ。軽蔑されて当然である。
「でも、それで良いんだ」
 手の中の征雄に向けて呟いた。
 


 
 家を出る朝になった。この戦争が始まった頃、人々は町や村を上げて出征を見送ったが、戦況の悪化と共に派手な見送りは禁止された。入営地へは軍服や国民服ではなく平服で向かうこととされ、事情を知らぬ者の目にはただの外出と映る。
 静生もその例に漏れない。父の実生は朝飯の後、これと言った言葉もかけず畑仕事に出かけた。征一は国民学校にいつも通り登校し、佳代は朝の片づけをしている。静生はそれらを見計らい、用意された弁当を手に表に出た。
「お義兄さん」
 家の前の道に出ようとした静生の背後で声がした。振り返ると、佳代が駆け寄ってくる。
 あの夜――一昨日の夜以来、ほとんど言葉を交わさなかった二人だった。
「お帰りをお待ちしてます。そやからどうか、ご無事で」
「佳代ちゃん」
「妹として、このうちのもんとして、お義兄さんのお帰りを待ってますから。おとさんと征一と三人で、ここで」
 佳代はそう言うと、深々と頭を下げた。
「ありがとう、行って参ります」
 静生は佳代の肩に手を置き応えた。
 歩き始めて振り返ると佳代はまだその場にいて、静生を見送っていた。棚田の道を行きながら視界に家が入るたび、彼女の姿が確認出来た。おそらく静生が見えなくなるまで見送ってくれるだろう。
(おまえは良い人を嫁にもらったんだな)
 静生はあらためて思う。
 佳代から意識を離し、生まれ育った故郷を見回した。
 緩やかな山の斜面を、不揃いな形の棚田が谷間の沢に向かって連なる。今は山からの吹きおろしを受ける冬枯れ色の稲田も、もうしばらくすると蓮華草で赤紫に彩色され、目を楽しませてくれるだろう。田植えの季節には引き入れられた水が空の青と浮かぶ白い雲を映し、程なく育つ苗が緑の絨毯を作る。そうして季節が進み実った稲穂が、山風で黄金の波を作り揺れるのだ。
(また見られるだろうか)
 静生は鮮やかな色の記憶を辿り、しばしの別れを惜しんだ。
 
 
 
 東京から離れること南に約千百キロメートル。その火山の島を米国が日本本土攻撃の戦略的要地と意図していることを把握していた日本は、一九四四年には二万二千人余の兵力を配備する。多くは三十、四十代の年配者と十代の少年兵であり、彼らは草木も水も乏しい黒い大地に、充分な物資も与えられないまま送り込まれた。
 一九四五年二月、米軍の上陸作戦が決行され、一ヶ月以上に渡る激しくも悲惨な攻防戦の末、日本軍は守備兵力の九十五パーセントを失い玉砕した。
 戦後七〇年を経た今も、未だ一万柱を越える遺骨が島に残され、故郷と会いたい人々への想いを抱いて眠っている。
 
 



 
 参考資料
 兵役法中改正法律・御署名原本・昭和十八年・法律第一一〇号
 官報第5330号. 1944年10月19日
 硫黄島の戦い(ウィキペディア)
  (2015.08.13)
   
 (前編)  top