「里わの火影も、森の色も、田中の小路をたどる人も、蛙のなくねも、かねの音も」
少々音程に難があり、昔から歌は不得意で口ずさむことなど稀だった。しかしたまたま壕を出て見上げた空に月を見た時、何だか無性に歌いたくなった――連日の炎天下の敷設作業で、身体は疲れ切っている。いつもなら泥のように眠っている時間であると言うのに。
一回り年の離れた弟と棚田のあぜ道を歩きながら、よく『朧月夜』を歌った。「下手くそやなぁ」と弟は手厳しく、静生の声を消す勢いで一緒に唄ってくれたことが懐かしい。
浮かぶ月ははっきりと明るく、朧とは言い難かった。
人家の灯りなど見えない。
草木は少なく、虫の音も蛙の声も聞こえない。
火山特有の硫黄臭が非現実的で、見慣れた風景を思い出したかったのかも知れない。この歌の中で描かれるそれは、静生が生まれ育った故郷そのものだった。
「さながら霞める朧月夜」
刈り取った最後の稲を束ねて稲木にかけると、静生(しずお)は腰に手を当て、身を反らす。朝から何軒かの稲刈りを手伝ってきたせいか、関節が身体の中でバキバキと鳴った。
「ご苦労さんやったねぇ。シズちゃんのおかげで何とか今日中に刈り取り出来たわね。疲れたでしょう?」
顰めた顔を悟られぬよう手ぬぐいで汗を拭う振りをする静生に、手伝い先の井川フミが声をかけた。
「ああ、いや、それほどでも無ぁですよ」
「うちだけなら大したことやないけど、今日は山本さんとこや妙さんとこも手伝ってきたんでしょう?」
山間の集落であるこの村に平らな土地はほとんどなく、田畑は山の斜面に作られていた。そのために一つ一つの面積は小さかったが、開墾出来る土地は長い年月をかけし尽しているので、数は多い。田植えや収穫の時期になると、村中総出で他所を手伝うのは昔からの倣いである。しかし人の手はめっきり減っていた。戦争が働き盛りの男手を奪っていくからだ。
厄年を迎え老境に片足を突っ込んでいる静生など、まだ若いほうである。加えて一昨年の春まで町の中等学校で教員をしていたせいか、一日中陽に晒されて野良仕事をしている者よりも若く見えた。多少逞しさに欠けるものの、年寄りや女子供からすれば「働き盛りの男」と大差なく、重宝がられている。
フミは静生よりも五つ年上の幼馴染で、夫を早くに亡くしていた。四人の息子は次々と召集され、井川家はフミと老いた姑、娘が残された女所帯である。ここの前に手伝った二軒の家も、似たり寄ったりの境遇だった。
「困った時はお互いさまやさかい、気にせんで。僕はまだまだ田んぼや畑のことはわからんし、いろいろ教えてもらえて助かるよ」
「だいぶ慣れた?」
「ぼちぼちかなぁ。一昨年は使いもんにならんかったし、去年は言われるがままやったから。ちっとはマシになってたらいいけど」
「ここんとこ男手がさっぱりになってしもうたから、ほんま助かっとるんよ。シズちゃんとこもそうと違う? おとさん、三年前に腰いわしてから、畑のことするの大儀そうやもん。佳代ちゃんとこんまい(幼い)せいちゃんでは手が回らんかったやろうし。おらんよりはましやったと思うわ」
「『おらんよりはマシ』かぁ」
フミの言葉に静生は苦笑した。反論は出来ない。二つの師範学校から文理科大学を経て教職を辞するまでの二十余年、下に五人の弟妹がいて働き手には不自由しなかったこともあり、ほとんど帰省しなかった静生は、農家に生まれたものの百姓仕事とは無縁だった。甥で八才になる征一の方が、野良仕事においてはよほど役に立つくらいだ。そんな心の内を悟ったかのように、「『やった』って言うてるでしょう」とフミが返した。
ふと視界に動くものが入り、静生は反射的に目線をフミから移す。何段か下の家から人が出ていて、それが動くものの正体であった。先立って出た国民服の男が、後から出て来た家主と思しき婦人に向け敬礼している。婦人は深々と頭を下げそれに応えたが、頭を上げる際に顔を両手で覆った。男は彼女の肩を優しく叩き再度敬礼をすると、その場を後にする。婦人は膝から崩れて座り込んだ。
「山本さんとこのシゲちゃん、駄目やったんかいねぇ。生まれた子の顔も見んうちに」
静生の視線の先に気づいてフミが言った。「山本さん」は午前中に刈り入れの手伝いに行った先で、「シゲちゃん」とはその家の長男の繁夫である。静生の末の弟・昭雄とは同級で仲が良かった。静生と十五才年齢差があり、記憶の中の繁夫は何度思い返しても、昭雄共々まだあどけない少年だった。その二人が四年ほど前に召集され南方に出征していると聞いた時、そして今、繁夫に戦死の知らせが来た様子を見てさえも、静生には戦争と彼らとが結びつかなかった。昭雄は出征して間もなく、現地で病を得て鬼籍に入っていた。
「どないしたね?」
フミの姑のハツが盆に湯気の立つ湯呑と、お茶請けの萎びた沢庵を二切れ乗せて近づいてきた。嫁から繁夫がどうやら戦死したようだと聞き、曲がった腰を伸ばし伸ばし、下方の山本家を見やった。
「したら葬式はいつになるんかいねぇ。つい先だっては友太郎さんとこの次男坊のを済ませたとこやのに。名誉なことかも知れんけど、残されたもんは辛いわね」
ハツは腰を元に戻し、嫁を見て溜息をついた。フミの出征した四人の息子のうち、一人失っている。その時の辛い気持ちを思い出しているのかも知れない。
「日本はどうなっとるんやろうなぁ」
ハツはぼそりと呟いた。フミに「おかさん、滅多なこと言わんで」と嗜められ盆を受け取ると、大儀そうに元来た道を戻って行った。
昭和十六年の支那事変に端を発し、日本が戦争状態に入って丸三年になろうとしている。
初めこそ、破竹の勢いで大陸および東南アジア方面を制圧して行った日本軍だったが、アメリカと開戦し、昭和十七年六月にミッドウェー島で大敗を喫した後の戦況は、実際のところ果果しくない。大本営統制下にあるラジオや新聞は戦果のみを大々的に報じ、敗北には口をつぐんだ。しかし経済状況の悪化で日々の暮らしは確実に苦しいものとなっていたし、出征して行く人間の見送り、そしてその物言わぬ「帰還」が日常的な風景となって行くにつれ、人々に日本の置かれた現状を薄々と知らしめる。
(こんな長閑な田舎でも、それを感じるのか)
湯呑を啜ると、味がないはずの白湯を苦く感じた。どこにいようと戦争の影は付いて回るのだと痛感する。
と、沈みかけた気持ちを引き揚げるような、賑やかな声が聞こえてきた。遊びの帰りと思しき数人の子供達が通りかかったのである。男児は一様に額に鉢巻、腰には棒きれと言うチャンバラのごっこ遊びのいでたちだ。
「おっちゃーん」
その中の一人が静生の元に走り寄った。静生の八才になる甥の征一で、鉢巻がずれて目を覆うのを邪魔とばかりに外すと、にっこりと笑って見せる。生え変わりのために一本抜けた前歯の部分が、静生の笑みを誘った。
「今から帰るんか?」
静生が尋ねると、征一は大きく頷いた。
「ほならシズちゃん、あとはこっちで出来るからもう帰って。今日はほんとにありがとね。あんたとこは明後日やっけ? タミを手伝いに行かせるから」
静生の手の湯呑みを引き取りながら、フミが言った。
「フミさん、ええよ。親父と僕と佳代ちゃんで手は足りるから」
「オレもおるで!」
傍らで征一が存在を主張した。
「そやった。征一も手伝ってくれるから、うちは大丈夫」
静生が毬栗頭を撫でてやると、征一はまた嬉しそうに前歯の無い笑みを見せた。
「なのはぁなばたけぇに いぃりぃひうすれぇ みわたぁすやまのぉは かぁすぅみふかしぃ」
静生と繋いだ手を大きく揺らしながら、征一が可愛らしい声で歌う。ところどころ調子が外れて聴こえるのは、歌が得意ではない静生が口ずさんでいるのを、そのまま覚えてしまったからだ。学校で正しく教えてもらっても直そうとせず、調子外れであろうが、季節外れであろうが征一は気にせず、静生と一緒の帰り道では必ず『朧月夜』を歌った。
そんな征一と共に静生は、寄り道になるが先ほどフミの田んぼから見下ろした山本家の前を通った。午前中は開け放されていた縁側の戸も閉まり、ひっそりと静まりかえっている。
「どないしたん?」
我知らずに足が止まっていた静生の手を、征一が引いた。
「ごめんごめん、何でもないよ」
目線を征一に落とすと、その小さな腰にごっこ遊びの棒きれが差されたままであるのに気づいた。静生が学校勤めの折に暮らしていた町でも、男児の遊びといえばチャンバラごっこが主流だった。いつの頃からか昔ながらの侍物に、欧米諸国を悪役に見立てたものも加わり始める。
「それ、転んだら危ないから外しとこう。おっちゃんが持ってやるから」
静生はそう言って、征一の腰から棒切れを取り上げた。
遊びだけではなく、国民学校、中等学校の教育にも日増しに戦争の影が色濃く反映されるようになった。「鬼畜米英」を合言葉に、軍事教練的な授業が時間割に組み込まれる。外国語の使用を咎められ、奇妙な和訳を強いられた。国のために死ぬことを賛美し、そうであれと柔らかな子供の脳に教え込む――静生にはそれが苦痛でならなかった。
国の教育方針が、教師としての静生の矜持と乖離する。そんな折、かつての教え子が出征の挨拶に次々と訪れた。「ついこの前」まで赤胴鈴ノ助だ、鞍馬天狗だと無邪気に遊んでいたはずの子供達が、棒きれではなく本物の銃剣を手に、生身の人間と対峙するため戦場へと赴くのである。
「お国のために立派に戦って死んできます」
十七、八とは言え、静生から見ればまだまだ「子供」が、意識無く口にしたのであろう言葉だった。それまで挨拶に来た教え子から、何度も聞かされた言葉でもあった。聞き流して「立派にお役目を果たして来い」と送り出して来たのに、静生はとうとう我慢出来ず、その教え子の肩を掴んで諭した。
「そんなことを言うものじゃない。どんなことをしても生きて帰ってくるんだ」
子に先立たれるものほど、親にとって辛いものはない。母の死後、後添えで入った継母は気丈な性質で、父との間に五人の子を持ち、うち三人の息子は次々と召集された。「お国のために立派に戦ってきなさい。生きて帰ってくるとは思っていない」と女ながらに言って送りだしたほどの人だったが、彼女にとって最初の息子と末子を失った時、さすがに気落ちし、病勝ちとなった。憔悴は父も同様であったがその比ではなく、手紙で様子を知るたび、静生とはあまり親子関係が芳しくない継母ではあったが、不憫でならなかった。
教え子の母親の姿が、そんな継母と重なった。
「木本先生、校長がお呼びだよ」
呼び出しを受けたのは、その教え子が来た翌日のことだ。
「気になる報告を受けたんやが、昨日、出征の挨拶に来た子に『どんなことをしても生きて帰って来い』と言うたそうやな?」
どうやら教え子との会話を誰かに聞かれ、校長に報告が行ったものらしい。叱責の口調ではなかったが、校長も報告を受けた手前、何らかの処分をしなければ示しがつかないと思ったのだろう。訓戒と言う形でその件は収められた。だが軍事教練の指導に来ていた軍属の耳に入り、注意人物の一人と見なされ、厳しい視線にさらされるようになった。
時を同じくして三男征雄の戦死の知らせが来た。継母はそれに耐えられずに倒れて一週間後にこの世を去り、実家には老いた父と征雄の妻子――佳代と征一が残された。静生は実家の農業を継ぐ名目で教師を辞めた。
「おっちゃん、通りすぎてまう」
またしても征一に手を引かれる。ぼんやりと考えながら歩いていたものだから、いつのまにか自宅を通りすぎるところであった。
「おかえりなさい。ごくろうさんでした」
井戸端で洗い物をしていた佳代が、二人に気づいて声をかける。征一が静生の手を離し、母親の元へ飛んで行った。
「一日お手伝いやったから、お疲れになったんと違います?」
佳代は立ち上がり、静生の野良道具を受け取ろうとした。それを断り、代わりにフミに持たされた小さな包みを渡す。
「フミさんが漬物を持たせてくれてね」
「嬉しいわぁ。フミさんとこのお漬けもん、とても美味しいから。すぐに晩御飯の支度、しますね」
静生から包みを受け取ると佳代は嬉しげに微笑み、洗ったものを手にして家の中へと入って行った。
佳代と入れ替わるように、田畑の方向から父の実生(さねお)が姿を現す。征一が今度は祖父へと駆け寄って、手にした鋤や鎌を受け取った。祖父の手仕事道具の出し入れは、幼い跡取りに課せられた仕事なのである。
静生は山本家の繁夫がどうやら戦死したらしいことを話した。
「ほうか。あのシゲ坊もなぁ。一度は無事に帰ってきたんに」
父は伏せ目がちにして呟いた。繁夫は二度目の出征だったと言う。
「また葬式やな」
そう呟き、先に納屋へ向かって走る孫に、「道具を持って転んだら危ないから走るな」と言った類の声をかけながら、その後を追って行った。
小さい頃から昭雄と一緒に走り回っていた繁夫は、父にとって子供同様だったので、思うところがあるのかも知れない。
静生は先ほどまで佳代がいた井戸に近づき、ポンプを押して水を汲み上げ、手足を洗った。
物不足が深刻となり、憲兵や軍人・軍属の姿が見られる町は戦争も身近で、風景もどことなく暗澹として見えた。そんな場所から生まれた村に戻った時、あまりの変わりのなさに拍子抜けし、また安堵もした静生だったが、過ごすうちにここもまた戦争とは無縁ではないのだと知った。
よもや征一が徴兵年齢に達するまでこの戦争が続くとは思わないが、多感な年頃になって骨の髄まで軍国の子となる前に、この戦争が終わって欲しい――静生は乱暴に数度ポンプを押し、勢いよく出て来た冷たい井戸水で顔を洗った。
「先生は何で独りもんなん?」
昼時の休憩の際、タミが静生に話を向けた。村の子供は静生のことを「先生」と呼ぶ。町で教師をしていたと知っていたし、時折静生が寄合所で勉強をみてやったりするからだった。
「縁がなかったからかなぁ」
静生は苦笑して答えた。
結局、静生のところの稲刈りに、フミの娘・タミが手伝いに来ている。連日他所の刈入れを手伝っていたため疲れが溜まりがちだった静生は、「お互い様だから」と言うフミの伝言に、ありがたく従った。
「したら、今からでも遅うないから、嫁さんもろたらいいんに」
「こんな小父さんのところに来てくれる奇特な人はおらへんよ」
「小父さんやなんて、先生はちっとも小父さんやないよ? 背もすらっとしとるし、他のおっちゃんらみたくお腹も出てないし。さすが町でずっと先生してただけある、ここら辺の男ん人と違ごて、どことのう垢抜けとるてお母ちゃんも言うとった。そや、タミがお嫁さんになったげよか?」
タミはくったくなく笑って言った。彼女はこの春に国民学校初等科を卒業したばかりで、静生とは親子ほどの開きがある。本気ではないだろう。
「先生にはもうイイ人がおるんに、タミちゃんなんか相手にせんよ」
並んで弁当を食べていたカオルが言った。タミと同じ年で、やはり先日、静生が稲刈りを手伝いに行った先の娘だ。
「あ、そっかぁ。あたしらが心配してあげることないね」
思い当たった風にタミが答える。静生は首を傾げ、「僕のイイ人?」と問い返した。村は当然ながら女性の比率が高かったが、静生に見合う年頃の者はみな嫁に行っていたし、それ以外と言えばかなり年上か年下かである。静生自身に心当たりはなかった。
「そんな人、おったかな」
静生が呟くと、少女たちはクスクスと顔を見合わせ笑った。
「楽しそうやねぇ、何の話?」
薬缶を持って佳代が回ってきた時には、一層、コロコロと鈴のような笑い声を上げた。それから食べ終わった弁当箱を風呂敷代わりの手ぬぐいにさっさと包み、
「顔洗ってくる。タミちゃん」
とカオルが言い、タミを連れて走って行く。去り際に「カオルちゃん、わざとらしい」とタミが言った。
「おかしげなぁ?」
静生はその後ろ姿を見送って、傍らに立つ佳代に話かけた。佳代の顔は心なしか赤らんで見える。
「…ほんとやね。あの年頃の子は箸が転んでもおかしいみたいやから、何か笑いのツボに入ったんかも」
佳代は空になっている静生の湯のみに急須の湯を足した。
意味ありげな少女たちの言動と佳代の赤らんだ頬の理由を、数日後、亡き繁夫の葬式の席で静生は知る。
この辺りでは野辺送りを済ませた後、男衆は村の寄合所で精進落としの代わりとして、女衆は勝手場でその給仕をもしながら、酒を飲む習慣があった。小さな村での付き合いは親戚同士に似て、農繁期以外の慶弔事も皆で手伝う。用事が済んだ後は何かと理由をつけ、男は酒を酌み交わし、女は四方山話に花を咲かせる。町と違って楽しむ場所のない土地柄の、数少ない『娯楽』と言えるかも知れない。
「若いもんが次々亡うなって、ここも女子供と年寄りばかりになるなぁ」
「産めよ増やせよ言われても、作物と一緒で種を撒かんことには出来んからな」
「何言うてる。俺らもまだまだ種は持っとるぞ? ガンジんとこ、また嫁さん腹デカなってるやないか」
「あそこは嫁さんが若いから。やっぱり『畑』も良うないと種撒いても実らんぞ」
そして酒が入ればたいがいの話題は下世話なものになって行く。それが葬式の席であってもである。戦争が始まってから葬式の数が格段に増え慣れっこになっているのか、そうやって気を紛らわせなくてはやっていられないのか。後者の感が強いだろう。いくら増えたからと言え、人の死はやはり心を陰鬱にする。
「それで、静生んとこはどうなってる?」
隣に座る幼馴染の悟郎が静生に話を振った。黙って聞くだけだった静生は、自分に話が回ってきて面食らった。そう言う話題に一番遠いと思っていたし、「静生のところは」と言われても心当たりがない。
「僕んとこって?」
「またまたぁ。佳代との仲や言うとる」
「佳代ちゃん?」
周りに集まったほぼ同年代の幼馴染達が、興味津々で酒で染まった赤ら顔を向けてくる。
「佳代ちゃんは征雄の嫁さんやけど?」
「それだけってこたぁなかろうに? 同じ屋根の下に暮らしとるんやし」
悟郎の言葉に皆が頷いた。
「もともと器量よしやったが、ここんとこ女っぷりが前にも増して上がっとるて噂やぞ。静生んちに同居しとらんかったら、夜這いかけとるところじゃ」
「庄吉ぃ、下品やろうが」
悟郎が夜這いを口にした庄吉を窘めるが、その口調は面白がっている。あるいは同調に近い言葉が隠されているのかも知れない。
佳代は隣村の出身であったが、昔から器量の良さでは評判の娘だった。特に色の白さは有名で、どんなに野良仕事をしても赤くなるだけ、翌日には元の白さに戻り、黒目勝ちの大きな瞳や紅を差したような形良い唇を際立たせる。弟の征雄とは尋常小学校の上級生と下級生だった。志津川の治水の件で征雄が隣村に出向いた際に再会、ほどなく結ばれたと聞いている。評判の佳代を嫁に迎えた征雄は、かなり羨ましがられたらしい。
「で? どうなんじゃ?」
「どうなんじゃて、どうもないよ?」
「手、出してないんか? ヘタレじゃのう」
悟郎がやれやれとばかりに首を振った。
「まあまあ、静生は昔からそんげなことに淡白やったろうが。まあ町でのことは知らんがの?」
庄吉が卑下た笑いを浮かべ、肘で静生のわき腹を突っついた後、
「征一も静生に懐いとるし、佳代と二人連れ立って歩いとう姿はどっから見ても夫婦にしか見えん。まだ三十路にもなっとらん女盛りで、年寄りやチョンガーの世話するやもめ暮らしを、普通やったら好き好んでするもんか。佳代もまんざらでもないのと違うか?」
と続けた。
実質跡取り扱いだった次男・和雄の嫁は、子供がいなかった所為もあるが、夫の戦死後、四十九日を待って実家に出戻って行った。早々に再婚して、子供がいると聞いている。
佳代には征一がいたが、当時はまだ物心が付くか付かずで、再婚したとしてもそれほど不都合にはならない。また置いて実家に戻る手もあったはずだ。祖父母は孫を手元に置きたがったろうし。
「佳代ちゃんは優しい性質やから、女手のない家を放っておけんかったんやと思うけど」
「そんなん、どっちかわからんろう? いっぺん聞いてみたらええがじゃ」
悟郎はそう言って徳利の首を摘んで持ち、静生に猪口の中を空けろと促した。あまり酒に強くない静生であるが、断れる雰囲気ではなかったので、一気に呷って猪口を差し出した。
「不味そうに飲むなぁ。今や酒も貴重品やぞ」
顔を顰める静生に、酒を注ぎながら悟郎が笑った。
その笑顔を見ながら、稲刈りの時、手伝いに来た娘達の、意味深な言葉を思い出す。どうやら佳代と、いつの間にかそう言う仲に見られているのだと、静生は理解した。そして佳代もこの噂を聞き知っていそうなことも。
(困ったな)
夜も更け、弔いの寄り合いはお開きを迎えた。夫婦で、あるいは近所同士で連れ立つなど、三々五々帰って行く。
静生は佳代を伴って、悟郎夫婦と途中の三叉路まで一緒に歩いた。別れ際、悟郎はポンポンと静生の肩を叩いた。「なんやの?」と悟郎の嫁・睦が訝しげに言ったが、答えずにさっさと自分の家に向かって歩いて行ってしまった。睦は慌てて二人に挨拶し、小走りに後を追って行く。「なんやの、おかしげなぁ」「うるさいわ」などと言った類を交わしながら離れ、やがて提灯の小さな灯りしか見えなくなった。
「相変わらず仲がいいなぁ」
「ほんまですねぇ。おにいさんは悟郎さんとも睦さんとも幼馴染なんでしょう?」
「悟郎は同級で、むっちゃんは二つ三つ下やったかな」
静生と佳代は止めた足を進めた。
葬式のこと、亡くなった繁夫のことなど話しながら、暗い夜道を提灯の灯りだけで進む。
ここで生まれ育ったにも関わらず、町での生活の方が長かった静生は、最初、この暗闇に慣れなかった。灯火管制で町の夜も暗かったが、比べ物にならない闇だ。提灯の朧な灯りはほとんど役に立たず、あぜ道を踏み外して田んぼの泥濘に足が浸かったことも少なくない。二年近く経って、やっと夜目に慣れてきた――などと佳代に話した途端、足を踏み外し、静生は田んぼの中に落ちてしまった。
「おにいさん!」
「今が秋で助かった」
静生は刈り取りの終わった乾いた田んぼに尻餅をついたまま言った。自分の今のかっこうを客観的に想像し、思わず噴出して笑う。釣られて佳代も珍しく声を出して笑った。
ひとしきり笑った後にふと見上げる空は、満天の星が瞬いていた。秋は空気も澄み、昼間の空も大変美しいが、夜ともなればまた格別である。まだ戦争の影の見えなかった頃に研修先の大阪で、ルナパークの展望台に上った。東洋一と言われる高さから見下ろした夜景は夜空のように美しかったが、やはり本物にはかなわない。
「何もない田舎やけど、この夜空だけは絶品やなぁ」
「おにいさんは征雄さんと一等仲が良かったですってね」
八つ違いの征雄とは、志津川で蛍狩りをした時や、数少ない帰省の折にも、よくこうして二人で夜空を見上げたものだった。
「うん。征雄が生まれたら二つになった和雄がすっかり赤ん坊返りしてしもて。和雄は身体も弱かったし、お義母さんはそっちにつきっきりになってなぁ。だから僕がおしめ代えたり、ご飯食べさせたりしてた。続けて年子で妹二人が生まれて、三年して昭雄が生まれたから、結果的に僕がほとんど征雄の面倒見たかなぁ」
「そうですかぁ」
佳代は静生同様、夜空を見上げた。二人はしばらく黙って空を見ていた。
「なぁ、佳代ちゃん。僕もだいぶここの暮らしに慣れてきたし、独り暮らしが長かったから炊事も出来る。もし実家に帰りたかったら、帰っていいよ?」
先に二人の息子を失って義母は床につくことが多くなった。実家に戻ったもう一人の嫁の代わりに、子育てをしながら家や畑の手伝いを一人で担ってきた佳代は、自分の夫を亡くした時、帰りたくとも帰れなかっただろう。再婚の話もなかったはずはない。婚家への義理は充分に果たしている。自由になりたいと言ったとて、父の実雄も寂しさはあるだろうが反対はしないに違いなかった。
「うちはそんな、帰りたいと思ったこと、ありません」
「遠慮せんで、本当のところ言っていいんだよ? 征一はうちで預かってもいいし、もちろん連れて行ってもいい。形見分けの代わりに当面の生活費も何とかするし」
「うちがおったら、迷惑ですか?」
佳代の落ち着いた声音が、少々変わった。切羽詰ったような、感情を抑えているような。
「迷惑だなんて、ありがたいと思っているよ。親父の面倒もよく見てくれて、家のことが滞りなく出来ているのは、佳代ちゃんがおってくれるからやし」
「だったら」
「でも親御さん達はどう思ってるんかな。僕は会うたことないけど、男兄弟ばかりの一人娘やから、隣村みたいに離れたとこにはやりとうないって、最初は断られたて征雄が言うとったから」
佳代は実家のことを少しも話さないが、静生の家同様、息子のうちの誰かしらを戦争に取られているかも知れない。娘が近くにいてくれれば、どれほどに心強いだろう。フミも娘のタミがいて、ずいぶん慰められていると話していた。
「お嫁に出したからには、もう他所の人間や、木本の家によく仕えるんやぞ、と言われて嫁いできました。征雄さんが亡うなったから戻ってくるとは、うちの親も思っとらんでしょう。それに」
と佳代は夜空を見上げた。
「わたしはここが好きなんです。みんなええ人ばかり。おとさんもおにいさんはもちろんやけど、みんな優しゅうて、おかさんや征雄さんが亡うなった時、どれだけ助けてもろうたか。物足りん嫁かも知れんけど、木本の家のもんとして、最期までおらして欲しいと思ってます」
「佳代ちゃんはよく出来た嫁さんだよ。たまには息抜きしたらええのにと思うくらい働きもんや」
静生はズボンの尻についた土ぼこりを払いながら立ち、あぜ道に上がった。
「みんなが出払った後、のんびりさせてもろてますよ」
「それやったらいいけど」
今度は静生が空を見上げた。
満天に瞬く星が本当に美しい。人は死んだら星になる――生母が亡くなった時、あまりに静生が恋しがって泣くので、まだ存命だった祖母がそう言って慰めてくれた。
「あの中に征雄もおるんかな」
静生はポソリと独りごちた。「え?」と佳代が聞き返す。
「人は死んだら星になるて、よう言うやろう? それだったら征雄達もあの中におるんかなと思ってね」
静生は歩き始めた。
「そうやねぇ。いつも征一やわたしを見守ってくれとるんでしょう。だからわたし、ちっとも寂しゅうないんかも」
発した言葉をそれぞれが噛み締めているかのような沈黙が、二人の間に流れた。「もう三年」と悟郎は言ったが、当事者の気持ちとすれば「まだ三年」が正しいのではないか。静生とて、後者の感覚の方が強い。
悟郎の話を半分本気にし、佳代にその気があったらと困惑した自分を、静生は恥じた。人の噂話ほど、あてにならないものはないのだ。
二人はほどなく家に戻り、佳代は母屋に、静生は納屋へと分かれた。
静生は納屋の二階部分――屋根裏を改築して住まいにしている。母屋の部屋数に余裕がなかったのと、弟の嫁とは言え異性である佳代と同居するのを憚ったからだ。寄合所で悟郎が言った「同じ屋根の下」は、だから正しくない。
納屋の入口に小さく盛り塩がしてあった。父が気をきかしてくれたものと思われる。静生はそれを一つまみして身体に降りかけると中に入り、自室に上がった。
一個の裸電球では薄暗い。静生は提灯の火は消さずに、机上のランプに移した。それから引き出しを開け、中から一枚の写真を取り出す。写真には並んで座る婚礼装束の男女が写っていた。振袖に角隠しの花嫁は佳代で、紋付袴の花婿は征雄である。祝言の席に出られなかった静生のために、征雄が送って寄越したのだった。
「とんだ自惚れもんやな、僕は。悟郎たちの話をあやうく真に受けそうになったよ。佳代ちゃんはまだおまえのことを忘れてない」
静生は人差し指で写真の征雄を撫でた。
「それは僕も同じや。まだまだおまえのこと、忘れられんのに」
人差し指は写真の上方、二人の真ん中辺りに生じている小さな破れ目を触った。写真が送られて来た時、半分に破ってしまいそうになった跡だ。写真に並んで納まる二人を見たくなかった。
静生は嫉妬したのである。美しい嫁をもらう征雄にではなく、征雄に嫁ぐ佳代に。花嫁の部分を切って捨ててしまいたかったが、辛うじて理性が、わからない程度の疵を写真に残すにとどめた。
時々こうして取り出しでは破れ目を触り確認する。指先からそれを作った時の感情が蘇えるかどうか。はたして征雄が逝って三年経った今も、まだ指先はじんわりと痺れを感じている――いつの頃か静生は、征雄を可愛い弟としてではなく、恋慕の対象として見ていた。半分とは言え血の繋がった近親、そして同性。けっして表ざたに出来ない恋だ。
昔から異性に興味を持てなかった。夜這いや媾合に関心を寄せる年頃になると、幼馴染たちはそわそわと異性に秋波を送り始め、次々『大人』になっていったが、戦果を自慢し合うのを聞いても静生は羨望を覚えず、自分は淡白な性質なのだと思った。
大学で寮生活をしていた折に同性の先輩に関係を迫られ、それを経験する。驚きや嫌悪感はなかった。むしろ自分の欲情の対象が同性であることに気づかされ、納得したくらいだ。
征雄に対してのそれは、兄弟愛が特化したものかも知れない。禁忌を犯してまでそう言う間柄になりたかったのかどうなのかもあやふやだ。ただ離れていても征雄を忘れられなかったのは確かで、彼岸に逝ってしまった今では、純粋な想いとして結晶している。
「それなのに佳代ちゃんと噂になってるなんて、バチがあたったんかなぁ」
静生は写真の中の征雄に問いかけるが、もとより答えは返らなかった。
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