呟きは呪文に似て 〜pm.10:00・館野〜 
                 



 十一月の終わり、都賀経由で千咲から離婚届が送られてきた。
 僕が記入する以外は全ての欄が埋まっている。証人欄には都賀夫妻の署名が入っていた。
 同封の手紙に、前回の謝罪が綴られていた。自分が持っているとまた出しに行けないかも知れないから、届はそちらで出して欲しいことも書かれている。
 都賀の話によると、千咲はずい分落ち着いたようだ。あんなに取り乱して恥ずかしいと、この証人欄に夫妻の署名をもらう時、照れていたらしい。
「彼女を許してやれよ」
 都賀はそう言ったきりで、以後は離婚の件に触れなかった。多分、僕がかなり凹んで見えたからだろう。目に見えて痩せたことが彼には気になったらしく、週に一、二度、都賀家の愛妻弁当を持って来てくれた。勿論、僕のために作ってくれたものだとは一言も言わず、ただ「つきあいで外に食べに出るから」とか、「嫌いなものばかり入っているから」など色々と理由をつけて、負担に思わないように配慮してくれている。ありがたく思う反面、そうまで気遣いさせていることを申し訳なく思った。痩せたのも凹んでいるのも、都賀が想像していることばかりではない。
 確かに離婚届が出ていなかったことにはショックを受けた。言葉も出なかった。しかし千咲を思いつめさせた責任は僕にある。僕は離婚の理由を説明出来なかった。許すも許さないも、彼女が納得できず、届出を躊躇ったのは仕方がないと思っている。
 許せないのは僕自身。
 離婚が成立していなかったこと、調停中は冷静だった千咲の、あれほどの取り乱しようを見て茫然自失となってしまったとは言え、その日初めて会って一緒に食事をしただけの、見ず知らずの男とホテルに入るなんて。
 アルコールのせいもあったけれど、少なくとも途中で一度は正気に戻った。帰ろうと思えば、帰ることは出来た。だけど僕は動けなかった。知らない男の声は、「知っている声」だったからだ。
――佐東さんの声だ…。
 そう思っただけで、身体の力が抜けたことを覚えている。与えられる快感に任せてしまった――「佐東さんの声を聞きながら。
――気持ち悪い。
 あの時の自分の浅ましさを思い出す度に胃が痛む。
 佐東さんと話すと楽しかった。仕事が絡まない人間関係など、大学を卒業して以来あったかどうか。結婚するまで時々、コンパに誘われて顔を出したこともあったけれど、もともと初対面の人と気安く会話出来る性格ではないし、コンパと言うものには、少なからず恋愛が目的でもあるかと思うと緊張して口が重くなった。
 これといった趣味がないせいもあって、結局、会社だけの狭い人間関係しか築けなかった。千咲とも職場結婚だったし。お互い、仕事の話をするまいとしても、異動の季節や慶弔事があると、話題にならないはずがなかった。
 佐東さんは今までの誰とも違う。たまたまマンションで隣同士になり、ゴミ出しが同じ時間に重なることから顔見知りになっただけで、他に接点はない。職種が違うので仕事の話になってもそれほどには広がらず、今日の天気、最近読んだ本や観た映画、新聞沙汰になった事件や、コンビニの帰りに遭遇した些細な事柄――話下手な僕を気遣って、率先して話を振り出してくれているのかも知れないけれど、それを感じさせない。そんな彼と話すと楽しくて、ゴミ出しの日がいつしか待ち遠しくなっていた。
 でもまさか、我を忘れていたとは言え、欲望の対象にしてしまうなんて。「声が似ている」、ただそれだけで、拒む気力が失せてしまうなんて。
 佐東さんの顔をまともに見られず、こんな自分を知られたくもなかった。だから、ゴミ出しの時間をずらしたのに。
 テレビの傍に立てかけたレターセットを見やる。佐東さんからの東欧旅行土産だ。十数枚の絵ハガキセットで、表箱が簡易の写真立のようになる仕様だった。それに手を伸ばす。
 レターセットと一緒にスナップ写真も数枚渡された。ポーランドの街を、佐東さんが撮ったものだと言う。絵ハガキになる観光名所や自然の景観とは違って、石畳の路地裏やパン屋、散歩中の犬などが写っている。中に田園地帯を撮ったものがあった。広々とした平原にポツリポツリと民家が建つ、何の変哲もない長閑な田舎の風景。これが春から秋にかけてだったら一面緑の絨毯なのかも知れないけれど、季節柄、枯葉色で、どことなく寒々と感じる。
「ここはブジェジンカと言う村なんです。ドイツ名のビルケナウの方が有名かな」
「ビルケナウ?」
「ここからちょっと行くとオシフィエンチムってところがあるんですけど、こちらのドイツ名はご存知かと思いますよ。『アウシュビッツ』です。この二つの村に強制収容所がありました。どちらも長閑な田舎町なんですけどね」
 僕が何と答えていいかわからない表情をすると、
「『それ』以外にもいろいろあった国でして。俺が勉強しているのは、そんな国なんです」
と佐東さんは笑った。
 東欧から戻った佐東さんに合わせるようにして、僕は以前の出勤時間に戻した。週二回のゴミ出しの朝、彼とまた一緒になる。他の曜日も佐東さんの通学時間と同じになることがあり、その時は駅まで肩を並べて歩いた。
 自宅を出る時間を戻したきっかけは、東欧旅行用の買い物でデパートを訪れていた佐東さんとたまたま会って、立ち話をしたことだった。
 久しぶりに見た彼は、髪を切ったばかりなこともあったけれど、以前と少し雰囲気が変わっていた。ちゃんと学者の卵に見えて落ち着いた印象に。そんな彼に正面に立たれて見つめられ、僕の心臓の鼓動はどんどん早くなった。
 その時、ゴミの日に会えなくなったことが話題となり、佐東さんは寂しさを口にした。


『すっかり習慣みたいになってたから、物足りないって言うか、寂しいって言うか、そんな感じなんです。』
 
 たとえ「習慣みたいになっていて」と前置きがあっても嬉しかった。同時にそんな自分の感情を否定する僕も存在した。
 ゴミ出しの朝にまた会うようになって、そのたびに気持ちはどんどん佐東さんに傾く。会わない方が楽だと思いながらも、エレベーターまでの間で姿を見かけないと落胆した。「おはようございます」と背後から声をかけられれば、胸に熱いものが広がる。急いで振り返りそうになるのを何度抑えたか知れない。
 佐東さんは復学してから翻訳の仕事以外のアルバイトは、辞めたり時間をセーブしたりしているらしいけれど、夜遅くまでは起きている様子だった。早起きすることは辛いに違いなく、ゴミ出しの日は飛び出てくることも少なくない。少し前には彼の顎に薄らと血の滲んだ小さな傷が出来ていたことがあった。髭剃りの際に慌てて切ったのだろう。
 僕の手はハンカチを取り出して、その傷を抑えていた。
 指先に布を通して伝わる彼の顎の感触に驚き、僕は固まった。きっと以前だって、そうしたに違いないごく自然な所作なのに、佐東さんに触りたいと言う無意識の行動ではないのかと、頭の中が白くなって息が止まる。彼が「汚れますよ」と恐縮して僕の手をそっと外したことで、やっと肩の力が抜けた。
「洗ってお返ししますから」
「いえ、いいですよ。それくらい汚れたうちに入らないから」
「そう言うわけには。すぐ洗えばシミにならないと思います」
「でも大学に」
「今日は午後からなんですよ。ああ、替えのハンカチか。取りに戻ります? ゴミは俺が持って降りますよ」
「職場に行けばたくさんありますから。売り場にですけど」
 僕がそう言うと、佐東さんは大らかに笑った。その笑顔を見ると、自分の疾しさを尚更に感じた。
「午前中、お休みなら、もう少しゆっくり寝ていられるでしょう?」
 顔に暗さが出そうで、それを振り切るように話を続けた。
「寝過ごして、収集車が来ちゃいますよ、きっと。俺、二度寝したら起きないことには自信あるんです」
「自信あるんだ?」
「二度寝は気持ちいいっすからね、下手したら大学にも行きそびれる」
 佐東さんはまた笑った。
 ゴミ置き場にゴミを出し、僕たちは職場に自宅にと分かれて行く――週二回の『習慣』は時間にして数分。
 ちょうどマンションのエントランスを横目に見る形で駅への道が伸びていて、僕の目はすでにエレベーターに乗っているであろう佐東さんの姿を追ってしまうのだった。
 惹かれていくことを止められず、そんな目で彼を見ている自分が嫌で堪らない。顔に出ていないかと気が気でなく、なるべく表情を崩さないように努めるけれど、器用ではないから加減がわからなかった。あまり無表情に過ぎると、
「どこか具合でも悪いんですか? 疲れが溜まっているんじゃ?」
と佐東さんに心配させてしまうこともあった。
――しっかりしろ…。
 気付かれたくない、避けられたくない。今のままで、ちょっと顔見知りの隣人のままで終わりたい。
 次の春で今の店での勤務日数が丸二年になるから、異動の資格を得られる。年明け早々に転勤願いを出して通れば、秋の異動で勤務地が変わる可能性が高い。関西の新店がヨーロッパの家具や雑貨に力を入れることになったから、早ければ春に異動出来るかも知れない。それまでだから…と自分に言い聞かせる。
 机の上に広げた離婚届に目を戻した。千咲は旧姓に戻ることを選択していた。彼女なりのけじめなのだろうか。
 自分の名前を署名しようとした時、壁を通して物音が聞こえた。微かな生活音は、佐東さんの存在を否が応でも感じさせる。
 明日はゴミの日だと思いながら、僕はペンを握りなおした。




「新年会?」
 翌日の朝の話題は、佐東さんからの新年会の誘いだった。
「十二月は御園生さんも香西も忙しくて、毎年、忘年会じゃなく一月に新年会をするんです。よろしければ館野さんもぜひ」
「でも、部外者の僕が同席しては」
「みんな顔見知りですよ。あとは友坂が入るだけですから。覚えてるかな?」
「スポーツインストラクターの?」
「そう。場所もRetiroだから。他の奴らに館野さんも誘えって言われているんです」
 Retiro――御園生さんのスペイン・バル。あれ以来、行っていない。行けばあの夜を思い出してしまうし、『彼』に会ってしまうかもと思うと、どうしても行けなかった。今も、あの界隈を通ることは意識的に避けてしまう。
 断ろうと顔を上げると佐東さんと目が合った。僕の返事を待っている。
 佐東さんと食事をする機会は、もうないかも知れない。
「館野さん?」
 彼を見つめたまま言葉が止まった僕に、佐東さんが声をかける。
「返事はすぐじゃなくてもいいですよ。お仕事の都合もあるでしょうし、直前で一人増えても全然大丈夫ですから」
「…はい、予定を見ておきます」
 とりあえずの答えを口にしたところで、ゴミ置き場に着いた。ゴミ袋を中の籠に抛り込み、僕は佐東さんに見送られて駅への道を進んだ。
 はっきり断れば良いものを、躊躇ってしまった。誘われたその時には断るつもりだったのに、佐東さんの目を見ると気持ちが揺れた。来年の春か秋に異動が決まれば会えなくなる。そう思うと、すぐには答えられなかったのだ。
 あの夜から何か月も経つ。『彼』が常連客かどうかわからないし、会うとも限らない。『彼』は誘い慣れているようだった。ああ言う出会いが『彼』にとって日常的なことなら、その中の一人に過ぎない僕のことなど、会っても憶えていないかも知れない。僕自身、『彼』の顔も名前も憶えていなかった。街ですれ違っていてもわからないだろう。僕は目を引くタイプではないし――Retiroに行かない理由を次々打ち消している自分に気づく。
 なんて矛盾した感情だろう。佐東さんから離れたいのか、離れたくないのか。
 北風が僕の傍らを通り過ぎて行った。その冷たさが足取りを重くしがちな思考から、現実に引き戻す。
「しっかりしろ」
 呟きは呪文に似ていた。

 
 


                  2012.09.21 (fri)



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