あなたまでの距離(前編) 〜pm.11:00・佐東〜 
                 



「新年、あけましておめでとう!」
 友坂の良く通る乾杯の声に、周りの客は「今頃?」的な表情でこちらを見やる。無理もない。すでに新年が明けて三週間が経っていた。
 サービス業は年末年始、成人式が過ぎるまで何だかんだと忙しい。飲食業の御園生さんと美容師の香西がようやく暇になる頃に、俺たちは忘年会込みの新年会を開くことにしていたが、それでも今年はいつもより少し遅れての開催だ。デパート勤務の館野さんが面子に入っていて、彼の日程に合わせたからだった。
 館野さんには新年会の誘いを一度は断られた。夏物商品の内覧会とやらが一月の中頃にあり、その準備で時間が読めないからとの理由だった。いつもならそこで諦める俺だが、他の三人から「絶対に館野さんを誘え、誘うまで新年会は延期」と言われ、
「日は館野さんに合わせますよ。俺の顔を立てると思って、お願いします」
と泣き落としのような形で、再度誘った。
「内覧会は十八日なので、それ以降なら」
 と言うわけで、かなりな時期外れに新年会と言うことになったのである。
 三人の悪友から見れば、俺の館野さんに対する押しの弱さが歯がゆくてならないらしい。過去にもノンケ相手に恋愛したことがあったが、その時は香西も友坂も何も言わなかった。むしろスルーされていたくらいだ。しかし今回は慎重になっているところが突っ込む余地を与えているのか、何かとプッシュしてくる。遊びではない本気の恋愛は、ゲイ同士の方が上手く行く…が持論の御園生さんも、館野さんとのことには好意的だ。
 かと言って三人――主に香西と友坂――が、積極的に俺の恋路を応援してくれているかと言えば、疑問に思える。今夜だって館野さんの隣には友坂が、向いには香西がいち早く座ってしまった。隣を陣取った友坂はマメに話しかけ、運ばれてくる料理を取り分けるなど妙に甲斐甲斐しい。もしかして館野さんを狙っているのではないかと疑いたくなるほどだった。友坂はノンケ喰いで有名だから。
「館野さん、最近、忙しいんだってね? そう言えば痩せました?」
 隙あらばボディ・タッチを仕掛けるし。友坂の指が細くなった館野さんの顎のラインに、今にも触れそうになって気が気じゃない。俺の視線に気づくと、友坂はニヤリと笑って指を引っ込めた。前回同様、反応を見て面白がられている。
「去年、夏バテしてしまって、それから戻らないんですよ。みんなに言われるので、見っともないから早く戻したいんですけど」
「今は今でなかなか良いよ。何かこう、守ってあげたくなるっちゅうか」
 何を言い出すんだ、友坂。俺は頬が引き攣るのを感じた。隣で香西が笑いを押し殺すのがわかった。
「独り暮らしじゃ大したもの作れないからなぁ。コンビニ弁当だと飽きるし、逆に変な太り方するしね。職場が近いんだから、時々、ここで食べて帰ったら? 遅くまでやってるし、一人でも来易いでしょ? ねえ、御園生さん?」
 香西は料理を運んできた御園生さんに話を振る。
「香西の言う通りですよ。うんと栄養のある特別料理出しますから、また前のようにちょくちょく顔を出してください」
 カチャンと音を立てて、フォークが床に落ちた。御園生さんが取り分けてくれた小皿を受け取った館野さんが、フォークの乗った別の皿に接触させてしまったからだ。
「すみません」
 館野さんが拾うために屈むより早く、御園生さんがそれを拾い上げた。
「すぐに新しいものをお持ちしますから。シャツ、汚れなかったかな?」
「大丈夫です。本当にすみません」
 館野さんはすまなそうに言った。
 俺たちが集まるとたいていオーダーは決まっているので、飲み物以外は勝手に運ばれてくる。若くて体力の有り余っている友坂がいるため、テーブルいっぱいに料理が並んでもコンスタントに減り、またすぐ補充された。普段は取り皿など使わず、大皿にそれぞれのフォークが刺さるのだが、今夜は館野さんが入っているので、一応、他のテーブル同様、小皿が用意されていた。
 せっせと友坂や御園生さんが館野さんに料理を取り分けるものだから、彼の前は小皿だらけになっている。館野さんの食べるペースが追いつかないのかと思ったが、彼のフォークや箸の動きが鈍いせいでもあった。
――食欲、ないのかな?
 前に来た時より、アルコールの進みも遅い。
「全然、進んでないじゃないスか。もっとイケる口でしょ?」
 友坂が水滴の消えた、見るからに温そうなビールのグラスを指さした。
「実は控えているんです。すごく酔って…失敗してしまったので」
 館野さんの答えに、夏にそれらしきことがあったなと思い出す。
 ある日の夜、館野さんは日付が変わってかなり経った頃に帰ってきた。翌朝はゴミ出しの日で「飲み過ぎた」と言っていたっけ。
「スーツ、ダメにした日?」
 何気なく言った俺の言葉に、一瞬、館野さんが目を見開いたように見えた。その手の失敗は枚挙に遑がない俺からすれば何でもないことだが、もしかしたら館野さんにとってはすごく恥ずかしいことなのかも知れない。「しまったかな」と思った時、館野さんはにっこりと笑んだ。
「そうです。よく覚えてますね?」
 友坂が興味津々に「何なに?」と聞くので、館野さんは「酔ってスーツを着たままシャワーを浴びた」と答えた。
「へえ、館野さんでもそんな失敗するんだね?」
 友坂は意外そうに言った。
「はい。色々、やらかしています」
「でもそれで控えるんじゃ、俺達、断酒しなきゃなんないですよ。もう人様に言えないことばっかりしてるから。噴水で泳いだこともあったよなあ、祥平?」
 香西は俺の肩に肘を乗せて、顔を見た。
 はい、「色々とやらかして」ますとも。噴水で泳いだこともあるし、「ストリップ・ショー」と銘打って、Retiroで踊ったこともある――但し、閉店後、スタッフも帰った後だ。
「俺だけが酒癖悪いような言い方、やめてくれないかな」
 香西だって「色々やらかして」いる。手近にあった工作ハサミで自分の髪を取り返しのつかないくらいに切ってしまったり、すれ違う男ごとにキスしたり。
「そうだなぁ、朝起きたら全裸で雑魚寝ってこととかあったっけなぁ」
 香西は遠い目をした。
「ほらね、みんな色々やらかしてるから、気にしない、気にしない。だから今夜は遠慮なく飲みましょうよ。酔い潰れたら祥平さんがちゃんと連れて帰ってくれるって」
 友坂は通りがかったスタッフを呼び止め、館野さんのグラスを渡し、新たにワインのスプライト割を勝手にオーダーした。
 いつも以上に香西や友坂のテンションが高いのは、館野さんが前に飲んだ時と印象が違うせいかも知れない。客商売の二人は微細な変化に敏感だった。
 館野さんは仕事で少し遅れて来たのだが、痩せたせいか影が薄く感じた。目ざとい二人はすぐに「陽」へとスイッチを切り替え、友坂はまず機関銃のごとく話かけた。館野さんが口を開く間もないくらいで、少々やる過ぎ感は否めなかったが。その後は、香西と二人して俺を出汁にしつつ、場を和ませたと言えるだろう。館野さんの頬が人肌らしい色味になり、笑みが頻繁に出るようになったから。
 勝手にドリンクをオーダーしたものの、だからと言ってそれを無理やり館野さんに勧めることはなく、次の話題へとさっさと移って行く。
 新しいグラスには当然細やかな水滴がついて、温くなって見るからに不味そうなビールのグラスとは違い、館野さんの目の前を華やかにした。友坂はそれを狙ったのだろう。パーソナル・トレーナーは会員のその日の体調、精神状態を瞬時に見極めてプログラムを変更する。そう言う心遣いは流石だ。
 平日ではあったが、店にはそこそこ客が入っていた。俺達の席のサーブはオーナー・シェフの御園生さん自らしてくれていたが、ラスト・オーダーまで一時間をきっても来店客があり、彼が同席するにはまだしばらくかかりそうだった。
「タテノさん?」
 三、四人連れのサラリーマンが入って来て、入口に近い空いたばかりのテーブル席に座ったのだが、その中の一人が俺達の席に近づいてきたかと思うと、館野さんの名を呼んでその傍らに立った。
「やっぱりタテノさん。元気でした?」
 人好きのする笑顔で続けるその彼の顔を、館野さんが凝視する。
「館野さん?」
 俺が声をかけると、やっと瞬きをしてこちらを見た。それからぎこちない目の動きで、再び傍らの男に視線を戻し、「こんばんは」と返した。
 声をかけてきた男はビジネス・スーツを着たサラリーマンだ。館野さんとは違う社章を着けているので、職場の同僚ではないだろう。
「また一緒に飲めるかなと思って、ちょくちょくここも覗いたんだけど、タイミングが悪かったのかな?」
 世間一般で言う「イケメン」の類で、笑顔も感じが良く嫌味がない。馴れ馴れしいほどではないにせよ、館野さんにはある程度、親しい雰囲気で接している。ただ話しかけられている当の館野さんからは、それと同等の近しさは感じられなかった。話しかけられているのに口元を引き結んだままだ。自分の答えを待つために作られた彼の沈黙に気づいて、「しばらく来ていなかったので」とようやく答えた。
 友坂が館野さんの隣からそのサラリーマンを見上げ目を合わせる。互いに「どうも」と会釈したので、知らぬ間柄ではなさそうだった。
「お互い連れがいるようだから、後でまた」
 彼はそう言うと自分のテーブルに戻って行った。
「館野さん、あいつと知り合い?」
 友坂がサラリーマンの背を目で追って、席に着いて仲間の話の輪に入ったことを確かめた後、館野さんに尋ねた。
「一度、飲んだことがあって」
 館野さんは小さな声で答える。
「気をつけなよ。あいつね、ゲイなんだ。館野さんみたいな人、タイプだから」
 声は潜められているものの、友坂がいきなり「ゲイ」と言う言葉を出したので、俺はギョッとした。その上館野さんに注意まで促すなんて。
「ゲイ…ですか」
 館野さんは目の前のグラスを手にして、一口、喉仏が上下する勢いで飲み込んだ。
 Retiroの店内は照明が抑えられている。客の出入りやスタッフの動線には不自由はないが、隣り合わせたテーブルの客同士の顔ははっきりしないように配慮しているのだが、そんな薄暗い中にあっても館野さんの顔色が青白く変わっていくのがわかった。
 言葉数は更に少なくなり、表情も伏し目がちで硬く見える。話題は友坂の趣味であるダイビングに移っていたが、心ここに在らずの風だった。あのサラリーマンが来てからだ。
「すみません、ちょっとトイレに」
 気になって声をかけるより先に、館野さんは立ち上がった。
 トイレに行くだけなのに「大丈夫ですか?」「ついて行きましょうか?」とは言えず、俺は彼を見送る。ワイシャツの肩の部分が下がって見えた。そのシャツを買った頃より肩幅が狭くなったことを示している。痩せたせいもあるだろうが、それだけだろうか。
「何かあるな、あの二人」
 俺と同じで、館野さんの後ろ姿を見送っていたらしい香西が言った。
「友坂、さっきの男、知ってるのか?」
 香西は入口に近いテーブルに座ったあのサラリーマンを指す仕種で、少し顎を振った。
 友坂は「うちのジムの会員」と答える。
「北条って言うんだけど、会員登録する前から知ってた。Erebos(エレボス)で時々見かけたから」
 Erebos(エレボス)は隣県にあるお仲間によるお仲間のためのBARだ。大学の頃は俺もよく行ったが、バイトに明け暮れ始めてからは遠出しなくなったので、ここ数年はご無沙汰している。だから北条と言う男も知らない。
「悪いヤツじゃないみたいだけど、手が早いので有名でさ。あのルックスだから男にも女にもよくもてるんだよ。だいたい狙った相手は逃さないタイプ」
「なんだ、バイか。俺達の天敵だな」
 香西が口をへの字に曲げた。
「特にノンケっぽいゲイが好みらしくて、館野さんなんか、もろタイプなんじゃないかな」
「そう言えば、どことなく祥平に似てるな。ま、あっちの方が数倍イケてるけど。でも声なんかそっくりだし、好みも似てるようだし」
 香西がニヤニヤと笑った。俺は「うるさいよ」と返す。
「ノンケっぽいゲイが好みなら、ノンケの館野さんは対象外だろう?」
 友坂が言ったことに引っ掛かりを感じて聞き返す。ノンケっぽいゲイとはイコール・ゲイだ。館野さんには当てはまらない。
「祥平〜さん」
 香西と友坂がハモった。末尾の「さん」は友坂のソロだが。言った後で香西が肩を竦めてため息をついた。頬に「やれやれ」の表情が浮かんでいる。
「あの人、無自覚なだけで、全くのノンケじゃないぞ」
「祥平さんの勘も鈍ったよね。まあ確かにノンケ臭のが濃いけど。俺も初めて会った時、すぐにはわかんなかったから言えた義理じゃないけどね。さすが御園生さん、経験値が違う」
「御園生さん?」
 俺は思わず厨房の方に目をやった。御園生さんは頭の先だけ見せて、忙しく立ち働いている。
「御園生さんに言われただろ? 『希望がないわけじゃない』とかって」
「香西、なんでそれ?」
「前に館野さんと飲んだ時、二人で先に帰ったろ? あの後、残った三人で飲んで、その話が出たんだよ」
 御園生さんではなく、スタッフがイワシの酢漬けを持ってきたので、香西は一旦話を切った。空いた皿を引き取って彼が場を離れると、友坂は早速、イワシにフォークを刺した。
「今日の新年会だって、そうでなきゃ館野さんを誘えって言わないよ。ノンケとの恋愛なんつうファンタジー、俺らがプッシュするわけないっしょ? 遊びで付き合うってこと出来そうもない人相手の不毛なパターン、俺でも手を出さないよ」
 友坂はイワシを頬ばって香西を見る。二人は「ねー」と少女マンガかテレビドラマに出てきそうな女子高生よろしく頷き合った。
「あまりにもマジで嗅覚狂ってんのは仕方ないとして、基本、ノンケとの恋愛NGの御園生さんが協力的ってとこで、気づくべきだろうが」
 香西は首を振って肩を竦める。
 確かに今回の新年会は御園生さんもこの二人に同調して、館野さんをぜひ誘えと言った。人の恋路、特にノンケ相手の恋愛には口を挟まない彼にしては珍しいとは思ったが、応援してくれていると言うより、館野さんの人柄に好感を持ち、恋愛云々抜きにして誘えと言っているのだと、俺は理解していた。
「御園生さんのありがたーい御言葉を信じて、さっさとアタックすれば良かったんだ。そしたら北条なんかに先越されずに済んだのに」
「え?」
 友坂はイワシをもう一つ口に運んだので、すぐには俺の疑問に満ちた問い返しには答えられない。代わりに香西が答える。
「あの色男と何かあったのは確かだろうなぁ。じゃないと、あんなに狼狽えたりしないと思うけど?」
「つかさぁ、あいつの姿、ないけど? 館野さん追ってったりして」
 入口近くのテーブル席が視界に入る友坂が、胸元で小さく指して見せる。振り返るとあの男の姿はなかった。
「今頃、口説かれてんじゃねぇの?」
 香西の声は背中で受けた。俺の足はすでにトイレへと向かっていた。



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