靴は笑む 〜pm.4:00・佐東〜 
                 



 館野さんが何だか変だ。夏の終わりくらいから、そう感じている。
 週に二回の俺の楽しみ――ゴミ出しの朝の会話も、もう二ヶ月ご無沙汰だった。いつもよりずい分と早い時間に、館野さんは出勤するのだ。
 館野さん宅の目覚まし時計の音で、俺の身体は目覚めるようになっていた。だから早かろうが遅かろうが、時間を合わせるのは難しくない。しかし『偶然』が頻繁に重なるのは、どう考えてもおかしいだろう。彼が出かける時を見計らってゴミ出しに出ることに気付かれてしまう。「どうして」と聞かれたら、答えられないじゃないか。
 ゴミ出し以外の日にチャレンジしたことがあった。声をかけた時の、あの驚いた顔。すぐに表情は戻ってエレベーターで下に着くまで話したが、以前とは彼の雰囲気がどことなく違う。漠然とだけど。
 一階に着いて俺はメールボックスに、館野さんはエントランスへと分かれた。自動ドアから外に出るまで後ろ姿をこっそり見送ったのだが、彼の肩が下がるのが見え、緊張していたことがわかった。それから一、二度、同じシチュエーションがあったが、彼の反応は同じで俺はすっかり怯んでしまった。以来、毎朝出勤して行く館野さんの姿を、窓から見送るので我慢することにした。
 火曜と金曜の朝は超特急で身支度を整え朝飯も食べずに出勤し、他の曜日に会ったら会ったで、変な緊張感が漂う。
 恐い想像が過った。
――もしかして、俺、避けられてんのかな…
「誰に?」
 頭の中で呟いたつもりだったのに、つい口から零れていたらしく、鏡越しに香西が聞き返した。今、自分のいる場所が彼の美容室で、散髪の最中だったことをすっかり失念していた。今日は金曜日で、ゴミ出しの日だった。それで館野さんのことを思い出していたからだ。
 不意をつかれて、多分、俺は「しまった」と言う表情を浮かべていたのだろう。香西は口の端を上げて、ニヤリと笑った。
「館野さんに避けられてんのか?」
 軽やかなハサミの音をさせながら、香西は興味津々な目で見る。
「邪なオーラが、ダダ漏れてんじゃねぇの? あの人、案外敏感かもよ」
 無視を決め込もうとする俺に、尚も話を振った。
 スタッフやほかの客の手前、俺の相手が男であることは当然隠される。しかし昼日中、それも美容室と言うパブリックな場所でする話じゃない。いや、たとえ二人きりであっても、後々Retiroで酒の肴にされることがわかっていて、話せるもんか。
「そんな暗い気持ちでヨーロッパに行っても楽しくないだろ? 人に話すとちょっとは楽になるぜ? 頭と一緒にさっぱりしてさ」
「遊びに行くんじゃねぇよ。荷物持ちだ、荷物持ち」
 大学院には十月から復学した。十一月に入ったらすぐ恩師が十日ばかり東欧を回ることになり、助手兼通訳兼荷物持ちで同行することになった。髪なんかどうでも良いと思ったのだが、やはり教授や見るからに生真面目な他の同行者達の手前、切ることにしたのだった。
 十一月半ばまで帰国しない。館野さんの職業柄、その頃になると年末年始の体制で忙しくなるはずだ。ますます間遠くなってしまう。
「今回、本当、慎重だよな。祥平、ああ言うタイプは多少強引に行った方が良いと思うぞ。流されてくれそうじゃん」
 ノンケを口説いたことがないわけじゃない。若気の至り的に押して押して押しまくった相手もいたが、結局は上手くいかなかった。たいてい相手が我に返り、そして「女」の元へと戻って行く。たまに街中でばったり再会したりすると、あからさまにバツの悪そうな顔をされた。半ば遊びの関係だった相手でも、そんな顔をされると少し辛かった。それが恋となると、ダメージのほどが計れない。
「後悔させたくないんだ」
 流されて一時の波が去った時、次には後悔の波が押し寄せる。館野さんは気の迷いと割り切るタイプには見えない。
「本気度Maxだな、おまえ」
「うるさい」
 俺の言葉はドライヤーの音にかき消された。例によってベタベタとセットに必要な類がつけられ、一日限定の髪型に仕上がっていく。
「出来たぞ。どうせまた今日一日の運命だろうけどな」
 鏡の中の自分を見て、髪の長さが来た時と変わっていないように思えた。多少、小洒落た感じになってはいるが、一ヶ月もすればまた結べるほどに伸びるだろう。
「もっと切ってくれよ。これじゃ変わんないじゃないか」
「変わってるさ。伸ばしっぱの髪と一緒にしないで欲しいな。帰って来たら、また正月用に切ってやるから来いよ」
「友達で商売する気か?」
「ふっふっふー」
 俺の抗議などお構いなしに、香西はさっさとケープを剥ぎ取り、くるりとイスを回して立つように促した。
 支払を済ませ外に出る。香西が後ろからついて来た。
「土産の一つでも買って来いよ」
「だから旅行じゃないって言ってるだろ?」
「違うって。館野さんに、だよ。それを口実にして話したら良いだろ?」
 あきれたように香西は言った。
 そうだ、その手があった。
「そんでもって、成り行きをまた次の予約日に聞くからな」
「おまえ、もしかしてそれでこの長さ?」
「リアルタイムに聞かなけりゃ、面白くねぇだろ? 帰って来てすぐ来るなら、友達の誼でまけてやるからさ」
 香西はそう言って俺の肩を軽く叩くと、店の中に戻って行った。
 ため息も出るってものだ。俺も店の前から離れた。
 十月に入って一気に秋が加速し、陽の傾きが早くなった。時間は午後四時前だったが、もう辺りは薄らぼんやりしている。
 館野さんが勤めるデパートまで歩いて行けなくもない距離だ。でもまだ勤務時間内だし、外商部の買い付け担当の館野さんは売り場に出ないから、行ったところで会える確率はほとんどないと言って良い。それでも行ってみようと思うのは、恋の成せる業か。
――乙女か、俺は。
 無意識に頭に手が行って、かきむしってしまった。髪がスタイリングされたばかりだったことを思い出した時には後の祭りで、一日限定の髪型は十分ほどしかもたかなかったことになる。香西が知ったら、怒るに違いない。
 
 
 ファスト・ショップで買えば三分の一程度で事足りる旅行用のセーターを、わざわざデパートで買ってしまった。ヘア・カット代と合わせて、今日一日でかなり散財した。これからしばらく続く学生生活のために、なるべく切りつめたいのに。このセーターが館野さんの給料に貢献するなら…と、自分で自分を納得させる。恐るべし恋心。
――六万四千円?!
 何気なく覗いた紳士靴売り場で、スウェードのチャッカブーツに目が止まった。今履いているのはずい分くたびれていて、そろそろ新しいのが欲しいと思っていたところだった。濃いグレーのスウェードなら汚れも目立たず理想的だ。が、値札を見ると「理想的」には程遠く、普段履きにするには恐れ多い値段だった。俺は足元に目を落とした。愛用品とは、一桁の違いがある。
「こちらは柔らかい皮を使っているので、履けば履くほど足に馴染むんですよ。よろしければサイズをお持ちしましょうか?」
 しばらくその靴の前で固まっていたら、女子店員に声をかけられた。俺はブランド名の入った紙袋を持っていた。多少乱れたとは言え、プロがスタイリングしたばかりの髪型だったし、履いているくたびれた靴は目の前に陳列されているものと同じ種類だった。そして世間一般でいうところの給料日明けの金曜日となると、買う気があるように見えても仕方ないだろう。
「あ、いや、ちょっと見せてもらっているだけだから」
 やんわりと買う気のなさを見せたが、彼女は隣に並ぶブーツを指して、
「お客様は背がお高いので、こちらのサイドゴアもお似合いになると思いますよ」
と勧めてくれた。ありがたいお言葉だが、いくらだと思っているんだ、その『サイドゴア』。八万二千円!? 財布の中には現在、野口博士が三人いらっしゃるだけなんですけど。
「いえ、また」
 とにかくここを離れた方が良い。俺は踵を返し、前もろくに見ずに踏み出した。
「おっと」
 なので、誰か男の肩にぶつかる。
「すみませ…」
「申し訳ありません、大丈夫ですか?」
 あわててこちらが詫びを言うより先に、相手が謝ってくれた。背広姿の彼はどうやら、デパートの社員のようだ。胸のポケットに「婦人雑貨・都賀」と言う名札が付けられていた。
「ああ、こちらこそ。前をよく見てなかったので」
 あらためて詫びるために顔を上げた俺の視線は、彼の後ろに立つ人物に向けられた。
「館野さん」
 館野さんは少し目を見開き、すぐににっこりと笑った。営業スマイルに見えなくもないが、久しぶりに俺に向けられた笑顔だ。
「知り合い?」
 俺とぶつかった都賀と言うデパートマンが館野さんを振り返った。館野さんは隣人だと説明する。
「あなたがお隣の佐東さんですか。以前、館野からお名前を聞いたことがありますよ。私は館野と同期の都賀と申します。今日は、お買いものですか? 何かお気に召したものはありました?」
 都賀さんは売り場担当らしく、感じの良い営業スマイルだった。俺が館野さんの知人だとわかると、少し打ち解けた笑顔に変わった。館野さんはただ「隣人」と言っただけなのだが、近所付き合いが希薄な昨今では、単身者専用のマンションで隣人のことを知っている方が珍しく、そこから「親しい」と思ったのかも知れない。以前、館野さんが俺のことを話題にしたらしいと聞いただけで、胸が熱くなった。
「課長」
 前から歩いてきた女子社員が都賀さんに呼びかける。彼は「ちょっと失礼」と俺たちに断って、場を外れた。
 ある意味、緩衝材になりうる人物が抜けて、何となく気まずい。避けられているかも知れないと言う気持ちが、香西の店からここまでの間でかなり膨らんでいた。純粋な買い物目的でデパートに来たわけじゃないことが後ろめたさに繋がって、尚更、俺を緊張させる。
「久しぶりにデパートに来たけど、やっぱり良いものを置いてますね」
 それでも沈黙を続けるわけにもいかず、俺は口火を切った。
「ありがとうございます。お買い上げ頂いたのですね?」
 館野さんが俺の手元を見た。
「今度、教授のお供で出かけるので、いつもの小汚いかっこうってわけにもいかないから、大奮発」
 そう言って俺が笑うと、館野さんも笑った。
「どちらに?」
「東ヨーロッパです。十日くらい」
 会話が滑らかに続く。そこからは、避けられているようには感じなかった。
 館野さんは前と変わらない。おとなしい笑みも、静かな声音も。いや、少し痩せたかも。目の下に薄らと隈も出来ている。仕事が忙しいのだろうか。
 となると週二回のゴミ出しの日も、本当に仕事で早く出ているのかも知れない。火曜日は翌日が定休日だから休み明けの段取りもあるだろうし、金曜日はかき入れ時の週末に向けて準備があるだろう。現金なもので、あれほどネガティブ思考だったものが、ポジティブに転換されつつあった。
「楽しみですか?」
「え?」
 俺の口は館野さんに合わせて会話しているものの、頭の中では違うことを考えていたので、彼の言葉を聞き漏らした。
「今度の旅行です」
「や〜、どうかな。博物館や図書館に行くのは楽しみですけど、ほとんど荷物持ちと通訳に時間を取られるはずですから」
「でもとても楽しそうに見えますよ?」
 それは館野さんとこうして話が出来たからだ。
 火曜と金曜が来る度に嫌な考えに支配されていた。それがこうしてわだかまりなく、以前同様、会話出来ることがうれしくてならない。口には出せない理由だが。
 しかし、今日の俺の口は、俺自身とは別に意思を持ってしまったのか、
「館野さんと久しぶりに話をしているからかな」
と零してしまった。なんてこった。
 館野さんが「え?」と聞き返す。ここは誤解のないように理由付けしておかないと。
「最近、館野さん、忙しいんでしょう? 朝早く出かけて、帰ってくるのも遅いし、ゴミ出しの日もなかなか会えないし。すっかり習慣みたいになってたから、物足りないって言うか、寂しいって言うか、そんな感じなんです。俺、あそこ長いんですけど、同じマンションの人と親しくなったのって、館野さんが初めてなんですよ」
 嘘じゃない。「恋」が介在するかどうかなだけだ。
 自分にそんな感情があるから変に聞こえたらと思うだけで、ノンケの館野さんが聞けば今の理由はおかしく聞こえないだろう。もう悪い方向に考えるのはやめて、ある程度は正直に話すことにする。
「すみません、ここのところ忙しくて」
「いや、そこ、謝るところじゃないですから。お忙しいのは見てわかりました。少し痩せたでしょ? 目の下に隈が出来てますよ」
 その隈に指が行きそうになるのは自制した。先に館野さんの手がそこに触れたので、辛うじて押し留められたと言う方が正しい。久しぶりに会って話して、テンションが上がり気味なのが自分でもわかった。これじゃ変に思われる。
「館野、俺、売り場に戻るから」
 都賀さんが立ち話から戻ってきた。
 館野さんはさりげなく腕時計を見て、「僕も戻るよ」と答えた。都賀さんは俺に軽く会釈して、足早に離れて行った。
「もう落ち着いたので、来月からは普通のペースに戻れると思います」
 館野さんが俺に向き直った。
「じゃあ、また会えますね」
「ご旅行、どうかお気をつけて」
 館野さんはそう言うと、都賀さんと同じ方向に歩きだし、少し行った売り場の角を曲がった。
 さっきまで俺を支配していたネガティブな思考は、たった五分の会話で忘却の彼方へと完全に吹き飛ばされた。
 頬の筋肉が緩んでいることがわかる。拳を作ってその頬にあてて、それ以上緩まないように押さえつけた。とんだ馬鹿面になってしまうし、一人でにやけていては、どう見ても怪しすぎるだろう。
 館野さん達が去った方向に歩み出して止まる。デパートの出口、一階に下りるエレベーターやエスカレーターはそちらではなかった。
 身体を返すと、先ほどの紳士靴売り場が視界に入る。グレーのチェッカブーツに再び目が止まった。
 あのブーツに惹かれて立ち止まらなければ、そしてあの店員に声をかけられなければ、今日の偶然はない。
 財布には野口英世が三枚きりだが、カードと言う強い味方が存在する。六万四千円の靴は今の俺にとっては高価だった。しかし別人格の「口」が先ほどの女子店員を呼んでしまった。
「これの二十八センチ、出してもらえますか?」
 ああ、なんてこった。
 
 
 神様がそんな俺を憐れんでくれたらしく、二十八センチはサイズ切れだった。代わりにブランド違いのものを勧められた。半額ほどだったが、それでもいい値段には違いない。人間の心理はおかしなもので、買うつもりだった値段の半額と思うだけで、なぜか安く感じる。結局、断りきれずに購入した。
 履いている靴は確かにくたびれていた。一度は買おうとしたのだし、今日はここで靴を買う運命だったのだ。
 靴の包装を待つ間、あのグレーのチャッカブーツに目をやる。よくよく見るとスポットライトがあたっていた。勧められたもう一足のサイドゴアブーツと共に、この秋冬一押しの商品なんだろう。道理で目が惹きつけられるはずだ。
 光の加減か、それとも俺の心理状態によるものか、件のチャッカブーツは「得意げ」に見えた。

 
 


                  2012.09.05 (wed)



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