Epilogue 温かな時間 〜am.08:10・佐東〜




「結局、何? 手を出さないまま行かせたってことか?」
 Retiroでの月曜の夜の『飲み会』は、館野さんが引っ越したこともあって復活する。香西と友坂は俺が寂しがっていることを理由にしたが、本当の理由が他にあることは明白だ。
 案の定、閉店してスタッフも帰り、自分たちだけの時間が始まると、香西はいきなり核心的質問を口にした。それを合図に、俺はあっという間に酒の肴にされる。
「気持ちを確かめ合っただけって、いったいどこの中坊ですかって話だよね」
 友坂が追い打ちをかけるが、俺は気にしない。
 館野さんが引っ越した後、御園生さんと話した。館野さんは自分の性癖に気づいたばかりで戸惑っていたと言う。やはり御園生さんは、館野さんに転勤のことは俺に直接話すよう言ったらしい。俺に話すかどうかは五分五分だったとは、御園生さんのその時の感想だ。
 俺が管理人室に荷物を取りに行かなかったら、そしてホワイト・ボードを見なかったら、もしかしたら何も言わないまま、彼は引っ越していたかも知れない。偶然が生んだそんな状況で両想いになれたのだから、奇跡に近いと思っている。早々にベッドに押し倒す…もとい、誘うだなんて、とても出来やしない。
「いいんだよ、俺は。両想いになっただけで、どれだけ満たされているか」
「そんな聖人君子みたいなこと言っちゃって」
「友坂、心配しなくても、すぐステップアップするさ。五月に『お泊り』に行くらしいから。それも二度。な?」
 香西がニヤリと笑った。
 五月、ゴールデンウィークと中旬に関西へ行く。ゴールデンウィークの目的は館野さんに会いに行くことだったが、その時期のデパートは掻き入れ時で、売り場にも出るようになった彼は休みを取ることが出来ない。それで俺が学会で出向く時に合わせて代休を取ってくれることになった。その二度とも、彼のマンションに泊めてもらうのだ。
 館野さんが引っ越すまでの間、二人きりで過ごした時間がなかったわけではない。何度もキスはした。しかし、それ以上の雰囲気になりかけると、館野さんはすっと引いてしまう。胸の内に仕舞い込まれていることの影響なのだろうか。
 
『館野さんの中に何かわだかまりがあるなら、待ちます』
 
 そうは言ったものの、好きな相手を目の前にして、触れずにいられる自信はまったくない。館野さんだって大人の男で、同性相手ではともかく、それなりの経験はあるだろうから、男の生理と言うものを知っているはずだ。三月は彼の心の準備が出来上がるには、時間がなさ過ぎた。でもあれから一ヶ月経っているし、泊めてくれると言うことは、その可能性を少しくらいは考えているのではと期待してしまうじゃないか。そしてその機会を逃したくないと俺は思っている。
「いいよなぁ。俺も誰かと本気で恋愛したくなってきた」
 友坂がさもうらやましそうに言う。本気度は不明だ。まだ二十五、六の遊びたい盛りであることと、性格からして、一人のパートナーに決められるとは思えない。俺だって、その頃は縛られたくなかった。
「あの北条ってヤツと近頃つるんでるだろ? あっちはその気みたいじゃないか。タチでもネコでもこだわりないみたいだし」
 香西の言葉に、友坂は「ええ?!」と大仰に声を上げた。
「俺、やだよ。あんな『初々しくない』ヤツ。やっぱりさあ、こっちの世界初心者がいいよね」
「だったら、ノンケ落としてすぐポイって言うのを、あらためないとね」
「御園生さん、きっつ〜」
 同じ性癖で、気の置けない友人と飲むのはやはり楽しい。時間も忘れて、酒も話も弾む。院でも勉強と付き合いは大変な面はあるが、好きなことだから気にならなかった。充実した毎日、それでも寂しさはある。
「実際の話、遠恋なんて大丈夫なの?」
 友坂は半分冷やかし、半分本気で心配している。彼は好きな人間が出来たら、常に目の届くところに置かないと気が済まない性質だから、両想いになって、触れもしないうちに遠距離恋愛に突入と言う今の俺達の状況は、理解しがたいと目が語った。
「友坂も、もう少し大人になったらわかるって。程よい距離が愛を深めるってこと。常に新鮮だから、まず心の繋がりが深くなるだろ? そうなると身体を繋げる時がすごく待ち遠しくなる。だから会った時には燃えて燃えて、普段の数倍、下半身にクるってわけさ。な、祥平?」
 香西、それ、フォローになってないから。
「程よい距離ねぇ。それって言わばMなんじゃねぇの? あ、でも歯止め利かないくらいになって、『もう許して』って言わせたりするのは、Sかな。うん、アリだ。遠恋もいいかも知れない。館野さんの泣き顔とか、すんげぇエロそうだよね」
「二人とも、よしなさいって。祥平はともかく、相手は館野さんなんだから、からかうのもほどほどにね。ああ、でも館野さんの乱れる姿は僕も見てみたいかな。グズグズになったところであのほくろにキスして、あやすシチュは堪らないかも」
 御園生さんまで。と言うか、何、その具体的な描写は。俺の脳が、思わずビジュアル化してしまうじゃないか。
「俺で遊ぶの、止めてくれないかな、君たち」
 三人が爆笑するので、俺もつられて笑った。
 
 
 明け方、マンションに帰りつくと、ベッドにそのまま倒れ込んだ。久しぶりに朝の気配を感じるくらいまで飲んだ。火曜の授業が午後で良かった。絶対、起きられない。
――ああ、そうだ、今日は火曜日だったな。
 そう思うと、途端にぽっかりと胸に穴が空いたような寂しさが広がる。まだまだ慣れない。「おはようございます」の声と、とりとめのない天気中心の会話が懐かしい。
 館野さんはどうだろう? 同じように、感じてくれているだろうか? 声が聴きたいと、思ってくれるだろうか。
 壁に耳をつけてみるが、隣の音は聞こえるはずもない。それでも思い出の中の『朝の音』を探りながら、俺はうとうとと眠りの中に入って行った。
 目覚ましが鳴っている。午前中休みなのを失念して、いつも通りに仕掛けてしまったのだろう。しまったなぁ、目が覚めてしまうじゃないか。
 そして気づいた。あの音は目覚ましのアラームじゃない。携帯電話が鳴っているんだ。眇めた目で着けたままの腕時計を見る。午前八時を回ったところだった。
――まったく、誰だ、こんな朝早…、館野さん?!
 掴んだ携帯のディスプレイに「館野」の文字。
「も、もしもし?!」
“おはようございます。やっぱりまだ寝ていたんだ、もしかして休講ですか?”
「午前中は授業なくって」
“ゴミの日だから、起きているのかと思って。すみません”
「や、起きます。いえ、起きてゴミ出ししなきゃ、溜まってるからッ。でもどうしたんです? 何かあったんですか?」
 館野さんは一瞬、沈黙する。
“火曜と金曜の朝、まだ時々勘違いするんです。『ゴミの日だ』って。今朝もそんな感じで”
 照れたような声は、その後の言葉を続けない。きっと受話器の向こうの館野さんの頬は赤くなっている。
 ああ、そうか、館野さんも同じなのだ。良かった、ちゃんと通じあっている。
 だから俺が館野さんの飲み込んだと思われる言葉と、自分の気持ちをシンクロさせて口にする。
「俺も、声を聴きたいと思ってた」
 ほっこりとしたものが、満ちてくる。
 


 目覚まし時計の冷静なアラーム音が、ニワトリよろしく朝を告げる。
 電子ポットがシューシューと湯を沸かし、トースターがパンをきつね色に焦がす間、フライパンでは卵二つが目玉を作る。聞き慣れた「いつもの音」が、館野さんの音から俺の音に変わった。
 これまでの時間、これからの時間。
 目覚まし時計の鳴る時間や、火曜と金曜の「いつもの朝」がそれぞれ過去になり――そうして。




2013.01.30 (wed)


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