好キデス 〜pm.08:00・佐東〜 『何度も恋をした。何人もの女と出会いと別れを繰り返し、大人と呼ばれて久しい年月を経ている。それなのに彼女の前では恋初(そ)めの、遠い日の少年に私は戻ってしまい、憧れと畏れの入り混じった眼差しで見つめることしか出来なかった。それほどまでに臆病であるにもかかわらず、恋と言う感情の前には、理性や自制心は脆いものだと初めて知る。』 内容を思い出しもしない以前訳した恋愛小説の一節がふと頭を過ったのは、今まさに自分自身がその心境だからだ。 経験上、ノンケとの恋は不毛だと知っていたにも関わらず館野さんに惚れてしまい、それならせめて発展しないようにと自制した。館野さんは恋愛の対象として俺を見てくれそうになかったし、彼との間柄を壊したくなかった。話していて癒される、心の中が温かくなるひと時を失いたくなかった。我ながら初めて恋をした小学六年生のようだと自嘲しつつ、どんなに香西や友坂に煽られても、一線を越えることには慎重だった――はずなのに、見知らぬ男と館野さんの只ならぬ雰囲気に頭の中が沸騰すると、そんな一線、軽々と越えてしまった。彼の気持ちを確かめる前に「好きだ」と口走ってしまった。 留守番電話やメールにメッセージを残しても館野さんから返事はなく、会って直接話をしたくても避けられていて叶わない。多少時間に余裕があれば、待ち伏せてでも会う機会を作るのだが、年明けから俺は何かと忙しくて自由にならない状態に陥っていた。 五月に関西で学会があり、ダメ元で応募した俺の研究論文が自由論題報告に通った。その準備もしなければならないと言うのに、研究室の担当教授が学会講演と他大学から特別講義の依頼を受けたので、合間に手伝うことに。その上、教授は本を出版することになっていて、リストされた資料の収集と整理を学生達は「自分のためにもなるから」と押し付けられる始末。 二月に入ると翻訳の仕事も入った。今や貴重な収入源となったバイトを、そうやすやすと手放せない。重なる時には色々重なるものだ。 マンションの自室に帰ると睡魔の誘惑に負けて無意識にベッドに入ってしまうので、研究室に寝泊まりする日が続いている。縦しんば時間の折り合いをつけて戻っても、朝、館野さんの出勤時間に起きられるはずもなく、そうこうしているうちに、あの新年会の夜から二ヶ月経ってしまった。今だに直接話すことが出来ずにいる。 「佐東さん、教授が出典先の資料を確認したいって」 「わかった、これ図書館に戻したらすぐ行くよ。それにしても、他にも院生やら学生やらゴロゴロいるのに、俺の名前が呼ばれる率高くないか?」 「休学して授業料調達してまで学問続ける姿が気に入ってるんでしょ。理系ならよくある話だけど、文系で教授の専門のポーランド史なんて珍しいから」 「女子や若い学生だと、すぐセクハラだ、パワハラだってうるさいし」 「それに佐東先輩はポーランド語も英語もそれなりにペラペラだから重宝なんですよ」 英語はともかく、ポーランド語がペラペラなら苦労しません。だいたい今時は翻訳ソフトが発達しているのだから、もっとお前たちも努力しやがれ…と言いかけた時に、胸ポケットで携帯電話が震えた。友坂からのメールで、「時間が空いたら連絡くれ」とあった。 図書館への道すがら、電話をかけてみる。要件も書かずに「連絡くれ」は、友坂にしては珍しい。もしかしたら急用かも知れず、それなら少しでも時間があるうちに聞いておかねば。 “別に急用ってのじゃないんだけど、やっぱり気になっちゃってさぁ。大きなお世話かもとは思ったけど、あれから北条に探り入れてみたんだ。でもあいつチャラ男のくせして口は堅いんだよね” 新年会以降の俺の現状を見るに見かね、友坂が北条と言う男とコンタクトを取ってくれたらしい。 “どうする? 引き続き探ってみようか?” 「いや、いいよ。プライベートだから」 気にならないと言えば嘘になるが、知る時は館野さんの口から聞いた方が良い。だけど、そんな日が来るだろうか。いや、北条とのことなんて聞く必要はない。今はただ館野さんと話がしたいだけだ。 “祥平さん、忙しそうだね。今度、飲みに行こうよ” 「そうだな。とりあえず、今から図書館に行ってくる」 電話を切ったら溜息が出た。心配してくれているのは確かだろうけど、面白がっている面もある。彼らの関心がどちらに重きを置いているにせよ、俺の腰の引け具合が招いた結果だ。 図書館のある棟に続く渡り廊下から見える風景は、どことなく春めいて見える。すっかり葉を落としていた木々の枝も、ちらほらと芽吹いていた。気温的にはまだ冬のように寒い日もあったが、日差しは「ふんわりと」の副詞を使いたくなるほど柔らかい。冬生まれのはずの館野さんと、なぜか印象が重なった。 時間を無理やりにでも作らないと、今のこの状況は打開出来ないことはわかっている。俺は、何かと理由をつけて逃げているだけじゃないのか? もう一週間、ろくにマンションに戻っていない。 ――洗濯もいい加減、溜まってるよな。明日はゴミの日だし、今夜は帰って寝るか。 ゴミの日でも、館野さんとは多分、会えない。あの人はゴミの日は特にひっそりと出勤して行く。 「はあ〜」 たとえ館野さんが賑やかに出かけたとしても、今の俺ではそれに気づいたかどうか。自室にたどり着いてちょっとのつもりでベッドに寝転がったら、一瞬で朝だった。それも辛うじて午前中。午後の特別演習には出なければならない。 ともかく洗濯機を回す。乾燥までやってくれるから、多少の皺に目をつむれば大助かりだ。その間に管理人室で預かってくれている宅配の荷物を取りに行かなけりゃ。 隣の部屋のドア。完全に寝入っていた意識の中で、時折、隣の音を聞いた気がする。久しぶりの館野さんの気配だった。あの時、起きられて、隣のドアベルを鳴らしたら、彼は出てくれたろうか。 あの夜の、エレベーターの中の館野さんがフラッシュバックした。顔色は紙のように白く、感情の読み取れない、それでいて痛々しい表情だった。あんな顔をさせたのは俺だ。館野さんと会って、またあの表情をさせるのかと思うと辛い。だから無意識に、「会えなかった」の理由付けを探しているのだ。 「五〇一号室の佐東ですけど、荷物受取にきました」 「ああ、佐東さんね、ちょっと待ってくださいよ」 管理人が奥の部屋に荷物を取りに行く間、何気なく今月の予定が書かれたホワイト・ボードを見た。毎週土日が引っ越しの文字で埋まっていた。三月は入退出が集中する。このマンションの部屋を社宅代わりにする法人契約が多いからだ。 ――五〇二号室?! 三月最後の日曜日の引っ越し組の中に、「五〇二号室」の文字を見つけた。五〇二号室は隣の、館野さんの部屋だ。 「お待たせしてすみませんね。じゃ、これね。ここんとこに受取のサインしといてね」 「あの、五〇二号室の人、引っ越すんですか?」 「ああ、お隣でしたね。ええ、そうですよ、転勤されるそうです」 「転勤…」 サインもそこそこに荷物を受け取ると、急いで部屋に戻った。 転勤のある会社に勤めているのだから、あってもおかしくない。現に、ここにだって転勤で越してきたのだから。しかしこのタイミングってなんだ。 今すぐ確かめたい。駅前のデパートに行って、館野さんを捕まえて、確かめる…と言うより、会いたかった。ホワイト・ボードに書かれている限り、引っ越しは紛れもない事実で、管理人に話しているなら引越しの理由は転勤なのだろう。確かめたところで、答えは決まっている。それでも彼の口から聞きたい。その件に限らず、何もかも。それからちゃんと自分の気持ちを伝える。あんな中途半端な、場の勢いで言うのではなく。 部屋に戻って着替える最中、机上に置いた携帯電話の表示ランプが点滅しているのに気付いた。留守番電話が入っている。内容は特別演習の開始が三十分繰り上げられ、その分、教授による検討会が後に組み込まれると言うものだった。今日の特別演習は、五月の自由論題報告のリハーサルのようなものだ。俺が所属する研究室からは今回、俺を含め二人の研究論文が公募で採用された。その二人のために開かれる特別演習だった。特に秋に復学したばかりの俺の論文は論報に通ったものの、付記の余地がまだまだあり、本番の質疑応答では厳しい突っ込みが予想された。つまりメインは俺の演習と言うことになる。 館野さんで占められていた頭の中に、『冷静』な隙間が出来た。逸っていた心がペースを落とす。館野さんには会いたい。でも自分のすべきことを放りだすことは出来なかった。何もかも中途半端過ぎる、俺は。 夕方の六時には戻って来られるだろう。館野さんに会うのは、それからだ。 特別演習でさんざん質問攻めに遭い、その後の教授による検討会でもダメ出しの連続だった。卒論と院試の時の口頭試問は度胸のみで乗り切れたが、それではとても通じないと痛感し、かなり凹む。 「何だか、いつものキレがなかったですね、佐東さん。身体の具合でも悪いんですか?」 と聴講していた他の院生が心配してくれた。身体の調子ではなく心の調子が悪い…とはとても言えない。 疑似質疑応答中、自分では集中していたつもりだが、口が思うように回らなかった。身内だけの空間であるのに変に緊張してしまい、自分で書いた論文でありながら引用箇所を度忘れする為体(ていたらく)。もう一人の出来が良かっただけに、余計に目立ってしまった。 ――情けない。何やってんだ、俺。 教授は自分の手伝いをさせ過ぎたと思ったらしく、二週間後なら時間が取れるからリベンジしろと言ってくれた上に、研究室に夕食の出前を差し入れてくれた。申し訳なくて、穴があったら入りたい気分だった。 そんなわけでマンションに帰ったのは、夜の八時前。館野さんが先に帰宅していたなら、居留守を使われるなと思いつつ、ベランダから身を乗り出して、彼の部屋の明かりを確認した。部屋はカーテンが開いたままで暗い。まだ戻っていないようだ。ドアの前で待つことにした。 灰皿を手に、自室のドアの前に座る。コンクリートの廊下は座ると冷たく、三月の夜はまだまだ寒い。それくらいの方が居眠りしなくて済む。 座ったままで顔を上げると、上った月が目に入った。満月に見えるがどうなんだろう。などと考える余裕は出来た。ホワイト・ボードを見た時のままでは、館野さんに会いに行っても感情的になって、言いたいことが言えなかったと思う。職場まで押しかけて、仕事中の館野さんを困らせたかも知れない。きっと館野さんの気持ちも言葉も、聞き漏らしていた。 エレベーターの開閉する音が、風に乗って微かに聞こえた。足音がこちらに向かって響く。首を伸ばすと、そのシルエットから館野さんだとわかった。 今度は立ち上がって、彼を見た。館野さんが、俺に気づいて足を止める。廊下の室外灯に浮かんだ館野さんは、二ヶ月前と変わらず痩せたままだった。俺を見て、少し笑みを浮かべ、また歩き始めた。 「…ご無沙汰しています。部屋の外で、何をなさってるんです?」 手の届く距離まで館野さんが来て、俺に話しかける。 「あなたを待っていました」 俺がそう言うと「そうですか」と答えた。まるで俺が待っていたことを知っている風に見えた。彼の表情からは緊張が読み取れる。身構えてもいる。そうさせているのは俺だ。 「転勤って、本当ですか?」 なるべく声のトーンを変えずに質問した。 「…御園生さんから、お聞きになったんですか?」 思いもしない名前が出て、俺の声はコントロール出来ずに変わった。 「御園生さん? 御園生さんはこのこと、知っているんですか?」 なぜ御園生さんが知っているのか? 知っていたなら、なぜ俺に知らせてくれないんだ?――いや、知っていても館野さんが口止めしたなら、御園生さんは話さない。口止めしなくても、自分の口から話すことを勧めるはずだ。 御園生さんから聞いたのではないと知って、館野さんは三年に一度の異動対象になって、神戸の店に転勤することになったと話した。聞かれることを予想していたかのような、淡々とした口調だった。御園生さんから俺に連絡が入ると思って、シミュレートしていたのだろうか。 「俺に言わずに、黙って行くつもりだったんですね」 館野さんは伏し目のままで反論しない。やはり黙っていくつもりでいたのだ。 「避けられるのは仕方ないと思っています。俺はそうされるようなことを言ったし。だけど、やっぱり黙っていなくなられるのは辛いです」 「佐東さん」 館野さんは目を上げた。俺を見る表情は緊張が和らいで見えた。 「すみません、避けるようなことをしてしまって。佐東さんと、どんな顔をして会っていいかわからなかったので」 「俺が、困らせるようなことを言ったんです」 「いいえ」 館野さんは首を振り、小さく息を吐いて笑った。何か吹っ切れた、そんな薄らとした笑みだ。 「違います。佐東さんのせいじゃない。佐東さんが好きだと言ってくれたことが嬉しかったんです。あの時の僕はおかしかったから、慰める意味で言ってくれたのでしょうけど、それとは違う意味なら良いのにって」 「違う意味?」 「佐東さんの『好き』が、恋愛の意味の『好き』ならって思ってしまったんです。おかしいでしょう? 自分がおかしいってわかって、とても佐東さんと顔を合わせられなかった。失礼なことをして、申し訳ありませんでした」 一瞬、頭の中が白くなる。今、とても大事なことを館野さんは言ったんじゃないのか? 俺の言った「好き」が恋愛の意味なら良いのにと彼は言った。それはつまり、館野さんは俺のことを? この人は、俺のことを好きだと言ってくれているんじゃないのか?――頭の中を整理する。整理するにしたがって、じわじわと喜びが湧き上がってくる。同時に嫌な予感がした。館野さんの、吹っ切れたような笑みは。 「もう会わないつもりなんですね? だから今、こうして避けずに話してくれている。これで最後だと思っているから」 彼の瞳が揺らいだのを見逃さない。 「来週の日曜日に引っ越します。今まで仲良くして頂いてありがとうございました」 俺の質問に直接は答えなかったが、頭を下げた姿がそれを肯定している。 「嫌だ」 鞄から鍵を取り出そうとする彼の腕を掴んだ。 「佐東さん」 「俺のことが好きだってことですよね?! 友達とか知り合いだとか、そんな意味じゃなく、恋愛の対象として見てくれているってことですよね?!」 「…すみません」 「なんで謝るんです!」 なぜそんな、申し訳なさそうな顔をするんだ。 先に好きになったのは俺なのに、館野さんは何も悪くない。 「先に惚れたのは俺だ!」 頭に血が昇る感覚。自分自身が情けない。館野さんにそんな顔をさせてしまったことが、堪らなく情けなかった。 そのまま引き寄せて抱きしめたい衝動が辛うじて止まる。欠片で残った理性が、視線の延長上にあるエレベーターのドアの開閉を認識した。 このまま離せない。離してしまったら、館野さんとの距離がまた開いてしまう。 今こそ、彼に伝えなければ。 やっと俺の想いが伝わろうとしている今。 やっと館野さんの気持ちが確かめられて、二人が向き合えた今。 掴んだ館野さんの腕を引いたのと、自室のドアをもう片方の手が開けたのは同時。玄関に押し込んだ時には、館野さんを抱きしめていた。 それから館野さんの唇に自分の唇を押し付ける。感情を抑えられない、優しくないキスだ。わかって欲しいと思う気持ちが先走った、子供じみたキスだ。 「俺の『好き』は、こう言う意味での好きです。初めて、あなたを見た時から」 唇を離す。館野さんは目を見開いて、俺を見ていた。 「夜中、エレベーターで一緒になった時から、同じ階で降りて、いつも気になっていた隣の人だとわかった時から」 「いつも、気になっていた?」 「六時四十五分の目覚まし、卵を割って、パンを焼いて、コーヒーを淹れて」 身支度の音で男だとわかった。どんな人なのかと気になった。家族持ちの単身赴任者か、それとも独身か。中年か若いのか。どんな風貌なのか――懐かしい朝の音に想像を膨らませながら、知りたいような、知りたくないような。知って落胆するならともかく、もしタイプだったらと。 ――でも会ってしまった。 そして一目で恋に落ちた。 「館野さんが越して来た時から、俺の恋は始まっていたんです」 自分で言っておきながら照れる。普段の俺なら、とても吐けないセリフだ。きっとあの小説の一節に中てられているのだろう。でも構わない。館野さんに伝わるなら。彼に知ってもらうためなら、どんな言葉でも言える。 「あの時、館野さんがもしかしたら同じ気持ちかも知れないって思うと、本当に嬉しかった。一生、叶うことはないと諦めていたのに。確かめずにいられなかった。確かめて、あらためて俺の気持ちを伝えるつもりが、焦って告ってしまったんだけど」 館野さんを抱きしめ直した。 「館野さんの中に何かわだかまりがあるなら、待ちます。だから最後だなんて言わないでくれ」 祈るような気持ちが、抱きしめる腕の力になる。 何かが床に落ちる音がした。音の方向は足元。黒いビジネスバッグが目に入った。館野さんのバッグだ。 背中に温かみを感じる。館野さんの両手の体温だとわかった。回されたその手が、俺を抱き返してくれる。 「好きです」 耳元で囁かれた言葉。 「え?!」 俺は思わず、館野さんを引きはがしそうになった。しかし館野さんの腕が、俺の背中を離さない。 「もう一度、言ってください」 俺の聞き返しに答えはなく、何とかして顔を見たいと思っても叶わない。 くぐもった声で「佐東さんに聞いてもらいたい」と返った後、続かない。しばらく待ってみたが、館野さんは押し黙ったままだった。今はまだ、話すことに躊躇いがあるのか。 俺は、彼の首筋に顔をうずめる。 「聞きます。館野さんが話したくなった時に」 「軽蔑されるかも知れない」 「しない」 「どうして言い切れる? 僕のことは知らないだろう?」 「好きだから、わかるんだ。館野さんが軽蔑されるような人じゃないって。確かに、俺は館野さんのこと、何も知らない。でもそれが何だって言うんです? そんなこと、これから知っていけばいいんだ。館野さんだって、俺のこと知らないだろう? もしかしたら極悪非道な人間かも知れない」 「そんなこと」 俺は館野さんがしたと同じ質問をする。なぜ、言い切れるのかと。館野さんは答えられなかった。 「もう一度、言ってください。さっきの言葉」 背中に回された館野さんの腕に、力が入るのを感じる。 「…好きです」 顔はやっぱり見えなかったが、ただ首筋が真っ赤になっていることだけは辛うじて見ることが出来、それは俺をひどく幸せな気分にさせた。 「俺も好きです」 2013.01.30 (wed) |