体 温〜am.0:00・館野〜
                 



 タクシーを降りると、冷たい空気が身体を包んだ。口元から漏れる呼気は白く、気温がかなり下がっていることがわかる。十二月下旬並みの寒さになると言う天気予報は当たったらしい。アルコールが入っているせいかあまり寒く感じず、むしろその冷たさが心地よかった。
 すぐには自分の部屋に入る気になれなくて、マンション入り口の寄せ植えの縁に腰を掛けた。
 見上げた空には少し欠けた月が、白く光って浮かんでいた。周囲に暈(かさ)がかかっていて、「明日は雨かな」とぼんやり考える。
 店は定休日だ。何も予定がない僕と違って、都賀は午後、幼稚園から帰った子供を連れて動物園に行くと言っていた。雨がひどく降らなければいいけど、今夜の酒量では天気以前に問題があるかも知れない。
 一年以上、のらりくらりとかわしてきたが、とうとう逃げ切れなくなって都賀と飲んだ。




「今日こそは、何が何でも飲みに行くからな」
 翌日は今年最後の定休日。十二月に入れば年末商戦も大詰めに入って多忙になり、一緒に飲みに行く機会を作るのは難しい。僕の都合を聞いていたのでは、いつまでたっても話す機会は得られないと思ったのか、都賀は終業後、部署まで迎えに来た。
 有無を言わさず連れられて行ったのは、職場の人間や店の常連客と会いそうにない二駅離れた隣町の居酒屋だった。都賀は座敷の一番奥まった席に迷わず向い、簡単には解放してもらえないその様子に僕は苦笑した。
 都賀が僕から聞き出したいことは離婚理由だ。
 元妻の千咲とは彼の紹介で知り合った。勤務地が違ったので頻繁ではなかったが夫婦同士で会うこともあったし、千咲と彼の妻の春香さんとは元同僚で仲が良く、彼らに子供が出来るまでは夫抜きでよく旅行にも出かけていた。
「他に女でも出来たのかと思ったら、まだ独りでいるし、付き合ってる風でもない。いったい何が原因なんだ?」
 言わば家族ぐるみのつき合いだった上に、間を取り持った張本人としては僕たち夫婦の突然の離婚――彼には離婚が成立した後、同じ店に転勤してから話したので――は、僕が理由を話さないこともあって納得出来ないのだろう。
  先付けが出て、お互いのグラスにビールを注ぎ合うと、都賀は単刀直入に本題に入った。「夫婦の問題だから」と言う今までの僕の理由は通らないと目が語る。
「『夫婦の問題』って言うのはだな、お互いに何かあって始めて成立する言い訳だぞ。館野のとこのはそうじゃないだろ? おまえがそう言っているだけで、千咲ちゃんには思い当たることがないって言うじゃないか」
「…彼女から、何か聞いたのか?」
「うちのが『無理矢理』聞き出したんだよ」
 僕同様、千咲もなかなか都賀夫妻には話さずにいたらしい。彼女自身、離婚した原因がはっきりしないのだから、話のしようが無かったと思う。離婚は僕の一方的な申し出でであり、千咲こそ、その理由を一番知りたいに違いなかった。
 『無理矢理』聞き出されたことで抑えていたものが外れたのか、千咲は自分の気持ちを春香さんに吐き出したそうだ。それがつい最近のことで、自分がこうして実力行使に出たのは、そんな事情もあってのことだと都賀は言った。
「言っとくが、千咲ちゃんから頼まれたわけじゃないからな。彼女はもう終わったことだからって言っているらしい。でも春香がカンカンなんだよ。いやいや、俺だって気になってる。今でこそマシになったけど、こっちに移って最初のうちは、館野の様子も変だったしな」
 千咲とは離婚して僕がこっちに移ってから、一度も連絡を取っていない。転勤先は知らせておいたが携帯電話の番号も変えたし、新しい住所も教えなかった。彼女を嫌いになったわけではなく、一方的に理由も言わず、離婚を決めた後ろめたさで余裕のなかった僕は、とにかく彼女の前から消えてしまいたかったのだ。
「離婚の時のおまえの誠実な態度を聞いたよ。何もかも彼女に渡して、身一つで出て行ったって言うじゃないか。そこまでするんだから、てっきり浮気相手に本気になったと思ったけど、そんな様子もないしなぁ」
 都賀は僕にグラスを空けろと促す。中身を半分にしたそれを差し出すが、都賀は全部飲み干さないと許さなかった。酔わせて、舌を滑らかにさせる計画が見て取れた。アルコールの強さは人並みだと思うけれど、都賀の足下には及ばない。彼の勧めるままにグラスを空にしたなら、思うように喋らされてしまうだろう。躊躇っていると、
「まさか、どっか悪いのか? そう言えば、前に比べて痩せたよな?」
と都賀はビール瓶を持った手を少し引いた。
「健康だよ。痩せたのは環境も変わったし、忙しかったせいさ」
 あまりに心配そうに見るから、仕方なくグラスを空にして彼の前に出す。どうせなら正体を失くすくらいに酔いつぶれてしまう方がいいのかも知れない。都賀はビールを注ぐと、また話を続けた。
 宥めたり賺したり、時には語調を強めたりして、都賀は僕から納得のいく答えを導き出そうとする。
 僕は、答えられない。
 もう彼女に触れられなくなってしまったと――同性に触れられて欲情に似たものを覚え、そしてそれがいつまでも忘れられずにいると、どうしても答えられなかった。
 早く酔ってしまいたいのに、キリキリと痛む胃が僕を正気に保ち、どれほど飲んでも頭は冴えたまま。逆にアルコールに強いはずの都賀の呂律がだんだんと怪しくなっていく。僕が一杯飲む間に二杯グラスを空けるのだから当然だった。
「あのなぁ、千咲ちゃんはまだおまえのことが好きだぞ。嫌いになったのなら、嫌いになったとちゃんと言ってやれよ。理由がないなら嘘でもいいから作れよ」
「わかってる」
「本当にわかっているのか?」
「わかってるよ」
 わかっているんだ、それぐらい。
 でも都賀、僕は嘘がつけない。嫌いじゃないのに嫌いだとは言えない。それなのに、正直に「君を抱けなくなったから」とも言えない。
 夫婦として、父母として、つまりは家庭としての形をなさないまま一生を過ごさせるよりはと思った。それを話せば済むことなのに、自分の性癖が変わったかも知れないことにまだ混乱していて、整理がつかずにいる。彼女からも、心配してくれている君からも逃げてばかりなのはわかっていて、時間が解決してくれるのを待っている卑怯者だ。
「次、行くぞ、次!」
 店が閉店(かんばん)になって外に出ると、都賀はますます怪しくなった呂律でそう言いながらタクシーに乗り込んだ。それを宥めて、彼の自宅の住所を運転手に告げる。都賀は尚も何軒かの店名を羅列したが、車が動き出すとすぐに寝入ってしまったので、改めて僕は目的地を言い直した。
 都賀を自宅まで送って行くことを迷った。今夜、僕と飲みに行っていることは春香さんも承知しているだろう。どんな顔をして彼女に会えばいいのか。
 それでも潰れた彼を一人で帰すわけにもいかず、タクシーをそのまま待たせて玄関まで送った。
 迎えに出た春香さんは少し寄っていかないかと言ってくれたが、遅い時間を理由に断りタクシーに乗り込んだ。彼女の表情は記憶にない。酔っていたからではなく、まともに彼女を見られなかったから。
 タクシーが加速し、風景の流れがどんどん速くなる。やっと緊張から解放された僕は、長いため息と共にシートに深くもたれた。
 身体がひどく重かった。
 



「館野さん、何してるんですか?」
 声をかけられて顔を上げると佐東さんだった。手にはコンビニの袋を持っている。
「…飲み会で、今、帰ってきたんです。少し酔い覚まし」
「大丈夫ですか? 今夜は結構、冷えてますよ」
「酒が入っているから、あまり感じなかった。でもそろそろ入ります」
 彼と連れ立ってエントランスに入った。
 佐東さんは隣の部屋に住む翻訳家だ。正しくは、アルバイトで翻訳の仕事をしている。もともとは大学院生、休学してこれから先の学費を貯めているのだそうだ。翻訳の仕事は煩わしい音のしない夜が捗るとかで――それに時々は夜間工事のアルバイトもするらしく――、ほぼ昼夜逆転の生活をしていた。こうして夜中にコンビニで夜食などを調達するのが日課になっていると聞いている。
 独居用マンションなのでエレベーターは狭く、僕の吐き出すアルコールの臭いがすぐに充満した。「すみません」と謝ると、
「え? 何で? これぐらい大したことないッスよ」
と彼は笑った。
 この手のマンションでは、近所付き合いはほとんどない。隣人の佐東さんと知り合ったのは引っ越して半年以上経った頃だった。週二回のゴミ出しの日に一緒になったことがきっかけだ。
 最初、襟足の長い髪と無精髭を胡散臭く感じて、少なからず警戒した。でもそれは僕が来るまで同じ時間に人と会うことがなく、身支度に頓着せずゴミ出しに出ていたからで、一緒になることが多くなると髭はなくなっていた。その頃から、少しずつ言葉を交わすようになった。
 初めての土地で、知り合いは都賀しかいなかった。都賀とは千咲のことが間にあるので、どうしても昔みたいに話せない。職場とマンションを往復するだけの毎日。リニューアル店で顧客管理に忙殺され、一日の会話はと言えば仕事のことで終始した。無自覚に僕は人恋しかったのだと思う。そんな時に佐東さんと知り合った。仕事上のことや過去の生活のことにを触れずに済む彼との会話は、気が楽で落ち着いた。今も、さっきまでの重苦しさが少し薄らいでいる。
 代わって足下がふわふわする感覚。
 テレビ画面を見るのに似た客観的な視界。
「おっと」
 現実感のないその『視界』が一瞬、くにゃりと揺れたかと思うと、額の辺りで佐東さんの声がした。同時に僕の腕を彼が掴む。
 エレベーターが止まって、ドアが開いていた。佐東さんと話してホッとしたら途端に身体は酔いを自覚したのか、降りるために一歩踏み出した足が覚束なくなって身体が傾いだ。それを彼が支えてくれたのだった。
「え、あ、大丈夫です。何だか急に酔いが」
「酔い覚まししたのに?」
 間近に佐東さんの笑んだ目があった。「本当に」と僕は返して身体を起こしたが、軸がまっすぐ定まらない。佐東さんは離しかけた手をまた戻す。それから掴んだ僕の腕を肩に回し、もう一方の手で腰を支えると、そのまま歩きだした。
 知り合ってまだ一年くらい、まともに話し始めたのは最近の年下の彼に醜態をさらしていることは恥ずかしかったが、すっかり足に酔いが来て、自分ではどうにもならなかった。
 外気で冷やされたはずの体温が上がる。
 頬が熱くなる。
 佐東さんからは、煙草のにおいがした。
「ほら、着いた。大丈夫ですか?」
「はい。すみません、助かりました」
「どういたしまして。今夜は風呂、入っちゃダメですよ。そんな調子じゃ溺れるから」
 佐東さんは僕がドアを開けると身体を離した。「おやすみなさい」を言って僕がドアを閉めるまで、彼の姿はそこにあった。
 上がり口に足をかけた時、隣のドアの開閉する音が聞こえた。歩幅の広い足音が部屋の奥へと消えて行く。彼は今から夜食を食べて、また仕事の続きをするのだろうか。
「『おやすみなさい』は、おかしかったかな…」
 漏れた独り言に笑みが付録について、思わず口元に手が行く。酔いはともかく、あんなに重だるかった身体が、すっかり軽くなっていることに気づく。
 部屋の中は外同様に冷えていた。比例して身体も冷えていく――ついさっきまで腕に、腰にあった自分のものではない『体温』を、ひどく懐かしく思った。


…なぜ?




                 2009.12.15 (tue)

   
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