隣室のデパートマン・館野さんとの関係に進展はない。向こうは昼間働くサラリーマン、こちらはと言えばセミ自営業――それも夜中に捗る物書き系の仕事のため、生活時間帯が真反対なのだ。無理やり時間を作らなければ、話をすることはおろか顔を見ることさえも難しい。
館野さんに対する気持ちを自覚してから、接点が増えるように努力はしている。夜の遅い彼の帰宅時間を見計らってコンビニに出かけ、偶然を装いエレベーターで一緒になるとか、時々は勤め先である駅前のデパートに足を運んだりとか。しかし『偶然』を毎晩続けるのは不自然だし、外商部所属の彼は売り場に立たないので店内で見かけることは皆無だった。だからと言って、彼担当の顧客になるには、先立つものが絶対的に足りない。第一、高級輸入家具や雑貨を、この1DKのどこに置けばいいのか。
今一つ、なりふり構わずの行動に出られないのは、館野さんがノンケ=ヘテロ(異性愛者)だと言うことだ。確認したことはないが、世の中のほとんどが異性愛者であることを考えると、彼がゲイである確率は極めて低い。ゲイ歴も長くなると同類には多少なりとも鼻が利く。その鼻が反応しないくらい、館野さんは普通の人だった。
ノンケとの恋愛はゲイにとって夢である。もっと彼のことを知りたいのは山々だが無理はしたくない。やっと天気の話から脱却し、言葉数も増えて自然に会話出来るようになったことだし、心地よい今の関係を続けられるなら、ゆっくりしたテンポでもいいと思っていた。同類の友人が知ったならきっと、「『速攻の佐東』にしては腰が引けているな」と笑われるだろうけど、速攻は同類相手に有効なのであって、ノンケ相手では勝手が違う。腰が引けても仕方ないじゃないか。
そんなわけで確実な接点は、相変わらず週二回のゴミ出しの日。時間にして三分足らずで、営業スマイルを残して出勤して行く彼の後姿を、ただ切なく見送るだけだった。
――あれ? 館野さん?
仕事がひと段落したので、ゴミ出しの日以外に珍しく午前中に起きた。あまりの天気の良さにベランダに出て煙草を吸っていると、ぼんやりと見下ろしていた景色の中を、見知った人影が過ぎって行く。館野さんだ。それもスーツじゃなく、ジーパンにパーカーと言うラフな格好の。
駅前のデパートの定休日は水曜日、つまり昨日だった。今朝もちゃんと六時四十五分に目覚ましの音が聞こえていたのに、具合が悪くて欠勤したのだろうか? 今から病院に行くところなのだろうか?
そう思った次の瞬間には、上着を引っつかんでいた。
――ストーカーになった気分だ
数メートル前を館野さんが歩いている。彼の後をつける自分の行動が笑えた。
彼は病院がある繁華な駅前とは違う方へと向かっていた。途中、数件の歯医者も素通り。具合が悪くて休んだのではないことがわかり、ホッとした。
館野さんはデパートの小ぶりの紙バックを持ち、道すがら自動販売機で缶コーヒーを購入。街路樹の開き始めた花や、散歩中の犬や、塀の上で日向ぼっこをする猫などに目を止めたり、ショーウィンドウをのぞいたり。仏具店の前では物珍しさにか、しばらく足を止めた。普段の姿勢の良い通勤モードとは違い、ゆっくり、ふらふらと漫ろ歩く。
――ああ、そんなに余所見してると
案の定、小石か何かに躓いて、彼の身体はつんのめった。手を着く寸でのところで体勢を立て直すと、何事もなかったかのようにまた歩き始める。ただ、歩き方は見慣れた通勤モードになって、距離もどんどん開いて行った。バツの悪さからか、彼の歩速が上がっているのだ。
「ぷぷっ」
と思わず笑みが声になって漏れた。ちょうどすれ違ったカップルが、訝しげにこちらを振り返る。口元を引き締めて、開いた距離を縮めるべく、足早に彼を追った。
先週から急に気温が上がり、開花宣言された桜は一気に開いた。マンションから歩いて二十分くらいのところに河川敷があって、堤防縁(べり)には、将来的に桜並木にしたい意図でソメイヨシノが植樹されている。枝振りが立派なのは数本、あとはまだ若い樹なのだが、人々の目を楽しませるには十分だ。平日の昼間だと言うのに、手弁当の花見客でそこそこ賑わっていた。
館野さんの姿は、その河川敷に在った。目的は桜なのだろうと推測したが、彼は河川敷に着くと花見に最適な場所は通り越し、クローバーだけが生い茂る土手に腰を下ろした。人影もまばらな上に身を隠す障害物の何もないときては、『ストーキング』するのに限界があった。それに休日の館野さんと話をするチャンスなんて、滅多にない。
「館野さん」
声をかけると、彼が振り返った。いつもはデパートマンらしく整えている前髪は無造作に額に下り、くすんだピンクのパーカーとの相乗効果で、年齢よりもかなり若く見える。眼鏡の中で少し見開いた一重の目と、声が出る一歩手前の口元、そしてモンローと同じ位置のほくろ、諸々が愛らしい。三十も半ばに差しかかった大人の、それも年上の男に向かって『愛らしい』はないだろうが、普段着姿の館野さんはそう見えるほど新鮮だった。
「佐東さん、こんなところで、どうしたんですか?」
「出版社の帰りです。仕事が上がったので。天気もいいし、ぶらぶらして帰ろうかなと」
咄嗟に出たにしては、上手い理由だと思う。言葉の感じは不自然ではないだろうか? 後先考えずに慌てて出てきたので、髭も剃っていない。相手は接客業のプロだから、嘘がばれるかも知れなかった。そんな杞憂は多分、ここまで黙ってつけてきた後ろめたさ故だ。
館野さんは疑う様子もなく、「ああ」と納得するように頷いた。なので、さりげなく隣に腰を下ろす。
「館野さんこそ、今日はお休みですか?」
「ええ」
館野さんの勤め先はシフト制の週休二日で、定休日の他にもう一日が休みになるそうだ。連休は月に一度あるかないか、それも強く希望しなければ、家庭持ちの社員が優先されるらしい。独身の彼はさほど連休に固執しないせいもあり、今回の連休は正月代休以来だとか。
週に二回休みがあるとは気づかなかった。毎日同じ時間に目覚ましの音が聞こえるし、日中、生活音など聞こえてこないからだ――と口を突いて出そうになるのを抑える。それじゃまるで、本物のストーカーじゃないか。
「昨日は一日寝て過ごしてしまって。休みって毎回そんななので、たまには外に出てみようかと。天気も良いし、桜も見頃だってお客様が話していたから」
「だったら、もっと桜が見えるところの方がいいんじゃ?」
「来るまでに堪能しました。それに知った顔も見えたので」
言葉尻が曖昧になったことから察するに、知った顔は顧客か同僚かなのだろう。なるほど、オフの日まで仕事の顔をしたくないと言うことか。余計なことを言ったと思ったのか、館野さんは「ここでも十分、春の雰囲気は味わえる」とぎこちない笑みを添えて付け加えた。その表情は初めて見るもので、得した気分になる。そんなことを彼に言ったら怒る以前に引くだろうけど。
「本当だ、春の欠片がついてる」
館野さんの頭に桜の花びらが乗っているのを見つけ、手を伸ばした。彼にそれを見せると、今度は自然な笑みで口元が綻んだ。
「『春の欠片』だなんて、なかなか文学的ですね」
「文芸作品を訳すこともあるんですよ。官能小説ばかりじゃなくてね」
彼の口元の小さなほくろに目が釘付けとなり、さり気なく視線を逸らした。まったく、恋は意識し始めると際限がない。自分の素直な感情がうらめしかった。それと食欲と。起きてからコーヒー以外のものを入れていない胃が、きゅるると鳴ったのだ。
「あ、いや、実は朝飯、食ってなくって」
照れ笑いで言い訳すると、館野さんは持参した紙袋の中から、ラップに包まれたものを取り出した。
「胡瓜サンドなんだけど、胡瓜が駄目じゃなかったら、どうぞ」
「胡瓜サンド?」
「胡瓜しか入ってないんです」
手渡された三角形のサンドイッチは明らかに手作りだった。サンドイッチ用にスライスされた食パンではなく、トーストにする厚みのものが使われ、結構なボリュームに見えるのに中身は胡瓜のみと言う不思議なサンドイッチだ。
「もらっちゃっていいんですか? 館野さん、花見弁当のつもりで作ってきたんじゃ?」
「もう一つありますから。それに朝、食べてきたので、まだそんなに腹は減ってないんですよ。良かったら、あと一つもどうぞ。胡瓜しか入ってないけど」
「なんで胡瓜だけ?」
館野さんは肩を竦めた。
「冷蔵庫に胡瓜しかなかったから。それに胡瓜サンド、好きなんです」
好き嫌いでいえば胡瓜は嫌いの部類に入るのだが、彼が作ったものだと思うとチャレンジしようと言う気になる。長年、息子の野菜嫌いに手こずった母親が、胡瓜しか入っていないサンドイッチを食べている姿を見たら、どんなリアクションをするか。これは愛のなせる技だ。もちろん母親に愛を感じなかったわけではないけど、こちらの愛には恋がブレンドされている。
「じゃ、遠慮なく」
これだけパンが分厚いのだから、胡瓜臭さは緩和されているかも知れない。一口、かじってみた。
軽く塩もみしたと思われる胡瓜のスライスが、マヨネーズとマスタードで和えられていた。多少、独特の臭いは残るものの、サラダについてくる生野菜仕様と比べたらずい分とマシだ。館野さん効果を抜きにして、「美味い」は言葉になった。「それは良かった」と微笑む彼に見とれそうになる。それをごまかすためにもう一個のサンドイッチを紙袋から取り出し、作った本人に勧める始末。その間抜けた所作に慌てて、声は上ずり、自分でも赤面していることがわかった。
「わ、すみません」
館野さんが破顔する。
「佐東さんは一つで足りますか?」
「足ります、足ります」
館野さんが手にしたサンドイッチの包みにも花びらがくっついている。桜の下を通った時、紙袋にも入ったのだろう。彼がラップを外すと花びらはひらひらと風に乗った。それだけでも春の雰囲気は十分に味わえる。館野さんの言った通りだ。
この胡瓜サンドを食べ終わったら、彼を誘って河川敷を歩こう。春を感じながら、他愛のない話をしながら、程よい緊張感でドキドキしながら。まるで初恋の相手を誘う気分だ。ノンケに惚れると、こんな初心(うぶ)な気持ちに戻るのだろうか。
週に二回、三分間だけの接点でしかなくても、彼との穏やかな関係が保てるなら無理はしないと決めていた。しかしこうして時間を共有すると、もう一歩、進みたくなる。たとえ恋愛に発展しなくても、良い友人関係になれたなら――と言ってもそれは建前でしかない。恋心は欲張りで、本音がむくむくと這い上がってくる。
友情にせよ、恋愛にせよ、何もしないでは始まらない。
「館野さん、この後の予定は?」
風が桜の花びらをひとひら、ふたひらと運んで、二人の間に落して行った。
<end>2009.03.28
ユモレスク(humoresque:仏語)=軽やかで、ユーモアのある曲想の器楽曲
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