勝手違いの恋 〜pm.2:00・佐東〜
                 



「元は悪くないんだから、もっとまめに切りに来いよ。伸ばすにしても無精の結果じゃ、小汚いだけだぞ」
 俺がイスに座るなり、香西は髪を一房つまみ上げて口を歪めた。肩につくくらいにならないと髪を切りに来ないので、香西からいつも同じ嫌味をもらう。美容師の自分がついていながら、友人がこの体たらくなのは許しがたいらしい。そう言う彼だって、背中に届く長いワカメのようなパーマ頭で、顎にはチョロリと無精髭を生やし、あやしいイタリア人的な風体をしている。さほど変わらないだろうと言うと、「自分のは計算された洒落なんだから、一緒にするな」と怒るのだった。
「身だしなみに気を使う必要は、今のところないからな。だいたい、おまえのところは高すぎるんだよ」
「何言ってる。友人価格にしてるじゃないか」
 友人価格でも『おらが町の床屋さん』の倍以上では、決して安いとは言えまい。香西のところは雑誌にも載るほどの人気店だった。俺には分不相応な店なのだが、他で髪を切ったことが知れると後々うるさいので、自分がみっともないと思うギリギリまで我慢して通っている。それがちょうど肩につく長さだった。
 美容師の香西とは大学生の時、同類が集まるその手のバーで知り合った。お互いポジション(・・・・・)が同じな上にタイプではなかったので、情事の対象として見るのは無理だが、年が近いこともあって妙に気が合い、普通に友人として付き合っている。
「最近、どうしてたんだ? 月曜の夜も来なくなったし、御園生さんが気にしてたぜ?」
 御園生さんはスペイン・バル『Retiro(レティーロ)』のオーナー・シェフで、香西同様に色恋抜きで付き合えるお仲間だった。もう一人、スポーツ・インストラクターの友坂を加え、月曜の夜に御園生さんの店で飲み食いするのが常だったが、ここのところすっかりご無沙汰している。
「そろそろ本業に戻ろうと思っているから、余裕ないんだよ」
「ふふん?」
 香西は含みある視線を鏡の中から寄越した。
 嘘じゃない。今年の秋実施の入学試験を受けるつもりでいる。
 大学院に進むための学資稼ぎは、予定より時間がかかってしまった。それは安定した収入の職業についていないからだ。入試のための学業優先、退職前提なので、どうしても仕事は選ばざるを得ず、なかなか決まらなかった。出版社に勤める先輩の伝で翻訳の仕事にありついたが、無名の新人では生活するのがやっと。細々(こまごま)したバイトをかけ持ちして、どうにか進学後の目途をつけた。
 生活があるから仕事(バイト)は続けるにしても、学業の妨げにならない程度には減らしたい。そのためには、少しでも貯金しておく必要がある――が、月曜の夜に『Retiro』に行かなくなったのは、そればかりが理由じゃない。
 休みが火曜日の香西に合わせて月曜の夜に自然と集まるようになった。行けば必ず帰りは明け方の三時、四時。半端ないアルコール量で部屋に入るや否や意識が飛び、昼過ぎかあるいは夕方近くまで起きられない。火曜日の朝はゴミ出しの日だ。館野さんと確実に会える週に二回のうちの、貴重な一日を無駄に出来ようか? 理由としての比重は、こちらの方が重かった。
「何だよ、『ふふん』って?」
「別に。それとも何か感じんのか?」
 隠すほどのことでもないが、からかわれたあげくに『Retiro』で酒の肴にされるのもしゃくに障る。香西の問いには答えず、俺は彼の鋏捌きを目で追った。




 カットの後、シャンプーとブロー、ムースだのワックスだのを駆使して出来上がり。鏡には多少、小洒落た感じの俺が映っていた。ただしその髪型は一日限定だ。自分ではちゃんとセット出来ないし、そんな面倒くさいことしようとも思わない性質なので、どんな最新スタイルも一晩寝て起きたらごく普通の髪型にしか見えなかった、それもちょっと襟足の長い。だからすぐに伸びて、香西の言うところの「小汚い」髪型になる。
「もっと短くしてくれればいいのに」
 そのほうが面倒くさくないし、肩につくのだってもう少しかかるだろう。節約になろうってものだ。
「こっちも商売だからな。回転早くしとかないと。それに祥平(しょうへい)は、ベリー・ショートよりそれくらいのが似合うんだよ。小まめに来るならミディアムにするところだ」
「小まめってどれくらい?」
「月イチ」
「月に一度、髪に五〇〇〇円も払えるか」
 香西は肩をすくめた。
 他の客同様、店の入り口まで彼の見送りを受ける。ドアが開くと、冷たい外気がカットして整えられたばかりの髪を揺らした。立春だと言うのに気温はまだ真冬で風も強い。これではマンションに帰り着くまで、今の髪型はもたないだろう。香西は簡単なスタイリングの方法を教えてくれたが、固めたり流したりするアイテムがないので聞いても無駄と言える。
 彼の話を右から左に聞き流している目の前を、『幻』が行き過ぎた。正確には、目の前を通りかかった四、五人のサラリーマンのグループの中に、館野さんの姿を見たような気がしたのだ。平日の午後二時、路線の違う隣町でデパート勤めの彼と出会う確率は低いはず。黒のステンカラー・コートにビジネス・バッグ、眼鏡をかけたサラリーマンなど、世の中には掃いて捨てるほどいるのに、ついつい見かけると注視してしまう癖がついた。今も、彼らの後姿を目で追っている始末。
 と、その中の一人が引き返して来る。
「やっぱり、佐東さん」
 コートにビジネス・バッグ、眼鏡のサラリーマンはゴロゴロいても、モンローと同じ位置にホクロがあって、「佐東さん」と呼んでくれるサラリーマンはそうそういない。
 顔の筋肉がいっせいに緩もうとするのを辛うじて止めた。隣にはまだ香西がいる。
「館野さん、どうしてここに?」
「社用です。佐東さんこそ…、ああ、散髪ですか?」
 館野さんは俺の頭を見て、次に香西に気づき会釈した。彼から見えない俺の脇腹を、「誰だ」と言いたげに香西の肘がつつく。
「ええ、まあ、いい加減むさくるしくなってきたので。彼は友人でここの美容師の香西です。同じマンションの館野さん」
 館野さんの情報は最小限に留めた。
「初めまして。どうです? 彼、さっぱりしたでしょう?」
 香西は俺の頭頂部の短くなった髪を摘んだ。
「見違えました。すぐにはわからなかった」
「明日になったら普通の髪型になってるだろうから、カットのし甲斐がないんですけどね。あなたにキレイになった彼を見せられて、良かったです」
 余計なことを付け加えるので、思わず香西の足を踏みつけようとしたら、寸でのところで逃げられた。ねめつけても涼しい顔で、小憎らしいったらない。俺達のそんなやり取りを知ってか知らずか、館野さんは「よく似合っています」と微笑む。俺にとっては最強の笑顔で、「しまった」と思った時には、頬も口も緩んでいた。
「それじゃ、これで」
 会話はそれで終わった。先に進んでいる同行のグループの姿がかなり小さくなっていたからだ。館野さんは俺と香西に軽く頭を下げ、彼らを追って足早に立ち去った。
 偶然のひと時はほんの一瞬。仕方がない。彼は仕事中で連れもいる。俺だとわかってわざわざ戻ってくれただけで、充分しあわせな気分になれた。
 館野さんはもうグループに追いついて、雑踏の中に紛れてしまった。昼間の街中で見ると、本当に普通の人なのだとわかる。同時に多くを望めないことを思い知らされた。
「なるほどね」
 耳元で鳴った声と肩にかかる重みで、俺の意識は見えなくなった館野さんの後ろ姿から離れる。横目で見ると肩には香西の肘が乗っていて、にたにたと笑う彼と目が合った。彼が他人の心中を窺う時の表情だ。
「誰かさんのタイプ、モロど真ん中。そりゃ付き合いも悪くなるよな?」
「ただの隣人だ」
 肩に乗る香西の肘をはらった。
「ただの? 良い雰囲気だったじゃないか」
「そんなんじゃない。それにノンケだし」
「何だ、まだアプローチしてないの? ノンケ相手だって関係なく、ガンガン、チャレンジしてたくせに」
 ノンケを好きになったことは一度や二度じゃない。一縷の望みにかけ下心ありで食事に誘ったこともある。告白せずに友人関係を続けていけるほど我慢強くなく――だいたい端から友人として見ているわけではないし――、「ガンガン」は大げさにしろ、香西の言うとおり、ノンケだからと怯んだことはなかった。
「だから館野さんとは、そんなんじゃないって言ってるだろ」
 容姿は確かに好みで、一目見て「ちょっと良いかも」とは思った。しかし接する時間が極端に少ないせいか人物像がつかめない。今までの相手は何かしらの魅力で俺を惹きつけた。話し上手だったり、同性に対して無意識ながらのセックス・アピールがあったり。でも館野さんは、ごくごく普通のサラリーマンだ――時間通りに出勤し、残業して疲れた足取りで帰宅する。職場と自宅を往復するだけの毎日。休日も日頃の疲れをとることに専念して、寝て過ごすような。
 今回はどうも勝手が違う。想いを伝えたい欲求よりも、ゲイであることが知れて拒絶されてしまうことの怖さが勝った。おかげで未だに館野さんの誕生日、血液型、家族構成などなど、基本中の基本なことすら知らない。ファーストネームを聞き出すのだって、どれだけかかったことか。
「年食ったかな、俺」
 独り言がこぼれる。頬を香西の人差し指がぐりぐりと突いた。
「こりゃぜひとも、話を聞かせてもらおうじゃないの。カジョス(=洋風モツ煮込み)の美味い季節だし、ノンケ食いの友坂が、正しい落し方を教えてくれるぜ?」
「余計なこと話すなよ」
 肴にされることがわかっていて、『Retiro』に行くほど馬鹿じゃない。
 香西は尚も突っ込んで聞きたい様子だったが、店内からお呼びがかかった。
「残念。まあ彼とのことはともかく、たまには『Retiro』に顔出せよ」
 彼はそう言い置き、俺の肩を軽く叩いて店内に入った。
 隣に人の気配が消えると、途端に寒さが戻った。マフラーを顎の辺まで引き上げ、駅の方向に足を踏み出したところで振り返る。館野さんの姿はとっくに消えていたが、目の中に彼の後姿がまだ残っていた。
 平日の午後の偶然。俺を見かけて、声をかけてくれた彼。
 

『やっぱり、佐東さん』


 偶然は、ささやかな幸せをくれる。一方で、それに頼らなければならない現実が、心を切なくさせた。
 何もしないでは始まらない。友情にせよ、恋愛にせよ――そう思った春の日から、季節は一巡しようとしている。
 ため息ともとれる白い息を吐いた後、駅へと歩き始めた。






                 2010.02.13 (sat)

   
back  top  next