放課後の色はオレンジ。傾いた西日が窓から差し込んで、教室を染めるイメージがある。しかし半ばとは言え九月はまだ夏の延長で、その色にはほど遠かった。
三年生はつまらない――森野皓(ひかる)は三階の教室から、への字気味の口で運動場を見下ろしていた。部活の喧騒が窓に向かって駆け上ってくるようだ。
夏が終わると、大抵の運動部は代替わりをする。新しいリーダーを得た一、二年生は『明日』へ向かって邁進し、用済みになった三年生は取り残されて『昨日』を想った。それでも外部受験や大学部進級が危うい者は、毎日に追い立てられて気持ちを封じてしまえる。懐かしんでいるのは、定期試験で平均点さえ取っておけば内部進学出来る成績上位者か、推薦枠――部活で著しく優秀な成績を残した生徒用――で決まっている者だけ。
皓はその推薦枠で内部進学が決まっている一人だった。部活に顔を出してもお客様扱いだし、歓迎されるのも週に一回までということはわかっている。だから足が遠のく。そして暇になる。
「三年って、つまんねー」
二度目は口をついた。支えていた掌から顎は外れ、机の上に突っ伏す。
「なんや、それ」
いきなり目の前に頭が落ちたので、上芝知己(ともみ)はあきれたように言った。それから下敷きとなった日誌を引っ張る。
「定年迎えて、することないオヤジみたいだ」
「へえ、森野でもそんなこと思うんか。そない熱心に部活しとったようには見えんかったけどな?」
「毎日、部活。年中弓道。他のことする時間なかったじゃん」
「授業は入ってへんのか?」
「貴重な睡眠時間以外のなんだってんだ?」
二人は私立遥明学院高等部の三年生である。同じクラスにはならなかったが、弓道部で三年間を共に過ごした。
基礎練習嫌いで隙あらばサボる術を算段する皓と、面倒くさがり屋でなかなか本気にならないマイペースの知己――それぞれ違った意味で顧問や先輩達の頭痛の種であった。しかし、いざ試合となり安土(あづち)に向かうと、皓は人並み外れた集中力で皆中させ、主将となった二年の秋から向かうところ敵なし状態。そして知己はそんな皓につられるように団体戦の行射では外したことがない。廃部寸前だった弱小弓道部がインターハイ出場を果たし、団体ベスト4、個人優勝者まで出したその栄光は、この遥明弓道部史上最悪にして最強の主将・副将コンビによるところが大きかった。
(当然、大学も一緒だと思ったのに)
皓は掌に顎を戻し、日直日誌をつける知己を見つめた。
インターハイで個人優勝した皓は、九月に入ってすぐ大学部への進級が内定した。それは団体戦のメンバーだった他の三年生も同様だ。だから知己も当然、ここの大学部に進級すると思っていたのに、新学期の進路指導で外部入試に変更したことを、皓は顧問から聞いて知ったのだ。
そりゃあ…と皓は思う。
(そりゃあ、親友ってわけじゃないけどさ、一言くらい言ってくれても)
部活以外で一緒だったことはない。休みに会うことも、遊びに出かけたことも、お互いの家を行き来したこともなかった。友達と言うにはあまりにも淡白なつきあいだが、特別な存在ではある。まったく弓道などに興味がなかった皓を、インターハイ優勝にまで導いたのは、実は知己なのだから。
引退して部活がなくなった今、作らなければ話す時間もないことに気がついた。ここ数日、皓はそのタイミングを見計らって、知己の周囲をそれとなくウロウロしている。部と言う接点がないと、こんなに遠い存在だったのかと、今更ながらに思う皓だった。
「なんや? 気色悪いな。言いたいことあるんやったら、言えや」
視線に気付いたのか、知己が言った。眼鏡の奥の目は、日誌に向けられたままだ。
彼の振った言葉に誘われて、聞きたかったことが皓の口から滑り出た。
「なんで上に行かないんだよ? 俺は一緒にまた弓が出来ると思ってたんだぞ。一言も言ってくれないでさ、多少は傷ついてんだ」
「そりゃ、すまんな。おまえがそんなに俺の進路に興味あると思わんかったし」
手が止まって、知己が皓を見る。「ちょっと意外」と言った表情が目に浮かんでいた。
「興味あるさ。今の俺があるのは、上芝のおかげなんだからな」
「俺の?」
「そ。じゃなきゃ、三年間、帰宅部だ」
入学して間もなく、皓は弓道部に強制入部させられた。2つ違いの兄が主将をしていたからだ。弓道部は一学期中に三人の新入部員を確保し、インターハイの地区予選に出場出来なければ、二学期から同好会に格下げが決まっていた。自分の弟のサボり体質を正確に把握していた森野兄だが、背に腹は変えられなかったらしい。何しろその年度の予算は既に行き先が決まっていて、早々に手がつけられていたからだった。
知己が四人目の新入部員として入部したのはその二ヵ月後。彼は急遽決まった父親の転勤の為、遥明に遅れて編入して来た。中学時代に少し弓道をかじっていたとかで、まったくの素人と言うわけでなく、地区予選が迫っていた部には救世主と言えた。
四人目が入ったことで、皓は幸いとばかりに退部を考えた。伝統やら作法やら、厳しい割に地味な部活動がどうも性に合わなかったから。
皓のその考えは、知己の射を見て消し飛んだ。
「あの時はまだ俺よりチビだったじゃん? 先輩たちよりも断然小さくってさ、なのにすんごくデカク見えたんだよな。堂々としてて、なんて言うかな、優雅っての?」
「森野の口から優雅って言葉を聞くとは思わんかった」
「俺だって優雅って言葉くらい知ってるぞ」
「書けるんか? 優雅って」
皓は頬を膨らませて見せた。知己がくつくつと笑う。
あの時の知己の射を、皓は今も忘れられない。矢筋に沿って的の中心を見据えた時の目、引き切った弓は微動だにせず、弦を離すまでの一連の動作は周りの音を消し去った。同い年の射は、それだけに強烈な印象を残す。
「俺はあのイメージをずっと追いつづけてんだ。いつかああいった弓を引きたいって。止めないで続けたら、俺も引けるのかなって。だから止めなかったんだ、弓道部」
「光栄なことで。初耳や、そんなこと」
「うん、今、初めて言った」
インターハイにも出場した。個人優勝と言う高校生の頂点にも立った。しかし皓は未だに、知己のあの一射を超えるイメージで弓を射たことがない。そして不思議なことに、同じ知己でありながら、それ以後の彼にあのイメージの射が見られなかった。皓は自分自身であの一射を引きたいと思うと同時に、知己本人の一射をもう一度見たいと思っていた。
それなのに実現出来ないまま、二人の道は分かれて行こうとしている。
「上芝、本当に大阪に帰っちゃうのか? 残って独り暮らししたらいいじゃん。大学部には寮もあるんだし」
動きかけたペンが再度止まった。少しずつだが傾き始めた西陽で、ペンの影は細く長くなって行く。
皓は「小学校のガキじゃないんだから」と続けた。
「俺は最初から東京は高校の間だけ思てたんや。だから親父らが大阪に戻れんでも、大学はあっちにするって決めてた」
「なんでだよ?」
「こっちの水に馴染めんっちゅーか。ダチもあっちのが多いし。それに先輩と同じ大学に行くって約束したしな」
「先輩って、倉橋?」
知己は頷いた。その表情が少し緩んだ気がして、皓は唇をへの字に曲げる。
倉橋尚孝は知己の中学時代の先輩である。弓は小学校から始めて、中学になるとその名はすでに全国区だったらしい。知己は弓道連盟主催の体験教室で彼と知り合い、同じ学校だったこともあって意気投合。週末になると弓道場に通って倉橋から教えてもらったのだと、皓は知己から聞いている。二年、三年とインターハイで連続個人優勝。今年度のインター・カレッジも一回生ながら準優勝していた。
倉橋は知己の憧れであることは、その話っぷりから想像出来た。弓道のいろはを彼から教えられたせいか、知己の弓はその影響を受けている。二人が一年生の時、インターハイが隣県で行なわれ見に行ったのだが、倉橋の物見に知己の姿が重なった。
三年間、一緒に汗した自分たちよりも、遠く離れた『師匠』を選ぶのか――皓は口を一層強く引き結んだ。
「俺達とは一緒に引きたくないのかよ…」
ぽそりと洩らした皓の言葉を、知己が拾った。
「森野とは同じとこで引きたない」
思いも寄らない答えに、
「なんでっ!?」
皓の声が大きくなった。机を挟んだ知己に向かって前のめる勢いだ。そんな皓に彼は動じない。
「欲が抑えられへん」
「欲?」
「おまえに勝ちたいって言う欲」
皓は首を傾げる。試合と言うものがある競技において、勝ち負けを意識するのはあたりまえじゃないかと。
「どう言う意味だよ?」
「まんまの意味」
「頭悪いから、わかんねぇ」
知己は小さく息を吐く。それから視線を日誌に落としたかと思うと、決心したかのように上げて皓をまっすぐに見た。
「森野の射は的に向かって行く。おまえは気ぃ付いてへんかも知れんけど、引いてる時のおまえは恐いくらいに集中してて、気迫が全身から出てる。俺はそれに伝染するんや。うつされて、冷静でいれんくなる。自分の弓を忘れて、おまえに勝ちたくなる」
「いいじゃん、それ、あたりまえだろ? 俺はいつだって、勝ちたいと思ってるぞ。上芝にも倉橋にも、他の誰にでも」
「弓は無欲。見据えるのは的。雑念を払って、一点を見つめる。すべての射は一射絶命の精神で引く――俺はそう教えられた。勝負は自分自身とするもんやて。そうすれば、必ず結果がついてくる。せやけど、森野の弓を見てまうと、どうしても勝ちたくなるんや。一射、一射、おまえが的中させる度、俺はどんどん勝ちたくなる。その気持ちが先走り過ぎて射に集中出来へん。俺は絶対、おまえには勝てん」
「上芝」
「おまえが誉めてくれたあの一射は、今の俺では引けん。あれはおまえの弓を知る前やったから。俺はおまえに勝ちたい。そのためには森野の気迫に負けんように精神的に強うならんと。そやから俺は、自分の弓を取り戻しに行くんや」
そこまで一気に話きると、知己はイスに背をもたせた。見たこともないくらい真剣だった彼の表情は消え、代わりに苦笑が浮かんでいる。自嘲気味とでも言うのか、そんな笑みだ。
「そんなこと、今まで言わなかったじゃん」
「『うん、今、初めて言った』」
皓の言葉を引用した時、知己の目はいつもの飄々としたものに戻っていた。それから日誌の続きを始める。
しばらくの沈黙。
皓はペンの動きを追った。きっちりとした丁寧な字が綴られて行く。意外と神経質な字を書くんだな…と皓は思った。もしかしたら、自分は彼の表面的なところしか、見ていないのかも知れない。
「へへへ」
と皓は笑った。
「俺の弓、認めてくれてたってことだよな?」
やる気も本気もなかなか見せない知己の内面にそんな思いがあることが――まるで自分の弓など眼中にないと思っていた彼が、認めてくれていたと言うことが、皓には何だか嬉しかった。
「だから言いたなかったんや。おまえ、すぐに図に乗るからな。言うとくけど、そんなん理由の一つでしかないから。そんだけの為に大阪に帰るって思うなや」
オレンジ色が徐々に教室を侵食している。知己の頬が赤く見えるのは、その色のせいなのか、それとも自身で赤くしているのか。
「仕方ないなぁ、そう言う理由で大阪に逃げるんなら、許してやるか。せいぜい倉橋にしごいてもらえよ」
「ちゃうって言うてるやろ。なんでおまえに許されなあかんねん」
あまりに皓がにやにや笑うので、知己はその額を指で弾いた。
「なんだ上芝、まだ残っていたのか?」
開いたドアから教師が顔を覗かせた。知己のクラスの担任だ。知己はペンを置いて、日誌を閉じる。「今、持っていくとこでした」と答えてドアのところまで歩み寄り、一言二言教師と話しながら日誌を手渡した。
「ほな、帰ろか」
戻った知己は教室の戸締りを始め、皓もそれを手伝う。
「な、部活、覗いてかないか?」
教室の鍵を閉めたところで、皓は知己に言った。このまま、ただ帰路につくのはあまりにもったいない。
「小橋と杉浦の指導っぷり、見に行こうぜ」
「おまえ、一昨日も行ったんちゃうんか? あんまし行ったら嫌がるで」
「だから面白いんじゃん。前主将と副将が揃って見に行ったら、すっげえ緊張すっから」
「少なくとも俺らより、しっかりしてると思うけどな。だいたい仕事、あいつらに押し付けっぱなしやったやんか。俺ら、評価低いで」
「終わり良ければ全て良しって言葉、あるだろ? 何たって前主将はイン・ハイ優勝者なんですから。あいつらの本当の評価は結果を出してもらってからさ」
「さよか。俺は受験生やねんから、すぐ帰るからな」
肩を並べて歩くことは初めてじゃない。ただいつもと違って皓は、知己を近く感じていた。それは彼の内面に触れたからだ。触れた程度、まだ何も知らない。
(でも、こっから始めればいいや。まだまだ時間はあるんだから)
弓を続ける限り、道はいつでも重なっている。あの一射を皓が追いつづけ、知己が取り戻そうとする限り。
「よし、練習嫌いの汚名返上じゃー。今日からまた引くぞー」
「なんや、それ。嫌われんで、ほんまに」
校庭に下りると見慣れた風景が広がった。鮮やかな夕陽が辺りを染める。
いつもの放課後、変らない時間。三年生には無縁に過ぎて行く、『つまらない』はずだったその中に、皓は知己の腕を引っ張って踏み出した。
end.
(2006.03.22)
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