春まだき 〜pm.02:00・館野〜 三月に入って間もなく、辞令が下りた。四月一日付で神戸店に異動となる。 神戸店は関西に進出した一号店で、売り場を順次改装中だった。配属先の家具売り場は、昨今流行の北欧系の輸入家具と雑貨を主流に生まれ変わる予定だ。 家具売り場のリニューアルオープンは秋の予定だけれど、商品選定や売り場づくり段階の参加が条件で、春からの異動を内示されていた。春異動は希望通りだったので、その場で受けた。 「異動かぁ」 辞令を聞きつけて、都賀が外商部事務所に顔を見せた。僕が異動願いを出していたことは予想の範疇だったらしく、さして驚いた風ではない。 「心機一転ってところか?」 千咲とのことが理由だと勘違いしているようで、彼の表情からそのことが窺えた。 「そう言うわけでもないけど」 都賀が疑り深く見るので、僕は思わず苦笑してしまった。 「売り場に戻るのもいいかなと思って」 「そうか。寂しくなるなぁ。行く前に時間を作って、また飲みに行こう」 「そうだな」 売り場から呼び出しがかかって、都賀は慌ただしく戻って行った。 彼がドアの向こうに消えるまでその後ろ姿を見送り、机上に目を戻す。各取引先への挨拶、後任への引き継ぎ、春夏の外商顧客限定品の最終確認など、異動までにすべきことは山積している。これらすべてをし終えたら、ここでの勤務も終わりだと思うとやはり寂しい。 馴染めなかった始めの頃と違い、すっかりこの職場にも慣れた。担当から持ち込まれる顧客の要望に応えることにやりがいを感じていたし、時々、売り場を回って活気に触れるのも楽しかった。クレームを受けたこともあったけれど、嫌な思い出は一つもない。 『館野さん』 そして佐東さんと出会った――佐東さんと出会って、好意を持って、いつの間にか恋に似た感情を抱いていた。 『あなたが好きなんです』 あの夜、マンションの前での佐東さんの言葉、タクシーの中で握られた手の温もりが、何度も何度も蘇ってくる。掃っても掃っても甘さを含んだ熱が、彼の言葉を聞いた耳の奥から、彼が触れた手の甲から滲み出てくる。 そうして酔いしれそうになる単純で浅はかな僕を現実に引き戻すのは。 『なんだ、願いが叶って彼氏と上手く行ってるんだ?』 佐東さんによく似た声だ。同時に僕の心に歯止めをかける。 ――何を浮かれているんだ。 あれが自分と同じ気持ちから出たものとは限らない。すっかり動転していた僕は、佐東さんが言ったことを半分も聞き取れなかった。「好き」と言う単語だけが鮮明に聞こえ、それを都合の良いように創作したとも考えられる。聞き間違いではなかったとしても、もう確かめることは出来ない。あの後もらった留守番電話のメッセージは消してしまったし、あの日以来、佐東さんに会えずにいる。僕が一方的に避けているわけだけれど、会う勇気は出なかった。 ――確かめたところでどうする。佐東さんが言ったことが、言ったままの意味だったとしても、それを受ける資格がおまえにあるのか? 千咲を傷つけたまま都賀の家に置き去りにして、理性を失くし、行きずりの相手と。 自業自得でしたことで、勝手に疲労して周りに心配をかける自分本位な人間なのに。 「…さん、館野さん」 「え?」 自分を呼ぶ女性の声で我に返った。斜め前の席の彼女が、僕を見ていた。 「二番に外線が入ってますよ」 異動の内示を受けた時に吹っ切ったはずの気持ちに、油断するとまだ囚われてしまう。今は、考えている暇なんてない。目の前の電話の受話器を上げて、赤く点滅する外線ボタンを押した。 「お電話代わりました、館野です」 「お仕事中すみません。御園生です」 「御園生さん?」 Retiroのオーナーシェフの御園生さんだった。佐東さんのことを考えていた時に、彼の友人からの電話。その偶然に心臓の鼓動が早くなる。 僕が一瞬沈黙したことを感じ取ったのか、「お忙しいようでしたら改めます」と御園生さんは言った。 「大丈夫です」 「実は店用の新しい傘立を探していまして、館野さんが輸入雑貨にお詳しいことを思い出してお電話しました」 御園生さんはRetiroで使っていた陶製の傘立を割ってしまったと続ける。ホームセンター辺りで間に合わせの傘立を購入したけれど、ちゃんと店に合った物が欲しいので、うちの店で適当なものはないかとのことだった。 雨の日の記憶を辿って、Retiroの傘立を思い出す。元々は何かを貯蔵する大きな甕らしく、それを代用していた。色鮮やかな彩色が南欧風で印象的だった。聞けばスペインで買い求めたものらしい。 「傘立でなくても、代用できるものでいいんですよ。陶器に拘らないし。でもやっぱり本物のヨーロッパ製がいいかな」 「現物はありませんが、カタログが何冊かありますので、ご覧になりますか? ただ物によっては、少しお時間を頂くことになるかも知れません」 「構いませんよ。とりあえず傘立はありますから。ただ僕が気に入らないだけでね」 電話の向こうで御園生さんが笑っていることがわかった。 カタログを揃えてRetiroに持って行くと言いかけて躊躇う。雰囲気も料理も好きな店だったのに、行けば色々と蘇ってきてしまう。それを思うと、「届けます」とは言えなかった。 「三日後にそちらに行く予定があるので、取りに伺いますよ。出来れば決めてしまいたいので、時間を取って頂けますか?」 僕の逡巡を気づかれたのかどうかはわからないごく自然な口調で、御園生さんが言った。ホッとした。 一応、時間を約束し、都合が悪くなったら互いに連絡し合うことにして電話を切った。 三日後の午後、御園生さんは約束の時間に外商フロアにやってきた。仕事着姿しか知らないので、私服の彼は印象が違って見える。初対面のようで緊張した。転勤先では売り場にも顔を出すことになるのに、知人とでもこれでは…と情けなく、同時に気を引き締めなければと改めて思った。 「傘立となると、それほど種類がなくて。傘立代わりに使えそうなものにも付箋をしておきましたので、ご覧になってください」 数冊のカタログを御園生さんの前に置き、付箋のページを広げる。御園生さんは僕が開いたページから順に繰り、ゆっくり目を通した。 「陶器には拘らない」と聞いていたけれど、用意したカタログの「傘立」は陶器製が多かった。掲載されている金属製のものはRetiroと合わないと思われたので、傘立に代用出来そうなものも自然と陶器を選んでしまった。前の傘立のイメージがあるからだろう。 「迷うなぁ。やっぱり陶器に目が行くけど、また割ってしまいそうだし。実は割ったのは二つ目なんですよ」 「でもRetiroには陶器か木製が似合うと思いますよ」 割れた傘立はあの店にとても合っていた。素朴な素焼きの磁肌に手描きの果物の絵柄。色鮮やかにも関わらず、場違いに浮いた感じがしなかった。 Retiroには、もう行くことはない。身から出た錆だけれど、せめて最後に何か役に立ちたい。 「ではこれなどいかがですか?」 青銅製の葡萄の木が絡みつくようにあしらわれたワイン樽を勧めた。傘立ではなく、多用途のインテリア雑貨で、蓋をすれば立ち飲み用のテーブルやディスプレイ棚にもなる。 実際にワイン樽として使われていたからこそ出る渋みのある褐色と、酸化させた青銅のくすんだ青緑とのコントラストがきれいで、御園生さんも「良いですね」と一目で気に入ったらしく、それに決まった。 「一か月後に入荷を予定しているお品物です。よろしいですか?」 「構いません。お願いします」 「入荷しましたらご連絡差し上げますので、配達の日時をお申し付けください。他に何かございましたら、こちらの西沢まで。今回の件の申し送りをしておきます」 リビングの売り場責任者の名刺を渡した。 「私が最後まで担当出来れば良かったのですが、転勤になりまして」 「転勤? どちらに?」 名刺に目を落としていた御園生さんは、ゆっくりと顔を上げた。 「関西です」 御園生さんは「じっ」と僕を見つめ、それから微笑んだ。 「そうですか。それは寂しくなるなぁ。ぜひ送別会をさせてください」 「ありがとうございます。でも多分、時間が取れないと思うので、お気持ちだけ頂いておきます」 本当は言わずにおくつもりだった。知れば御園生さんは佐東さんに話すかも知れない。 佐東さんに知られる前に神戸に行ってしまおうと思っていたのに。もしかして僕は、御園生さんが佐東さんに話すことを、心のどこかで期待しているのだろうか? 僕の転勤を知ったら、佐東さんはどう思うのか。御園生さんのように寂しいと思ってくれるだろうかと。 ――馬鹿なことを。 想いの自覚は心と相反するものを生み出す。佐東さんがあの夜に言ってくれた「好き」と言う言葉に傾いて行く。 「今日はありがとうございました。おかげでイメージに合うものを見つけられた」 「こちらこそ、お買い上げありがとうございます。お役に立てて良かったです」 御園生さんをエレベーター・ホールまで見送る。互いに頭を下げ、御園生さんは階下へ、僕は彼がエレベーターに乗り込むのを見届けてから事務所へと分かれるはずだった。 「転勤の話、祥平は知っているの?」 御園生さんが振り返る。 「あ、いえ、まだ話していません。時間が合わなくて、ここのところお会いしていないので」 「時間が合わないだけ?」 御園生さんがそう言った時、エレベーターが着扉が開いた。御園生さんの手が僕の腕を掴んで、降りる人のために扉の前から横にずれる。数人が降りた後、エレベーター・ガールが「どうぞ」と中に招く仕種をしたけれど、御園生さんは軽く頭を振って乗らなかったので、扉が閉まり、エレベーターは下がって行った。 「ここでする話じゃないな。少し外の空気を吸いませんか?」 御園生さんは僕の斜め後ろを指示す。その先には屋上のガーデンテラスへの入口があった。 平日午後の、それもまだ肌寒い三月のガーデンテラスは閑散としている。学齢前の幼児を連れた若い母親や、園芸用品を見て回る年配客の姿がチラホラとあるだけ。休日は賑わうオープンカフェも開店休業状態だ。御園生さんはそのカフェで二人分のコーヒーをテイクアウトし、一つを僕に差し出す。 「お支払します」 「ごちそうしますよ」 「お客様にそんなことして頂くわけには」 「お客様の時間は終わったよ。今は館野さんの友人のつもり。安上がりで申し訳ないけど、餞別だと思って。ね?」 御園生さんはそう言うと、ベンチに腰を下ろした。僕は言葉に甘え、コーヒーを受取り彼の隣に座った。 話が何に関することか、大よその察しはつく。 「友人として聞くけど、祥平と何かありました?」 そして察した通りのことを、御園生さんは口にした。 僕がすぐには答えられずにいるので、御園生さんは答えを待たずに続けた。 「新年会の後から、どうも祥平の様子が変で。変と言うか、凹んでいる感じかな。香西が振られたんじゃないかと言うので、鎌をかけてみたんです。そしたら『玉砕したかも』って言うんでね。相手は館野さんですよね?」 僕は御園生さんの方に首を回した。彼は僕を見つめていた。目が合って、僕は逸らせることが出来なかった。息を呑む音が聞こえたんじゃないだろうか。 「ぼ…くは」 口の中の水分が一気になくなったかのように、喉の奥がカラカラした。上手く言葉が出ない。そんな僕に御園生さんは「冷めるよ」とコーヒーを勧めた。 一口含むと途端にコーヒーの温かみが、口中に広がった。御園生さんの微笑む視線を頬に感じたけれど、紙コップから目を離すことは出来なかった。 「館野さんが戸惑っているのは、何となくわかります。ゲイだと自覚したのは最近のことでしょう? もしかしたらまだ受け入れられずにいるのかも知れない。僕も自覚した時は少なからずショックだったから、館野さんの気持ちは理解出来ると思うよ」 「御園生さん?」 僕は御園生さんに目を戻す。彼は「僕はゲイなんです」と笑った。 「自覚したのは高校生の時で、まだまだゲイはオープンじゃなかった。田舎だったから特にね。情報も知識もなくて、同性に惹かれる自分がおかしいんだと悩んで、ひた隠しにしていたよ。大学と就職は東京だったから田舎よりはマシだったけど、周りに隠す生活は変わらなかった」 御園生さんは「仕事も銀行員で堅かったし」と付け加えた。 「頭の柔らかい高校生で自覚しても、本当に自分自身で納得するまで時間がかかりました。だから館野さんが受け入れられずにいるのは仕方ないと思う。多分、祥平のことを考える余裕もないだろう。祥平は友達の欲目を抜きにしても良いヤツです。館野さんのことをとても大事に想ってる。以前は相手がゲイだろうとノンケだろうとお構いなしのタイプだったけど、館野さんだと勝手が違うように見える。男から恋愛感情を示されることで館野さんが悩んだり、傷ついたり、言ってしまったことで友人関係もダメになることを気にして、すごく慎重になっていました。もしかしたら一生言うつもりはないんじゃないかって、見ているこっちが代わりに言ってやろうかと思うくらいにじれったい。それだけ館野さんに本気で惚れているんですよ」 惚れている――その言葉で僕の胸にジワジワと熱が侵食する。 熱はどんどん上昇して、首や頬や耳に達する。新年会の夜、佐東さんが自分と同じ感情で「好き」と言ってくれたのだと確信出来たことと、御園生さんが語る佐東さんの気持ちがどうしようもなく嬉しくて、同時にどうしようもなく辛かった。 今更、それを知ったところで、僕は佐東さんとの開いてしまった距離を縮められない。御園生さんが言う通り大事に想われていたのだとしても、それに応える資格が僕にはない。 きっかけさえあれば誰とでも――。 初めて自分のセクシャリティに疑問を持った映画館の時だって、いきなり触れられたのではなく、食事に誘われていたなら、『彼』との時と同様に軽々しくついて行って、ホテルに入っていたかも知れない。 僕はそう言う性質(たち)なのだろう。好きな人を思い浮かべながら、他の人間とセックスすることが出来るのだ。これから先だって、無いとは限らない。 「館野さんが全くのノンケだったら、遠回りのアプローチも仕方がないけど、そうじゃなかった。それに君も祥平のことを、ただの隣人とは思っていないように僕には見えるけど?」 心の中を見透かされて、否定することは出来なかった。 「僕は、佐東さんに想ってもらえるほどの人間じゃないんです」 御園生さんが次の言葉のために息を吸った時、僕の上着の内ポケットで社用の携帯が震えた。マナーモードの状態でも御園生さんにはわかったようだ。彼に断って電話に出ると、事務所からの呼び出しだった。 「すみません、そろそろ戻ります。コーヒー、ごちそう様でした」 「こちらこそ、お仕事中、時間を取らせてすみませんでした」 同時に立ち上がり、屋内へのドアへと歩き始める。 事務所からの呼び出しがかかって助かった。あのまま話を続けていたら、僕は何を口走ってしまったか知れない。わかっていても、自分からは話を止めることは出来なかっただろうから。 ドアが数歩先に迫ったところで、「館野さん」と御園生さんが立ち止まった。 「転勤のことは僕からは祥平に伝えません。館野さんの口から伝えてやってください。それから気持ちが落ち着いたら、少しあいつと向き合ってくれませんか? 館野さんに避けられていることが一番堪えているはずだ。せめてそれからは解放してやってくれないかな。結果はどうであれ祥平は受け入れるよ。良い答えに越したことはないけど、ダメなら君を忘れて次に進める」 御園生さんは僕の肩を軽く叩いた。 「はい」 僕が答えると「じゃあ」と言って、御園生さんは右手のエレベーター・ホールへと歩いて行った。僕はその姿を複雑な気持ちで見送りながら、なぜ「複雑」なのか理解出来ずにいた。 御園生さんとの会話が頭から離れない。仕事中は忘れられていても、帰り道は彼の言葉が何度も再生された。 『せめてそれからは解放してやってくれないかな。結果はどうであれ祥平は受け入れるよ。良い答えに越したことはないけど、ダメなら君を忘れて次に進める』 忘れて次に進む。 僕を忘れて――僕は忘れ去られる、佐東さんに。 神戸に行けばもう会えない。次に関東へ戻ることがあっても、この町とは限らないから。それこそ望んだことなのに、どうしてこんなに辛く感じるのだろう。もし忘れてほしくないなんて心のどこかで思っているなら、身勝手過ぎる。 御園生さんを見送った時の言い知れぬ気持ちは、この身勝手な感情から生まれたものだったのか? 僕はそれを振り払うようにして頭を振った。 明日は金曜日、ゴミ出しの日だ。このタイミングで佐東さんに会える日が巡ってきたのは、さっさと終わらせてしまえと言うことなのだろう。 御園生さんの言う通りだ。ちゃんと自分の口から転勤の話をして、ちゃんと今まで仲良くしてもらったお礼を言って、この複雑な感情にケリをつけて、僕自身も次に進まなくては。 マンションの僕の部屋の前に人影が見えた。正しくは、隣室の前。誰かが腰を下ろしている――と思ったら、佐東さんだった。 佐東さんは僕を見るなり立ち上がった。でも動かない。 僕を待っている、待っていたんだとわかった。 2012.11.16 (fri) |