Step  (後編)





 今回のアイス・ショー日本公演は三会場各二日の開催。大阪、名古屋を消化し、今日が東京の初日であった。
 リハーサルのため午前入りした出演者達は、リンクのそこここで各自ウォーム・アップを始める。ニキも軽くリンクを周回しながら、氷の感触を確かめていた。
 何となく落ち着かないのはショーの緊張などではない。この東京公演に件のセオドア・マクグラスがゲストとして出演予定で、とりあえず会ってみることになっているからだった。
 ニキにコーチの話が来ていることは、今やショーの出演者誰もが知っている。と言うのもアンソニー・コリンズの振り付けの依頼を、エージェント――ジュールがコーチ業を理由に断ろうとしたためである。
「決まったわけじゃない。だから振り付けの話は受けるよ」
 とニキは否定して、アンソニーの依頼を独断で受諾したのだが、ジュールがさりげなく包囲網を敷いていることは明らかだった。
(まったくジュールのやつ、まだ会うだけだってのに)
 リンクから立ち昇る冷気を頬に受けながら、ニキは脳裏で不敵な笑みを浮かべるジュールを呪った。
「ムッシュウ」
 間近で呼ぶ声が聞こえ、その方向を見る。すぐ斜め後方を滑る者がいた。肩にかかるボサボサとした金茶の髪に茶色の瞳。見覚えのない男だ。東京公演のゲスト三組はアイスダンスと男女シングルのスケーターだが、アイスダンスの男子はニキと面識があった。
(とすると、これが?)
 セオドア・マクグラスと言うことになる。
 ニキの滑走スピードは落ち、間もなく止まった。彼も合わせて止まる。
「マクグラス?」
 尋ねると頷いた。なるほど、ジュールが「『子供』ねぇ」と意味深に言った意味がわかった。薔薇色の頬以外、子供っぽさはどこにも見当たらない。
 一七六センチのニキより十センチは高いだろう。手足が長く、マッチ棒のように細いシルエットをしている。こう言うところはまだ成長途中だと感じさせた。しかしそれなりに必要な筋肉はついて、胸筋と大臀筋はアスリートの片鱗を見せる。一目でニキにそれらを値踏みさせるほどには、選手として上質の部類に入るだろう。
「あの」
 頭から爪先まであらためて見るニキに、セオドアは躊躇いがちに声を発した。
「あ、すまない」
 ニキは微笑んで彼の、今度は顔を見た。茶色だと思った瞳は緑がかった不思議な色合いをしていて印象的だ。ボサボサとして見えた髪は天然のウェーブらしく、ところどころ葡萄のひげのように巻いている。
「その頭、キングに切れって言われなかった?」
 ラルフ・アーチャーの教えを受ける男子選手はみな、小ざっぱりとカットしていた。アーチャーは現役時代、彼自身も長髪だったのだが、タイトルのかかった国際競技会でのスピン中に目に入ってしまい、転倒して二位になった。その経験を踏まえ、長髪は切るように指導するのだ。単に短い髪の男子が好みだと言う説もあるが。
「言われたけど、結果が出せればいいかなと思って。あなたも切れって言いますか?」
「個性だろう? 似合ってればいいよ」
「似合ってる?」
「うん」
 ニキが正直に答えると、セオドアの薔薇色の頬が一層赤みを増した。
「おーい、先にフィナーレの確認をするから集まってくれ」
 フィナーレの演出担当者の声が響く。ニキはセオドアの背中をポンと叩いて、リンク中央へと滑り出した。




 フィナーレの立ち位置や演出の確認の後、新たに合流した三組が絡む演目のリハーサルがリンク中央で始まった。
 ニキはリンクの端でセオドアの動きを見るとはなしに見る。かなり長身なので目を引くのと、コーチするかも知れないと思うせいかつい彼を見てしまうのだが、そればかりが理由ではないだろう。セオドア・マクグラスには人の目を引く華がある。
 資料によるとセオドアはここ二年で二十センチ以上身長が伸びていた。急激な体型変化で一時的に感覚は狂うが、男子選手はその成長によって筋力がつき、高難度のジャンプにチャレンジしやすくなる。アーチャー・コーチの指導下で成長期を迎えた彼は、その点、幸いだった。経験豊富なコーチが見てくれたからこそ成長期を乗り切り、ジュニア期の技術力を保ちつつ向上出来たのだろう。
 反対に芸術面には難がある。腕と膝下の動きがぎこちない。なまじ手足が細長いだけによく目立つ。ジャンプに重点を置いたせいで、そちらの方はおろそかになったのか、それとも急激な伸びによる成長痛をかばうあまり、変な癖がついているのか。後者はニキにも身に覚えがあった。
(ジュニアと違って柔軟性も落ちるしな。こればかりは感性もあるだろうけど)
 身体の成長期の終わりが見えて、セオドア・マクグラスの可能性は限りなく広がっている。ニキの目には伸びしろばかりしか見えなかった。彼を上手く育てられれば、ニキの未来も変わってくる。
(なぜアーチャーは彼を手放したんだ?)
 まだコーチ業を始めていない自分にわかったことが、キング・メーカーと渾名される男にわからないはずがない。第一、セオドアはヘアスタイル以外、アーチャー好きのする容姿をしている。
「ずいぶん熱心に見てるけど、ニキがコーチする選手って、もしかしてマクグラス?」
 リンクを周回しながらウォームアップしていたアンソニーが、ニキの前で止まった。
「まだ決まったわけじゃないよ。コーチはしたことないから。トニー(=アンソニー)は彼を知ってるのか?」
「競技会で見かけますよ。あんまり話したことはないけど。ほとんどグループが違うし」
 アンソニーはどの競技会でもメダル圏内にいる選手の一人で、フリースケーティングでは常に最終グループにいる。その彼と同じ滑走グループにならないのは、上位に食い込むほど成績を残せていないのだろう。上位に残らないまでも特徴のある印象的な選手であれば、ニキも名前くらいは知っているだろうから、今のところはその程度の選手だと言うことになる。
「三つ下なのでジュニアでは一緒にならなかったけど、ノービス時代から『すごいのがいる』って有名で、ジュニアじゃタイトル総なめだった。だからシニアに来た時はちょっとした危機感あったんだけどなぁ。何しろコーチがキング・アーチャーだし」
 ノービス、ジュニアと陽のあたる場所にいて、シニアでも期待され一流のコーチをつけられたというのに、思った結果が出せずコーチも変えなければならない――焦りも伴って若いセオドアには辛い状況だと言える。現役最後の辺り、ニキも同じ焦燥感を味わった。自分は引退を考えてもおかしくない年齢だったが、彼は違う。
 音楽が変わった。女子グループの企画パフォーマンスの曲で、リハーサルの組が入れ替わる。最前までリンク中央にいたセオドアが、見る見るニキの元に近づいて来た。
「俺の滑り、どうでした?」
 セオドアはニキをまっすぐ見て尋ねた。傍らにいるアンソニーなど全く眼中になさそうである。
 その様子に込み入った話になりそうだと察したのか、アンソニーはアップの続きを再開し離れて行った。その後ろ姿を見送った後、ニキはセオドアに目を戻し、「かかしみたいだ」と正直に答えた。
「かかし?」
「動きが硬くてぎこちないってことさ。たしかにあれじゃ芸術点は出ないだろうな」
 ニキの言葉にセオドアの口元がムッと引き締まる。負けん気が強そうに見えたし、その片鱗は次の答えからも見える。
「だからコーチを頼むんだ」
 コーチの話が出たのでセオドアの演技を動画で見たが、柔らかで優しい選曲が多かった。第一印象の彼に似合いの、アーチャーが選びそうな楽曲だ。しかし案外、彼は印象通りの性質ではないかも知れない。
「俺はコーチなんてしたことがない。キングに教わってダメだったのに、コーチ初心者で結果が出ると思うのか?」
「初心者だから」
 変わった色合いの瞳を持つ目が、揺らぐことなくニキを見た。
「今までの経験で俺をタイプ分けして、型にはめようとしないでしょう?」
(なるほど、『反抗期』に入ったのか)
 シニアに上がったばかりでは、自分の方向性などわからない。導いてくれる大人に言われるがままついていくのだが、選手としての自我が芽生え始めると、そして結果が出ないと、「このままでいいのか」と疑問を持つようになる。『反抗期』に似た感情が多かれ少なかれ出てくるものだが、セオドアはその時期に入ったのかも知れないとニキは思った。
「上手く言えないけど、自分はコーチが目指すタイプとは違うんじゃないかって思うんです。でもコーチは忙しい人だから話をする機会がなかった。コーチの言う通りのタイプだとしても、チャレンジするチャンスが欲しかったから」
 ラルフ・アーチャーは「黙って私について来い」タイプのコーチだ。話をする機会がなかったと言うのは、かなり気を遣った言い方である。実績のある選手ならまだしも、シニアに上がり、すぐに急激な成長期に入った子供の意見に耳は傾けなかっただろう。
(俺は舐められてるってことなのかな)
 コーチ経験がなく、現役選手に近い感覚を持つニキであれば、意見がいいやすい、通りやすいと考えているのだろうか。
「俺がコーチをしても、君の話を聞かないかも知れないよ?」
 だから少し意地悪く振ってみる。
「それはやってみなければわからない。『かも知れない』は誰がコーチになっても同じでしょ?」
 セオドアは動じず、若さ特有の受け答えで返してきた。
「コーチ選びもチャレンジの一環ってわけか」
 ニキの言葉に彼は頷いた。
「じゃあ、もう一つ聞くけど、初心者だからって選ぶなら、俺でなくてもいいんじゃないのか? この話が来るまでコーチ業なんて考えたことがなかったし、そう言う意思表示していたつもりもないけど」
 最後の質問のつもりで聞く。それまで打つと返ってきたセオドアの反応が遅れた。髪をかけた彼の耳の赤みが増したように見える。
「ステップ・シークエンスが」
(ああ、イマイチだって言ってたっけ)
 現役時代からニキのステップ・シークエンスとスピンには定評があった。それを認めてのコーチ依頼なのではとジュールは推測している。競技動画を見る限りニキも同意見だ。しかしステップが得意な新米コーチは他にもいる。例えばニキと同じ時期に活躍したロシアのイヴァノフや、カナダ女子選手のチェルシーなどは、現役時代は常にレベル4の評価を得ていた。
「ステップでレベル4を目指すな…」
「四年前のオリンピックで」
 ニキの言葉を遮り、セオドアが続けた。
「あなたは金メダル候補だったけど、ジャンプの調子が悪くてショートは散々だった。金メダルどころか表彰台もなくなって、膝の故障が再発したとか噂も出て、翌日のフリーは棄権するかもって言われていたのに、あなたはほぼノーミスで滑りきった。ジャンプはもちろんすごかったけど、サーキュラーステップに全世界が釘付けだった」
「全世界って、それは大げさだな」
 子供っぽい彼の表現にニキが吹き出す。セオドアは「大げさじゃない」と強い口調で返した。その表情は大真面目だ。
「俺は体中が震えて、指先が痺れて、涙が止まらなかった。こんなステップでいつか滑りたいって思ったんです」
 その時の感情を思い出したのか、セオドアの頬を涙が伝った。それを袖で拭うが、ぽろぽろと続けて流れ落ち、見る間に鼻の頭が赤くなる。
 同じ競技者がこれほどまでにストレートに自分の演技に感動を示す様子を見るのは初めてで、それを目の当たりにしたニキは気恥ずかしくなった。
 あのオリンピックに対するニキの感情は複雑で、思い返すとショート・プログラムを終えた時の絶望感が蘇り、口の中に苦いものが上がってくる。あの時のフリーは、滑っていた時の記憶がほとんどない。引退も決めた大会でもあり、良い思い出ではないが、その時の滑りに感動してくれる選手がいる。それを知って少しばかり胸が熱くなった。
「無駄になるかも知れない」
 一週間前にジュールに呟いた言葉を、ニキはセオドアに向けた。
「アーチャー・コーチのところにいた二年も結果は出なかったけど、無駄だとは思ってない。教えられたことはどんなことも残ってる。もしあなたの時間が無駄になるって言うなら、それこそないです。応えてみせるから」
 資質としては申し分ない。技術はもちろん気質も。少年期特有の怖いもの知らずの自信か、あるいは選手としてのプライドか、どちらにしても競技者としては欠かせない。
「ニキ〜、アンサンブルのリハするよ」
 リンクの中央で男女三人が手を振る。ショーで組んで滑るプログラムのリハーサルが始まるようだった。
「わかった、君のコーチを受ける」
 ニキはセオドアを見た。
「あ、ありがとうございます、ムッシュウ」
 少々、面食らったかのような面持ちでセオドアが言った。
「『ニキ』でいいよ」
 セオドアの肩をポンと叩き、ニキはもたれていたリンクの縁を離れた。 




 日本でのショーが終わった二日後、ニキは次の公演先であるトロントに飛んだ。滞在先のホテルに向かう道中、ジュールがメールで送りつけてきたコーチ契約の下書きをざっと確認する。ニキの不利になるような事柄は書かれていない。結果が伴わなくともコーチングの責任は問わない件もちゃんと記載されていて、ニキの笑いを誘った。
 すでにこれを用意していたジュールの周到さには呆れた。ニキがセオドア・マクグラスのコーチを受けたとジュールに報告したのは乗継のシカゴからで、つまりは三時間も経っていないのだ。
 その夜、内容に目を通して問題がないか確認するようにと、スカイプで連絡してきたジュールは、「確信犯め」とねめつけるニキに対し「善は急げっていうだろ?」と事もなげに答えた。
 コーチの話を受けた後に知った事がある。セオドア・マクグラスはラルフ・アーチャーに指導契約を切られたのではなく、セオドア本人が契約を更新しなかったらしいのだ。情報源はアーチャーにコーチを受ける選手で、曰く、コーチにはかなり熱心に引き止められ、ステージママならぬスポーツママには反対を受けたにも関わらず、「ニキ・アルノンクールに教えを受けたい」と言って断ったのだと。
「キングにしてみれば、成長期のスランプを抜けて『さあ、これから』って言う愛弟子を、横からかっさらわれたってことになるわけだ?」
 嫌味の一つも言いたくなる。
「俺は『たぶん』って言ったんだ。見限られたと断言してない。それにマクグラス本人と会って話をして、最終的に受けると決めたのは君だろ? 俺は無理強いしてないぜ」
 ジュールはそう言うと、キスを投げて寄越し画面から消えた。
(食えない男だ)
 PCの電源を落としてデスクに置き、ニキはベッドに横たわった。
 正式にコーチにつくのは六月だが、それまでに来季のプログラムを作っておく必要がある。選曲、コレオグラファーを誰にするかなど、やるべきことは待ったなしだ。そしてコーチ初心者のニキは手探り状態である。
 プロになって四年。アイス・ショーは楽しかったし、依頼されて振り付けをするのも面白かった。ただ競技の世界をどこか懐かしんでいて、あの『空気』をもう一度吸えたらと叶わないことを願ったのも確かだった。関わる形に違いこそあれ、ニキは再びあの舞台に戻ることになったわけである。
 不思議な高揚感が湧き上がる。目を閉じると身体を包むあの懐かしんだ『空気』を感じることが出来た。ニキはそれを深く吸い込んだ。
 


 
Fin(2017.1.04)

 (中編)  ss top