Step  (中編)





 バスタブに張った湯に波が立つ。背後から回された腕の一本がニキの胸筋を撫で摩り、もう一本が程よく割れた腹筋のその下へと伸びて、濫りがましく蠢めいていた。それらによって高められたニキの身体がゆらゆらと揺れ、波を起こすのだ。
 のけ反り傾ぐニキの首筋を、思わせぶりに舌が這った。耳たぶを甘く噛み、耳下の窪み、耳の中と順に舐める。ぞくぞくとした心地よさがニキの身体を走った。その様子をまるで堪能するかのように手の動きが鈍る。極みへの途中で無情にも止められ、ニキは堪らず手を伸ばしたが、手首を掴まれ阻止された。
「ジュール!」
 反射的に振り返ったニキの顎をジュールの手が掴み、ニキは抗議の声を上げる口を唇で塞いだ。不自然な姿勢でニキの抵抗は萎え、されるがままジュールの執拗な口づけを受けるが、次第に自ら求めて彼の舌を追うようになる。
 ジュールとのセックスは、こうしていつも主導権を取らせてもらえない。彼のペースで焦らしに焦らされ、前後不覚になってせがむまで、ニキが求めるものは与えられないのだ。
「いい加減にしろよ…ッ!」
 心身をそのまま快感の彼方にさらおうとするキスから何とか逃れ、抗議の続きを試みる。
「何を『いい加減に』、なんだ?」
 見えなくともニヤリとジュールが笑むのがニキにはわかった。切羽詰まる自分の声とは違い、余裕な物言いが憎らしい。
(自分だって、臨戦態勢のくせに!)
 ジュール『自身』はとっくに存在を主張して、ニキの谿間に入りたがっている。しかし二人の間には、試合やアイス・ショーの前日『繋がらない』暗黙のルールが存在した。競技選手としては薹が立って余生を送る年齢だが、世間一般の男としては最も精力が充実する時期なのである。それなりに経験値が上がり、楽しむセックスを知った大人同士では、本能が先立つ即物的な若い者とは違い、ある意味、歯止めが難しかった。演技に差し障りが出てはまずい。それゆえの暗黙のルールなのだが、だからこそ濃厚にもなる。実はショーの前日ほど、ジュールは時間をかけてニキを追い上げるのだ。
「のぼせるだろ、ジュール、早く」
「早く?」
 両手首を掴まれたまま、項やら、耳やら、首筋やら、舌先で辿られ、甘噛みされ、唇で啜られる。自分の忙しない息遣いにさえも興奮を覚えるニキは、もう言うほかはなかった。
「さっさと、イかせろよッ…」
 ジュールは「Oui monsieur(ウイ・ムッシュ)」と耳元で低く囁く。ニキの手首を離した彼の手は、肌の上を滑りながら、湯の中へと差し入れられた。
 ニキが望む場所に、望むように触れるジュールの手。自由を得たニキの手もまた湯の中に潜り、彼に触れる。
 切なげに洩れるニキの声とシンクロするジュールの吐息、それに動きが重なって、バスタブの海に、波は絶えることなく生み出された。
 



 ニキは冷たいシャワーを頭から浴びた。少々のぼせたものか、ぼんやりする。そうなると予測して低めの設定温度でバスタブに湯を張ったのだが、身体の内側から発生する熱量を読み違えていた。と言うよりも、ジュールのしつこさを読み違えていた。
(バスルームでするもんじゃないな)
 もう一度、今度は熱いシャワーで身体を温め直しながらニキは反省する。今年はオリンピック・イヤーで四年前の苦い記憶がよみがえり、それを払うようにショーの準備やスケート以外の仕事をこなし、色事とはご無沙汰だった。ニキ自身が思う以上に溜まっていたのだろう。今回ジュールが別件もあって帯同すると聞き、すぐさま誘いをかけた。
 ジュールはシニアに上がる前に見切りをつけてやめるまで、ニキと同じスケートクラブに所属していた。ニキがマネージメントを頼んだ事務所のスタッフとして再会し、それからすぐにベッドを共にする間柄となったが、恋人同士ではない。割り切った間柄――言わばセックス・フレンドである。従ってホテルの部屋も別であり、今回も彼はフロア違いに宿泊している。
 バスルームから出たニキは、冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出した。身支度を終えてベッドの縁に座りPCパッドを見ているジュールの背後に座る。彼はメールをチェックしているようだった。
「何か着ろよ。風邪引くぞ」
 腰にバスタオルを巻いただけでバスルームから出てきたニキを視界で見ていたのか、振り返りもせずにジュールが言った。
「誰かさんがしつこいからのぼせた」
「ノリノリだったくせに」
 ジュールの肩が笑った。
「ニキ、コーチをやってみないか?」
 用は済んだのかパッドから目を離して振り返ると、ビジネス・モードの声音で言った。
「コーチ?」
 思いがけない話題に、ニキは単語を繰り返す。
「実は君にオファが来ているんだ、コーチの」
「何の?」
「そりゃスケートに決まってるだろ?」
 あまりに間抜けたニキの問いに、ジュールは呆れたように言った。
「セオドア・マクグラスと言うイギリスの選手だ。知っているか?」
 ニキはベッドの上に用意されているホテルのスリーパーを羽織り、外したバスタオルで髪をドライしながら、「聞いた覚えあるような、無いような」と答える。
「二年連続でジュニアチャンピオンになった選手だ。期待されて一昨年シニアに上がったんだが、イマイチ芽が出ない。で、コーチを変えることにしたそうだ」
「前のコーチは?」
「ラルフ・アーチャー」
「キング・メーカーか」
 ラルフ・アーチャーは現在のフィギュアスケート界で、最も人気で多忙なコーチである。ここ数年、指導した選手は、必ずオリンピックや世界選手権の金メダリストになっていたからだ。ゆえに『キング・メーカー』の異名を持つ。彼に教えを受けられる選手は、かなりの有望株だと言えた。反対に言えば有望株でなければ彼の教えを受けられないと言うことで、シーズン中、表彰台のどこかに立つなど何らかの結果を出さなければ、アーチャー側から一方的に師弟関係は解消される。おそらくセオドア・マクグラスは――
「たぶんセオドア・マクグラスは見限られた口だろ」
 ニキの推測をジュールが言葉にした。
「アーチャーが見てダメだったのに、経験のない俺には尚更無理だ」
「経験ならあるだろ、なかなか上手かったぞ?」
 ジュールはそう言われたが、ニキには身に覚えがない。振り付けをしたことはあっても、それは振り写しだけだ。競技の成績に無関係のエキジビション用や、アイス・ショーのプログラムだったので、コーチの必要などなかった。
 ニキは訝しげな表情を浮かべていたのだろう、ジュールは「スケートクラブのイベントで」と補足した。
「あれは初心者対象だった。ワールドやオリンピック狙う選手のコーチと全然違う。それにジャンプなんて教えられない。俺が飛べるクワドは一種類なんだぞ?」
「ジャンプはそこそこ飛べるらしい。えっと、クワドは、と」
 ジュールは再びPCパッドに目を戻し、セオドア・マクグラスのデータを確認した。
「トウループとサルコウとルッツだから、ジャンプは得意みたいだ。アーチャーにかなりしごかれたんじゃないかな? 課題はステップ・シークエンスの芸術性と、コンビネーション・スピンが思ったほど評価取れないらしくて、ニキにはそれを重点的に見て欲しいってことみたいだ。そこのところは得意だろ?」
 ジュールが見せる選手のデータ画面を、ニキは流し見た。端からやる気のない様子がジュールにもわかったのだろう。
「とにかく前向きな返事はした。今回、東京で合流するらしいから、マクグラスに会えよ」
 有無を言わせない声の様子に、ニキはムッと唇をへの字に曲げ「なんで勝手に」と返した。ジュールは身体ごとニキに向き直る。
「いいか、ニキ、これは君にとってもチャンスだ。上手く育てればメダリストになる逸材だぞ。新米コーチには頼んでも来てくれない金の卵が向こうから来たんだ。受けて当然の事案だ」
「コーチに転向するなんて考えてない」
「最近はショーでも高難度のジャンプを跳ぶ奴らが出てきた。男子は四回転の時代で、トリプルアクセルが飛べて当たりまえの世代が、これからどんどんプロになる。膝に故障をかかえて老いて行くスケーターの需要が、いつまでもあると思うなよ」
 ジュールは容赦なくニキに畳み掛ける。彼の言葉は反論する余地を与えない。ニキ自身、よくわかっていることばかりだった。一度故障を起こしたニキの膝は、あと何年、ジャンプの負担に耐えられるか。滑れなくなった時、自分はどうなるのか。引退を決めた四年前とは違う不安がつきまとう。
 セオドア・マクグラスのジュニア時代の戦績は華々しい。シニアに上がって揮わないとは言え、素地があり三種類のクワド(四回転)が飛べるのであれば、指導次第で復活出来るだろう。ジュールの言うように名だたる国際大会の表彰台はもちろん、オリンピックのメダルも狙える。そんな選手からのコーチ要請はなかなかに魅力的だ。が、難しくもある。初心者やノービスを教えるのとは訳が違う。
「一年を無駄にするかも知れない」
 ニキは呟いた。「ニキの」ではなく「彼の」が、その呟きの前につく。
「それを承知で実績のない君に頼んでるんだ」
 ジュールがニキの言葉にしなかったものに反応する。
「契約書に書けばいいのさ。『一年を無駄にする覚悟でよろしく』ってな」
 そして茶目っ気を含んだ声で続けた。ニキは思わず「なんだよ、それ」と吹いた。ジュールの伸ばした手が、ニキの鼻を摘まんだ。
「とりあえず会うだけ会えよ。案外、タイプかも知れないぜ? ただし相手は十七だから、手は出すなよ?」
「犯罪者になりたくない。それ以前に子供は趣味じゃない」
 ニキは自分の鼻を摘まむ彼の手を払う。するとジュールは「『子供』ねぇ」と意味深に笑った。
「じゃあ、大人同士、もう一度楽しむってのは?」
 スリーパーの裾から中へと手を滑りこませるので、ニキはその手首を掴んで外へと押し戻した。
「わかった、会うよ。それから決める」
 ニキの答えにジュールはサムズアップして見せた。


 

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