Step  (前編)


 


 ドアベルが途切れることなく鳴らされる。「ベル」と言うと可愛らしい音を想像させるが、昔ながらの無粋なブザーの音だ。ニキが住んでいるのは1950年代に建てられたレトロな内・外装のアパルトマンで、このドアベルも気に入っているが、続けざまに鳴らされては耳障りこの上なかった。止む気配がないのは、居留守がばれているのだろう。
 仕方なくベッドから起き上がりガウンを羽織る。誰が来たのか察しはついていた。念のためドアの小窓を覗いてみたら、思った通り、金色の髪を後ろに撫で付け、薄い色のメガネをかけた長身の男が立っていた。彼はジュール・ブノワと言い、アメリカに本社があるマネージメント事務所のニキ担当のエージェントである。
「やっぱり居留守か。なんだ、そのかっこうは? もう夕方だぞ?」
 鍵を外してやると、ドアを開けて入ってくるなりジュールは呆れた風に言った。羽織ったガウンの下は全裸で、梳かれていないボサボサした髪と無精髭から、寝起きであることは一目瞭然だったからだ。
「いいだろ、一日寝てたって。オフなんだし」
 ニキは申し訳程度にガウンの前を合わせ、ソファに座った。
「オフ初日ならな。一週間ずっとじゃ、さすがに自堕落だろ?」
 ジュールはコートを脱いでニキの隣に座り、探るように顔を見る。
「ずっとかどうかわからないくせに」
「この髭の生え具合から見たらわかるさ」
 ニキの顎を摘まんだ。
「これはどうみても、五日は引きこもってる」
「一週間じゃないじゃないか」
 ニキは首を動かして彼の手を振り払った。
「君は髭が薄い性質だからな。二日の誤差を見て言ってるんだ」
 ジュールはニキの頬を軽く叩いて言った。ニキは口をへの字に曲げる。その推測が当たっているのが癪だった。彼が「図星だろう?」と言わんばかりににやりと笑ったので尚更だ。
「オフは二週間もらったんだ。どう過ごそうと俺の勝手だ」
「確かに君の自由だ。だけどそろそろ練習を始めないと身体がなまるぞ? ワールドに出るんだろう? 緩んだ身体で中途半端な演技を見せるのか?」
「ワールドには出ない」
 ニキはソファに身体を深くもたせかけた。呟きに近かったが、ジュールには十分聞こえる声音だ。ニキを見る彼の表情は別段驚いている風でなく、半ば予想していたように見えた。
 ニキことヨゼフ・ニコラウス・アルノンクールはフィギュアスケートの選手である。世界選手権、欧州選手権、グランプリシリーズなど名だたる国際大会の表彰台の常連で、出場した三回のオリンピックでは銀メダルを獲得したこともある。限りなく黒に近いブルネットに緑色の瞳、派手ではないが整った顔立ちで、優雅な立ち姿と相まって衆目を集め、行く先々で黄色い声が上がった。名実共にオーストリアを代表するスター選手である。しかし――二十五才を越えた辺りから、スケーティングに陰りが見え始めた。スケート選手の持病とも言える膝関節の故障、そしてクワド(四回転)・ジャンプ時代の到来がニキの成績に現れ始めたのである。
 それでも一種類の四回転は習得し、確かな技術と高い芸術性でトップ五を保っていたのだが、金メダルを期待された今回のオリンピックではショート・プログラムのミスが響き、八位入賞がやっとだった。すでに世界では二種類の四回転を入れたプログラムが当たり前となっていて、中には三種類目にチャレンジする選手も出ている。十代の台頭も著しく、このままジリジリとランクが下がるのは明らかだ。
「引退するよ」
 ニキは天井を仰ぎ見た。
 

 

 リンク・サイドのベンチでスケート靴に履き替えるニキを見つけ、氷上でアップしていたジェシカ・ハワードが近づいてきた。女子フィギュア・スケートのアメリカ代表である。
「ハイ、ニキ」
「やあ、ジェシカ」
 靴紐を結び終えて頭を上げると、ニキは少し伸びた前髪をかき上げ彼女を見た。すぐに花のような甘い香りが鼻腔をくすぐったのは、ジェシカが飛び込む勢いでハグをしたからだ。ニキは苦笑しながら彼女の冷えた頬に頬を合わせる。
「今回のショーで一緒だって聞いて楽しみにしてたの。昨日から来ると思っていたのに、遅かったのね?」
「飛行機が遅れたんだ。フランクフルトで半日、足止め食った」
 ジェシカはニキの隣に座った。
「オリンピック、残念だったね?」
 ジェシカは女子フィギュアスケートのアメリカ代表である。今季行われたオリンピックでは四位。二十六才の年齢から言って、今回が最後のオリンピックになるだろう。本人もそれは意識していたようで、今シーズンは気合いが入って調子が良かったのだが、僅差でメダルに届かなかった。
「シーズンベストでも獲れなかったんだから悔いはないわ。これでもう苦手なルッツを練習しないでいいかと思うと気が楽。これからは好きな曲と好きな振り付けで滑れるわけだし」
 一応は満面の笑みであるものの、本心からかどうか。
 現役引退ははっきりと表明していないのだが、ジェシカの意思はその方向に動いているのだと、その言動からニキには感じ取れる。彼女はエントリーしていたワールド(世界選手権)を欠場した。四年前の自分と年齢も状況も重なり、笑顔の裏側にあるものが理解出来る気がした。
「ニキ〜」
 リンクにいた他のスケーター達もニキに気が付き、声をかけ手を振る。明日からここ日本の三会場で行われるアイス・ショーに出演する面々で、みな顔見知りだ。今季のオリンピックやワールドのメダリストも多数参加しており、華やかなショーとなるに違いない。
「これからエンディングの振り写しよ。早くアップしなきゃ」
 ジェシカはそう言うと、一足先にリンクに降りた。ニキも靴の紐を確認して、彼女の後に続く。
 ニキが現役を引退しプロに転向して四年が経っていた。人気も実力も世界的に認められ、惜しまれながら現役を引退したニキはアイス・ショーにひっぱりだこで、多忙な日々を過ごしている。それは所属するマネージメント会社、つまりは担当エージェントのジュールの手腕も大いに手伝っていた。
 同時期に引退した他のスケーターがアイス・ショーをこなす中、ニキは1シーズンまるまる、スケートから離れた。戦うための向上心を原動力にして氷上に在ったニキは、観客を楽しませるだけのスケートにどう向き合っていいかわからなかったのである。マネージメント会社は手厚いサポートとマネージメントで有名なところだったが、稼がないプロスケーターをいつまで甘やかしてくれることか。足早に過ぎる月日は人の記憶を薄れさせて行く。どれほど現役時代に有名を馳せても、それは永遠ではないのだ。いつかクビを言い渡されても仕方ない、それでも構わないと思い始めた頃、ジュールが有無を言わさず、スケジュールを入れ始めたのである。おかげでそのシーズンは、一度も帰国出来なかったほどだ。
「ニキ、この前ルディに振付けたEXプロみたいなの、来シーズン用に頼めませんか?」
 フィナーレで隣りの立ち位置となったカナダのアンソニー・コリンズが話しかけてきた。
「いいけど、スローパート・オンリーは苦手だろう?」
「チャレンジしてみたいんです。四年後に表彰台を狙うなら苦手を克服しなきゃね」
「なるほど。一応、話通しておくから、正式にオファ―入れておいてくれ」
 ニキは振り付けの仕事も始めた。もともと興味があり、現役時代も時折、自身で振りつけていた。自分の特性は自分が一番よく知っているせいか、出来上がったプログラムの評判は良く、芸術点は高かった。それを買っていたコーチや選手たちが、引退を機に依頼してくるようになったのだ。
 はた目には現役引退後は順風満帆に見えるだろう。実際、順調にプロスケーターとしてのキャリアを積んでいる。しかしニキは充実と充足は別物だと知っていた。こうして現役とプロが同じ氷上にいると、それを痛感する。
 演技前の耐えがたいほどの緊張が懐かしい。クワド・ジャンプで確実に着氷出来るのか、苦手なトリプル・アクセルで回転不足を取られないだろうか。どれほど練習を積んでも拭えない不安との戦いは、現役でなければ味わえないものだ。
(四年も経っているのになぁ)
 まだ四年とも言える。五才でスケート靴を履いて以来二十年余の現役生活で培われた意識を切り替えるには、四年は短いのかも知れない。足下より上るエッジの音さえ違って聞こえ、それにもまだニキは慣れずにいた。



 

  ss top  (中編)