※ この作品は、BL小説ブログ『ひまつぶし』様の秋の特別企画に触発され書き上げたものです。
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 相府蓮(そうふれん)





 階下が賑やかになったように思い、英治(ひではる)は本の頁から目を離す。ほどなく母の呼ぶ声がして下りて行くと、提灯舗の入り口を兼ねた玄関に、背の高い海軍士官が立っていた。『賑やかの素』は、彼の周りを取り囲む英治の弟・弘之をはじめとする近所の子供達だ。
「シン」
 階段を下りきらぬところで英治が声をかけると、一年半ぶりに会う親友の進一郎は微笑んで、軽く敬礼して見せた。




 一九四四年、戦況は日増しに厳しくなっていた。大本営の発表は開戦当初と変わらず勇ましいもので、自国の戦果を華々しく伝えたが、その実は決して芳しいばかりでないことを、口に出さないまでも国民の誰もが感じていた。米軍による空襲も、前年とは比較にならない。今はまだ、特に軍関係の施設を有する町に攻撃は集中していたが、いつ自分の住む町にB29が飛来するかと、人々の不安は募るばかりであった。
 そんな中、英治の親友で海軍大尉の進一郎が帰郷した。
 道ですれ違う誰もが進一郎を振り返り、呼び止める。大工の息子でありながら難関と言われる海軍兵学校に難なく合格。卒業後は連合艦隊旗艦を務めたこともある戦艦に乗艦し、二十歳そこそこで大尉に昇進した彼は、この界隈では英雄的存在なのだ。幼い頃はガキ大将で知られ、悪戯が過ぎ大人を少なからず困らせたこともあった進一郎は、今ではすっかり立派な海軍士官となって、帰郷の折には期待と憧れの眼差しを一身に浴びる。「よく怒鳴られた和尚までが敬語を使う」と彼は苦笑した。
 英治もまた成績の面では、進一郎と席次を争うくらいであった。進一郎と同様、中学校校長の推薦を受けて海軍兵学校を受験することも決まっていたが、視力が受験資格を満たさなかった。もともと海軍などに興味はなく、進一郎とこれからも同じ道を歩めたらと、勧められるがままに受験を決めた。だから英治本人は周りが思うほどに残念と思っていない。ただ進一郎と道が分かれてしまったことに、少しばかりの寂寞を感じただけだ。
「キリがない」
 あまりに行く手を阻まれるので進一郎はそう呟くと、英治を促して歩みを速めた。
 行く先はよく仲間で遊んだ川べり。進一郎は帰ってくると懐かしいのか、必ず英治をそこへ誘った。
 季候の良い頃なら子供達の声が響くその辺りも、師走に入った夕暮れでは人気(ひとけ)も薄く寂しい。それがかえってゆっくりと話す時間を二人に作ってくれた。進一郎は土手の端に腰を下ろし、英治も倣って隣に座った。
 二人が会うのは一年半ぶりだが、こうして肩を並べて話し込むのは、もっと久しぶりである。任官してからの進一郎は多忙で、休暇と言っても日帰りか、せいぜい一泊の滞在だった。ここへも、英治の家から目と鼻の先にある実家への帰りに、遠回りして立ち寄る程度になっていたからだ。
「今は横須賀じゃったっけ?」
「ああ。しばらくは内地勤務になりそうだ。だから休暇がもらえた」
「いつまで?」
「五日。明後日の朝には発たないと、戻りつけないだろうな」
 汽車の運行状況が良くない時勢である。平時の倍とは言わないまでも、それに近い時間がかかったと進一郎は肩をすくめた。聞けば、実家の方には荷物を置いただけで、まだ家族とろくに言葉も交わしていないのだと言う。
「じゃったら、早う帰らんと。小父さん達、待っとるじゃろうに」
「いいさ。今夜と明日一日あるんだから。それに渡すものもあったしな」
 進一郎は「土産だ」と言って白米と鰻を届けてくれた。
「鰻は絶対、食べろよ。鳥目(夜盲症)にいいから。おふくろさんにもそう言ってあるけど」
「ありがとう」
 食料事情の悪さから、英治は夜盲症気味であった。加えて完治の難しい肺気腫を患い、体力が落ちて痩せる一方だ。前回、会った時にすでにその状態だったことを進一郎は覚えていたのである。その心遣いは嬉しかった。こうして話が出来ることも。しかし英治にはやはり、家族水入らずの時間を削っているのではないかと言う思いが先にたつ。
「そろそろいのう。時間はどんだけあっても足りんと思うよ」
「そんなに気を遣うな。今度はいつ休暇が取れるかわからないんだ。ハルと話すのも、これで最後かも知れんのだぞ」
 英治の心臓が大きく脈打った。そうだ、進一郎は軍人だ。悪化する戦況に、この先、無事でいられる保証はない。日本海軍の戦艦は次々と没している。進一郎の乗る(ふね)だとて、表ざたになっていないだけで何度も死線を渡っているだろう。土手を突いて身体を支える英治の手には、無意識に力が入った。
「もちろん俺はいつだって、どこに行ったって生きて帰る自信はある。それよりおまえの方が心配だ。生命力があきらかに俺より弱そうだからな」
 進一郎は英治の手首を掴み上げた。彼の手が大きいこともあるが、掴まれた手首に対して指は余るほどで、英治の細さが強調される。いきなり一方の手を取られて、英治の身体は均衡を失い傾いだ。「すまない」と進一郎が手首を掴んだまま腕を引くと、英治の身体は元の位置に簡単に戻された。
 幼い頃は英治の方が大きかった。それがいつの間にか背丈は抜かれ、体格差は開くばかり。羨むことはなかったが、地位も風貌も良い意味で変貌していく進一郎が、それに伴って遠くなって行くように英治には感じられた。
「どうした?」
 一瞬、ぼんやりとした英治は、進一郎の声で我に戻った。
「すっかり関東の言葉が板についとるなと思うて」
 それもまた、『幼馴染で親友の進一郎』とは違って感じる一因だ。
「方言だと他の土地の人間にわからないこともあるだろう? それに方言で怒鳴ると部下が恐がるんだ。気を抜くとすぐに戻る」
 進一郎はそう言った後、
「忘れたわけじゃぁなぁで」
と笑った。それから被っていた制帽を脱ぐ。成長して面長になり、髪はきれいに撫で付けられていたが、その額の形は坊主頭だった頃と少しも変わっていなかった。笑んだ大きな口元に一個出来る小さな笑窪もそのままだ。
 心を見透かされた感覚――英治は彼の笑顔からそっと目を逸らす。
 大雑把でいて、進一郎はいつも心細やかだった。悪さもしたが決して憎まれなかったのは、そう言う面も見せるからで、きっと海軍でも慕われていることだろう。
「それに早よういぬるといろいろうるさいんじゃ。縁談が来とるんでな」
「縁談?」
「菅原先生の遠縁らしい」
 『菅原先生』とは、兵学校入学の際に進一郎の後ろ盾となって尽力してくれた、同じ町会出身の市会議員のことである。進一郎は彼の顔に泥を塗らないために、兵学校では三席以上の成績で通し、首席で卒業した。それに気を良くした菅原が、進一郎の卒業後も父親に仕事を回すなど、何かと便宜をはかっていることは周知のことだ。
 二十一歳は、結婚するのに決して早い年齢ではない。軍人は結婚してから戦地に赴くことが一般的だ。健康で優秀な海軍士官の進一郎に、今まで縁談がなかったことの方がむしろおかしい。今回の相手が菅原の遠縁で女子師範学校を春に卒業した才媛だと聞き、彼女が卒業するまで、菅原が差配して他の縁談を止めていたのではないかと英治は想像した。あるいは進一郎の両親との間で、以前から内々に婚約めいたものが交わされていたとも考えられる。
 いずれにしても縁談の話は、予想出来ないことではなかった。
「いい話じゃなぁんか?」
「そうじゃのぉ。写真をみるかぎりじゃあ、なかなかの美人だ。でも俺は会わんとぉに断るつもりじゃ」
 進一郎は簡単に答えたが、断れる話ではないだろうに。
「俺には好いとるんがおるけん」
「え?」
 その言葉は縁談の話を聞いたことよりも、英治を驚かせた。
 これまで進一郎の口から艶めいたことを聞いたことがない。進一郎は想いを寄せる女性の存在など、英治に微塵も感じさせなかった。
 英治の胸の鼓動は早くなる。言葉がすぐには出なかった。
「なんじゃ?」
「いや、意外じゃったけぇ。そがぁな相手がいること、聞いたことがなかったし」
「俺自身、自覚したなぁ乗艦してからじゃけぇな」
「乗艦してから?」
「遠く離れて初めて、そいつのことが好きなんに気がついたんじゃ。ちこぉにおる時にゃわからんかった。でも死にそうな目に遭うたんびに浮かぶなぁ、そいつの顔ばかり。『ああ、俺は、あいつのことが好きなんだ』ってな」
 英治の鼓動はますます早くなった。「近くにいる時」と言うことは同じ町内か、少なくとも同じ地区の人間だろう。英治の脳裏には、数人の顔が過ぎって行った。幼馴染や通学路で時々すれ違った女学生達。あの中に、進一郎の想い人がいるのだろうか。
 義理堅い進一郎が、世話になった人間の勧める縁談を会いもせずに断るくらいだ。今回の帰郷で想いを伝えるつもりなのかも知れない。
 英治は動揺していたが、それを悟られないように、なるべく自然な口調で尋ねた。
「ほいじゃぁ縁談断って、相手に伝えるつもりなんか?」
「言うつもりゃぁなぁで。今のままでええと思うとるし」
 それもまた意外な答えだった。進一郎は好きな相手が出来たなら、すぐさま堂々と想いを告げる性質(たち)だと英治は思っていたからだ。どちらかと言えば直情型で、白黒はっきりしないではいられないところがある。そんな彼が断られることを恐れるとは思いがたい。
 英治は進一郎の横顔を見た。薄暮の中での英治の視力では、ぼやけて表情が読めない。
「いや、『今は』、かの。この戦争が終わって、無事に帰って来られたら、その時にゃぁゆぅつもりじゃ」
「なんで、今じゃないん?」
「振られたら、戦地で生き抜く気力がなくなるかも知れんからな」
 進一郎は笑って言った。
「振られるなんて、そがぁなまさか。シンを拒む子なんぞいとらんよ」
「そんがな、みやすい(簡単な)相手やないんじゃ」
 進一郎の答えは呟きに似て、辛うじて聞き取れるくらいの声音だった。
 今日は英治の知らない進一郎の一面ばかりを見せられる。新しい彼を知る嬉しさもある反面、彼のことなら何でもわかっていると思っていた英治は複雑だった。進一郎の表情は見えない。しかし切ない声音に、その想いの丈を計ることが出来たので、
「きっと相手に通じる」
気休めだと思いつつ、英治は言葉を返した。
「じゃとしても、俺は生きていねる保障のない人間じゃ。万が一、戻ってこられん時ゃぁ、聞いた後じゃ相手が辛かろう?」
 進一郎は英治を見る。
「そがぁな思いをさせとぉないんじゃ。知らんにゃぁ、見知った人間が戦死したで済む」
「シン」
「でももし生きていねたら、玉砕覚悟でゆうよ。『おまえを好きじゃゆう気持ちが、俺を生き残らせてくれた』ってな」
 進一郎の声はいつもの清清しい調子に戻り、聞いている方が気恥ずかしくなる言葉を、臆面もなく口にした――気持ちをぶつけるよりも思いやることを優先する。これほどまでに想われる相手はどんな女性なのか。
 風が二人の髪を揺らして吹き過ぎる。日が暮れて、気温は更に下がった。指先に息を吹きかけるために開けた口から、冷たい空気が滑り込み、英治の弱い気管支を刺激する。軽く咳き込むと、首に羅紗の襟巻きがかけられた。
 襟巻きには進一郎の体温と匂いが移っていた。途端に英治の首の周りは熱を持った。
「すっかり暗ろうなったの。いぬるか」
 進一郎は先に立ち上がり手を差し伸べ、英治はそれを借りて立ち上がった。礼を言って離そうとする手を、進一郎が握り込んだ。
「何?」
「これだけ暗けりゃぁ、足元、あぶなかろ?」
 川に平行する土手には当然街灯などなく、あったとしても灯火管制で消されていた。月の出にはまだ早い。この辺りは慣れていないと健常な目でも歩きづらかった。英治の目となると尚更で、彼の手はありがたいが、大人の男二人が手を繋いで歩くなど恥ずかしいことこの上なかった。
「慣れとる道じゃけぇ大丈夫じゃ。それに恥ずかしいよ」
「いい年して転ぶよりマシじゃろ。通りに出るまでじゃ。誰も見とらん」
 そう言うと進一郎は英治の手を握ったまま、ゆっくりと歩き始める。
 英治は日が暮れていて良かったと思った。ひどく赤面しているに違いなかった。ただ手を繋いでいるだけで、進一郎は視力の悪い英治に、親切心から手を貸しているに過ぎない。
 早鐘のような鼓動が、手の平から進一郎に伝わりませんように――英治は祈りながら歩みを進めた。
 
 

 
 どうにも眠れなくて、英治は身を起こした。目を開けているのかどうかわからないほどの暗闇。灯り漏れを防ぐために窓に張られた黒い幕が作った闇だ。英治は枕元に置いたはずの眼鏡を探った。これほどの暗さと英治の視力では、かけてもかけなくても大差ない。それでも慣れてくると、幕の合わせが少しずれて仄白くなっているのがわかった。朝はまだまだ先だから、月明かりだろう。
 火の気のない部屋はすっかり冷えていた。掛け布団を肩からかけ、窓の方ににじり寄る。ずれた幕の合わせから身体を入れ、外を見た。
 地上と空の境が曖昧になる沈黙の夜に、ぽっかりと浮かぶ月。英治の不明瞭な視野の中でも、その姿がはっきりとわかるほど、冴えた光で輝いている。確か満月は前日だったから、今夜は十六夜だ。満月と遜色ない月の姿を見上げながら、英治は自分の意識を占める眠れない理由を考えていた。
「こがぁに堪えるたぁ思わんかった」
 英治は独りごちた。
 進一郎に想い人がいる――そのことがこんなにも自分を動揺させるとは。英治は親友として当然聞くに違いない相手の素性も、名前すらも、尋ねることが出来なかった。
 いつか来るとは覚悟していた。いつまでも独り身ではいられない。自分はともかく、進一郎はちゃんと嫁をもらうだろう。英治はそのことを常に心の片隅に置いていたつもりだった。その日が来たなら、笑って祝福出来る自信もあった。
 なのに、進一郎に好きな相手がいると知っただけで、これほどに心が揺れる。眠れない夜に戸惑う。
 知らずについた溜め息で硝子が曇った。それを撫で拭う指先を英治は見つめた。進一郎が握った手。頬の辺りが熱くなる。
「好きじゃ、シン」
 一生、口にするつもりはなかった言葉を、見つめた手に向って呟いた。
 遊びも一緒、勉強も一緒。最初は、一番の友と言う位置を誰にも渡したくないと言う子供ながらの独占欲だった。それがいつしか、進一郎のことを考えると、友情とは違う甘やかなものが英治を満たすようになった。進一郎だけが呼ぶ「ハル」と言う呼び名を聞くと、自分は彼にとって特別な存在に思えてならなかった。
 進一郎と接吻する夢を見た朝、自分の下穿きが濡れるに至って、英治は混乱し、そして悟った。自分は進一郎に恋慕しているのだと。
「好きじゃ、シン」
 進一郎の手と重なった手の平に口づける。
 同性同士、もとより結ばれるなど考えられない。わかっていても想うことを止められなかった。辛くて何度、言ってしまおうとしたことか。思いとどまったのは、友としての関係さえも失ってしまうことが恐かったからだ。幸か不幸か時期を同じくして、進一郎は兵学校のある江田島に発った。
「好きじゃ、シン」
 顔を上げると、月に目が行った。冬の澄んだ空気が、月の白さを一層引き立てる。満月はさぞ、美しかったことだろう。
 昨夜は月を見上げることはなかった。「月がきれいだ」と母と弟が店先で、水団(すいとん)を団子に見立て、季節はずれの月見の真似事をしていたが、英治は付き合わなかった。昨夜に限らず、ゆっくり月を見ることなど、最近はなかった。
 これは何かの符号なのか。十六夜は十五夜より月の出が遅れることから、「月の出を躊躇う」と言う意味で『猶予(いざよ)う月』、すなわち『十六夜月(いざよいづき)』と名づけられた。
 自分亡き後の相手のことを慮って、告白することを躊躇う進一郎。
 二度と口をきけないかも知れない恐さから、告白を躊躇ってきた英治。
 しかし進一郎は、無事に戻って来られたなら、相手に想いを伝えるつもりでいる。それを糧の一つにして、生きて帰ろうとしているのだ。
 きっと進一郎は帰ってくる。そして想う誰かに今度こそ告げる。その時が、自分の秘めた想いに終止符を打つ時ではないのか?
 別れ際に進一郎が真顔で言った。
「戦争が終わって戻ったら、大事な話がある。じゃけぇ絶対、無事でいろよ」
 親友である英治に、想い人のことを話す、あるいは紹介するつもりでいるのかも知れない。
 自分の気持ちを抑えたまま、家庭を築く進一郎を目の当たりにしながら、『親友』として振舞うことが出来るだろうか?
 英治は目を閉じた。
「好きじゃ、シン」
 だったらいっそ、この言葉を戻った進一郎に告げて、恋を終わらせてしまうのが良い。
 笑って過去形で話せるよう、それまでに恋情を友情に還元する。たとえそれで進一郎が離れて行ったとしても、辛いのは一時だけ――そう言い聞かせた時、進一郎と繋いだ手が微かに震えた。英治はもう一方の手を重ねて強く握り込むと、額に押し当てる。
 しばらくして指の震えがおさまり、英治はホッと息を吐き出すと目を開けた。
 目線を上げた先には十六夜の月。その俗名に似合わず、皓々とした輝きで空に在る。まるで英治の決心を(わら)うかのようだ。
 英治は苦く笑んで、その月を見つめた。


                           

  (2009.09.19)
<相府蓮>
雅楽。「晋の大臣官邸の池の蓮を愛でた歌」が原曲だが、日本では「想夫」と発音が似ることから、恋する女性の曲として『想夫恋』とも表記され、『平家物語』にも登場する。



英治の恋の結末は、現在
『眼鏡祭2』に参加中の『空はどこまでも青かった』にて想像することが出来ます(ハッピーエンドではありませんので、苦手な方はご注意ください)。
 
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