夜は静かに始まった。じゃれ合うこともなく、会話もなく。
触れる膝頭で、設樂がすぐ向かいに座っていることがわかる。淳明が彼を感じる手立てはそれだけだった。
太ももに設樂の指先が触れた。ネクタイの目隠しで彼の動きが予測出来ず、淳明の肩がピクリと跳ねる。それを見て設樂が小さく笑ったのがわかった。
「設樂」
名を呼んだ淳明の口の上で啄む音がした。音を生んだのは設樂の唇だ。
弾力のある彼の唇はしかしそこには留まらず、淳明の顎の先で同じ音をたて、喉を舐め、鎖骨を甘噛みした。
そろり、そろりと設樂の唇は、甘やかな恍惚を引き出しつつ移動する。淳明の波打つ胸の理由は、呼吸ばかりではないだろう。その証拠に、身体は明らかな変化を見せる。
唇は、フッと存在を消した。
「し、設樂!」
その変化が顕著な先端に口づけられ、淳明の身体が大きく仰け反った。後ろに傾ぐのを、設樂の腕が抱きとめる。引き寄せられた淳明は、今度は前に倒れ込んだ。
背中を抱く設樂の腕が、稜線を形作る脊椎の一つ一つを指先で確かめながら下って行く。尾骨に至り撫でられると、形容しづらいものが身体中を駆け巡ったのは、その先に本来とは別の役割を覚えた場所があり、ほどなく設樂の長い指が辿りつくことへの、淫靡な期待によるものだろう。
彼の指が臀部の二つのまろみを割り拡げ、準備はしているものの、まだまだ固いその『期待の源』に触れた。
ひんやりとしたジェルが塗りこめられて一瞬引けた腰を、設樂の腕がまた戻す。
目が利かないが故に鋭敏となった感覚――この二年間で設樂によって導かれた身体は、すでに彼の指が、舌が、どのような愉悦をもたらすか知っているはずであるのに、どこを触れられても、まるで初めての経験であるかのように、淳明を追い上げて行く。
二人の間で昂る欲望の『証』が、時折互いを刺激した。それは意図したものではなく、直接的でもない。煽られた淳明の腰が揺れることによる偶然であった。
それだからもどかしい。もっとちゃんと触れたい、触れて欲しいのに、淳明の腕は自由が利かず、設樂の両手の意識はそれぞれ、後ろと胸に集中するばかり。いつもならまず温かな舌が、淳明の切ない部分を高めてくれると言うのに。
「触ってくれ」と懇願しようにも絶え間ないキスが口を塞ぎ、設樂の指が生み出す恍惚の波紋が言葉にする暇を与えない。
「腰、揺れてる。我慢出来へん?」
キスの間隙を縫って設樂が耳元で囁く。
淳明が頷くと、身体の中で蠢いていた設樂の指が一層奥へと差し込まれ、陶酔をもたらす栗の実に触れた。自分のものとは思えない淫らな一声が、淳明の耳の中で響く。
求めている解放の予感が、淳明を更なる昂揚へと誘った。
胸の辺りを彷徨っていた設樂の手が、触れられることを切望するそこへ伸びた。設樂の手は触れるには触れたが。
「し、設樂!」
上り詰めることを促すのとは反対の動きをする。解放が塞き止められたのだ。
後ろに押し倒されると同時に、淳明に埋まっていた彼の指が引き抜かれた。その手は淳明の足首を掴み、身体を開く。
いまだに緊張する設樂を迎え入れる瞬間が、今夜は待ち遠しくてたまらない。解された場所に設樂が自身を押し当てると、淳明の身体は悦びに打ち震えた。
ゆっくりと侵入する彼の体温が、淳明の身体に移って行く。今夜の設樂は決して焦らない。高まった淳明の快感が削がれてしまわないように、十分に時間をかけているのか。あまりのはがゆさに、唯一自由の利く淳明の片方の足は、設樂の腰に絡みついた。
ようやく一つに繋がると、設樂の熱い吐息が淳明の耳元で放たれる。それを合図に、淳明の身体を緩やかに、彼が穿ち始めた。
「はっ、あ…っ」
その動きに合わせて淳明の口から短く息が漏れ、切れ切れに声も混じった。
設樂の広い背中に縋りつきたいのに、淳明の腕はいまだにブレスレットの支配下にある。淳明は与えられる快感に、ただ啜り泣きながら耐えた。
下肢から伝わる振動が目隠し代わりのネクタイを緩め、やがて頭から抜けた。視界が開けるのを感じ、薄く目を開く。涙でぼやけた先に設樂の顔が見えた。
「設樂ぁ…」
「うん」
瞼にキスが落ちる。
こめかみにキスが落ちる。
耳朶にキスが落ちる。
設樂の熱い息が、耳の中に滑り込む。
「もう少し待てる?」
との囁きに、淳明は左右に首を振った。
何度も、何度も、何度も、何度も。
淳明の腰から背後に設樂は手を差し込み、手探りでブレスレットの片方を外した。やっと自由を得た淳明の手はシーツを滑り、すぐさま彼の背中を掻き抱く。設樂の動きは速くなり、淳明の官能の放出を塞き止めていた手が比例して上下した。
一際強い一撃。設樂の刹那な呻きと共に、言いようのない快感が淳明を襲う。目の奥に光を感じた。
何もかもから解放され、淳明の意識は遠のいた。
「いやぁ、燃えたなぁ」
頭の後ろで設樂の満足げで脳天気な声がした。
(燃え尽きたわ)
淳明はぐったりと俯せになったまま、心の中で悪態をつく。
一声出すのも億劫なくらい、淳明は疲れ切っていた。一晩中、組んず解れつ状態、何度達したかわからない。とにかく激しい、そして思い出すだに恥ずかしい一夜だった。
意識を飛ばすこと数回。気がつく度に設樂の身体が重なってきては求められ、設樂もまたあられもなくそれに応えた。あまりの快感に淳明が叫びそうになるのを、辛うじて設樂の口が封じてくれたものの、普段では有りえないほど声が出ていたことは確かだ。「もっと」だの、「許して」だのも連発していたに違いない。以前、二人で観たアダルト・ゲイ・ビデオの中で、夜も昼もなく嬌声を上げるネコ役に、「ありえへん」と冷静に言い放ったのはどこのどなた様だったか。
今週、淳明は「ありえない」と思ったキャラクターにことごとく当てはまっている。恋は心の箍を簡単に外してしまうものだったのだと、淳明は痛感した。
「アツ、ほんまに可愛かった」
そんな羞恥で頭が沸騰しそうな淳明のことなど知ってか知らでか、設樂は悪びれもせず耳元で囁いた。
(無視や、無視)
「ぐずっておねだりされた時、歯止め利かんかも思ったくらいや」
(実際、歯止め利かんかったっちゅーに)
「可憐っちゅう言葉は、俺の中ではアツのために存在するってこと、ようわかった」
(何言い晒す、このアホ設樂)
「アツがあないに感じてくれて、ほんま嬉しかった」
肩の先に口づけされるに至り、
「ええ加減にせえよ!」
淳明はついに我慢出来ず身体を起こした。頭が設樂の顔面を直撃する形になる。「痛い」と彼は鼻の辺りを抑えたが、それは淳明の頭も同様だった。淳明は再びベッドに俯せに倒れ込んだが、頭突きの痛みからではなく、身体に力が入らなかったためだ。
ベッドが軋み、設樂が身体を起こす気配を感じた。それにつづくカラカラと言う音は、ベランダ側の掃出しの窓を開ける音だろう。涼やかな朝の風が部屋の中に入り込み、海の匂いが充満した。微かに波の音がする。
またベッドが軋み、設樂が淳明の背後に戻った。
「声、ちょっと枯れてるな? エロい声でようさん啼いてくれたから」
自分の発する一言一言が、どれほど淳明の羞恥を煽るか、設樂は全く意に介していない。その配慮を欠くデリカシーのなさに、色々とツッコミを入れたい淳明だが諦め、ベッドに顔を埋めて、恥ずかしさを意識下から逃がす努力をした。
「気持ち良かった?」
肩を掴まれひっくり返されると、男女問わず蕩かすであろう設樂の笑顔が真上に迫る。淳明の恥ずかしさは倍増した。わざわざ聞かなくとも、夜通し淳明の反応を見ていたならわかるだろう。
「れ…練習の成果は出とった」
ようやく答えて、淳明はハタと思い出す。淳明を快感の極致にさらった夜は、立川明人と言う男との『お稽古』によって得られたものなのだと。
「どないした?」
眉根を寄せる淳明を、設樂が見つめる。
「あの人とも、こんな感じやったんか?」
「あの人?」
「アキト」
設樂の目は明後日の方向を見た。淳明は手を伸ばして、彼の前髪を掴み視線を戻させる。
「そやから、アキトとは練習しただけで、最後までしてません」
「ジェルやコンドーム、使うた癖に」
「あれは、ほんまにあちこち汚さんためで…。『俺をイカせられなかったら、手本を見せるから』って言いよるし。本気出してやらんと、なかなかイカへんのや、あの人は。第一、アキトはバリバリのタチやねんで。俺となんてありえへん」
「え?!」
タチと言うと、設樂のポジションである。あの華奢でキレイ系の立川明人が攻める方だとは、俄かには信じがたい。櫻井とは仕事のパートナー以上の、只ならぬ関係に見えた。設樂よりは体格が劣るとは言え、ベッドで櫻井が淳明と同じ立場だとは思えなかった。
「そやからオッサン、毎回苦労してんねん。どっちがマウント取るか、まずそっからやから。アキトは合気道の段持ちやねん。気ぃ抜くとすぐにひっくり返される。俺、ホンマに貞操の危機やってんで」
設樂は口をへの字に曲げた後、ぶるると身を震わせた。複雑な表情が、思い出したくないと語っていた。どうやら、アキトとは本当に何もなかったらしい。
「まあ、ええセンセイやったのは確か。アツも満足させられたし。またしよな?」
「お断りや」
掠れた声で間髪入れずにはっきりと淳明は答えた。
予測とは違っていたらしい反応に、設樂は「え?!」と驚く。
「何で?! 良かったやろ?! ごっつ良かったやろ?!」
確かに良かった。それは淳明も認める。しかし毎週末これでは、淳明の身が持たない。設樂は「毎週末」とは言わなかったが、そうなるに決まっている。それでなくともここ最近、設樂の施すセックスは徐々にエスカレートしていた。これで味をしめたに違いないのだ。
今日はとてもベッドから出られそうになかったし、起きられたとしてせいぜい部屋の中で過ごすくらいだろう。
「せっかくの休みでも、どっこも出かけられへん。映画行ったり、買い物したり、一緒にしたいこといっぱいあんのに、エッチだけで時間潰れるんて、それこそセフレとおなしやんけ」
「アツ」
「オレはおまえとセックスだけしたいわけやないし、おまえのテクとやらに惚れたわけでもない。一緒におるだけで楽しいし、これからもずっと一緒におれたらええと…」
続きの言葉は設樂の唇に吸い取られた。少し厚ぼったく、弾力のある設樂の唇の感触が夜の記憶を引き出して、淳明の身体に熱を呼び戻しつつある。
しかしキスは、キスだけで終わった。唇を離し、再び淳明を眼下にする設樂には、極上の笑みが浮かんでいる。
「アツは俺んこと、そないに想ってくれてたんや? 俺、嬉しくて泣きそう」
淳明はまた手を伸ばした。今度は両手を設樂の髪に差し入れ、くしゃくしゃと撫でる。多少乱暴なのは、照れ隠しも入っていた。
「泣いてる暇あったら、朝飯作ってくれへんかな。晩飯抜いて、カロリーごっつ消費したから、腹減って堪らんのやけど?」
乱れて目にかかる髪をかき上げ、設樂は「わかった、すぐに」と身を起こす。
「風呂も入りたい」
「ほな、湯、張ってくる。アツがゆっくり浸かってる間に、朝飯作っとくから」
「それから」
ベッドを下りかけた設樂に呼びかける。
「ん?」
「も一回、キスしてくれ」
設樂は「喜んで」と答えて、再び淳明の上に戻った。
キスをして、風呂に入って、朝食を取って――今日は無理だが一日身体を休めたら、多分、明日には体力も戻って普通に過ごせるだろう。そうしたら、設樂に言おうと淳明は思った。
「不動産屋、覗きに行かへん?」
きっとまた極上の笑みを見せるに違いなく、それを想像すると淳明は嬉しくて、彼の首に回した腕に力が入った。
end(2013.06.28)
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