設樂が淳明の両の手首を後ろ手で戒める。勿論、件の黒いブレスレットで。二つのブレスレットを一つに繋ぐ鎖が、硬質の冷たさを身体に伝えた。
設樂の手には彼のネクタイがあった。それを淳明の目に当てがう。
ふわりと紅茶の香りが淳明の鼻腔に滑り込んだ。設樂愛用のコロンの残り香だ。手に続いて視界の自由を奪われ、少しばかり慄いていた淳明だが、その香りに昂り、安心と期待を覚える――これから始まる『夜』に。
習慣とは恐ろしいもので、会社を退けた後、淳明の足は無意識に海辺の街への路線へと向いていた。土曜日に休日出勤や特別な予定が入っていないかぎり、淳明は金曜の夜から設樂のマンションで週末を過ごした。定時退社出来れば自宅に一旦着替えに戻るが、残業が長引くと会社から直接向かう。今夜は後者のパターンだった。
前日、設樂に蹴りを入れて自宅に戻った淳明だったが、浮気でなかったことがわかると現金なもので、彼のところに行く行かないの迷いはあるものの、週末が待ち遠しくてならなくなっていた。
今朝から文面を変えつつ、一貫して「会いたい」を主張するメールが設樂から送られてきた。それを見ると、彼に対する想いが淳明の中にじわじわと広がって行くのだが、結局、返事は打てずにいる。あんな態度――蹴りを食らわした――で帰ったことでバツが悪い上に、設樂が自分とSMプレイをしたがっていると知って、返事のしように困っている。淳明も基本的には会いたいのだが。
(もし、『縛らせてくれ』て言われたら…)
昨夜、疲労感を引きずっての帰宅後、SMの縛りとはどう言うものなのかをパソコンで検索した。
SMプレイなど、自分達とは無縁のものだと思っていたが、淳明に思い当たる節がないではない。設樂はここのところ、ベッドの上では「いじわる」になっていた。つまり、なかなか欲望を解放させてくれないのだ。痛いことはしないかわり、快感で淳明を責め殺そうとしているかのようだった。あれも一種のSMプレイではないのか。
『緊縛』のサイトでは、どうすればそんな風に出来るのかわからない複雑な縛り方で、責め苛まれる女性の姿を見た。自分の顔を彼女達とすり替えてみるが、「とても無理」と冷や汗が出る。設樂のところに縄はなかったと思い直し、ではレザーのブレスレットを使ったプレイはと検索にかけると、思わず息を呑む有様。
淳明の目に触れたのは黒革のブレスレットだけだったが、他にも何かアイテムを隠し持っているのだろうか。
などと逡巡しているうちに、足は勝手にJR線へと向かった。何の疑いもなく電車に乗り込み、ぼんやり電車に揺られ、あたりまえのように設樂の住む街の駅で降りた。ホームで磯の香りを含んだ風に頬を撫でられてやっと、淳明は自分がここに来てしまったことを実感したのである。
そう多くない乗降客が家路を急ぐ中、改札を出るべきか、向かいのホームに渡って戻るべきか淳明は迷った。腕を掴まれたのは、その時だった。
「設樂」
不意のことに驚いて振り返ると、設樂が立っていた。
少し手前でバスを降りて、夏は海水浴客で賑わう砂浜を並んで歩く。
駅前で食べて帰ろうかと言った設樂だが、すぐに撤回して淳明の腕を掴んだままバス停に向かった。帰ろうかどうしようかと迷っている淳明の気持ちを読んだかのようだった。それにどうしても昨日の話が出るだろう。人前で話せることではない。
バスを下りようと言ったのは淳明だった。このまま設樂のマンションに直行するには抵抗があったし、押し黙ったまま十分以上もバスに揺られるのは辛い。
夜の海は暗く、数メートルおきに設置された堤防の街灯の明かりを頼りに、二人は砂の上を歩いた。禁止されている花火やオフロードバイクを走らせるために若者が集まる時間にはまだまだ早いらしく、人気(ひとけ)はない。音はと言えば二人の足の下で生まれる砂のこすれる音と、穏やかに打ち寄せて細かに砕ける波の音、それから少し山寄りを走る電車の通過音だけだった。
会話の最初の糸口は何だったのか。いや、沈黙を破って設樂が唐突に「別にええねん。どうしてもアツを縛りたいってわけやないから」と口にしたのだったか。ともかく核心をついた会話は、バスを降りてしばらくして始まった。
「や、まあ、したくないわけやないけど、それはもっとアツに気持ちようなって欲しいからで。そんで、もっと俺を欲しがって欲しいって言うか。俺、自信ないねん。ほら、アツは元々ノンケやろ? 拝み倒して付きおうてもらうようになったから、いつ『やっぱり女の方がええから』って離れていかれるか不安で」
設樂が不安に思っていたことは、淳明にとって意外だった。
「エッチする時はごっつ可愛いのに、普段は全然淡白やし、もしかしたらセフレ程度にしか思ってもらえてないんちゃうかって」
淳明は同性相手が初めてのノンケよりも、やはり何かと事情のわかるゲイの方が良いと言われるのではないかと不安に思っていた。傷つくことを恐れて知らず知らずに距離を取ってしまったのだが、それが設樂をもまた不安にさせていたのだと知る。
「設樂、それは誤…」
それは誤解だ、むしろ不安を抱いていたのは自分の方だと淳明は言おうとしたが、それより先に設樂が続ける。
「したら、俺がアツを繋ぎ止められるんて、エッチのテク、磨くしかないやん」
殊勝な口調でサラリと言われ、淳明の目は点になった。
「なんでそこやねん」
「とことん気持ちようさせて、女相手じゃ物足りんくらいにして、俺から離れられんくするって計画」
「アホやろ」
「アホです」
ちょうど街灯の下にさしかかり、設樂が肩を竦めたのがわかった。目が合って、淳明は思わず吹き出して笑った。設樂は少し目を見開いた後、同じく笑った。
昨日のことが、ひどく昔に思える。海の街の駅に着くまで――バスを降りるまで引きずっていたわだかまりが、すうっと消えていった。
設樂の手が淳明の手に触れて、指を絡ませ合い繋ぐ。いつもは熱いくらいの設樂の体温だが、その手は冷たかった。緊張してのことだろうか。途端に愛しさが蘇える。
「何度言うても、なかなか一緒に住むんに『うん』言うてくれへんし、ちょっと焦ってた」
「そやからって、他の男相手に練習するんか?」
「したかて、アツに痛い思いさせられへんやろ?」
街灯の下から離れ、明かりに背を向けた状態で良かったと淳明は思う。頬が緩み、そこに熱が集まっていることを感じていた。
「ごめん、さっき何か言いかけてへんかった?」
淳明のそんな状態に気づくはずもない設樂が思い出したように聞くので、「何でもない」と答えた。自分も同じく不安を抱えていたと言うつもりだったが、そのまま誤解させておくことにする。弱みをわざわざ見せる必要はなく、また性にも合わなかった。どこまでもツンデレな淳明だが、相変わらず本人に自覚はない。
砂を踏む音が止まる。設樂が立ち止まり、繋いだ手が外れた。彼の両手は淳明の頬を包んだ。
「ちゃんと言うてくれへんかったら、また俺、焦ってしまうんやけど?」
設樂の手に温もりが戻っていた。頬の熱さが移ったのではと思うほどに、実は淳明は赤面している。暗さでわからずとも、手を通して設樂は感じているだろう。
「何でもないて言うてるやろ」
「ほな、許してくれる?」
甘い声が淳明の耳をくすぐった。不安定な砂地も手伝って、淳明は腰が崩れそうになる。陶然とする感覚を必死に抑えた。夜で人気がないとは言え、外なのである。今の体勢が人目に触れれば、怪しいことこの上ない。
「『とことん気持ちよう』してくれたら許す」
消えたわだかまりの後にこみ上げてきた愛しさは、色を含み始めていた。早く設樂の腕の中で安心したかった。
「縛ってええん?」
「痛いのはちょっと勘弁」
「わかりました。あくまでも気持ち良さ最優先で」
設樂はそう言うと、淳明の唇に口づけた。
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