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ハルとAI(第四話 なじかは知らねど)   





 ハルは海が好きだ。
 ダイバーと言う職業に就いているのだから嫌いであろうはずもないが、彼はオフであっても必ず、一日一度は海に入った――時間が取れる時はクルーザーで沖まで出かけて行き、そうでない時や天候の悪い時は、自宅敷地足下から続く入り江の海に入った。
 自宅には彼が育った故郷の写真が飾られている。そのどれにも海が映り込んでいた。ハルは幼い頃より海に親しんだ生活を送っていたらしく、古いアルバムからもそれが推察出来る。少年期には友人と思しき子供達と海が、ダイバーになってからは仕事仲間達と海が、ほとんどのページを占めていた。
 それらを見る限り、なるべくしてダイバーになったと言えるだろう。だからこそ、『眠り続けた』為に無駄にした海での時間を、今、取り戻そうとしているのかも知れない。
 二人で海岸を歩いて帰った初対面の日以来、私はハルと海に出かけたことがなかった。
 同居しているにすぎない私が、当然ながら彼の仕事に同行することはない。オフの日は、いつの間にか彼は出かけていた。私は海の匂いで、彼が戻ったことを知ると言う具合だ。
 今日のオフも、午後からハルの姿は見えなかった。
 与えられた仕事の一つである観葉植物の水遣りを終えて、私がリビングに戻った時、ダイニング・カウンターの上には「海岸に出かけてくる」との書置き。
 私はまた、置いてけぼりをくらったらしい。
 



 入り江を西へ十五分進むと、海浜公園の砂浜に繋がっている。ハルの言う「海岸」とは、この砂浜のことだ。
 私は単独で出歩くことがまずない。オリジナルである久島永一朗は死して尚、有名人であった。メタリアル・ネットワーク・システムを構築した科学者として教科書に載っているし、人工島の完成に尽力した一人だったからだ。正式に死亡が公表されてまだ一年と少し。巷には久島永一朗著作の学術書や、彼の伝記、研究成果に関する検証等がメディア・ミックスされ、生前よりもむしろ露出度は高かった。ゆえに、義体とは言え『本人』が気軽に出歩くことは、今の段階では避けた方が望ましい。ハルは評議会及び電理研の暗黙の意向を組んで、強いて私を連れ出さなかった。実際、外出しなくとも、私自身には何ら支障はない。生活上――主にハルの――必要なものはメタルで注文出来た。そして私、AIに物欲は存在しない。
 入り江の遊歩道を海浜公園まで歩いていると、すれ違う成人は必ずと言っていいほど振り返る。それらは「おや?」と言う程度の反応だ。久島永一朗の人格が備わっているからこそ彼なのであって、ただAIが内蔵され動いているだけでは、おのずと顔つきも違ってくる。それに人間の時間の流れは速い。次々に更新される記憶に、久島永一朗の死など、とっくに上書きされているだろう。
 薄情なのではなく、人間はそうして生活する生き物なのだと、私は理解している。だからハルがなぜ、未だに久島永一朗を過去の人間として処理出来ないのかわからなかった。
 入り江沿いの遊歩道が切れると視界が開けた。遊泳禁止エリアなので海水浴客の姿こそなかったが、散歩やジョギング等を楽しむ人々は見られた。その中にはハルもいた。
 ハルは黒い大型犬をフリスビーで遊ばせていた。すぐ近くに犬の飼い主らしき老夫婦が、流木に腰を下ろしてその様子を見ている。遊びたい盛りの犬の相手となるには、彼らは明らかに役不足だと思われた。
 犬は投げられたフリスビーをキャッチすると、すぐにはハルの元に返さず、追いかけてくれといわんばかりに走り回った。ハルはそれに付き合って、波打ち際を走る。跳ね上げる水しぶきで、すでに全身ずぶ濡れだ。本人は頓着していないに違いない。
 ハルが何度目かに投げたフリスビーは、私のいる付近に飛んだ。
「久島」
 彼は私に気が付き、近づいて来た。
「どうした? 仕事の連絡か何か入ったのか?」
「散歩だ」
「散歩? 君が? ああ、ちょっと待っててくれ。こいつを返してくる」
 足元にまとわりつく犬の頭を一撫でし、ハルは老夫婦の元へ走った。遊びの続きを期待して犬はその後を追いかける。しかし『彼』を待っていたのはリードだった。老夫婦はハルから犬を受け取ると、彼と、そして私の方向にも頭を下げ、帰って行った。
「彼らとは知り合いなのか?」
「いや、今日初めて会ったんだ。テリー……あの犬だけど、遊びたがっていたから」
 ハルはそう言うとTシャツを脱ぎ、それで汗を拭いた。
 天気予報では快晴。気温二十七℃、南南西より風速三メートルの風。午後の陽に、ハルの拭いきれない汗が光っている。私はしばし、その光る汗を見ていた。旧式機械型の久島永一朗の義体にも発汗機能は付随していたが、それはあくまでも、より生身に見せるためのお座成りなものだ。特に私は一日のほとんどを屋内で過ごしていたから、汗をかかないに等しい。汗が光るものだと、今日、初めて知った。
「一人で外に出るなんて、珍しいね?」
 私は、自分と言う存在――正しくは死んだはずの久島永一朗が姿を見せること――が、他の人間に及ぼすであろう影響を理解している。
「すまない」
 ハルが私を置いて出かけるのは、そんな事情が絡んでのことだとも知っている。
「何を謝るんだ?」
「許可無く出歩いた」
 私の答えにハルが、「謝る必要はないさ」と笑った。
 それからしばらく私達は、海岸を歩いた。初めて出会った時のように。あれから半年近くが経とうとしていた。
 ハルは素足を波打ち際に浸しながら歩く。そうしながらポツリポツリと、海での思い出を話し始めた。親の都合で生まれた場所から海のある町に移った時のこと、そこで過ごした少年時代。友達のイルカ。ダイバーになったきっかけ――彼と私の会話では珍しいプライベートな思い出を語る。
 耳障りでない声のトーンが心地よかった。途切れることなく続く会話に、なぜだか私の口元の筋肉は反応し少し弛緩を感じる。
 時折、向けられる笑顔は、自宅敷地内で見るものと違って明朗で、それもまた私の頬の筋肉に微細に作用した。
 外はハルの印象を変えるかのようだ。声の張りも、表情も、こちらの方が数倍好ましい。
「あの時のあいつの顔、久島、君にも見せたかっ……」
 しかしそれらの表情は突然に消えた。直前に呼びかけた「久島」と言う名前は、明らかに私へのものではなかった。
 ハルは一瞬、立ち止まって口元を握りこぶしで押さえる。
「ハル? どうかしたのか?」
「ああ、ごめん。何でもない」
 そう言って歩き始めたハルの横顔は、もういつもの彼のものだった。青年らしい大らかさに変わって、静かで穏やかな笑みが浮かぶ。同時にあれほど饒舌だったハルは黙ってしまった。
 いったい、どうしたというのだろう?
 ハルが喋りたくないのなら、それでも私は構わない。普段の彼は口数の多いほうではなかったし、会話が途切れることもしばしばだったから、これくらいの沈黙には慣れている。ただ、さきほどまでの彼との会話を、もう少し続けたいとも思った。
「ハルは本当に海が好きなんだな、毎日、海へ出るくらいに」
 私から話しかければ、またあの笑顔を見せるだろうか?
 ハルは一度、私の方を見やり、それから沖へと視線を移した。
「……海に来れば、いつでも会える」
「誰に?」
「一番、大切な人に。彼は海になったから」
 私はすぐには言葉を継げなかった。ハルの言った意味が、正しく理解出来なかったからだ。
「君にはまだ難しいかな。彼も、理解出来ない時にはこうやって、少し眉根を寄せた」
 ハルは私の眉間にそっと触れた。
「同じ義体だと、やっぱり似るものなのかな……。 君は時々、彼とそっくりな仕草を見せる」
 そう言うとハルは口を噤み、会話は途切れてしまった。彼は黙って踵を返し、ゆっくりと、来た道を戻り始める。それは帰宅を意味した。私の思惑は外れた。それから自宅に帰りつくまでハルは一言も話さず、当然ながらあの笑みも見ることは出来なかった。




 ハルはそれからも毎日、海に出かける。
「一緒に行くかい?」
 以前と変わったことは、私に声をかけてから出かけるようになったことだ。
「いや、観葉植物に水を与えなければならない」
 一緒に行ってはいけない気がした。それが『なぜ』なのか、私にはわからなかった。その後ろ姿を見送る時の、奇妙な、言い表せない『何か』もまた、わからなかった。
 私は自律成長型AI。事柄を日々学習していくようにプログラミングされている。そのわからない『なぜ』と『何か』は、誰から――何から学べば答えを得られるのだろうか。
 人間で言うところの『寂しさ』に似た感情表現に近いものだと解析出来る。しかし本来、AIである私に感情は存在しない。
 そうして私は今日もまた、その擬似感情を解決できないままに、ハルの後ろ姿を見送るのだった。




 
 


                                         
2008年作


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