私はAI−Basic2061XYZ、二〇六一年度製のAIだ。XYZの型番は、その年度最後に製造されたことを表す。
量産型アンドロイドにではなく、久島永一朗と言う科学者のオリジナル義体に埋め込まれた。彼は一年三ヶ月前に死亡扱いとなり、脳殻に蓄積された知識はデータ・ベース化され、電理研の管理下に置かれた。しかし旧式の機械型義体は使い道がなく、唯一の肉親である姉の死亡を期に処分が検討された結果、友人である波留真理に引き取られることになった。
電理研メディカル・センターで起動後、メンテナンスを経て引き渡されるまでの間、私は『2061XYZ』もしくは『KUSHIMA−AI』と呼ばれていた。それが最初に呼ばれた名前らしい名前である。
波留真理のもとに来て三ヶ月。私は様々な名前で呼ばれるようになっていた。
「遅れちゃったぁ。こんにちは、久島さん。波留さん、もう海に下りちゃいました?」
蒼井ミナモは人工島の普通科高校に通いながら、介護士育成の外部プログラムも履修している女子学生だ。水泳が苦手だとかで、放課後に予定のない木曜日に、ハルから手ほどきを受けている。人命救助泳法を視野に入れたメニューなので、トレーニングはプールではなく、オフィス兼自宅敷地内にある入り江で行われていた。
彼女は私のことを「久島さん」と呼ぶ。『さん』付けの呼称は一般的であり、彼女のような年少者が年長者を呼びかける際には、ほとんどがこれを使用する。
「賑やかだと思ったら、やっぱりおまえか。いつも五分前行動しろと言っているだろう?」
その兄の蒼井ソウタ。久島永一朗の腹心の部下だった電理研インターンである。一年三ヶ月前の久島失踪の際には、電理研統括部長を代理で務めたが、実父が暫定部長の座を引き継いで、彼はもとのインターンに戻った。ハルが老いた状態の時、オフィス・スタッフを兼任していたことがあり、その縁が未だに続いて、時折、ここを訪れる。
「先生も、うるさい時には遠慮なく、叱ってやってくださいよ」
彼の私に対する呼称は「先生」。久島から指導を受け、学んでいたことに起因する。オリジナルが消失された今もその癖が抜けず、AIの私に対して引き続きそれを使用した。
ハルのオフィスには、私同様AIを内蔵されたアンドロイド・ホロンが常駐している。彼女は当初、介助用として配属されたのだが、ハルが元の身体を取り戻し、介助が不要となった後は電理研所属となった。昼間は彼の秘書、夜間は電理研のスタッフとして従事している。
ホロンは私を「久島様」と呼んだ。同じAI内蔵型であり、他の人間と違って久島永一朗と情においての接点はないにも関わらず。
そのことを彼女に尋ねると、
「あなたは同じAIでも私とは違います」
と答えた。その言葉の意味を更に聞いたが、ホロンは答えなかった。
これらの呼称以外にも、久島永一朗が呼ばれていたであろう名前が使われる。と言っても、私はハルのオフィス兼自宅からほとんど出たことがないので、他の人間との接触は極めて稀だった。それでもかつての知人達は、会えば最初は戸惑いがちに、それから親しみを込めて好きな名前で呼んだ。データを見る限り、冷たい印象を受けなくも無い久島永一朗が慕われていることは、少なからず意外だった。
しかし一人だけ、未だに私を決まった名前で呼ばない人間がいる。
ハル=波留真理である。
「久……、急きょ、珊瑚礁の生育調査に出かけることになったから、四、五日留守にするよ」
「わかった。スケジュールの調整は?」
「それはホロンがやってくれる。君は確か、明後日がメンテナンスの日じゃなかったっけ?」
「心配ない。一人でも行ける」
「車は頼んでおいた。ホロン、彼のことをよろしく」
ハルは決して私を名前では呼ばない。時々、呼称が出そうになるが、いつも言葉を飲み込んだ。人前に限らず、二人の時であっても、である。どうしても呼びかけないとならない場合は、「AI」と呼んだ。実にぎこちなく。久島永一朗が存在した時は、彼なりの呼び方があっただろうに。
初めてハルと対面した日、「ハル」と尊称を付けず呼ぶようにと指示された。久島永一朗がそう呼んだと思われる。同じ日、自宅に戻った時、ハルは呟いた。「何て呼ぼう」と。
私にではなく、自分自身への問いかけのように聞こえた。結局、ハルは私を何とも呼ばないでいる。いや、一度だけ、不意なことで名前を呼んだ。
「久島!?」
リビングで手を滑らせ、ティーカップを落としたことがあった。散乱した欠片を拾おうとして体が観葉植物の枝に触れ、鉢が倒れた。大きな音がオフィスにまで響き、ハルが慌てて飛び込んで来て、私の名を呼んだのだ――正確には久島永一朗の名を。
彼が「久島」と呼んでいたことはわかったが、今のところ、その一回だけだ。
私は名前の件を、彼に質問した。
「君は私のことを名前で呼ばないんだな? 久島永一朗のことは、『久島』と呼んでいたのだろう?」
彼は一瞬、私を凝視した。それから、
「君は久島じゃない」
と伏せ目がちに笑った。
「たとえオリジナルの義体でも、俺の知っている久島永一朗じゃないから。だから呼ばないんだ」
久島永一朗でないことを承知で、皆は以前の呼称を使っている。ハルはそれを好しとせず、名を呼ばないと言う。そのこだわりはなんだろう?
「なぜ、そんなことを聞くんだい?」
「君が私を呼びにくそうに呼ぶからだ。『久島』と呼ぼうとして飲み込む様子が、不自然で気持ちが悪い」
「気持ちが悪い?」
「目の前でドアを閉められた気分に似ている」
ハルは不思議そうに私を見つめた。AIには本来、感情らしいものはない。それは私も然りだが、人間の感情を分析してデータ化し、格納することが可能だった。そうして感情として記憶したそれは、TPOに応じて出力することが出来るようにプログラミングされている。これはBasic2061XYZにのみに内蔵の特別なプログラムだった。AI−Basic2061XYZは私ただ一体であり、特別プログラムは実験段階のため極秘事項とされていた。ハルが知らないのも無理は無い。
あくまでも『感情』と言うデータでしかなく、適切な表現として使用するためには、行く度かの学習が必要であった。
「言葉の使い方がおかしかっただろうか?」
使い方が正しいかどうか、受け取り手の意見をリサーチしなければわからない。
「いや、おかしくないよ。思いもかけなかった言葉だから、驚いただけだ」
私は何と呼ばれようと構わない。型番のままでも、新しい名前でも。ただ呼び慣れない名を口にして、複雑な表情をするハルを見ることは気持ちが悪い。出来れば、彼が納得する、呼びやすいもので呼べばいいと思うのに、その二つは必ずしもイコールではないようだ――人間は難しい。
「君は、名前で呼ばれる方がいいのか?」
とハルが聞くので、
「ハルがいいなら、多少の気持ち悪さは善処する」
と私は答えた。
「……まいったな」
彼は私から目を逸らすと、ようやく聞き取れる声で呟いた。
ハルが私を「久島」と呼ぶのに、更に一ヶ月近くを要した。それ以後もしばらく、よほどの場合でないかぎり、その名を口にしなかった。
私は『久島』と言う名に感慨はなかったのだが、それでもハルにその名で呼ばれる時には、他の人間では得られない感覚が起こった。気持ちの悪さは解消され、目の奥に光を見るような。
私は彼にその名で呼ばれたかったのだと、結論せざるを得なかった。
2008年作
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