その花の名は『思ひ出』   〜The frower's name is “Memories”〜 





 ワシントンのポトマック河畔には、桜並木が続く。毎年、春になると見事に花をつけ、人々の目を楽しませた。三月の終わり頃から始まる『桜祭り』が、花の美しさを愛でる心を更に盛り上げる。
 そんな賑やかな場所から少し離れたところで、老いた一人の日本人が桜を見ていた。白く連なる花の帯は、遠目にも美しかった。


『私ノ生マレタ処ニモ、コノ花ガアリマス。川ノ辺二沿ウヨウ二。マダ君ノヨウ二小サイケレド、美シイ花ヲツケマス。何時カキット、コンナニ見事ナ木ニナルデショウ』


 耳に懐かしい声が響く。もう六十年以上も前に聞いた声だ。
「ああ、本当に見事な桜だよ、ボブ」
 老人は手を伸ばし、視界の中の桜に触れた。






 ロバートは日本の仏像のことを勉強するために、はるばるアメリカからやってきた学生だった。あちこちの寺院・仏閣を巡っては菩薩像や如来像を、日々、絵に描きとめていた。どこからかの伝で、この村の大地主の離れに滞在して一月(ひとつき)になる。
 彼は日本語が堪能で、村人にも気さくに声をかけた。しかし何しろ鄙びた田舎のこと、金髪に青い瞳の外国人は珍しく、日本語での「おはよう」の一言が違って聞こえるくらい、誰もが一様に腰を引く。
 さて正一は小作農の祖父母と暮らす八つの子供であった。母親は彼を産んで間もなく、産後の肥立ちが悪くて死んだ。父親はどこの誰かは知れない。奉公先から身ごもって戻り、相手のことはとうとう話さなかった。そんな生い立ちだから、『父無し子』と蔑まれ、友達のいない寂しい日々を送っていた。
「オヤ、君ハ、何時モ独りダネ?」
 仲間に入れず、祠の裏から子供たちを遠目にするばかりの正一に、ロバートが話しかけた。大人ですら畏怖する外国人である。正一が言葉を飲み込んだのは無理からぬことだった。
 怯えて後退る正一に、彼は困ったような笑みを浮かべた。
「私、恐クナイヨ。君ト仲良クナリタインダ。私モ独りボッチダカラ」
 端からわからないと思っていた彼の言葉は、実は自分が話すそれと同じだとわかり、正一は少し肩の力を抜いた。ロバートは距離をとって腰を下ろす。
「私ハ、ろばーと。ドウカ、ぼぶト呼ンデ下サイ。君ノ名ハ、何ト言イマスカ?」
 正一は無論、すぐには答えられない。瞬きすることを忘れるくらい彼を凝視していた。ロバートはにこにこと笑って、「名前ハ?」と再度尋ねる。彼の声音と笑みは大層に優しく、他の人間が正一に向けるそれとは違った。
「しょ、正一」
 やっとのことで答えるとロバートは嬉しそうに、「ショーイチ」と繰り返した。それから何かと話かけてくるが、正一は名前を言ったきりで、陽が暮れ始めて彼が帰るまで、一言も口をきかなかった。
 それが正一とロバートとの出会いである。以来、ロバートは祠の裏にやってくるようになった。他所に仏像を見に行く時以外は毎日。正一がそこにいることを知ってのことで、来る時は必ず菓子を持参した。
 最初のうちは口もきけなかった正一だが、ロバートが心を砕き、帳面に珍しい外国の風景など描いて見せるにつれ、少しずつ打ち解けていった。半月も過ぎる頃には傍らで、彼の描く絵を見るようになっていた。
 目の青さが不思議だった。同じ人間なのにどうして青いのだろうかと正一は、どうかするとその目を覗き込み、彼と視線がぶつかることもしばしばであった。
「ソンナニ、コノ目ガ面白イ?」
「目の中に空がある」
「君ハ、ナカナカノ詩人ダネ」
 日本のことを教えてほしいと言われたが、子供の正一なんかより、よほどロバートの方が物知りだ。その上話し上手で、彼の生まれた外国の話は、とても面白かった。聞き慣れない外国語の歌は陽気で、気持ちが明るくなる。
 初めて出来た友達に、正一はいつの間にか夢中になっていた。彼が仏像を見に出かけて留守の日を寂しく思うほどに。たいてい日帰りで出歩くロバートだが、時折、二、三日帰らないことがあった。そんな時は戻る時分を見計らって、正一は村の外れの峠の辺まで様子を見に行ったりもした。
 ある日、正一は仏像ばかり描いているのかと思っていたロバートの帳面――スケッチ・ブックと言うらしい――に、軍艦の絵が入っているのを見つけた。
「仏さんばかりやないの?」
「アア、コレハ…」
 ロバートはそのページを切り離すと折りたたみ、ズボンのポケットにしまった。
「『仏サン』バカリジャ無インダヨ。元々私ハ絵描キナノデ、美シイ物ハ何デモ、描キ留メテオキタイノサ。デモネ、」
とロバートは正一の頭を撫でて、優しい声で続けた。
「コノ船ノ絵ノ事ハ、誰ニモ言ワナイデ。二人ダケノ秘密ダヨ」
 二人だけの秘密…とは、何と甘美な言葉だろう。正一が嬉しそうに「うん」と答えると、ロバートは微笑んだ。




 ロバートが村に来て半年近く経つ頃には、村人も彼の存在に慣れ、物怖じしなくなっていた。特に子供は、同じ子供の正一が彼の傍らにいる安心感に好奇心も手伝って、次第にロバートの周りに群がるようになった。ロバートも生来の子供好きなのか、正一に対するのと変わらぬ態度で彼らと接した。
 それが正一には辛い。村の子供たちは、以前と変わらず正一を仲間はずれにする。彼らがロバートに懐けば懐くほど正一を邪魔にし、遠ざけようとするのがわかった。
 正一は独りで過ごすことが多くなる。気づいたロバートが「皆ンナ、仲良クネ」と嗜めたり、正一との時間を作ろうとしてくれるのだが、それがまた他の子供には面白くない。
「ぼぶさんはお庄屋さんとこのだいじなお客なんやさかい、おまえみたいな父無し子が、口きいたらあかん」
――なんでそないなこと言われなあかんのや。ぼぶはわしの友達やのに。みんなぁ、恐がっとったくせに。
 最初は我慢していた正一も、初めて出来た友達を取られるかも知れないと焦る気持ちから、「自分は彼にとって特別だ」と知らしめたくなり、あの秘密を口走ってしまった。
 秘密は、言ってしまっては秘密でなくなる。一枚の船の絵のことなど、本当なら取るに足らないことで、実際、子供達には大したことではなかった。大したことではないから、大人に喋る。
「ぼぶさんは、軍艦も上手に描きはるんやて」
 鄙に住む大人にも、大したことではなかった。『時勢』はまだ、こんな田舎にまでは迫っていなかったからだ。だから軍艦をスケッチしていたことなど、ただ船の絵として描いているに過ぎないと思っていた。
 しかし、「大したこと」と捉える人間はいる。旅先から戻るロバートを、必ずと言っていいほど村の入り口まで数人の男がつけてくるようになった。つかず離れず、ロバートが村に入ってしまえば、彼らの姿はいずこともなく消え失せる。そして彼が村から出ると、またその後をついて行くのだった。
 正一はしばらくロバートと会えずにいた。彼の学生としての本業が忙しくなったことが原因だが、正一は二人だけの秘密を喋ってしまったことで、彼が怒ったのではないかと思った。謝ろうにも、会えなければそれも出来ない。喋ってしまったことを、正一は心底後悔した。
 そんなある夜。雨戸に何かコツコツと当たる音で、正一は目が覚めた。昼間の農作業の疲れと、幾分遠くなった耳のために、祖父母はピクリとも動かない。
 音は規則的に続く。正一は雨戸を少し開けてみた。
「ぼぶ」
 表にはロバートの姿があった。彼は正一に向かって手招きしている。正一は祖父母を起こさないよう、自分が出られるくらいに雨戸を開け、外へと抜け出した。
「ショーイチ、御花見ニ行キマショウ」
「ぼぶ」
「ドウシマシタ? 私ノ顔、忘レマシタカ?」
 正一は思わず彼に抱きついた。そして、秘密を喋ってしまったことを泣きながら侘びた。言葉よりも嗚咽の方が勝る。それでも謝らずにおれなかった。
 ロバートはひょいと正一を抱き上げる。
「サア、モウ泣カナイデ。怒ッテイマセンカラ。御花見二行キマショウ。桜、キレイデスヨ」
 そう言うと正一を抱き上げたまま、彼は歩き出した。
 二人が初めて言葉を交わした祠の近くには、桜の大木があった。村に一本の染井吉野は夜目にも白い。望月の皓々とした光に照らされて美しかった。
 時折の風に、はらりはらりと花びらが落ちた。
「散ル姿ガ美シイナンテ、珍シイ花ダ」
と、ロバートは目を細めて桜を見る。
 今が満開。枝は花の重みで垂れ下がり、背の高い彼に「触ってごらん」と言わんばかりだった。
 ロバートは正一を下ろし、花の誘いに応えるかのように手を伸ばした。その先端に触れたかと思うと、細い一房を手折る。
「あ」
 正一が小さく声を上げた。彼は笑って人差し指を口元にあて、片方の目をを瞑って見せると手折った一房を正一に手渡した。
「コノ花ハ、君達、日本人二似テイルネ。潔ク、美シイ。ダカラコソ、手折リタクナル」
「ぼぶ?」
 ロバートは、正一の手にあるその一房を見つめた。
「私ノ生マレタ処ニモ、コノ花ガアリマス。川ノ辺二沿ウヨウ二。ソレハ、ズット前二、日本カラ贈ラレタノデス、友達ノ証トシテ。マダ君ノヨウ二小サイケレド、美シイ花ヲツケマス。何時カキット、コンナニ見事ナ木ニナルデショウ」
 目を大木に転じる。
「ショーイチ、コノ花ノ美シサヲ忘レナイデ。ソシテ、コノ花ト同ジ花ガ、私ノ国二アルコトモ。ソレハ友達ノ証トシテ在ルノダト言ウコトヲ。私ハ日本ガ大好キデス。本当ニ、本当ニ大好キデス」
 彼はようやく涙が乾いた正一の頬を撫でると、唇を寄せた。正一は温かな感触を頬に感じた。
 それから二人でしばらく花を見ていた――はずだが、目が覚めると正一は布団の中にいた。祖母が朝の支度をする音。間違いなく自分の家だった。
 二人で見た夜桜は夢だったのかと身を起こすと、胸元からハラハラと花びらが落ちた。
 あの一房だった。


 ロバートの姿が村から消えた。いつもの二、三日で戻る旅だと誰もが思ったが、七日経ってもひと月経っても戻らなかった。
 彼を庄屋に紹介した何某が、官憲に捕まったとかどうとか風の噂で流れて来たが、庄屋にも村にも害は及ばず、真偽のほどはわからない。
 昭和十六年十二月、日本はアメリカに宣戦布告する。正一がロバートと別れた年のことであった。





 
 幼かった正一は老人になった。人生の終わり近くになってやっと、ロバートの生まれた国を訪れ、彼が語った川沿いの桜並木を見ている。
 突然姿を消したロバートのことは、すぐに忘れ去られた。戦争の波が、その存在を呑み込んでしまったのだ。アメリカ人は敵国人であり、ロバートを慕った子供たちも、彼との時間などなかったかのように、愛国主義に染められていった。
 しかし正一はロバートを忘れなかった。初めての友達であり、孤独を癒し、楽しい時間をくれた。同胞人の誰よりも公平で優しかった。敵国人だからと言って、無条件に全てを否定し、憎むことは出来ない。憎むとしたら、正一に何も言わず姿を消してしまったことについてだけだった。
 勝つにしろ負けるにしろ、いずれ戦争は終わる。いつか、ロバートに会いに行こう。そして彼が話してくれた『友情の桜』を、あの夜と同じように二人で見よう。きっと、そうしよう――幼い正一はそう心に決めた。
 その誓いが果たされるのに、六十年以上の月日を要した。
――やっと来られたよ。あんたもどこかで、この桜を見ているんだろうか?
 ロバートの消息はついに知れなかった。生きているとしたらかなりの高齢だ。正一も年齢からして、今回が最初で最後のつもりで渡米した。もう生きて、彼と見(まみ)えることはないだろう。
 正一は目を閉じた。あの夜に二人で見た、白い花が見える。手折られた一房の、微かな匂いが甦る。春が来るたび、桜を見るたびに反芻した情景。
 

『ショーイチ、コノ花ノ美シサヲ忘レナイデ』


「忘れたことはなかったよ」
 花の名は『思い出』と言う。

               

  

  (2009.02.22 改訂)
※この話は、二〇〇八年四月五日に開催された『お題バトル』参加作品です。
テーマは『花』  
お題の「爺・婆(もしくは老人」「見る」「夢」「散る」「舞台」より、三つ以上使用すること。
制限時間は二時間半、もしくは十二時間、と言うルールです。

とりあえず四時間ほどで書き上げ、後日、改稿してUPに至りました。
(二〇〇九年二月に改訂)
 
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