(眠りの海で青い魚は恋をする)
残照で空全体が淡い橙色に染まっている。窓から見える街並みが暮れ泥んで、ぼんやりしたシルエットを見せていた。時差の関係からか、和輝はついうとうととしてしまったらしい。居心地の悪い居間のソファでも、睡魔には勝てないものなのだなと和輝は感心した。 腕時計を見た。 「あと三十分ほどで帰る」 そう隆典から連絡が入って、すでに一時間近く経っている。日本やニューヨークではラッシュ・アワーの時間帯だが、バンクーバーはどうなのだろう。まさか何かあったのではないかと言う考えが和輝の頭を過ぎった時、鍵が開く音がした。セキュリティのしっかりしたコンドミニアムのドアを開錠出来るのは住人だけだ。帰ってきたと思って和輝は腰を浮かせたが、ドアの開く音が続かない。かわりに「ドン」と言う鈍い音がした。 和輝は玄関に向おうとして足を止める。それからまず、玄関ドアに取り付けられた小型防犯カメラのモニター画面を見た。男が二人、映っている。一人は隆典、もう一人はサングラスはなかったがあの金髪の男だ。 和輝は息を呑む。二人はキスをしていた。と言っても、それは金髪の男が一方的に仕掛けている様子で、ドアを背にした隆典は動きを封じられている。さきほどの鈍い音は、隆典の背中がたてたものだったのだ。 カメラはドアの斜め上隅から二人の姿を捉えている。隆典の表情は死角になって見えなかったが、男に掴まれ、ドアに縫いとめられた両手の指は、耐えるように握りこまれていた。 男の視線が斜め上を向いた。和輝と目が合う。 ――こっちを見てる? 男はあきらかに和輝が見ていることを知っている。見ていることを意識して、視線を寄越しているのだ。赤外線カメラのため、目が光って見えた。それがまるで野生動物を思わせ、男の得体の知れなさを増幅している。 和輝はあわてて玄関ドアに向った。 ノブに手をかけるより先、ドアが開いて隆典が入ってきた。険しい顔をしている。手の甲で唇を拭う仕草をしたところで和輝を見た。 「おかえり」 隆典は険しさを消し、笑みを浮かべて「ただいま」と返した。 和輝の目は自然、彼の唇に行く。手の甲でこすれたせいか、それともあの金髪の男の唇のせいか、ほんのりと赤みを帯び、普段にない『表情』を見せて和輝を微妙に刺激した。 「遅くなってすまなかったな。晩飯、食べに行こうか」 隆典は足を引きずり気味だ。普段はそれほど目立たないが、隆典の左足には障害がある。カナダに移住する前に事故で負ったケガの後遺症だった。ソファに腰を下ろす際、片頬を少し歪ませる。痛むのかも知れない。 和輝は水を注いだコップを渡した。 「少し休んだら? 疲れているみたいだ」 「大丈夫だよ。腹、減っただろう?」 和輝は日本を出てから機内食しか口にしていない。空腹感はあったが、隆典が少し休むくらいの間は我慢が出来る。和輝が「でも」と言いかけると、隆典は「子供が気を遣うな」と遮った。 子供――確かに、子供には違いない。ずっと隆典の『子供』として生きてきた。血の繋がりがなくても、戸籍がそれを証明する。和輝は彼を父と呼び、彼の子供として甘えるしかなかった。 隆典は気づいていないだろう。今回、和輝が一度も「お父さん」と呼ばないことに。二十二年もの間、親子以外の何ものでもなかったのだから、それも仕方のないことだ。 ――でも、あの男は気づいてる。 あの金髪の男は、父親に対してではない隆典への和輝の想いを見抜いている。出かける時には視界を遮るように背中で隆典を隠し、帰宅時には和輝がカメラで外を確認することを見越してわざと物音を立て、キスを見せつけた。 ――まるで威嚇だ カメラ越しの男の目を思い出す。あの男もまた、隆典にただならぬ感情を抱いている。だからこそ、和輝の気持ちに気づいたのに違いない。 和輝は焦燥を感じた。言い知れぬ熱が、身体の奥底から湧き上がり、心臓の鼓動が早くなる。 「とにかく何か食いに行こう。昼抜きだったから、俺も腹が空いたよ」 隆典はそう言って立ち上がり、左足を一歩踏み出した。途端、ガクンと彼の身体が沈んだかと思うと、前にのめる。和輝は慌てて背後から彼の脇に腕を差し入れた。倒れこむ寸前で、隆典の身体は止まった。 「ありがとう。時々、言うことを聞かなくなるんだ、この膝は」 隆典はそう言って身体を起こしたが、和輝は腕を外さなかった。 想いは一生、胸の奥に仕舞い込んでおくつもりだった。告げてしまえば六年どころか、二度と隆典は会ってくれないだろう。 「和輝?」 防犯カメラで見たキス・シーンにあてられている。フラッシュ・バックして、和輝の理性は吹っ飛んだ。 少し首を回した隆典のその頬に、和輝は自分の頬を重ねた。片方の腕を深く回して対角線上の彼の肩頭を掴むと、強く抱きこむ。口角と口角が触れ合って、語調を強めた「和輝!」と言う言葉に付随した息が、直に感じられる。 身をよじり、隆典の抵抗が大きくなった。体格的に差もなく、親子の年齢と言っても男盛りの域を出ない隆典が渾身の力を出したなら、和輝の腕はほどなく外されてしまうだろう。 「セオ」 和輝は耳元で囁いた。時見享一の声で、時見享一の呼び方で。 隆典の動きが止まる。 「瀬尾」 腕の力を緩め、和輝は彼を自分の方に身体ごと向かせた。彼の瞳は、見開かれた目の中で凍ったように動かない。 彼を引き寄せ抱きしめた。 「な…に、」 辛うじて言葉になろうとする声を、和輝は唇で吸い取る。 不意を突かれた隆典は最初こそ動きを止めていたが、すぐにまた抵抗の意思を見せた。和輝は逃すまいと唇を強く押し付ける。刹那、二人の舌先が触れ、和輝は一層腕に力を入れて抱きしめた。負荷に弱い左足に重心がかかったのか、隆典の塞がれた唇から小さく声が漏れた。その声に和輝が怯み腕の力が弱まると、隆典の身体が崩折れる。唇は離れ、和輝は隆典ともども、フローリングの上に倒れこんだ。 眼下の隆典が和輝を見ている。和輝の胸は熱くなる。そのまま彼の首筋に顔を埋めようとして、その『跡』を見つけた。耳の後ろの柔らかな部分に赤く小さな楕円の痣。隆典のものとは違うコロンの残り香。ドアの前でのキスの際に付けられたものか、それとも帰りが遅くなったことに関係しているのか――和輝は思わず、彼の耳朶を食んだ。 「好きなんだ。どうしようもないくらい」 その耳に囁きかける。抑えられない。 和輝は再び唇を合わせた。隆典のそれは硬く閉じられ、合わせるだけに過ぎない口づけ。それでも彼の唇に触れていると思うと、和輝の全身が火照る。 隆典の抵抗が止んでいることに気づいて、一度、唇を離した。すると閉じられていた隆典の口が少し開き、 「どきなさい」 と冷静な言葉が出た。 熱情に支配された和輝はそれを無視して、開いたその口に三度(みたび)、唇を寄せた。 「どけ!」 隆典の一喝が耳に響き、和輝の向う脛に痛みが走る。隆典の足が和輝を蹴ったのだ。強くではなかったが、和輝を我に返すには充分な刺激だった。 和輝は隆典から身体を離した。それから助け起こそうと隆典に手を差し伸べたが、彼はその手を取らなかった。隆典はソファの端を拠り所にして身を起こしもたせ掛けると、乱れて額にかかる前髪をかき上げ、怒りと驚きが綯い交ぜになった複雑な表情を和輝に向ける。 「バカなことを言うな、親子なんだぞ」 想いを告げれば後悔する――そんなことは触れてしまったことで消えていた。もっと想いは強くなり、後悔を凌ぐ。和輝を突き動かした一瞬の熱情は去っていたが、後戻り出来ないことが腹をくくらせた。 「親子だなんて、思ってない。血が繋がっていないことは知ってる。本当の父親が誰なのかも知ってる。だから俺の中であなたは、もうずっと父親なんかじゃなかっ…」 「和輝!」 隆典の声が和輝の言葉に被さった。彼からそんな声を聞くのは、生まれて初めてだった。和輝は今まで隆典に叱られたことも手を上げられたこともない。物心ついてから、常に彼の前ではいい子であろうと努めた。少しでも良く思われたかったし、嫌われたくなかったからだ。隆典の期待を裏切りたくなかったのに、今日でそれら全てを失うことになる。彼の荒げた声は、その結果の一端。後悔がじわりと迫るのを、和輝は想いをぶつけることで振り払う。 「俺の父親は享一さんだ、そうでしょう?! そしてあなたが一番大切に想っているのは、享一さんなんだ。俺を自分の子供として可愛がってくれたわけじゃない。享一さんの子供だから、だから!」 「そんなこと、考えたことはない。それにもうキョウのことは何とも思っていないぞ」 「こんなにそっくりな俺を、一度もそんな目で見たことはないって言えるの?!」 間違えたくせに、六年前のあの夜、俺のことを「キョウ」って呼んだくせに。まだあの開かない部屋をそのままにしているくせに――和輝は高揚する気持ちを抑えることが出来ない。こんなに激しいものが自分の中にあったのかと驚く。 和輝がヒートアップするのとは対照的に、隆典の表情はだんだんと失せていった。驚きから怒りに、怒りから戸惑いに、戸惑いからその後は無に近くなり、和輝がぶつける言い分をただ黙って聞いていた。反応を引き出したかったが、すでに和輝は手の内のカードを全て見せてしまった。 言葉が尽き、和輝は黙り込んだ。興奮は緩やかに引いて行く。代わって重い沈黙が身体を包み始めた。 隆典はソファの背もたれに無造作にかけられた上着に手を伸ばした。引き寄せると内ポケットを探り、携帯電話を取り出して番号を押す。 和輝は虚しさを覚えた。和輝にとって人生が変わるほどの告白だった。それを受けて、どうしてこうも冷静でいられるのだろうかと。隆典が狼狽を見せたのは、「瀬尾」と呼ばれた時だけだった。その一瞬だけ、隆典は和輝に見せたことのない表情を浮かべた。隆典の心を動かすことが出来るのは、昔も今も時見享一だけなのかも知れない。 横顔を向けて電話をかける隆典を見る。あの頬に頬を重ねたのは、つい数分前のことだが、ずい分、昔のように感じた。 「ホテルを用意したから、そこに泊まれ」 ぼんやりとした耳が隆典の声を受け、和輝は我に返った。 「え?」 「親子じゃないと言うなら、ここに泊まる理由はないだろう?」 「そんなっ…」 「『赤の他人』を泊めるほど、俺の心は広くない」 よろよろと隆典は立ち上がった。痛む足を引きずりながら、自室の方に向う。 「好きです…」 その背中に、和輝は呟いた。隆典は振り返らない。 「好きだ!」 口にすると、また想いがこみ上げてくる。何年もかけて和輝が自覚しないうちから育った恋心は、こんなにも発熱していたのだ。 「あいつと同じ顔と声で、あいつが言わない言葉を吐くな!」 しかしその恋心を振り返った隆典は、和輝が一番聞きたくない言葉で再び拒絶した。 享一、享一、享一――隆典の中に何年経っても棲み続ける永遠に手に入らない人。たとえ享一がこの世からいなくなっても、隆典は想い続け、そして和輝を一生、受け入れることはないだろう。享一に瓜二つである和輝がどんなに努力したところで、せいぜい良く出来たレプリカとしか見てもらえない。それならいっそ。 「身代わりでも構わない。同じ顔と声で、キョウちゃんが言わないことを、俺が一生言い続けるから」 和輝は隆典の方に踏み出し、手を伸ばした。 「アレクセイ!」 隆典が後方に向って叫ぶ。和輝が振り返ると、玄関ドア近くからあの金髪の男が現れた。足音も気配もなかった。それより何より、ここはオートロックで、玄関ドアを中から開けるかスペア・キイでもない限り入って来られないはずだ。 「この子を連れて行ってくれ。バラード通りのハイアットだ」 流暢な英語で隆典が言うと、『アレクセイ』と呼ばれた金髪の男が和輝に近づき腕を掴んだ。大きな手は金属アームのように硬い。掴れているのは片方の腕だけなのに振りほどけず、和輝はそのまま無言でドアまで引っ張られて行った。 抵抗らしい抵抗が出来ずにいたのは、その男が力の入れどころを心得ていたこともあったが、隆典が和輝に一瞥もくれなかったから気持ちがくじけてしまったこともある。彼に目を残しながら男に引っ立てられる和輝とは対照的に、彼は背中を向けたままだった。 ドアが開いて、冷たい空気が滑り込み和輝を包む。二度と、ここには来られないかも知れないと思うと、身体だけではなく心も冷えていく。 隆典が和輝の上着と持ってきた小ぶりのトランクを押し出した。 「俺は一度だって、おまえを享一だと思ったことはない。身代わりで良いだなんて、そんな自分の存在を否定するようなことは言うな」 ドアの閉まり際、隆典が言った。和輝は何も言い返せず、二人を隔てるドアをただ見つめることしか出来なかった。 |