(眠りの海で青い魚は恋をする)


                 
 和輝の部屋の家具は末永く使えるようにと、流行に左右されない大人仕様のアンティークが選ばれ、壁紙やカーテン、クッションなどの内装で子供部屋を演出していた。水色の空に白い雲を浮かべた壁紙は、昔、大ヒットした映画の中に出てきた子供部屋に似せたものだ。夜になって灯りを落とすと、天井にうっすら星座が浮かび上がる。森と動物をモチーフにしたパッチワークのベッドカバーは子供っぽく、最後に高校生の男の子が使っていた部屋には見えなかった。
 隆典は子供の成長や好みに応じて、壁紙やベッドカバーを替えるつもりで節目の年齢にカタログを取り寄せたが、和輝がそれを拒んだ。「そんなに傷んでいない」と理由付けしたのだが、この部屋の全ては隆典が一人で和輝の為に選んだものばかりだったから、替えたくなかったのだ。離れていた間、隆典は和輝の意思を尊重したらしく、部屋は六年前のままである。
 壁には落書きをして和輝自身で消した跡が残っている。机の足にはラジコンの四駆をぶつけた疵も。居間のようにリセットされていないことに安堵した。
 空気を入れ替えるために少し開けられていた窓を閉め、ベッドの上に仰向けに寝転がったまま部屋を見回す。多分、この部屋を開けたのは六年ぶりなのだろう。机の上の万年カレンダーは六年前の西暦と月日を示し、和輝が日本に帰る朝、何かメモを取った時に使ったノートと鉛筆がそのままだ。隆典が一度も足を踏み入れていないことがわかった。
 本当なら、和輝は由利とではなく、ここバンクーバーで隆典と生活するはずだった。離婚の際、親権は隆典が取った。親権は母親に渡ることがほとんどなのだが、当時、由利はニューヨークの設計事務所での職に就きながら大学に通う予定になっていたので、子育てに対して余裕がなかった。それに隆典が親権を強く望んだと聞いている。
 ところが、いよいよカナダに向う間際になって事情が変わった。隆典が事故に遭い、左足に後遺症が残るほどの怪我を負ったのだ。そんな身体で、当時まだ五才の子供を抱えて新天地での仕事には無理がある。両親の間でどのような話し合いがなされたかわからないが、和輝はニューヨークの由利の元に引き取られ、親権も彼女に移行した。
 和輝は起き上がって部屋を出た。居間の片隅に設えた緩やかな螺旋を描く階段を上る。二階には二部屋あり、一室はビジター・ルーム、もう一室は『開かずの間』だった。
――やっぱり開かない…か。
 常に施錠されている『開かずの間』は、このコンドミニアムで居間の次に広い部屋である。南向きの大きな窓からは、バンクーバーの街が一望出来るはずだ。「はずだ」と言うのは、和輝はドアのところからしか中を見たことがないからだった。ただ居間のバルコニーから張り出した部屋の一部が見えて、眺望の良さは想像出来た。
 隆典はこのコンドミニアムを、和輝と二人だけで住むために用意したのではない。誰かもう一人、あるいはその人物と住むことを前提に選んで購入したのだ。一番良い部屋は、その人物のためのもの。一度だけ覗いたことがある部屋は、水色と白を基調とした布物に、スチールとガラス製の洗練された北欧系家具が入っていた。
 幼い頃和輝は、その人物が由利なのではないかと思っていた。両親が元の鞘に納まることへの期待もあったが、やがてそれが由利ではないとわかる。『開かずの間』は女性らしさが微塵も感じられない。由利は性差のない仕事についているが少女趣味な面を持っていた。色なら赤系、柄なら花柄、家具は白っぽい木製を好んだ。あの部屋は彼女の好みとは乖離している。
「これからは和輝とパパと『キョウちゃん』といっしょだよ」
「ママは?」
「ママはお仕事があるからバンクーバーには行けないんだ。その代わり、『キョウちゃん』が行ってくれる。和輝は『キョウちゃん』、好きだろう?」
「うん、好きぃ」
 ずっと忘れていた隆典との会話を思い出したのは、高校二年の夏にここを訪れた時だった。
 夜中、喉の渇きで目が覚めた和輝はキッチンに向った。居間では灯りとテレビが点いていて、ソファには隆典が座っていた。
「まだ起きてたの?」
 呼びかけても返事がないので回りこむと、隆典は眠っていた。
「ちゃんとベッドで寝ないと、身体痛くなるよ」
 和輝は彼の肩先を指先で押した。
 薄く目を開けた隆典は微笑みを浮かべ、片方の腕を伸ばすので、和輝はその手を捕ろうとした。隆典の手はそれをかわす。それから和輝の首にかけると引き寄せた。





「…キョウ」
 間近に彼の顔が迫り、和輝は慌てて「お父さん」と呼びかけた。その途端、勢いよく隆典の目が開いた。首に回された腕は外れ、和輝の胸を押しのける。
 隆典は狼狽したように顔を背けたが、向き直った時にはその表情は消えていた。
「こんな時間にどうしたんだ?」
「喉が渇いて目が覚めたんだよ。水を飲もうと思って。そしたらテレビがついていたから」
 ノロノロと隆典が立ち上がった。
「そうか、ありがとう。部屋に行くよ。それは明日片付けるから」
 サイド・テーブルに乗ったブランデーのセットを指差した後、隆典は自室へと向った。
 和輝はキッチンに行くついでに、隆典が使ったグラスやアイスペールを手に持った。
 「キョウ」と確かに言った。それは隆典の友人・時見享一の呼び名だ。そして互いの息がかかるほどに引き寄せられた。和輝が「お父さん」と呼ばなければ、唇は重なっていたかも知れない。
 シンクに置いたグラスの、隆典の口が触れた部分をなぞる。
 忘れていた幼い頃の会話の記憶が蘇った。一緒にくるはずだった人物が誰だったのか、入ることを許されない二階の部屋の『持ち主』が誰なのかが、和輝にはわかってしまった。
――お父さんは、キョウちゃんが好きなんだ…。
 微笑みは優しく、名を呼ぶ声は甘さを含んでいた。隆典の、父親としてではなく一人の男である顔を見せられて、和輝の胸は昂った。同時に、それが自分に見せるために作られた表情ではなく、たとえ一瞬でも時見享一と見間違えられたことに落胆する。そして父親が同性を好きになる性質(たち)だと知ったことよりも、ショックだった。
 隆典は自分を透して享一を見ているのかも知れない。その時の切なさを、六年経った今でも和輝は思い出すことが出来る。
 もともと和輝は父親っ子で、大人の事情で無理やり引き離されてしまった上に、会う機会も年々減っていたこともあって、より隆典への思慕が強くなりがちであった。しかし隆典とは血の繋がりがないのではと意識した十四才の時以来、和輝の中で彼に対する別の感情が生まれ、少しずつ、だが確実に育っていた。それは子が親に抱く情愛とは違うと、自覚出来るほどには微かに狂おしいものだったが、認めてしまうにはまだ和輝は幼かった。
 隆典の秘めた想いを知ったあの夜の後――バンクーバーから戻って、和輝の気持ちは落ち込み気味だった。隆典がこの世で一番大切に想っているのは享一であり、よく似た和輝の中に彼を見ていると知ってしまった。それに追い討ちをかけたのが、受験が終わる再来年まで来るなと言われたことだった。
 二学期が始まってしばらく経っても引きずって、表に出していないつもりが、
「和輝、どうかしたんか?」
幼馴染で親友の池田喬純には悟られてしまう。部活からの帰り、寄り道して行こうと誘われ、児童公園のベンチに二人して座った。
「何でもない」
「何でもないってこと、ないやろ? 夏休み終わってから変やぞ。何かあったんとちゃうんか?」
 否定すればするほど、喬純はしつこく理由を聞き出そうとする。よほど和輝の様子が変なのだろう。ちゃんと答えない限り帰らせないと言わんばかりだった。
 父親の中の一番ではなかったことに気落ちし、それにしばらく会えなくなったことが重なって「気分が塞いでいる」とは、心を許し、何でも話してきた親友の喬純にも言えはしない。
――そんなファザコンみたいな理由。
 「何でもない」と答えること数回、喬純が黙りこくった。明るくて話し上手、柔らかな関西弁で周りを笑わせる喬純は、ともすれば軽い性質に見られがちだが、その実は硬派で、本気で怒ったり思うところがあると口数が減った。薄暮の中、まっすぐ和輝を見据える目は、最前の比ではないくらいに強い意思を含んでいる。和輝に対しては滅多に見せない表情だった。
「俺、そんなに頼りないか?」
「そんなことないよ。本当に何でもないから」
「嘘や」
 怖いくらいに見つめられ、和輝は目を逸らした。喬純が本当に心配して気遣ってくれていることはわかるが、話したくないことだってある。それを話さないからと言って、責めるような目で見られるのは心外だった。だから苛立ち、つい語気を強めてしまった。
「何でもないって言ってるだろ。もし何かあったとしても、タカに全部話さなきゃなんないのか?!」
 これではやっぱり何かあると思われても仕方がない。そう言う斬り返しがあると構えたのだが、喬純は乱れのない深い声音で和輝の言葉に答えた。
「俺は和輝のことやったら、全部知りたい。どんなちっさいことでも。好きなヤツのこと知りたいのは、あたりまえやろ?」
「タカ」  
「俺、和輝のこと、好きや。友達としての『好き』やない。俺の『好き』には欲がある。キスしたいし、触りたい。そう言う『好き』なんや」
 思ってもみない彼の告白に、和輝の気持ちの矛先がそれる。
 喬純は両手を和輝の頬に添えた。そっと触れているだけであるのに、顔をそむけることを許さないほどの『力』がある。
「おまえは本気に取らんけど、俺はいっつも本気やった。男同士やなんて関係ない。和輝やから好きになった。和輝以外、欲しぃない。だから落ち込んでんの見るの、辛いんや。おまえが悩んでんなら、聞いて力になりたい」
 近づく喬純の顔。キスをするつもりなのだとわかったが、頬に添えられた彼の手で身動きが取れない。重なろうとするその瞬間、和輝の脳裏にあの夜の場面が浮かんだ。そして喬純の顔はすり替わる。引き寄せられ、二つの唇が重なる寸前まで近づいた隆典の顔に。
 喬純の唇は軽く触れただけで、すぐに離れた。和輝の目はその唇を追ったが、意識は違うそれを追っていた。
「なんか…言うてくれよ」
 喬純とのキスに何も感じない。頬にかかる彼の指先の体温も感じない。しかし隆典のことを思い出しただけで、身体中が熱くなる。あの時、別人の名前と共に漏れた隆典の吐息はブランデーの芳香で甘かった。記憶が鼻腔にまで広がり、和輝の思考をすべて隆典へとさらう。
――お父さんが好きだ
 喬純が言った言葉そのままに、「キスしたい」「触れたい」、そんな欲のある『好き』――その感情は恋だ、おまえはずっと恋をしているのだと、声なき声が和輝に告げる。
 和輝は一歩下がって、喬純の手を頬から外した。
「ごめん、タカ。好きな人、いるんだ」                  
   
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