(眠りの海で青い魚は恋をする)


                 
 空はすっかり夜の色に変わっていた。星の瞬きが見えないのは月の光に紛れているせいか、冬の雲に隠れてしまっているのか、それとも和輝の心が暗い群青色に侵食されてしまったせいか。緩やかな坂の先に広がる市街地の夜景さえくすんで見える。
 同じ道を今朝は逆方向に歩いた。隆典に会える嬉しさと気恥ずかしさが混在して、和輝は日本からずっと緊張していた。彼に対する気持ちを自覚して、以前のように話せるかどうか自信がなかったし、六年間、避けられていると言う感覚も拭えなかった。今回、卒業旅行に訪れたいと話した時も断られるのではないかと怖かった。そんな複雑に揺れる心境を整えるため、冷気の中を歩いたのだ。
 今は、何もかも吐き出して空洞になった心を抱え、温かい車の助手席に座る。時折、隆典の最後の言葉が心の穴を通り抜けて消えた。確かに抱きしめ、触れたはずの彼の体や唇を思い出すことが出来ず、今日一日が抜け落ちて行く。
「あんな安い挑発に乗るなんざ、見た目以上にガキだったな」
 ぼそりと運転席に座る金髪の男が呟いた。どこか訛りのある英語の低い呟きでありながら、和輝の耳は敏感に聞き取る。「挑発?」と彼を見ると、目が合った。信号が赤になり車が止まる。
「言葉がわかるのか。そう言えば、ニューヨーク育ちだったな」
 青みがかった金色の瞳を持つ三白眼が酷薄な印象を与える。隆典の他の知人とは毛色が違いすぎて、子供心に気味が悪かったことを和輝は思い出す。
「俺達のキスを見ていたろう?」
 口の端が少し上がって笑みとも取れる表情になったが、目は笑っていない。車が再び動き出し、金髪の男は前を向いた。
「あれに煽られて、まんまとタカノリに手を出すあたりがガキだと言ったんだよ。思惑通りで笑えるな」
 カッと和輝の頬が熱くなる。あの部屋であったことを知っている口ぶりだった。
「なぜそんなこと?!」
「邪魔な種は育つ前に排除するに限る」
 この男は何を言っているのだろうかと和輝は思った。「排除」とか「挑発」とか、ヒアリングが正しければ、和輝と隆典の仲を勘繰っている言い草だ。そんな勝手な思い込みからの挑発に乗ってしまい、隆典との関係を壊してしまったことが、そして自制が利かなかったことが腹立たしかった。
「俺の存在なんて、あの人にとっては子供以外の何でもなかった。あの人は俺じゃなく、俺を透して別の人間を見ているんだから」
 いくら隆典自身から享一の面影を見ていないと聞いても、和輝はまだ信じられずにいる。だからこそ、男に煽られた自分が尚更に情けない。
「キョウイチ・トキミか。おまえはヤツに生き写しだからな」
 男は享一の名前を自然と口にした。隆典と享一、享一と和輝の関係を知っているかの含みを感じる。和輝は俯き加減だった顔を上げた。
 どこまで、何を知っているのか――和輝の物心の最初の記憶から、すでに男の姿は隆典の傍らにあった。二人の態度、ことに男に対する隆典の態度から、友人関係ではないことはわかっている。
「あんたは、何者なんだ?」
 男の横顔に不敵な笑みが浮かぶ。
「『ストーカー』さ」





 その答えは、答えには思えず、和輝ははぐらかされたと思いムッと口元を結んだ。その様子を見て、男は「ふん」と今度は鼻で笑う。
「タカノリのことはずっと見てきた。俺は過去の人間になんて興味はない。よっぽどおまえの方が怖い。だからどんな可能性も潰す。今日のようにな」
 それは意外な言葉だった。男から笑みは消え、読めない表情に戻っている。「怖い?」と和輝が返すと、彼は横目でチラリと見やる。
「怖いね。一旦は遠ざけて忘れようとしていたおまえに、また会う気になったんだからな。それに仕事で使う愛想笑いしか見せたことのないタカノリが、おまえといるとよく笑う。さっきみたいに怒った顔も、声も、久しぶりだった」
「それは、子供だと思っていたからだ」
「でも、今は違う」
「そう、もう違う。何もかも壊してしまった。俺は親子のままでも良かったんだ。きっと二度と会ってくれない」
 車がまた信号で止まった。すぐそこに隆典が男に指示した和輝の宿泊するホテルが見えた。車止めに入って降りれば、全てが終わる。膝の上で作られた拳に力が入った。
「俺なら欲しいものは諦めない。誰かのものなら、実力で奪うまでだ。子供だから、似ているからって尻尾を巻くならそれでもいいさ。結局、タカノリへの気持ちはその程度だったってことだろうからな」
 男はあのキス・シーン同様、挑発しているのか、和輝に隆典を諦めるなとでも言っているように感じた。邪魔な可能性は潰すと言っておきながら、矛盾しているではないか。このまま和輝が諦めて帰国し隆典と会わないことの方が、男の理に適っているはずだろうに。
「なぜ、俺を煽るんだ? あんたにとって、俺は邪魔なんだろう?」
 男はアクセルを踏む。
「おまえ、知らないだろう、タカノリがどれほど激しい性質(たち)か。感情を剥き出しにした時のタカノリは魅力的で、ゾクゾクする。俺はそんな『生きた』タカノリが欲しいんでね。おまえの存在で息を吹き返すなら、いくらでも煽るさ。そうしてタカノリを振り向かせるのも悪くない」
 男はうっとりと言った。
「俺を利用するのか?」
「ライバルと認めてやったんだ。光栄に思って欲しいな」
「あんたには振り向かないかも知れない」
「どうかな。何しろセックスの相性は最高に良い。それに俺はいつもタカノリの傍にいる。有利だと思わないか?」
 あと数メートルでホテルに着く。この男の言い分が正しければ、もしかしたらまだ間に合うかも知れない。壊れてしまったのは親子と言う関係。親子ではなくなっただけだ。
 

『俺は一度だって、おまえを享一だと思ったことはない。身代わりで良いだなんて、そんな自分の存在を否定するようなことは言うな』
 

 隆典の言葉が、今度は胸の中で留まった。思い出せなかった彼を抱きしめた感触が、腕に蘇ってくる。
「車を戻せよ」
 たった一度のトライで、どうして諦めようとしたのだろう。隆典への気持ちはそんなに浅いものだったはずはない。ずっと好きだった。恋と知る前も知った後も、彼を忘れたことはなかったのに。
「嫌だね。そこまで助けてやる義理はない。戻りたきゃ、自分で戻るさ」
 男はホテルを行き過ぎたところで車を止めた。和輝は車を降りる。男は後部座席のトランクを顎で示した。
 和輝がトランクを下ろしドアを閉めると車はさっさとその場を離れ、瞬く間に視界から消えた。
 結局、金髪の男の正体は知れないままだが、隆典に身体の関係だけではなく心の繋がりも求め、そのためには恋敵に成り得る和輝さえも利用するほど、彼を愛していることはわかった。冷たい印象を受ける見た目とは裏腹に、底知れぬ執着を感じた。それは「欲しいものは諦めない」と言った彼の言葉を裏付ける。
 隆典に拒絶されたショックはまだ和輝の中に残っていた。コンドミニアムに戻っても入れてもらえないかも知れないし、その確率の方が高い。しかし諦めたくない気持ちが強く戻ってきた。もう親子じゃない。一人の男として、彼の前に立てるのだから。
 タクシーを拾おうとしてやめた。
――歩いて行こう。もっと勇気が必要だから
 もっと隆典への想いを思い出さなければ。
 和輝はクッと顎を上げ、一歩、一歩とゆっくり歩み始めた。 
                
   
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