桃の願ふ 〜空はどこまでも青かったII


「ヒロちゃん、ありゃあヒデ兄ちゃんじゃなぁか?」
 土手の上に姿を見せた痩せた若い男を見て、勝次郎は一緒に川遊びをしている弘之の肩を叩いた。その男を見て弘之は拗ねたように口を引き結び川から上がると、河原に脱ぎ置いた服を掴んで土手の上へと歩いて行った。若い男は弘之の兄・英治である。仕事が終わって帰るので、弘之を呼びに来たのだろう。
 勝次郎と同じ町内で育った提灯舗の息子・弘之は今年の春頃、山側に十キロばかり行ったところに越して行ったのだが、店は畳まなかったので、父親と兄、国民学校に通う弘之は、毎日元の家に通っている。今日は日曜日で本来は店も学校も休みであるが、急ぎの仕事で父親と兄が出勤するのに、弘之も遊び相手を求めてついてきたのだった。
「いぬる(帰る)んかぁ?」
 弘之が服を着始めた様子に、一緒に川遊びをしていた正夫が声をかける。弘之は振り返って仕方なさげに「うん、また明日な」と叫んだ。勝次郎たちも同様に「また明日」と声を揃えて応え、手を振った。
 土手の上を並んで帰る二人を、勝次郎は羨ましく見送る。勝次郎にも英治と同じ年の兄がいるが、海軍に入っているため離れて暮らしていた。
「わしらもいのうかのぅ?」
 正夫が傾き始めた太陽を見て言った。夏は日が長くいつまでも明るいが、時刻にすれば六時に迫っているはずだ。
 夕日でキラキラと光る川面を見て、勝次郎は「そうじゃなあ」と気のない返事をした。今、帰れば弘之たちに追いついてしまう。追いつかないまでも、仲良く並んで歩く兄弟の後姿を見てしまうだろう。
「もうちいと」
 勝次郎はそう言うと、川面を蹴り上げた。
 


 
 勝次郎の家は産業奨励館近くの、商店が立ち並ぶ一角にあった。もともとは七人家族だが、兄は任地にあり、そのすぐ下の長姉は今年の初め隣の岡山県へ嫁し、今は祖母と両親、十四才になる次姉と八才の勝次郎の五人暮らしになっている。
「お帰りぃ」
 勝次郎が帰ると、家の前では母が夕方の打ち水をしがてら、隣の小母さんと立ち話をしていた。まだ父は帰っていないようだった。
 勝次郎は「ただいま」と言ったあと、「手紙は?」と続けた。ここのところ帰宅時の常套句になっている。勝次郎が待っているのは兄・進一郎からの手紙であった。遠方にいる進一郎との唯一の連絡手段なのだが、郵便事情が悪く、双方に配達されるのはかなり日数がかかる。であるから、昼間手紙を受け取る母や祖母の返事は、決まって「来とらんよ」だった。
 がっくり肩を落とす勝次郎の頭を、母が柔らかく撫でた。
「もうすぐお父ちゃんが帰ってくるから、足洗って中に入りんさい。ばあちゃんが畑をしとるようなら、テゴ(お手伝い)してね」
 母の言葉に「うん」と頷き、勝次郎は井戸のある家の裏へ回った。
 かつて庭だった畑では、祖母が井戸から水やり用の水をくみ上げているところだった。昭和十六年に発令された金属類回収令によって井戸のポンプは供出されていた。昔ながらの釣瓶で桶を使って汲み上げるのは、間もなく古稀を迎える祖母には重労働である。勝次郎は駆け寄ってそれを代わった。
「ありがとねぇ。これでおしまいじゃけぇ、次なぁ足ぃ洗うために汲みんさい」
 祖母はそう言うと別の手桶に水を移し替え、柄杓で水やりの続きを始めた。
 亡き祖父が自己流で丹精し、小さいながらもそれなりに体裁を整えて四季折々の風情を見せた庭は、配給だけではとうてい賄えない食糧事情によって、芋や南瓜の他に雑草と見分けのつかない野菜が育つ畑に変わった。それでも「作らないよりはマシ」程度の量しか採れず、一家は常に空腹を抱える状態である。それはどこの家も同じだった。
 しばらくすると仕事から戻った父が裏に回ってきた。
「ばあちゃんのテゴしとるんか。感心、感心」
 父は大きな声で勝次郎を褒めた。汗と埃にまみれ、日焼けした肌が一層黒い。勝次郎は足を洗うために汲み上げた桶を、先に父に渡した。父は首にかけていた手ぬぐいを浸して絞り、滴る汗を拭くと、「気持ちいい」と長く息を吐いた。
 水やりの手を止め、祖母は「お帰り」と父に声をかけた。
「今日はどこらに行っとったん?」
「県庁の辺じゃ。明日は大層な疎開作業じゃけぇ、その準備にの」
 大工の父は今では家を建てるより修繕する仕事の方が多くなった。修繕するならばまだしも、空襲による火災での延焼を防ぐために行われる、『建物疎開』と言う名の家屋の取り壊しに携わっている。前年の十一月から始まった建物疎開は、明日八月六日には六回目の作業が予定されていた。職場や町内で組織する義勇隊と、学校の生徒たちによる報国隊を動員しての大がかりなものだ。今日はその下見や準備で出かけていたらしい。
「だんだんと引っ越して行く家が増えたねぇ。やっぱりここらもそろそろ危ないんじゃろうか?」
 祖母は曲がった腰を伸ばしながら心配げに父を見る。
 勝次郎たち一家の住む広島市は、日清戦争の折に大本営が置かれ港が整備されて以来、陸軍拠点の軍都として知られていた。軍関連施設や軍需工場も多く、日本各地で激しくなっている米軍機の空襲に、いつさらされるか知れない危険性が常にあった。ただ不思議なことに、いまだ空襲らしい空襲に遭ったことがなく、それゆえ今に大規模な攻撃を受けるのではと市民は不安を抱えていた。
「そろそろうちも、引っ越しを考えた方がええんじゃないかねぇ」
 祖母は以前より空襲を危惧していたが、懇意にしていた小西家――弘之の家――が引っ越してからは、頻繁それを口にした。行先にあてはなかったが、海軍士官の孫・進一郎に頼めば何とかなると思っている。
「どこに行っても変わらんさ。それにこれだけあちこち攻撃されとる割にゃぁ、日本はまだ戦えとるんじゃけぇ、案外、大したことないんかもしれん」
「ほうかねぇ。せめて子供らばっかしでも疎開させちゃぁどうじゃろうか?」
「来年、カツは三年生じゃ。そがぁなら学校が疎開させてくれるけん」
 尚も何か言いたげな祖母を父が目で制する。祖母は「やれやれ」とばかりに冠りを振って、曲がった腰を再度叩いて伸ばしながらぼそりと呟いた。
「物はのうなるし、食うもんにも困る。若いもんはどんどん戦争に取られてしもうて、なかなか帰ってこんし、日本は大丈夫なんじゃろうか?」
「母ちゃん、滅多なこ…」
「兄ちゃんが守ってくれとるから、日本は大丈夫じゃ!」
 祖母に向かって勝次郎は思わず言葉を返した。
「家に帰って来らりゃぁせんくらい、お国のために頑張ってくれとるんに、日本が負けるわけがないよ!」
 祖母は父と顔を見合わせる。勝次郎の声は甲高く響き、必死なものに聞こえたのかも知れない。
「そうじゃのぉ、進一郎たち兵隊さんが頑張ってくれとるんじゃ。兵隊さんだけじゃなぁ。わしらみとぉな年寄りや女子供が、食うもんも食わんとぉに銃後を守って頑張っとるんじゃけぇ、日本が負けることなんてない」
 父はそう言うと、手ぬぐいを絞った後の水を足にかけ、空になった桶を井戸に落とす。桶は再び水を満たし、勝次郎の足元に置かれた。勝次郎は黙ってその水で顔と足を洗い、縁側に上がった。
 振り返ると父と祖母は、また何やら話をしていたが、こちらに背を向けているために聞こえなかった。聞こえたとしても大人の話が勝次郎に理解出来るわけもないし、あまつさえ理解出来たとしても、子供は口を挟めないので――先ほどは挟んでしまったが――、勝次郎はそのまま内に入った。
 父が帰宅し母は立ち話を終えたのか、台所仕事をしているらしい音が聞こえた。話し声がするのは勤労動員から戻った姉の千津が手伝っているのだろう。間もなく夕飯かと思うと、勝次郎の空きっ腹が盛大に鳴った。夕飯と言っても具のほとんど入っていない吸い物と、雑穀と畑で採れた物で嵩増しした米飯だ。それでも一時は腹が静かになる。
「あ、カッちゃん」
 腹の鳴る音が聞こえたのかと思う間合いで、台所にいた千津が顔を覗かせた。
「今日ね、良いもんがあるんよ。ほら」
 千津は手に持った丸いものを勝次郎に見せた。
「桃?!」
 勝次郎は声を上げる。それは小ぶりだが確かに白桃だった。勝次郎の腹がまたもや盛大に鳴って、母と千津が笑った。
「ヒデ兄さんがくれたんよ。カッちゃんに食べさせたってて」
「わあ、わあ、桃じゃ、美味そうじゃのぅ」
 差し出された桃を手にとって、勝次郎は小躍りしながら匂いを嗅いだ。甘い匂いは鼻腔を刺激し、産毛を生やした皮が、鼻先をくすぐった。すぐにでも齧り付きたかったし、実際、唇が皮に触れてもいたが、勝次郎はその衝動をやっとで抑えた。
「どうしたん? 食べてええんよ? そりゃぁカッちゃんにってもろぉたもんなんじゃけぇ」
 千津は勝次郎が齧り付くものとばかり思っていたのだろう。しかし勝次郎は桃を母の方に差し出した。
「お母ちゃん、分けて。みんなで晩御飯の時に食べようよ」
 大人たちも空腹であることを勝次郎は知っている。そして彼らは食に関して、常に勝次郎を優先してくれていることも知っていた。桃は小さかったが、切り分けたなら、たとえ一切れでも家族みんなの口に入る。きっと祖母も父母も姉も、嬉しそうに笑うだろう。世情の重苦しい空気が家の中にも入り込み、食卓からは笑みが減っていた。この小さな桃はその笑みを少し取り戻してくれるかも知れない。
「ほんなら、そうしようかね」
 母はそう言うと桃を受け取り、大事そうに水を張った桶の中に浸けた。




 その日の夕飯は、久しぶりに食べる幸せを感じたものとなった。桃はよく熟れて甘く、いつまでも口の中に匂いを残した。小さな桃一つで話は弾み、笑い声を生む。勝次郎は独り占めせずにみんなで食べて良かったと、心から思った。
 夕食を終えた後、勝次郎は千津と一緒に二階の部屋へ上がり、思い思いの時間を過ごす。二階の二間はきょうだい四人で使っていたが、進一郎が海軍入隊と同時に半ば独立し、長姉の雅代が春に嫁したので、千津と勝次郎だけになった。ただし一間は進一郎が帰省した時のために普段は使っていない。
「桃、美味しかったね。カッちゃん、明日、ヒデ兄さんに会うたら、ちゃんとお礼ゆうんよ」
 ところどころほつれが目立つ勝次郎の防空頭巾を繕いながら、千津が言った。「ヒデ兄さん」とは幼馴染の弘之の兄・英治である。英治は勝次郎の兄・進一郎と同級で仲が良く、高等学校まで一緒だった。昔から勝次郎を弘之同様可愛がってくれているし、進一郎が海軍に入り家を離れて以降、兄代わりとして何くれと気にかけてもくれる。
 あの甘い桃を、弘之も英治と一緒に食べただろうか。
 弘之は勝次郎をよく羨ましがった。進一郎は江田島の海軍兵学校から海軍入りし、今は大尉となって戦艦に乗っている。比べて英治はひどい近眼のために兵学校には入れず、文理大学に進んだものの身体を壊して休学していた。当然ながら徴兵検査も通らなかった。軍事教育の行き届いているこの時代、軍人となってお国を守ることは男児の憧れであった。徴兵年齢に達しながら入隊出来ず、父親のように職人であるならまだしも、読書をしながら気楽に店番をする英治を、弘之は恥じている。
「勝やんはええなぁ」
 何度、弘之の口からその言葉を聞いたか。進一郎を褒められて悪い気はしない。得意げにもなるのだが、実のところ、勝次郎も弘之が羨ましかった。兄がいつも身近にいる。確かに海軍士官となった進一郎は格好良く、家族にとっては誉ではある。しかし軍の機密事項だとかで、両親にさえも詳しい任地は知らされていない。「横須賀にいる」とだけ聞き、手紙は所属部隊宛に送るものだから、本人の元に着くまでに時間がかかり、郵便事情以上に返事は遅れた。
 寂しさに加えて、「もう会えないのでは」と言う不安が付きまとう。去年、同じ町内の豆腐屋の次男は南方に出征したが、半年後に小さな箱に入って帰ってきた。中には前線基地に遺された品しか入っていなかったと、父母が話していたのを聞いた。葬式の列に勝次郎より一級下の女児がいて、その姿に自分が重なる。それまでも戦死者の葬式はあったが、顔見知りで言葉を交わしたことのある人物の死は、勝次郎に少なからずの衝撃を与えた――兄が、あの「姿」で戻ったなら。そう思うと、「お国のための名誉の死」やら「軍神」やらの言葉が簡単に言えなくなった。
「はよぉ戦争、終わらんかな」
 勝次郎は独りごちた。
 千津がその独り言に繕いの手を止めて、「どうしたん?」と返す。
「はよぉ戦争が終わらんか思うて。したら兄ちゃんも帰ってくるじゃろ?」
 千津は玉結びをして糸を切り、頭巾を畳んだ。
「兄さんに会えんで寂しいん? 今までそがぁなゆぅたことないのに」
「さ、寂しいことない」
 寂しい気持ちを指摘されるのは恥ずかしかった。子供なりにも弱音を吐くことは、女々しいと思っている。特に誰もが一目置く進一郎を見て育った勝次郎は、自分もまた兄のように立派な男になりたかった――進一郎が子供の頃、大人たちを相当困らせたガキ大将であったと語り草になっている。しかし一回り年齢差のある勝次郎が物心ついた時にはすっかり「大人」だったので、そのことは知らなかった。
「戦争が終わったら、腹いっぱい食べられるじゃろ? 桃も、ぼた餅だって、白い飯も!」
 勝次郎は寂しがっている様を誤魔化すように、食べたいものを並べ立てた。千津はくすくすと笑って「そうじゃねぇ」と同意した。
「ちい姉ちゃんだって、食べたいもん、あるじゃろう?」
 まだ千津は弟が兄を恋しがっているのだと見ているので、勝次郎は話を振った。千津はそんな思惑もお見通しなのか、笑みを消さない。
「そうねぇ、食べたいもん多いわねぇ」
 と言って、考える風に小首をかしげた。
「食べることもじゃけど、戦争が終わったらやりたいことがあるんよ」
 勝次郎は千津の口から食べたいものが出てくるかと思ったが、違った。
「姉ちゃんねぇ、洋裁の学校に行きたいの。今、東京から劇団の人が来とるじゃろぉ? ブラウスやら、ここら辺じゃ見られんハイカラな感じで、聞きおったら東京じゃぁスカートやワンピースを着とる人もいるんだって」
 千津は思い浮かべるように目線を上にした。姉の言う通り、東京の劇団が慰問で滞在していて、女優たちは皆どこか垢抜けて華やかに見えた。同じモンペ姿でも、母や姉たちとは印象が違う。
「これからぁ洋装よ。雅代姉さんは和裁じゃったけど、ウチは断然、洋裁を習いたい。そんで、古着の仕立て直しじゃぁのぉて、色や柄のきれいな真新しい布を使うて、いろんな洋服を作りたいんよ」
 千津は縫物が得意で、物資が不足する中、古い着物をほどいて簡単なシャツを作ったり、頼まれて袋物を作ったりしていた。誰に習ったわけではないが、それなりに出来て、ちょっとした駄賃をもらうこともあり、家計の足しにしている。
「そがぁならカッちゃんにも見場のええもん、作ってあげるね」
「ホンマ?! わし、海軍さんの制服がええ! 真っ白い夏服の!」
 勝次郎は夏の休暇で戻った折の進一郎を思い出した。あれは海軍の夏服だったのか、それとも兵学校の方だったか、ともあれ真っ白い詰襟が目に眩しく、進一郎を一層凛々しく見せていた。今が夏と言うのもあるが、作ってもらうならあの夏服が良いと、勝次郎は思った。
「カッちゃんはもともたぁ色白でほっぺたも桃みたいじゃけぇ、白い服がきっとよう似合うわ。わかった。うんと上等な布でこさえようね」
 千津は勝次郎の頬を撫でて言った。くすぐったさに体をよじりつつ、姉の優しい笑顔につられて勝次郎も笑った。
「千津、繕いはたいがいにせんと、目が悪うなるよ」
 母が顔を覗かせた。
 日がすっかり暮れると、室内はたちまち暗くなる。灯火管制によって使用が制限されているため、電灯の笠には黒い布がかけられ、極力、光を外に漏らさぬよう指導されていた。
「もう終わったところ」
 千津は裁縫道具の入った箱を片し始めた。
「そろそろ寝支度するから、下に降りてきんさい」
 夜中の空襲警報に備えて、夜は一家全員で避難しやすい一階でやすむことにしていた。子供二人は「はい」と返事をし、各々の頭巾を持って階下に降りる。
 父が押入れの布団を出し、母や姉がそれを手早く敷くと、勝次郎が人数分の枕を並べる。すでに舟をこぎ始めている祖母を、最初に設えた床へと母が促した。それが寝支度の終始である。
「何やら楽しげじゃったな。何の話をしよったんじゃ?」
 乏しい食料で日々を過ごす家族は常に疲労していた。父などは寝床に入るや否や寝息を立てるのだが、その夜は珍しく娘と息子に話しかけた。千津が、戦争が終わったなら、洋裁を習って勝次郎に海軍風の夏服を作る約束をしたのだと答えた。
「そりゃぁええなぁ。千津は縫物が得意じゃけぇ、きっと何でも作れるようになるじゃろうさ。カツ、楽しみじゃのぉ?」
「うん」
 勝次郎は大きく頷いた。父は勝次郎の頭を撫でると、思いついたように「そうだ」と言った。
「戦争が終わったら、二階の兄ちゃんの部屋はカツが使うとええ」
 父の突然の申し出に、勝次郎は大きく目を見開いた。いずれ千津は嫁に行き、その部屋は勝次郎に与えられるとしても、それはまだまだ先だろうし、進一郎はずっとこの家にいるものと思っていたので、その兄の部屋をもらうことは考えもしなかった。
「兄ちゃんが帰ってくるんに?」
「兄ちゃんは年頃じゃ。戻ったら嫁さんを貰わんにゃぁいけん。そがぁなら外に自分の家を持つことになるからの。その家はわしが建てちゃるつもりじゃ。ええ材木をふんだんに使こうてな」
 息子夫婦のために建ててやる家を想像しているのか、父の声は弾んでいた。
「良かったねぇ、カツ。楽しみが増えたねぇ」
 母の言葉に勝次郎は喜びいっぱいに頷いた。
 父は大きく欠伸をして、ゴロリと体を横にした。すぐさま寝息が聞こえて、それはやがていびきに変わるだろうことをみんなは知っている。
 襖を空け放した敷居を挟み、次の間に床をとっている祖母はすでに夢の中の様子であった。勝次郎と千津も寝床に入り、母がそれを見て電灯を切り最後に横になった。
「千津は明日、工場?」
「その前に建物疎開。八時に集合じゃけぇ、いっつもよりはよぉに出るよ」
 ぼそぼそと母と千津が話をする。これもいつものこと。千津は昼間、勤労動員で縫製工場に出ていて、母と話をするのはこの時間くらいしかないのだ。
 二人の抑えた声音は耳に心地よく、子守唄代わりにして勝次郎は眠りの淵に落ちていくのだった。




「あまりよう寝られんかったけど、大丈夫?」
 母が弁当箱を千津に手渡しながら言った。夜中、何度も空襲警報が鳴った。B29は上空を素通りしただけで、すべて空振りに終わった。それでも警報が鳴れば起きて防空壕に避難しなければならない。
「平気。ウチ、眠りが深いから、ぐっすり寝た気分じゃ」
 千津は「いってきます」と続けて、出かけて行った。
 勝次郎の方はまだぼんやりしている。その手に母は弁当箱を持たせ、小さな両肩をポンポンと優しく叩いた。
「ほら、シャキッとせんと。もうすぐヒロちゃんが来るよ」
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
 眠い目をこすりながら勝次郎は家を出た。
 表通りまで出て、父と兄と共にやってくる弘之を勝次郎は待った。しかし今朝は兄の英治一人だった。
 英治が近づいて来たので、勝次郎は走り寄る。
「ヒロちゃんは?」
「カッちゃん、おはよう。今日は熱を出してしもぉて、休みじゃ」
「そうなんか」
 昨日は元気そうだったのにと、帰り際の弘之の仏頂面を思い出す。同時に千津の「ちゃんとお礼を言うのよ」も。
「ヒデ兄ちゃん、桃、ありがとう。ばり美味かった」
「そりゃぁえかった。一個でごめんなぁ。僕は持っていぬるん忘れてなぁ。今日は忘れんようにせんと」 
 英治は頭をかいた。ちょうどその時、遊び仲間の正夫と勲が通りかかり、勝次郎は英治と分かれて学校に向かった。
 朝の光が眩しく、勝次郎の眠気は吹き飛んだ。八時を超えたばかりだと言うのに、すでに暑い。昼間はもっと気温が上がるだろう。今日もまた川遊び日和だ。三人は今から学校だと言うのに、もう帰りの話をしながら歩いた。
「戦争が終わったら、兄ちゃんの部屋、もらえることになったんじゃ」
「え、でも兄ちゃんが帰ってくるじゃろ? もしかして死んでしもたんか?」
 子供は思ったことをすぐ口にするが、特別な意味はない。正夫の不謹慎な言葉は大人が聞くと窘める部類だが、聞いた勝次郎はさほど気にせず、「嫁さん、もらうんじゃ」とあっさり答えた。
「ええなぁ、もう自分の部屋もらえるなんて、ええなぁ」
「わしんとこは上も下も年子じゃけぇ、広いとこに引っ越さんとずっと一緒の部屋だぁ」
 正夫も勲も口々にうらやましさを表現する。
 確かに嬉しいけれど、半分は寂しい気持ちが勝次郎にはあった。部屋をもらうと言うことは、進一郎が完全に家を出ることなのである。戦争が終わってやっと帰って来たかと思うと、また離れてしまうのだ。
 勝次郎は進一郎とたくさん話をしたかった。海軍はどんなところで、兄はどんな役割をしているのか、艦での生活はどうだったのか。聞くばかりではなく、進一郎が留守の間の家の話をしたかった。進一郎が出られなかった雅代の婚礼がどうだったか、千津は洋裁の学校に行きたがっていて、希望通りになった暁には勝次郎に海軍の夏服を作ってくれること――そして進一郎がいない家がどんなに寂しかったかを、我慢せずに話すのだ。
 校門のところに級友を見つけた連れの二人は、先に駈け出した。部屋の話で兄のことが頭を過っていた勝次郎は一歩遅れる。見る見る引き離されたが、二人を含めた級友たちは勝次郎が追いつくのを待っていて、揃って校門をくぐった。
 走って止まると汗が玉になってこめかみや首筋を流れた。暑さで思わず見上げた空はどこまでも青く、雲一つない。その一面の青の中、高い高いところを白い線が伸びて行く。飛行機雲だとわかるが、それにしても。
「高い」
 空襲警報が鳴らないので偵察機か、それとも友軍か。キラリと光ったのは日差しに照らされた機体だろうか。
 勝次郎は伸びて離れていく白い線を、「きれいだな」と思いながら見送った。
 時刻は間もなく八時十五分になろうとしていた――


<了 2016.08.14>


<参考文献>
 本川小学校↓
 http://yo-koda.sakura.tv/genbaku/honkawasho.htm
 気象庁(過去の気象データ)
 ヒロシマ新聞 http://www.hiroshima-shinbun.com/top.html
 広島弁sweet文章変換↓
 http://sweetdrop.net/sweetword/swhen_hi.html
 ウィキペディア関連ページ 他
 

※この作品の登場人物は、『空はどこまでも青かった』に登場しています。

  (2016.08.14)

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