[ 其は匂ひの紫 後編 ]






(五)


 図案を決め、描き、染めて、仕立てる――一枚の友禅染めの着物を仕上げるのに、概ね二十以上の工程を要した。手描き友禅はそれら全てを手作業で行う伝統的な手法で、それぞれに専門の職人がいて、工程ごとに外注することが一般的なのだが、友禅作家本人が全工程を行うことも珍しくない。晩年こそ水元(完成した生地に残る不要物を洗い流す)を職人に任せた乃木冬川だが、それまでは全て自分の手で作業した。どの工程でも微妙な匙加減で出る色が変わる。それを自在に扱えてこそ手描き友禅師…との持論で、その考えは愛弟子である川村利市にも受け継がれていた。
 そして鳴沢多喜もまた、全てを一人でこなす友禅師だ。初対面の時、乃木文人の友人だと利市に名乗ったが、もともとは文人に師事した弟子だったらしい。つまり冬川の孫弟子と言えよう。
 多喜は引き染めの段階になったら連絡すると言ったが、利市は待ちきれなかった。あの『紫』が姿を表すのは地色を染めてからで、それまでの作業は利市が行うことと特別変わらない。しかし友禅師としての多喜を見てみたかった。利市が絵柄の希望をメールして以来ふた月が過ぎたが、多喜からは何の音沙汰もない。『文箱』に電話をしても昼間は留守で、夜はタイミングが悪く――入浴中であったり、絢人の塾の日だったり――、連絡がつかなかった。それでとうとう承諾を取らずに、利市は嵐山にある塩崎染工を訪ねた。
 塩崎染工は蒸し(染料を生地に定着させ色止めする)と水元専門の染工である。山科の工房をたたんだ文人が、敷地の一角を作業場として借りていたところだった。彼の道具の一式が残されたままで、多喜はそこを使って今回の作業を行っている。
 応対に出た社長の塩崎が、内線で多喜に利市の訪問を告げた。通してもよいとのことだったので、彼は利市を水洗い場の裏手にある多喜の作業場に案内してくれた。
「やっぱりあの『紫』、乃木さんとこの目に留まりやったんやなぁ。何にしても、多喜ちゃんがまた戻って良かった。見捨てんと良う面倒みて、さんざ苦労して。せっかく一人前になれたのに、辞めてしまうんはもったいない思てたんですわ」
 途中、塩崎が言った。多喜はあの紫を、ここで染めたらしい。友禅に携わる者なら冬川紫を知らない者はいないに等しく、最初に仕上がった訪問着を見て、塩崎はかなり驚いたと利市に語った。
「皮肉なもんですなぁ。冬川先生の息子さんがどないにしても染められんかったのに、あの『紫』を憎んどった多喜ちゃんが染めてしまうんやから」
「憎んでた?」
「文人先生が、身、持ち崩したんは、あの色のせいみたいなもんやさかい」
 塩崎は言葉を濁した。文人が病没したことは聞いたが、乃木を出てからどのような生活を送っていたのかは知らない。利市が聞かなかったこともあったが、多喜もあえて話さなかった。ただ文人の死を教えてもらった時、多喜の傍にいた絢人の冷ややかな反応が思い出された。
「多喜ちゃん?」
 塩崎染工の作業場裏に小さなプレハブ小屋が建っていた。塩崎が声をかけると入り口が開いて、多喜が顔を見せた。
「辛抱の足りんやっちゃ」
 彼は利市を見て、ニヤリと笑う。
「すまんな、子供で」
と利市は苦笑した。
 塩崎は作業場に戻り、利市は中に入った。
 六畳ほどのプレハブは文人亡き後、塩崎染工の物置の一つとして使われていたようで、社名の入ったダンボールが幾つも隅に積み上げられていた。もともとは物置だったのかも知れない。本来の役割に戻ったところを、再び多喜が友禅染めの工房として使うことになり、取り急ぎ空間を作って体裁を整えた様子が、ダンボールの積み具合で察せられた。
 多喜の作業は、図案から仮絵羽への下絵(着物の形に仮縫いした白絹に青花液で下描きする)、糸目(下絵の線に沿って防染のため細く糊を置く)までを終え、挿し友禅(絵柄に色を挿す)に入っていた。
「もう少しでキリのええとこになるから、続けさせてもらうけど?」
 多喜はそう言うと、頭の手ぬぐいを巻きなおした。
 利市は勧められた座布団に座り、彼の挿す様子を見る。
 絵柄は白木蓮。金糸・銀糸の波や、枝に止まる鳥や、下を行過ぎる御所車などの華やかな絵は一切ない。ただ白い花と、それを咲かせる枝ぶり、花弁につく雨粒があるだけ。多喜は利市の希望を聞いたが、逆に利市は彼にまかせた。彼らしい絵柄をと言い添えて。多喜が選んで図案化したのは雨上がりの白木蓮だった。華やかさが売りの友禅の振袖にしては、地味に過ぎるかと利市は思っていたが、目の前で描かれる絵柄を見て息を呑んだ。
 乳白色の花弁の先端から内に向かって、出来るだけ薄い灰桜の色味を暈す。今まさに滑り落ちようとする雨粒が、真珠のように美しい。その花と雨粒を魅せるために、枝は極力、色を抑えられた。しかし存在感がないわけではなく、それが無ければ絵柄は成立しないほど複雑な色目で挿されている。
 地味だなどと思ったことが、友禅師として恥ずかしい。決して豪奢でないが、人の目を惹くきつける仕上がりになることは、その部分からでも想像出来た。
 利市は多喜の手元から目を離し、彼を見た。普段はへらへらと笑い、ふざけた印象が先に立つ多喜だが、絹に向かう横顔はその俗っぽさが微塵も感じられない。無表情に黙々と色を挿す。
 触れてはいけない、壊してはいけない『時間』がそこに在った。




「ただ見てるだけて、退屈やろ? そやから引き染めになったら連絡する言うたのに」
 ひと段落ついて、多喜は筆を置いた。部屋の隅に追いやっている電気ポットの湯で、インスタント・コーヒーを淹れてくれた。紙コップなのはご愛嬌だ。
「いや、面白いよ。他所の作業見るんは、勉強になる」
「師匠はフミさんやから、やってることは同しはずや」
「文人さんとは山科の工房で?」
「うん。一目ぼれ」
 利市は文人が残した着物を思い出していた。冬川の死後、作業場をそのままの状態で遺すことになり、用意のために色々と整理をしていた時、振袖が一枚、出てきた。風情は師のものではなく、落款の名を見た宮前事務長が文人のものだと教えてくれた。古典柄で伝統を守りつつも、独創的な色使いや絵柄の構成で追随を許さなかった師とは違い、文人の作は、技術的には申し分なく、絵柄も優しい彩色で嫌味がないものの、『常識』を脱し得ない大人しい作品だった。凡庸とまでは言わないが、一目ぼれさせるほど目を惹くものとも思えない。
 それとも自分の工房を持った山科時代に、作風が変わったのだろうか?
「一目ぼれした作品って、どんな?」
「違う違う。本人に一目ぼれしてん」
「え?」
「俺、女に興味ないから」
 多喜が文人の山科の工房を訪れたのは、工芸大の学生の頃だったと言う。学生と言ってもパチンコとマージャンで無為に日々を過ごし、三回生を二回繰り返してからと言うもの、ほとんど授業に出なかったらしい。工房を訪れたのだって、通りかかった時に打ち水をしていた文人がタイプだったからで、この時初めて工芸大学生の肩書きが役に立ったと多喜は笑った。
 利市はすぐには意味が把握出来ず、多喜はそんな反応を面白がっているような、悪戯っぽい表情で見ていた。
「心配せんでも、おまえは趣味やない」
「なっ…!」
 利市が目を見開くと、多喜は一層、笑った。
「冗談が通じへんな」
「やっぱり冗談なんか」
 多喜は笑みの余韻を唇の端に残し、コーヒーを飲み干した。
「でも、あの優しい色が好きやったんはほんま。個性は足らんかも知れんけど、見るもんを暖かい気持ちにさせてくれた。それだけで充分やと思うのに、職人ってやつは…」
 最後の方は声が萎み、何を言ったのか利市には聞き取れなかった。






(六)


 絵柄を挿し終えると、蒸しの作業に入る。染料を生地に定着させるため、百℃前後に温度が設定された蒸し器の中で、数十分蒸し上げるのだ。絵柄にせよ地色にせよ、蒸し加減で発色が変わる。色の出来映えが友禅師の思い描いた通りになるかは、蒸しにかかっていた。経験と熟練の勘が物を言う。蒸しは塩崎染工の専門で、今回の多喜の作品には全面協力をしているのだが、専門分野であっても、あくまでもアシスタントとしてで、温度も時間も多喜が細密に管理し、蒸し器に付きっきりであった。
 挿し友禅で彼の実力を目の当たりにした利市は、あの日、帰ってすぐに休暇願いを出した。『紫』を見るだけなら、引き染めの作業からで充分であったが、色を「見るだけ」では収まらなくなっていた。色は、一枚が仕上がる工程の中から生まれている。一枚の振袖が仕上がる全ての工程が、あの色を生み出すために存在している――そう思えてならない。
「無期限て、いったい何をしとるんや? 沢口様の訪問着、待ってくれるように頼んでまで」
 多喜が振袖を作ることを承諾してから、利市は新しい仕事を抑えていた。その上に休暇願いでは、宮前事務長も簡単には承服しかねるだろう。利市の有名はすでに乃木工房の看板となりつつあった。才能もさることながら若さと見映えも手伝って、メディアからの問い合わせも少なくない。よほど説得力のある理由でなければ、「うん」と言わないのは当然だった。
 しかし利市は沈黙を守った。多喜が今回の仕事を受ける時に、冬川紫の名は出すなと条件を出していたからだ。「俺が染めるんは、ただの紫やから」と言って。
 なだめてもすかしても理由を言わない利市に宮前事務長が折れて、とりあえずひと月、休むことは許可された。兄弟子の中には、冬川の後継者だと言う驕りを口にする者もいたが、利市は反論することもなくそれを甘受した。
 挿し友禅の蒸しの作業が終わり、引き染めで地色を染める際に挿した絵柄が染まってしまわないよう、その部分に糊を置いて被せ準備する伏せ糊の段階に進んだ。この頃、冬休みに入った絢人が塩崎染工に来るようになった。塾と剣道の稽古と、友達と遊ぶ約束をしている時以外は、基本的に一日、塩崎染工にいた。
「やっぱしタキちゃんは、友禅作ってる時が最高、かっこええ」
 多喜の休憩を見計らって、絢人が作業場にしている離れのプレハブに顔を見せる。
「おおきに。アヤの顔見ると、疲れが吹っ飛ぶわ。一日、こない狭いとこに缶詰にされてると潤いがないしな。早よ仕上げて、もとの生活に戻らんと干からびる」
「でも楽しそうやで?」
 他意はない絢人の素直な言葉に、多喜は「そないに見えるか?」と苦笑して聞き返した。
「うん。そんなタキちゃん、ずっと見てたいくらいや。川村さんもそうなん?」
 急に話を振られて、利市は面食らう。
「したかて、仕事休んで、ずっとここに来てるんやろ?」
「これも仕事なんや。多喜さんが友禅作ってるとこ見せてもろて、勉強してるんやから」
「でもタキちゃんばっかし見よるよ?」
 これもまた他意はないのだろうが、言われた利市はびっくりした。多喜の手元を見ているつもりだった。途端に頬が熱くなるのを感じた。
「もしかして、このかっこ良さに惚れた?」
「な、何言うてる!」
 多喜が冗談めかして突っ込んだ。利市は過剰に反応し、頬の熱は色となって表面化した。それをまた絢人が指摘し、普段は張り詰めた空気のその部屋に笑いが満ちる。
 利市に見せる多喜の表情は、始めの頃に比べるとずいぶんと変わった。友禅の製作で静かな緊張を帯びる横顔と、絢人に見せるくったくない笑み、時折ぼんやりと空に目をやったかと思うと、息抜き代わりに利市をからかう茶目っ気を見せた。冷めた印象は生地に向かう日々で、生きたものに変わる。彼もまた職人なのだと、利市は思った。
 引き染めの色はいつものプレハブではなく、北側に建つ別のプレハブ小屋で合わせられた。色を合わせるのは難しい。光の加減に因って見える色が違ってくるからだ。蛍光灯などの人工の光ではなく、窓から入る自然光――それも北側からの直射でない柔らかな光が望ましい。塩崎染工を借りていた文人はそれをよく心得ていて、北側の遮るもののない場所に、色合わせのための空間を確保した。冬川紫を得るために。
 多喜はしばらく何も入っていない桶を見つめた。手にした最初の柄杓はなかなか動かない。白んで見える頬に表情はなく、堅く結んだ唇に何かしらの感情が垣間見える。
 どれくらいの時間が経ったのか、水で溶いた染料をそれぞれの柄杓で掬い、多喜は色を合わせ始めた。少しずつ、少しずつ。一杯掬っては確認する。
 出来上がった色は四色。系統としては白に桃、藍、紫と言ったところか。時間をかけて合わせた色は、見た目、単純な色合いに見えた。多喜が色を合わす間中、利市は紙と脳裏に細かく書きとめた。
「真面目なことやな?」
 合わせ終えた多喜がメモを覗き込む。
「悪いか」
「悪うないよ。フミさんに似てるな、そんなとこも」
 引き染めは生地を張った状態で行う。塩崎染工の母屋から水洗い作業場へ向かう長い渡り廊下が、引き染めの作業に使われた。
 薄い色目から順に染めて行く。弛みなくピンと張られた白い生地に、多喜は刷毛に含ませた染料を躊躇いなく塗りつけた。右から左に力を均等に入れながら、まずは白系の染料を。それから淡い石竹(桜草の色)の色を重ねた。白は真珠の光沢を石竹の内側で発色させた。桶の中の単純な色目は、段々と複雑な顔を生地の上で見せる。
 利市は鼓動が早くなるのを感じた。時間をかけて、それでいて決して溜まりで色斑が出来ないように、多喜は色を重ねて行く。色が濃くなるにつれ、利市の鼓動は更に早くなった。予感がする、あの色が、確かに現れる予感が。
 引き染めを終えた生地は、しかしまだあの『紫』ではなかった。濃い群青、青黛色とでも言うのか、とにかく青黒く、満月から遠い北の空の色に似ている。
「時間は?」
 蒸しにかける時間を塩崎が多喜に尋ねた。多喜は染め上げた生地を手に取り、「一時間」と答える。通常よりも長めだ。
 一時間は長く、利市は多喜と並んで蒸し器を見つめていた。今度、出てくる時には、色はどのように変化しているのだろうか。あの『紫』を目にすることが出来るだろうか?
 隣に立つ多喜は、心なしか疲れて見えた。無理もない。一日中、工房に詰めっきりなのだから。彼の集中力は並ではなかった。切りがいいところまでは、どれだけでも生地に向かっている。飲み食いもせず、時にはすぐに立ち上がれないくらい根を詰めた。
 ぐらりと多喜の身体が、利市とは反対の方に傾いだ。慌てて腕を掴んで引き寄せる。
「ああ、すまん。居眠りこいたわ」
「座ろか? 椅子、借りて来るから」
「いらん。地べたに座る」
 多喜はその場に座った。利市も隣に座る。それから多喜の頭に手をかけて、自分の肩に押し付けた。
「何やねん?」
「まだ時間かかるやろ? 少し寝ろよ。枕かわりに肩、貸してやる」
「ふうん、気、きくようになったんやな?」
「ええから」
「ほな、遠慮のう」
 そう言うと多喜は目を閉じた。すぐに肩にかかる重みが増し、彼が眠りに落ちたのがわかった。その重みは温かい。利市は多喜の頭にかけた手を肩に回した。




 利市は肩を揺すられて目を開けた。隣に座っていたはずの多喜の顔が向かいにある。利市もあのまま眠ってしまったようだ。そして多喜が起きたことにまったく気がつかなかった。
「上がったぞ」
 多喜は利市の肩を二、三度軽くたたいて立ち上がった。利市は慌てて後に続く。眠気は吹き飛んだ。
 塩崎が蒸し器をあけ、中から生地を取り出した。
「あ」
 青黒かった生地が、変化している。夜になる直前の空の色、群青とも紫とも言えない複雑な『紫』。求めて已まなかった乃木冬川の色だ。乾燥させ、改めて水洗いにかけるのだが、そうなると一層、鮮やかに発色するだろう。それを思うと、利市は興奮を抑えられなかった。
 感動で声が出ない。まだ完成とは言えない代物でも、息が詰まるほどに美しい。
「すごい…」
 言葉が零れる。色むらを確認する多喜は、利市とは正反対に淡々としていた。
「こっからは仕上げだけや。色に関する技術的なことは何もないし、振袖が仕立てあがったら連絡するから、おまえはもう帰れ」
 蒸し上がった生地をハンガーに吊るしながら、多喜が未だに呆けている利市に言った。その物言いはなぜか冷めている。利市が最後まで付き合うと言っても聞く耳を持たない様子で、
「いつまで仕事休んだら、気、すむんや。友禅師やろ? 友禅師が染めんでどうする」
と続けた。「でも」と出かけた言葉を利市は飲み込む。振り返った多喜が、人差し指で利市の唇を押さえたからだ。
「俺はおまえの言うことを聞いた。今度はおまえが聞く番や。もし辛抱出来んで、うちに来たら、この振袖は燃すから」
「な…っ」
「おやっさん、タクシー呼んだって。俺、少し休ましてもらうし」
 頭の手ぬぐいを外して、多喜は蒸しの作業場から出て行った。
 利市はその後姿を呆然と見送る。取り付く島もなかった。
「タクシーは呼ぶけど、まだ日も高いし、お茶でもどうです?」
 塩崎が声をかけるまで、利市は多喜が出て行ったドアから目が離せなかった。






(七)


「多分ねぇ、多喜ちゃん、心配なんと違うかなぁ。川村さんと文人先生と、どことのう似てますさかい」
「文人さんと?」
 塩崎はコーヒーを淹れてくれた。さっきまでうたた寝していたのを見ていたからだろう。勧められた砂糖を断り、利市はカップに口をつける。いつもより苦く感じた。
「蒸し上がった生地見た時のあんたの目、文人先生と同しやった。あの『紫』に取り憑かれてる。そう感じたんと違うかな。いつか川村さんもあの色に焦がれて焦がれて、先生みたいになってしまうんやないかって」
「先生みたいって、文人さん、何かあったんですか?」
 塩崎は浅く息を吐く。言ってしまったからには、話すしかないと思っているようだった。それでも多喜が語らないことを話すのには抵抗があるのか、しばらく間が開く。
「最期はまあ、どっちかわからん状態でなぁ」
 山科の工房をたたんで嵐山に越してきた時には、すでに文人は精神的に不安定な状態だったと言う。何日も何日も塩崎のところのプレハブ工房に篭り、同じ色を染め続けた。どれも紫ばかり。作品としては決して悪いものではなく、製品にすればそこそこの値段がつくだろうに、蒸し器から出して色を確認すると、問答無用で鋏で切り裂いた。
 まったく工房に来なくなる時期があって、そう言う時は酒びたりの日々。悪い酒で、酔っては他の客に絡んで暴れ、出入り禁止の店がどんどん増えて行った。とうとう家で飲むしかなくなり、今度は嗜める多喜に暴力をふるうようになった。一度、多喜の防御で文人が脳震盪を起こしたことがあり、以来、多喜は極力抵抗しなくなった。散々に殴り、蹴りして、酔いが醒めて我に返ると、文人は多喜に泣いて許しを乞うた。
 それの繰り返し。文人の過去の実績を知る問屋から、時折仕事も来ていたが、全うしたことがなかった。途中で投げ出して、また『紫』に戻って行く。当然、生活は苦しく、多喜が『ふぁにー・ふぇいす』に勤め始めたのは、この頃からだと塩崎は語った。
「文人先生と冬川先生とでは、性質もセンスも違う。冬川先生は文人先生に自分の跡を継がせるんやなく、そのええところを精進して、文人先生なりの友禅を作り上げて欲しかったと思うんやけど、文人先生はどうしても、あの冬川紫をあきらめきれんかったみたいで。先生の元気な頃の作を見させてもろたことあるけど、やさしい色使いで、ええ作品でしたよ」
 絢人は五才の時に二人のもとにやって来たのだが、文人の本当の子供かどうかはわからないとのことだった。絢人を連れてきた女性はどこかのスナックの店員で、関係を持ったのは事実のようだが、いつ頃か文人ははっきり覚えていなかった。嵐山に来てからの間柄だとすると年齢が合わない。女性は半ば押し付けるようにして、絢人を置いて行った。以来、どこで何をしているのかは知れないのだと言う。勿論、多喜は絢人の出生について話すはずもなく、あくまで自分の推察だと塩崎は言いおいた。とにかく絢人は文人の実子として、今も育てられている。
 文人の状態は悪くなるばかりで、泥酔して昏倒し病院に入院することもしばしばであった。薬に頼らないと不眠を訴えるようになり、指示以上に服用するので、その隠し場所に多喜は苦慮した。そんな状態だから、とうてい仕事が出来るはずもなく、文人は友禅から離れて行く。反対に、文人に師事しているとは言え、それほど熱心でなかった多喜が友禅に目覚めていった。着物を染める仕事はなかなか得られなかったが、和風小物を作るようになり、塩崎の伝で雑貨店への卸も細々ながら始めた矢先、文人が亡くなった。薬の誤飲だった。手には手描き友禅の振袖の写真が握られていて、彼の父の作品、色は冬川紫だった。
「あの『紫』は魔性の色なんかも知れへんなぁ。冬川先生のほんまもんを見たことありますけど、そらすごい迫力やった。吸い込まれる言うんか。見たもんを虜にする力がある。わしなんか蒸しと水元やからそこまで執着せんけど、手描き友禅やってるもんやったら、一度は染めてみたいと思う色やろかと。川村さんもそうなん違いますか? そやから多喜ちゃんが染めた着物を辿って、ここまで来やったんやろうし」
「多喜さんは?」
「多喜ちゃん? どないなんかなぁ。初七日済ましたその日に、突然、来やって、長いこと文人先生の工房に篭ってたわ。遺品の整理かなんかしよるんか思たら、冬川紫を染めるから協力してくれ言うて。そっからの多喜ちゃんは、そら凄まじかった。とても憧れて挑戦するようには見えんかったし」


『友禅、嫌いなんや』


 最初に会った日の多喜の言葉だ。そして引き染めの日、まだ何も入っていない桶を黙って見つめていた彼の表情が忘れられない。
「あの『紫』のために親しい人を失いたくないんやと思う。わしはもう多喜ちゃんに、あないな辛い思いはさせとうない。ちゃんと仕事して、冬川先生に負けんくらいの名匠になったってください」
 塩崎は頭頂部がすっかり禿げた頭を下げた。利市は何も返せなかった。
 話は終わり、塩崎はタクシー会社に電話をした。タクシーが来るまでの間、多喜に会って帰りたいと利市は思ったが、車はすぐに来てしまい、それは叶わなかった。






(八)


 多喜から連絡が来たのは、三ヶ月以上経った四月の初旬のことだった。振袖の仕立てに時間がかかったらしい。こればかりは多喜には出来ないため、外注に出していたからだ。
 この三ヶ月、利市は出来上がる冬川紫のことよりも、多喜のことを考えていた。塩崎が語った辛い彼らの過去が、頭から消せない。利市には、あの色に対する執着と、『冬』の字を受け継ぐにあたっての拘りしか念頭になかった。そんな自分勝手な想いで、あれほど染めることを拒んでいた彼に、冬川紫を染めさせてしまった。そのことが、ずっと利市を苛んでいる。どんな顔をして、多喜に会えばいいのか。
 そんなことを考えながら、『文箱』への行き慣れた道を歩く。重い足取りであるのに、ちゃんといつもの所要時間で着いてしまうことが恨めしかった。
「いらっしゃい」
 出迎えた多喜は利市を二階に案内した。二階に通されるのは初めてだった。二部屋あって一つは絢人の部屋で、平日の昼間なので学校に行って居ない。もう一室は二階にしては珍しく床の間がある和室だったが、広く使うために床の間の部分に箪笥類が押し込まれていた。
 部屋の中央に据えられた衣文掛けに、大振袖が掛けられている。陽に茶色く焼けた畳の古びた和室には不似合いな大振袖は、白木蓮の絵柄、地の色は――紫。今まで乃木冬川その人しか染められなかった幻の色だ。
 利市の喉仏が上下した。利市が求め、文人が焦がれ続けたその色が、鮮やかな大振袖として現れた。
 利市は多喜を振り返る。入り口の引き戸に背を凭せて立つ彼は笑った。その笑みを見ると利市は切なくなった。この素晴らしい一枚を、どんな思いで染めたのだろうかと。
「どない?」
「今まで見たどんな着物よりも、きれいや」
 多喜は振袖の方に歩み寄り、
「冬川紫の、その美しさに感動する。そやから、その美しさを絶対に許さへん」
長い袖を手に取った。
「これは結局、冬川紫やない。あの色は乃木冬川が作る紫やから、そう呼べるんや。冬川かて、毎回同し色を染められたわけやないやろう。知っての通り、いつも同し条件で染めることは不可能やからな。『今日の色』は『明日の色』やない。そやから、乃木冬川以外の人間が染める紫は、どうしたって紛いもん。冬川が亡うなった今、もう誰にも染めることは出来へん」
「…でもこの色は」
「この色を冬川紫やと言うんは勝手やけど、そないに思うんはあの色を知ってる人間だけや。知らんやつなら、ただの紫か紺色にしか見えへん。知ってるもんだけが、あの色にこだわる。特別なもんやと、どんどん錯覚するから、どんなに染めても納得出来へん。だから取り憑かれたように深みにはまる」
 憧れ焦がれて求め続けた人間は、誰一人として出せなかった紫色。しかし多喜にとってはそうではなかった。最初の三枚の原動力は、文人を失い、その原因となったものに対する怒りであり、この一枚は、見たいと願う利市の情熱に絆されての末だった。
「目、瞑れ」
 多喜は向き直り、利市の視界を手で塞いだ。
「冬川紫は乃木冬川だけの色や。フミさんにはフミさんの色があったはずやのに、見向きもせんと亡うなってしもた。おまえにも、おまえにしか出せん色がある。いつまでもこないな紛いもんの『紫』を追わんと、川村利市らしいもん、探せよ。乃木冬川かて、自分のコピーは要らんと思てるはずや。目の前にあるこの振袖の色を、俺の色やと思て見てみ。染めの作業を思い出して。きっと色味が変わる」
 多喜の色。利市は目を瞑りながら、塩崎染工での日々を思い出した。一心に生地に向かう多喜の姿を。花の絵柄は彼が選んだ。師が描いたことのない白木蓮の花だ。地色の色合わせをする際の多喜の表情。引き染めの一番色は白で、これもまた冬川とは違う。
 地色を蒸しにかけている間、利市の肩にかかった多喜の重みが蘇る。この色を染めたのは多喜なのだと、無言で訴える。
 利市は目を開けた。それを合図に、多喜の手が外れる。開けた視界に振袖が入ってきた。
 印象が変わる。似て非なる紫に。
「変わった?」
「変わった」
「そうか」
 利市の隣に多喜が立ち、並んで大振袖を見る。微かに腕が触れ合って、袖越しに体温を感じた。その温もりはじんわりと広がる。
 一年前、利市は迷いの中にあった。師の七回忌を迎え、数年後に没後十年の大々的な作品展を催す話が持ち上がり、周囲は利市に『冬』の字を名乗るようにと無言で促す。また冬川紫を期待した。紫を染められない自分に、紫が代名詞の冬川の一字を名乗れる資格はあるのか…。そんな折に現れたのが、あの振袖だった。
 オークションに出た冬川紫風の着物三枚から、『文箱』に辿り着いた。そこで乃木文人の消息を知り、『紫』を染めたのが鳴沢多喜だと知る。
 そして多喜が利市のために染めた振袖は、冬川紫と言う名の多喜の『紫』だった。
 師は冬川紫のみならず、紫を染められない一番年若い自分になぜ、『冬』の字を与えたのだろうかと、ずっと考えていた。その疑問に、多喜が代わりに答えを出してみせた。
「自分の『紫』を染めて、『冬』の字を名乗るよ」
 片腕に多喜の存在を感じながら、利市は言った。
「そうか」
と、多喜は静かに答えた。




「友禅はもう、せえへんのか?」
「生活出来へんからな。これからアヤに金かかるし」
 着物の需要は年々少なくなる一方だった。手描き友禅ともなると高価で、更にその傾向が顕著だ。乃木工房ですら拵え一本では成り立たず、工房での友禅教室はもちろん、カルチャー・スクールでの体験教室や、和風雑貨、インテリア等に手を広げている。
 独立して自分の工房を持つのは難しい。利市は多喜を乃木工房に誘ったが、やんわりと断られた。
 振袖をたたみ終え、たとう紙(着物を包む紙)で包むと、多喜は利市に差し出す。
「そんな、もらわれへんよ」
 利市は慌てて押し戻した。
「誰がタダでやる言うた? ちゃんと諸経費はもらう。それに半年の生活費も補填してもらう約束やけど?」
 多喜はあきれ顔で言った。「あ」と利市は彼の言う約束を思い出す。考えてみればこの振袖を作る間、多喜はスーパーの早朝パート以外の仕事を休んでいた。午前中のコンビニのアルバイトは辞めねばならず、『ふぁにー・ふぇいす』は長期休暇扱いになっているようだが、当然、その間の給料はない。
――半年の生活費って、どれくらいなんやろう
 考えると冷たい汗が背中の中心を流れる。そんな利市の心の中を見透かして多喜が笑った。
「冗談や。諸経費と、おまえが着物一枚、拵える時の値段でええよ。分割オッケイやから」
 一階に下りると、ちょうど絢人が学校から戻ったところだった。例によって営業札を出したまま店を不在にしていたので、多喜の顔を見るなり小言が飛ぶ。しばらく会わないうちに絢人は変声期に入ったらしく、心持、声が掠れていた。「ごめんごめん」と多喜は謝るが、一向に真剣みがない。絢人はすかさず突っ込もうとしたが、利市の姿を見てやめた。
「川村さんを車で送ってくけど、アヤも一緒に行く?」
「留守番してる」
「ほな、車回すから、表に出とって」
 多喜はそう言うと車の鍵を持って、裏口から出て行った。
 利市は絢人に今までのことで礼を言い、言われた通り店から外に出ようとすると、絢人が呼び止めた。
「川村さん、時々遊びに来てな。そんで、タキちゃんにまた、着物、作らせて」
「絢人くん?」
「ぼく、タキちゃんが友禅挿してるの見るの、好きやねん。かっこええと思わへん?」
「うん、思う」
 挿し友禅の時の多喜の横顔を、利市は思い出していた。「かっこいい」と言う俗な言葉は似合わない、清廉な美しさがあった。あの姿をこれからも見たいと思う利市であったが、彼がどのような気持ちで友禅に対峙するかを考えると、無理強いは出来ない。
「でももう、したないって言うてるけど」
 絢人は首を振る。
「本当はしたいと思う。だって、楽しそうやったもん。それに着物、出来上がって来て広げた時、嬉しそうに何時間も見てたし」
 車が止まる音がした。利市の視線をそちらに向ける。それからまた絢人に戻すと、彼の頭をくしゃくしゃと撫でた。子供にはわからない事情が大人にはある。そう単純には何事も運ばない。
「来たみたいや。ほな、行くな」
 利市は店のは入り口に二、三歩進む。後ろから絢人の声が聞こえた。
「タキちゃん、一生懸命な人、好きやねん。そやから、次も川村さんが言えばするよ」
 利市が振り返るのと、クラクションが鳴ったのは同時だった。「え?」と聞きなおそうとする利市に向けて、再度、促すようにクラクションが鳴る。
「約束な、川村さん」
 用は済んだとばかりに手を振ると、絢人は居間の奥へ引っ込んだ。利市は揺れる暖簾に向かって手を振り返す。彼の言葉を反芻しながら表に出た。運転席から多喜が、店札をひっくり返してくれと利市に頼んだ。


『タキちゃん、一生懸命な人、好きやねん』


 利市は多喜を見つめた。「何や?」と彼がサイド・ミラーを覗いて言く。顔に何か付いているのかとでも思ったのだろう。
「なんでもない」
 引き戸を閉め、札を裏返した。それから店構えを見る。
 利市はまたここを訪れることになるだろうと、予感した。




                           <了>2008.04.06

 
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