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       目の前に広げられた振袖の地色を見て、川村利市(かわむら・りいち)は息を飲んだ。 
       喩えるなら、冬陽が沈み、夕闇から夜に変わる一瞬の空の色。紫と表現するにはあまりにも複雑な色合いのそれは、紛れも無く『冬川紫(とうせんむらさき)』と称された、手描き友禅師・乃木冬川(のぎ・とうせん)のものだった。 
      「どうですやろ? 冬川先生の作やと思われますか?」 
       乃木冬川の七回忌に、その振袖は現れた。冬川が生前懇意にしていた京都の呉服商・業平屋が持ち込んだのだ。何でも店の贔屓筋が某オークションで競り落とし、冬川の手によるものかどうかを調べて欲しいと依頼してきたのだと言う。冬川作品を見定める目に自信を持つ業平屋であったが、その彼をもってしても真贋がわからず、冬川最後の弟子である利市に託された。 
       師の図案はすべて頭に入っている。菊花の絵柄は冬川の最も得意とするもので、構図も筆致も彼の特徴を表していたが、利市の記憶の中には存在しない。それに葉に虫食いの跡は描いても、花枯れは表現しなかった。特有の上品さで咲き誇る菊の一輪に、先が薄茶に色づけされ、落ちる瞬間の花弁が一枚――あり得ない。 
       業平屋も当然、そのことには気づいていた。 
      「そやけどこの紫は、見れば見るほど冬川紫としか。それに広げた時の印象が」 
      「ええ…」 
       やっとのことで利市は言葉を吐いた。 
       冬川は水元(余分な糊や染料を洗い流す)以外の工程を、すべて自分で行う友禅師だった。納得の行く仕事のために、製作するペースを崩さなかった。故に作品数は少なく、市場価値が高い。贋作は毎年のように出てくるが、これほどに出来の良いものを利市は見たことがなかった。 
       何よりもその色。冬川紫は唯一人、後継として『冬』の字を名乗ることを許された利市でさえ、出せないでいる色合いだった。冬川が没して六年、その間に弟子の誰も再現することが出来ずにいる幻の色なのだ。今までこの色の贋作は出ていない。  
       その色が目の前にある。 
      「実はこれ一枚やないんです。あと二枚、別々の古着市でも出とったらしいんですわ。冬川紫が出たら仲間内で評判になりますよって」 
      「乃木冬川の銘で出品されてたんですか?」 
      「そないに聞いとります。さすがに同じ時期に三枚も出るんはおかしい言うことになって、破格は破格らしいんですけど」 
      「出品者は?」 
       利市に心当たりがないわけではなかった。乃木冬川には、家を出て行った手描き友禅師の息子がいた。 
       
       
       
       
       
       
      (一) 
       
       
       その店は嵯峨嵐山にあった。と言っても観光地として名の知れた辺りではない。住宅地の一角にあり、気をつけていないと通り過ぎてしまいそうなほど、小ぢんまりとした店構えだった。和装古着と小物を扱っているようだが、営業努力をしているのかどうなのかは実に怪しい。季候の良い四月だと言うのに入り口のガラス戸は閉められ、「営業中」の木札が無ければ休みなのかと疑うほどで、客はおろか店員の姿もなかった。 
      「すみません。ごめんください」 
       利市は店に入った。声は空しく響き、不親切な地図と自らの方向音痴気味のせいで、迷いに迷って辿り着いた彼の疲労は増進された。店内には緋毛氈で覆われた縁台があり、利市はとりあえず腰を下ろす。 
       オークションや古着市に出品された冬川紫風の振袖と訪問着を辿ると、何軒かの店を経ていたことがわかった。この小さな古着屋『文箱』で六軒目。遡るにつれ下がる売り渡し価格からみて、ここが元だと考えられる。誰かがあの三枚をこの店に持ち込んだのだ。 
       利市は店内を見回した。一応はそれらしく商品が並んでいる。吊り下げられた中にも、棚に並んだ中にも、あの紫色を使った着物は見受けられなかった。利市の目は小物や端切れのコーナーに止まる。 
      「これは…」 
       近づいて手に取ったのは御手玉。籐籠に零れるほどに盛られているうちの数個は、見覚えのある色だった。掘り起こして縁台に並べる。一枚の友禅の端切れから作られたと思しきそれの色は、冬川紫に似ていた。 
      「うちに何か用?」 
       背後から子供の声がかかった。振り返るとランドセルを背負った少年が、訝しげな目で利市を見ている。入り口が開いたことに気づかないくらい御手玉に見入っていた利市は、少なからず驚く。 
      「なんや、お客さん?」 
       少年は縁台に並んだ商品を見て、利市が客だと認識したらしい。目の表情が緩んだ。 
      「それ一個百円です。おんなし色でええん?」 
      「あ、いや、これは」 
       少年の胸には小学校の名札があった。『五年三組 乃木』 
      ――乃木?  
       『乃』を使う乃木と言う苗字は珍しい。利市は今一度、少年の顔を見た。心なしか、師の面影が見えなくもない。 
      「君のお父さんは、文人(ふみと)さんて名前?」 
       少年の眉間に皺が入り、表情は最初に利市に向けられたものに戻った。 
      「そうやけど、おじさん、お父さんの知り合い?」 
       利市が肯くと、少年は横をすり抜け、店の奥へと入ってしまった。 
       乃木冬川の息子である文人の消息を知りたくて、利市はここまで足を運んだ。持ち込まれた振袖は新しく、最近、作られたものに見えたからだ。あの色が出せる人間がいるとしたら、血を分けた文人の可能性が高い。三枚の着物の出処を辿れば、彼に行き着くのではないかと考えた。 
       乃木文人は利市と入れ替わるようにして冬川の工房を出て行った。二十年近くも前の話だ。山科の辺りで工房を開いたと聞いたことがあり問い合わせてみると、十年前にそこを畳んでいた。嵐山に移り住んだことまではわかったが、それ以後の行方は知れないままだった。そう簡単には彼に行き着かないだろうと利市は思っていたのだが、まさかこんなに早く消息を知ることが出来ようとは。 
      「昼寝する時は、店、閉めとけて言うてるのに」 
      「ごめんごめん、つい転寝してしもたんや」 
       奥からさっきの子供の声と大人の男の声が近づいてくる。乃木文人とはほとんど初対面の利市は、緊張を覚えた。 
       店と住居を仕切る長い暖簾が揺れ、男が顔を見せた。年の頃は利市とさほど変わらない。行っても四十手前、ひょろりとした優男で、肩近くまで伸びた髪は寝癖がついてボサボサしていた。写真で見たことがある文人とは、面立ちも違えば年齢も印象も違う。 
      「えっと、どちらさん? フミさんのお知り合いらしいけど?」 
       さすがに人前に出るのにあまりな形(なり)だと思ったらしく、彼は髪を手櫛で後ろに撫で付けて、とりあえずの体裁を整えた。文人とは別人だとわかり、利市は少々拍子抜けした。 
      「川村と言います。乃木工房から参りました。乃木文人さんはご在宅ですか?」 
      「乃木工房? ああ、フミさんの親父さんとこの。フミさんなら、もうここにはおらへんよ」 
      「もういない? したら、今はどちらに居はるんですか?」 
       男は天井を指差した。「え?」と利市が問い返すと、 
      「天国」 
      と答える。 
      「地獄やろ?」 
       先ほどの少年が子供らしからぬ口調でそれを訂正すると、男は苦笑で返した。 
       
       
       
       
       
       
      (二) 
       
       
       乃木文人は三年前に病没していた。通された居間に小さな仏壇があり、運転免許証の写真だと思われる無表情な遺影が飾られていた。享年四十四とのことだが、もっと老けて見える。 
       男は鳴沢多喜(なるさわ・たき)と名乗った。文人とは十年来の友人で、今は彼の息子・絢人(あやと)の保護者であり、この店を経営しているらしい。およそ儲かっているとも思えない店だが、暮らし向きは窮しているようには見えなかった。 
      「それで、フミさんに何か用やったんか?」 
       利市は落胆の色を隠せない。糸口が途切れてしまった。もしもあの冬川紫風の着物が文人の手によるものだったなら、彼が亡くなった今となっては、新たに見ることは難しいだろう。 
       それでも確かめずにはいられず、利市は三枚の写真をテーブルの上に並べた。 
      「この着物なんですが、見覚え、ありませんか?」 
       多喜は手に取るでもなく、写真を見る。利市は着物の経緯を話した。オークションや古着市で出ていたもので、乃木冬川の銘がついているが偽物であること、その足跡を辿ると、この店に行き着いたこと、そして製作者が文人ではないかと思っていることなどなど。 
       多喜は利市の話を、時折、皮肉っぽい笑顔を見せながら聞いていた。その様子から三枚の着物に関して、まんざら知らないでもないように利市には思えた。 
      「ほんで、これを作ったんがフミさんやったら、どうなんや? 今まであの人を探してたように思えんかったけど?」 
      「…この色は、誰もが出したくても出せんかった色なんです。もしこれが文人さんの手によるものやったら、どうしたらこの色が出せたんか聞いてみたくて」 
       くつくつと多喜は笑い、「どいつもこいつも」と呟いた。 
      「思い出した。あんた、川村さんって言いやったな? 下の名前、リイチやろ? 確か唯一、冬川の『冬』の字を使こうていい弟子らしいやないか」 
      「はい」 
      「絵柄も染色も師匠に引けを取らんって言われてるのに、未だに『冬』を名乗ってへんのやて? それは何で?」 
      「それは…」 
       利市が未だに『利市』のままなのは、本当の意味で後継足り得ないと彼自身が思っているからだった。冬川紫を再現するのは無理かも知れない。しかし自分なりに納得する紫色をさえ、利市は表現出来ずにいた。周りは冬川紫を期待している。それがゆえの『冬』だと、兄弟子達の目が見ている。紫を染められないままでは、『冬』を名乗れない。 
      「たかが紫やないか」 
       すぐには答えられずにいる利市に、多喜が言った。心の中を見透かされた気分だった。 
       机上の写真に落ちていた視線を、利市は彼に向ける。 
      「たかが紫?!」 
       自然、声が大きくなった。 
      「紫やから紫て言うてる。紫以外の何色に見えるっちゅうんや」 
      「ただの紫やない! 誰も染められへん、冬川紫なんや」 
      「ほな、これは何や? その冬川紫やないんか? 誰も染められへんかったはずの紫がここにある。その紫を使こうた着物が出たから、あんたはわざわざ探してここまで来たんやろう?」 
      「それは…!」 
      「長いこと放ったらかしやったフミさんの居所探して、ここまで来たんは、この色を冬川紫やて認めたから違うんか?」 
      「そうや、冬川先生の血を引く文人さんやったら、出せてもおかしないと思て」 
       二階から軽い足音が下りてくる。大人二人が――利市一人が熱くなっている居間に、肩からカバンをたすき掛けにした絢人が入ってきた。それから並べられた写真を一瞥すると、 
      「でもそれ作ったん、タキちゃんやで」 
      指差して言った。 
       今しも「友禅師ではない人間に何がわかる」と出かかった利市の言葉は、出口を失い飲み込まれた。 
      「塾、行くんか? 携帯、持ってき」 
      「もう入れた。話、長なるんやったら、店札、ひっくり返しとくけど?」 
      「頼むわ」 
       絢人は利市に向かってぺこりと頭を下げ、店の方から表に出て行った。 
       彼の出現が、利市の頭を冷やす。と言うよりも思考を停止させてしまった。 
       写真に目をやり、多喜を見た。 
      「ほら、たかが紫やろ? 俺でも染められるんやさかい」 
       片肘をついた彼はにやりと笑った。 
       「友禅師なのか」と言う利市の問いに、多喜は「前はね」と答えた。件の三枚は二年前に作ったもので、それを最後に友禅からは足を洗ったのだと付け加えた。 
       文人の作ではなく、まったく乃木とは関係のない人間が作ったものだったことは、利市をひどく驚かせる。 
       利市は小学校の社会見学で、乃木工房を訪れて手描き友禅に興味を持ち、工房が開いている友禅教室に通った。中学を卒業してから正式に乃木冬川に弟子入りし、師が亡くなるまでと合わせて十五年余り、その作品を間近で見て学んだ。もっと長く工房で働いている人間もいるが、その誰よりも師の作風を理解していると、利市は自負している。しかし多喜は、冬川の友禅を見続けてきた利市よりも正確に、冬川の作品を再現してみせたことになる。色はともかく図案も、虫くいの葉か、枯れの花弁かの違いで、素人目にはわからないほどだ。たとえ贋作目的で似せて作ったのだとしても、技量が伴わなければ成しえない仕業だった。 
      「したら、今は?」 
      「ここの店主とフリーター」 
       あれほどの腕を持ちながら、使わずにいると言うことが、友禅の世界で生きている利市には信じられない。 
       「たかが紫」発言で熱くなった利市の心は、毒気を抜かれて平静を取り戻す。かわりに別の熱が満ちてくるのがわかった。三枚の作者が本当に多喜であるなら、再びあの色を見ることが出来る。 
      「鳴沢さん、お願いがあります」 
      「嫌や」 
       話の内容を最後まで聞かず、多喜は答えた。利市は面食らい、その表情を見て彼は面白げに笑った。 
      「まだ何も言うてないけど」 
      「言わんでもわかるわ。フミさんに頼みたかったことを、俺に頼みたいんやろ? お断りや」 
      「なんで?」 
      「そんなんに時間かけるほど生活に余裕ないから。食うて行けんくなる」 
      「それなりのお礼はします。何やったら、うちの工房に入ってくれても構わない。話はつけるから」 
       多喜は相変わらずへらへらとした笑みを浮かべてはいるが、少し目の印象が変わったように利市は感じた。どこを見ているのか、微妙に視線も外れている。 
      「友禅、嫌いやねん。二度とする気ない。悪いな」 
       そう言った時、一瞬、彼から笑みが消えた。「おや?」と利市が彼を見つめると、また先ほどの笑みが浮かぶ。 
       会話が途切れた時、電話が鳴り、多喜は受話器を取った。 
       あきらめきれない――利市は机上にまだある写真を見た。師が亡くなって六年。あの仕事はもう見られなくなった。白い反物が命を吹き込まれ、着物のために鮮やかに変容していく様子は、どんなに焦がれても二度と見ることは出来ないのだ。思い出は年月と共にやがては不鮮明に失せていく。せめてあの色だけは、失いたくない。 
      「アヤの塾がある日は、定時出勤出来へんの知ってるでしょ? あいつが帰ってきたらすぐ出るから、それまで何とか頑張れんの?」 
       多喜の電話の声で、利市の意識は現実に戻った。顔を上げた利市と彼の目が合う。彼の表情が閃いたと言った風なものに変わり、受話器の口を押さえた。 
      「すぐ帰らなあかん?」 
       また毒気を抜かれた…と、利市は思った。 
       
       
       
       
       
       
      (三) 
       
       
      「よく続くわね。このままやと百日、大丈夫なんやない?」 
       グラスに口をつける度に次を注ごうとする手を、利市はやんわりと断った。もともと酒は嗜む程度で、大して強い方ではない。ほぼ毎晩の飲酒は、さすがに体にきつかった。 
       利市がここ『ふぁにー・ふぇいす』に通い始めて四ヶ月が経っていた。『ふぁにー・ふぇいす』は嵐山の歓楽街にあるゲイバーで、多喜の夜の仕事場である。 
       鳴沢多喜は早朝にスーパーの品だしのパートをし、絢人を学校に送り出してからの午前中はコンビニでバイト、午後から夕方までは自分の店『文箱』を開けて、夜は『ふぁにー・ふぇいす』で働くと言う生活を送っていた。 
       利市が三枚の着物の出処を辿り『文箱』を訪れた最初の日、病欠者が出て人手が足りないので、早めに出勤して欲しいと『ふぁにー・ふぇいす』から連絡が入った。多喜は絢人の塾がある日は遅番と決めていて、一旦は断ろうとしていたが、たまたま居合わせた初対面のはずの利市に、 
      「アヤの迎え、頼まれてくれへんかな」 
      と半ば有無を言わせない勢いで頼み、仕事に出て行った。利市が引き受けたのは、少しぐらい恩を売って、話の続きをしようとの腹積もりからだ。言われた通りに塾が終わる時間に絢人を迎えに行き――迎えが利市だったので、彼はひどく驚いていた――、多喜が用意した夕食を一緒に食べ、その他の生活行動を見届けた後、渡された名刺の店に向かった。名刺は何かあった時のためのもので、「来い」とは言われていなかったが、昼間の話の続きをしようと出向いたのである。 
       行ってみて、少なからず利市は驚いた。名刺から水商売とは知れたが、そこでバーテンか、もしくは皿洗いなどでもしているのかと思っていたら、本人がホステスとして働いていたからだ。ワンピースにウィッグ、多喜はそれなりの装いだった。 
      「何や、わざわざ来んでも良かったのに。明日、仕事なんと違うんか?」 
      「な、成り行きで」 
       店構えに怯んだ利市は、挨拶だけして帰ろうと方針を変えたのだが、陽気な他のホステス達に引きずり込まれ、無理矢理席に座らされた。 
      「それに話も途中やったし」 
       利市がそう言うと、多喜は苦笑した。 
       結局その日は、他のホステスに邪魔をされて、話の続きなど出来る状況ではなかった。利市は日を改めることにして、それから二日後の『文箱』が開店している時間を狙って訪ねたのだが、居留守を使われて会えない。次の休みにも足を運んだが、やはり会うことは出来なかった。朝早くから夜遅くまで働いている多喜にとって、『文箱』の営業時間はイコール休息時間であるらしく、その生活サイクルを知ってしまうと、居留守を咎める気にはなれなかった。 
       そこで利市は確実に会える『ふぁにー・ふぇいす』に、客として赴くことにした。指名客である以上、多喜は利市を無碍に扱えないと考えたのだ。仕事が終わった夜なら、休みの日を待たなくてもいい。利市の職場の乃木工房からだと、一時間半もあれば通える。店に来られては多喜は逃げも隠れも出来ず、利市が居る時間中丸々は無理でも、必ず席につかせることには成功した。時間にして数分のことだが、確実だ。利市は三日と空けずに通った。 
      「タキちゃんに、えらいご執心やねぇ」 
       多喜が席にいない間は、別のホステスが利市の相手をする。規模の大きくない店に一ヶ月も通えば、すっかり顔馴染みになった。 
      「こんなええ男がって、みんな羨ましがっといやすえ。今度、うちもご指名しとくれやす。あんじょうサービスしますさかい」 
      「ほな、私も。あないに冷とうて薹が立ったタキちゃんなんて、もう見切って、ね?」 
       芸者風からちいママ風、一頃流行ったボディコンの女子大生に、巷で話題のミニスカートのメイドと、さながら仮装パーティーのような店内は、いつも賑やかだった。多喜はここでもやる気があるのかないのかわからない様子であったが、そこそこ人気はあるらしく、あちこちのテーブルで声がかかる。知り合いと言うこともあって、利市はいつも後回しにされた。 
      「ほんま、しつこいな。そろそろ辛どうなってんのと違うんか?」 
      「大丈夫や。ここでしか話、出来へんからな」  
       実は本題になかなか入れずにいた。他愛もない会話は厭わない多喜であったが、友禅の話になると途端に口が堅くなった。ふざけた笑顔を見せるだけで、のらりくらりと話題を変える。利市にそれをさせないためか、彼一人では絶対に席につかず、他のホステスが必ず同席した。 
       そんな二人の奇妙な様子は、いつしか従業員の間でも知れることとなり、好き勝手な物語がネタにされる。ロマンティックなものから、ドロドロとした愛憎劇さながらのものまで、良い酒の肴だ。根負けしたのは多喜だった。だからと言って素直に話を聞くことになったかと言うとそうではない。 
      「そうやなぁ、ほな百回、休まずここに通ったら話の続きは聞いてやる。ただし、それまであの話はせんこと」 
      「何で百回?」 
      「百回指名されたらボーナス出んねん。それに深草の少将みたいでロマンティックやろ?」 
       『深草の少将』とは、小野小町の愛を得るために百夜通いを決行した昔話の主人公である。九十九日目の大雪の夜、道行の途中で凍死してしまい、恋は成就しなかったと言う縁起の悪いオチがついていた。 
      「自分が小町ほど美人や思てんのん?」 
       他のホステスが茶化して笑ったが、多喜は気にしない。それまでの日数は毎日じゃないからリセットすると言われた。 
       百夜通いなど、方便に違いない。昼間仕事を持つ身が、片道一時間以上の道のりと、決して安くない酒代で百日通い続けるのは、容易なことではなかったからだ。途中で利市が根を上げると踏んでのことだろう。しかし十五才の頃から乃木工房に修業に入った利市は、我慢強さには自信があった。その条件を即答で呑み、週四日の多喜の出勤日に通う日が始まったのだ。 
       友禅の話題を出さない限り、多喜は利市をちゃんと客として遇してくれた。案外に話し上手で、人気があるのもうなずける。最初はその女装に違和感もあったが、見慣れると『ふぁにー・ふぇいす』のホステスの中でも、キレイどころに入るだろう。店内の照明が薄暗く、ほんのり赤いライティングの効果もあると言えたが、顔の造作が基本的に整っているのだ。 
       絢人が自慢らしく、彼の話になると相好が崩れた。頭もいいし、習っている剣道の筋も良いと親馬鹿丸出しで話す。 
       多喜のそんな様子を見ると、利市は本来の目的を忘れ、いつの間にか客の一人となっていた。 
      「毎晩、嵐山の辺まで出歩いてるみたいやけど、変な虫がついたんやないやろな?」 
       乃木工房の事務方を取仕切る宮前が、将来、工房を背負って立つ利市を慮って言った。飲み歩く場所は出町柳にもたくさんある。一時間以上かけて、それも毎晩飲みに行くとなると、理由は女性絡みとしか考えられないのだろう。利市は独身で、乞えばいくらでも好条件の、工房にとっても有益な縁談が入る。宮前が心配するのも無理からぬことだった。 
      「そんなんやないんです。どうしても教えてもらいたい人がいて、その接待みたいなもんやから」 
      「そやったらええけど。あんまり酒、強い方やないんやし、毎晩遅遅(おそおそ)やったら仕事にも差し支えるさかい、ほどほどにしときや」 
       酒は自分が気をつければ大丈夫だったが、店内の空気の悪さには辟易した。店は古いビルの地下にあって、空調と排煙設備はあるものの、それも古くなっているのか完全に煙草の煙は排されず、何となく店の中は霞んで見えた。ホステスが使う香水の匂いと、アルコール、煙草の匂いなど、さまざまなものが少しずつ混ざり合って、空気に微妙な匂いをつけている。利市は子供の頃に喘息を患った。成人してからほとんど出なくなったが、疲れが溜まって免疫力が低下すると、軽く咳き込むこともある。 
      ――やばいな… 
       百夜通いを始めるにあたって、利市は久々に吸入器を携帯するようになっていた。持っているだけで安心する御守りのつもりだったが、通い始めて五十日を越えた辺りから、店でしばしば咳が出るようになり、ついにある夜、発作が起きた。 
       
       
       
       
       
       
      (四) 
       
       
       利市は遠くで声がするのを聞いていた。 
      「また友禅、するん?」 
      「さあ、どうしょうかな。アヤはどうしたらええと思う?」 
      「そんなん、タキちゃんのことやろ」 
      「冷たいなぁ、相談してるんやで」 
      「ぼくは、タキちゃんは友禅作ってる時が最高、かっこええと思ってるけど?」 
       目を開けると天井が見えた。そのまま視線だけで見回す。二階へ上がる階段と、小さな仏壇、暖簾のかかった店への入り口、摩りガラスの入った格子の引き戸が片方に寄せられ、台所が見えた。こちらに背を向けて立つ二人は大人と子供で、まず子供が味噌汁碗を乗せた盆を持って振り返った。 
      「あ、起きたみたい」 
       絢人だ。利市と目が合って、多喜に声をかけた。 
      「目、覚めたんか? 今から朝飯やけど、食える?」 
       利市は喉の奥が乾いていた。喋ろうとするとヒューヒュー音がする。それで昨夜、喘息の発作を起こしたことを思い出した。『ふぁにー・ふぇいす』で急に息苦しくなり、ポケットを探って吸入器を取り出そうとしたのだが、ひどくなる予感が焦りを呼んで、上手く手が触れなかった。誰かが救急車を呼ぼうとするのを辛うじて制し、バック・ルームで休ませてもらった。見つけた吸入器で少しマシになった後のことを、利市は覚えていない。『文箱』にいるのだとしたら、多喜が連れ帰ったのだろう。 
       のろのろと起き上がると、身体中が痛かった。 
      「面倒かけたみたいやな」 
      「ほんまや。喘息持ちが、あんな空気の悪い店におったらあかんやろ」 
       利市の分の味噌汁と茶碗を絢人に渡しながら、多喜が答えた。慣れた手つきで絢人が人数分のご飯を盛り、テーブルの上に並べた。それから利市が座ると思しき位置を指差す。 
      「ありがとう」 
      「もう大丈夫なん?」 
      「うん。君にも迷惑かけたな」 
       心配してくれたのかと礼を言うと、「ほな、後片付け担当な」と絢人は自分の位置に座った。台所から多喜が「今日は土曜日やぞ」と絢人を嗜める。どうやら学校が休みの日の食事の後片付けは、絢人の担当らしかった。 
      「働かざるもの、食うべからずやないの?」 
      「この人は日頃、働いてるからええねん。それに病み上がりやし、少しは大目に見たり」 
       多喜も自分の位置に座った。昔ながらの典型的な朝の食卓。食欲がなかった利市だが、味噌汁で嗅覚が刺激され箸を取る気になった。 
       多喜は土曜日を絢人に合わせて、『文箱』以外の仕事を休みにしていた。『文箱』を休みにしないのは「本業だから」とのことだが、今ひとつ真実味に欠ける。午後二時から絢人が剣道の稽古に出るので、その暇つぶしに店を開けると言う方が正しく思えた。利市の心の声は「暇つぶしやん」と絢人が代弁した。利市が噴出し、それが二人にも伝染して、和やかな笑い声が食卓に響いた。 
       利市の職場・乃木工房は土曜日でも開いている。土日は手描き友禅の教室を開いていて、工房に所属する染師は週交代で講師を務めることになっていた。その日は運悪く利市が担当だったが、久しぶりに起こした喘息の発作が日頃の疲れも引き出し、とても出る気にはなれない。朝食を終えて絢人がその後片付けを始め、多喜が掃除や洗濯に取り掛かると、休む旨を工房に連絡した。帰り支度を始める利市の様子を見て、 
      「もう少し休んで行ったら?」 
      と多喜が言った。意外な言葉に利市が「え?」と聞き返す。 
      「まだちょっと顔色悪いし。帰りの電車でおかしなったら困るやろ? 洗濯済んだら車で送る」 
      「これ以上、迷惑はかけられへん」 
      「別に迷惑やなんて思てへんよ。まあ、どっちでもええけど」 
       これはもしかしたらチャンスかも知れない。覚醒する直前に聞いた会話が現実のものだったとしたら、多喜の気持ちが少し、利市の話を聞く方に傾いているのではないか。実際、利市への当たりも柔らかくなっている。帰るまでの間に話が出来るかと期待して、彼の言葉に甘えることにした。しかし多喜は何だかんだと用事を作り、腰を落ち着かせることはなかった。土曜日はいつもそうなのか、それとも態とか――あの会話は利市の願望が見せた夢だったのか。 
      「もう『ふぁにー・ふぇいす』には来るな」 
       帰りの車に乗り込んだ時、多喜が言った。 
      「行くさ」 
      「また昨日みたいに苦しなるぞ」 
      「心配してくれるんか?」 
      「昨日みたいなことになったら、迷惑なだけや」 
      「悪かったと思てる。子供の時に比べたら、ほとんど出んようになってたんで油断した。今度からちゃんと予防していくから」 
       乗り込んだものの、エンジンはかからない。ハンドルに手を置いたまま、多喜はしばらく黙っていた。 
       利市は急がなかった。自分から話を繋ぐこともせず、多喜の言葉を待った。 
      「金と時間使こうて、しんどい思いしてまで、何であの色に拘るんか、ようわからん」 
       多喜に表情はなく、利市を見ようともしない。どこを見ているのか、何を思い出しているのか、利市に話しかけているのか、誰に問いかけているのか。 
      「色は他にもようさんある。その一色が出せんから言うて、着物が作れんわけやなし」 
      「自分に出せない色やからこそ、焦がれるんやと思う」 
       利市の答えに多喜が振り向いた。何かを言いたげに薄く唇が開いたが、すぐに引き結ばれた。それから目線を落として浅く息を吐く。唇の端が少し上がった。 
      「職人やなぁ、おまえも…」 
       多喜は独り言のように呟くと、エンジンをかけて車を出した。そしてそれきり、黙りこくってしまった。 
       時々、利市は運転する多喜の横顔を窺い見た。視線を感じているだろうに、彼の顔の筋肉は動くことはなく、無言で話しかけられることを拒んでいる。結局、利市のマンションに着くまで、言葉を交わすことはなかった。 
      「送ってくれて、ありがとう」 
       マンション前に車は止まった。礼を言ってドアに手をかけた利市を、多喜が呼び止める。 
      「もう『ふぁにー・ふぇいす』に来んでいい」 
       ドアから手を離し、利市は多喜を振り返った。さっきと同じく「行くさ」と、彼をまっすぐ見て答える。百夜通いはまだ半分も残っていた。言い換えれば後半分だ。ここで引いては何もかも振り出しに戻ってしまう。 
       利市のそんな視線を多喜は無視して、ダッシュボードを開け、ボールペンと紙切れを取り出した。それに何やらを綴ると、利市に差し出す。見ると『塩崎染工』と言う名と住所と電話番号が記されていた。 
      「知り合いの水元や。場所を貸してくれる」 
      「何のために?」 
      「振袖一枚、拵える。そやからもう、百夜通いはせんでいい。行ってもおらんから」 
      「え?!」 
       多分、利市は間の抜けた、信じられないと言った表情をしているのだろう、彼の顔に笑みが浮かんだ。それから、さっきの紙切れを利市の手から取り、一行書き加えた。メール・アドレスだった。 
      「パソコン、持ってるやろ? 絵柄は何がいいかメールしろ。せっかくやから、おまえの好きなモチーフにしたる。出来れば花がありがたいんやけど。花なら、たいてい描けると思うし」 
      「そしたら?!」 
       全てが飲み込めて、利市は目を大きく見開いた。 
      「引き染め(地色を染める作業)になったら、連絡する。最低でも四、五ヶ月の仕事やからな、生活の保障はしてもらわなあかんけど?」 
       決定的な多喜の言葉を聞いて、利市は自分の頬を抓った。痛い――これは願望が見せた幻影でも、幻聴でもない。多喜は承諾したのだ。あの色を染めて見せることを。利市は念のために、もう片方の頬も抓る。同じ痛みをちゃんと感じた。 
       利市のその様子を見た多喜は、声をたてて笑った。 
                        
       
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