[epilogue]                                      

 鍵を開け、部屋に入る。
 履きなれない靴は、すぐに床に転がった。
 上着は手近の椅子にかけた。
 ネクタイを襟から引き抜き、無造作に放り投げる。ソファの肘掛に辛うじて引っかかった。
 シャツのボタンを外す。
 腕時計を外す。
 ソファに腰を下ろす。
 そのまま、ゴロリと横たわった。
 微かな芳香が、りく也の鼻腔に届く。
 ソファは――ユアン・グリフィスの定位置だった。
 




 
 葬儀には大勢が参列した。
 親族、友人、仕事仲間、沿道では霊園に向かう車列を、彼の演奏を愛した人々が見送った。
 埋葬式に出席したのは限られた親しい人間で、りく也と、兄の中原さく也も入っていた。
 ヴァイオリニストのさく也は、何度も共演し、かつてユアンが一方的に想いを寄せていたこともある。
 専属のピアノ調律師である加納悦嗣は、間に合わなかった。病院に寄って、持病の薬をもらってからの渡米なのだと言う。
「血圧の薬くらい、こっちで処方してやるのに」
「多分、それは口実だ。埋葬されるユアンを、見たくなかったんだと思う」
 長年の友人には違いないが、ショックで葬儀に出席出来ないほど親密だったとは、りく也には思えなかった。
「エツは、情に厚いから」
 加納悦嗣の恋人(パートナー)であるさく也は、僅かに口元を綻ばした。
 午後の食事会への招待は、二人して辞退した。さく也は遅れてくる悦嗣を空港に迎えに行くためで、りく也は夕方から出勤だった。血縁ならともかく、他人の葬儀のために仕事を休むことは出来ないとの理由に、誰もが少なからず驚いていた。
「それも、口実?」
 さく也が言った。
「他意はない」
 りく也は待っていた車のドアを、兄のために開けた。方向が違うのと時間の関係で、今日はここで別れることになっていた。
「本当に?」
  乗り込み際、彼がりく也を見た。
「何だ?」
「リクは、泣き方を知らないから」
  りく也はドアを閉めようとした手を止める。
 奇妙に間が開いた――一瞬と言うには長く、運転手が気づかないほどには短く。
「泣くって年でもないだろう?」
 意識を戻して、りく也はドアを閉める。
 それを合図に、ゆっくりと車が動き始めた。






 出勤まで時間は十分にある。
 しかし目は冴え、眠気は失せてしまった。
 とりあえず、バスルームへ。
 部屋の境目、作り付けの本棚には、CDの類が並んでいた。
 『Your birthday』と名づけられた十数枚のシリーズは、ユアン・グリフィスのクリスマス・ライブ盤だ。
 毎年、イブの夜に病院(マクレイン)で開かれたミニ・リサイタル。クリスマスが誕生日の、何も受け取らないりく也のために。
 CD化されたシリアル・ナンバー『1』のそれは、特別仕様にされりく也に贈られたが、封も切らないまま本棚に放置されていた。
 バスルームに向いていた足は止まる。
 一瞥。
 腕を伸ばし、その中の一枚を取り出す。
 封を切る。
 ケースを開ける。
 白い無地のディスク。
 レーベル面には、明らかにユアンの直筆で、
「何だ、この下手くそな字は」
 

『アイシテル』


 指で、拙い文字をなぞる。
「この日本語、知ってたんじゃねぇか、一杯食わせやがって…」
 もう一枚。
 封を切る。
 ケースを開ける。


『アイシテル』
 

 次の一枚も、その次の一枚にも。
 温かな手書きの文字は、甘い響きをも蘇えらせた。


『愛してる、リクヤ』
 
 



 
 りく也は電話をかけた。
「ジェフ? 急で悪いけど、今夜、カバーしてくれないか?」






 一枚の『Your birthday』を、プレイヤーにセットする。
 音楽が始まった。
 りく也はソファに座り、再び横たわる――懐かしい残り香。
 陽の光にも似た金色の髪。
 人懐こい青い瞳。
 大らかに笑む口元。
 表情豊かな声音。
 大きな胸に、
 …長く優しい腕。
 それら全てがピアノの音色に姿を変えて、りく也を包み込む。


 そして――――――




2007.07.08(sun)


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