りく也がその病室を訪れたのは、午前二時を回った頃。明かりが抑えられた中、ユアン・グリフィスは眠っていた。彼を起こさないように気をつけながら、ベッドに近づく。
右腕に点滴の管が、鼻には肺機能低下に伴う心不全を防ぐために、酸素を供給するカニューラが装着されていた。化学療法のために、自慢の金髪が不自然に抜け落ちた頭にはニット帽。痩せてすっかり面変わりした彼に、かつて『黄金のグリフィン』と呼ばれた美貌は、見出せなかった。
ほんの少し開いた口元にりく也は指先を翳した。微かに呼気が当たる。最低限の明かりは、こけた頬に影は作っても、胸の動きまでは照らし出さない。思わず確認せずにはいられなかった。
白衣のポケットに戻ろうとしたりく也の手を、ユアンの左手が引き止める。
「…リクヤ」
掠れ気味の声が名を呼んだ。
「起こしたか?」
「うとうとしていただけだよ。睡眠は十分過ぎるほど足りているから」
薄明かりに慣れた目が、ユアンの笑顔を捉えた。
「そうか」
と、りく也は自分の手首を掴む彼の手を、やんわりと外そうとした。しかし、すっかり骨ばって握力の失せているはずの手は、簡単には外れなかった。以前のりく也なら振り払っているところだが、さすがに病人相手にそれは出来ない。もう一度試みても結果は同じだった。りく也はあきらめて、そのままベッドの縁に浅く腰をかける。
「…病気になるのも、悪いばかりじゃないね。こうして、君が気を使ってくれるもの」
ユアンの声は笑みを含んでいた。ねめつけるりく也の表情が見えているのか、いないのか。そんなやりとりはいつものことだから、気にしていないのだろう。
ユアンが手を離したので、りく也は腰を浮かせた。するとすぐに長い手が伸びて手首を掴む。仕方がないので腰を戻した。手は弛んだが添えられたままで、りく也が動く素振りを見せると、『力の入らない手』に力が入った。しばらく静かな攻防が続き、ユアンの息が少し上がったところで、りく也はついに折れた。
「カルテぐらい取らせろよ」
そう言ってワゴンに乗ったカルテを指差すと、ユアンも素直に応じた。
ペンライトでカルテの治療記録を追う。点滴の種類と量が、日に日に増えていくのが見て取れた。懸念された肺炎の兆候は解消されたようだが、抗がん剤の副作用による吐き気と、口腔内いたるところに出来た炎症のために、固形物はほとんど口に出来ていない――溜息をりく也は寸でのところで止めた。患者が自分を見ている。不安にさせる仕草は、医師として失格だ。
「…君が眼鏡をかけることを、…ここに来て知ったよ」
「五十になったんだ。老眼くらいかけるさ」
「…なかなかセクシーだ、…老眼鏡とは思えない…」
「そりゃどうも。息が上がっているぞ。おしゃべりは止めて、安静にしていろ」
「せっかく…、最愛の君が…、来てくれているのに…?」
「仕事中だ。すぐに終るから、その間だけでも黙ってろ」
耳に優しい音量の音楽が入ってきた。穏やかな曲調のクラシックだ。無粋な機械音以外に音がないのは嫌だとユアンが言うので、この部屋では途切れたことがない。さっきまで聴こえてはいても耳に留まらなかった。他愛もない会話の一言、二言が、ここに入室した時から続いていたりく也の緊張を解き、音楽の存在を思い出させる。
上質なリネンの枕カバーにシーツ、廊下に面した窓にかかるブラインドは、ユアンの好きな色で統一されていた。彼の友人である画家が贈った何枚もの絵が、殺風景な壁を飾る。
一日中、騒々しいERと同じ棟にあるとは思えないほど、この病室には静かにゆっくりと時間が流れていた。
特別な病室――特別な病人のために、特別に作られたICU。ただ、どんなに特別でも、死は避けられない。もうユアン・グリフィスには、ほとんど時間が残っていなかった。
世界最先端の医療が、宣告された余命三ヶ月をさほど無理なく伸ばした。病院が用意した特別室は、最初の手術の回復期に使われただけで、看護師の常駐する自宅療養に切り替えられた。心身に負担のかからない程度の演奏活動も再開され、誰もが『黄金のグリフィン』の復活を疑わなかったが、 それも長くは続かなかった。四カ月を過ぎた頃、目に見えて衰弱し始めたのだ。
三月に入って寒い日が続き、ユアンは風邪を引いた。軽いと思われたが、免疫力が低下した身体にはかなり負担がかかり、肺炎の疑いが出てきたので緊急入院となった。幸い大事には至らなかったが、別の臓器に合併症が現れ、それを治療し終えた頃に、また別のところが悪くなる…と言う悪循環に、病状は一進一退を繰り返した。入院して一ヶ月、ようやく小康状態になったかと思うと、肺炎の症状がぶり返し、振り出しに戻った。そうして今では、一人で起き上がることが困難なほど、体力も気力も奪われている。
りく也はユアンの手首の脈を取った。弱く早い脈動が、指先から伝わる。
乱れた息が落ち着いているのをみて、聴診器をあてた。肺炎の兆候は解消されたとは言え、不自然な音が拍動に重なっている。胸元を整えてやり、カルテを元の場所に戻した。
りく也がカルテから意識を外すのを待ちかねたように、ユアンの手が伸びる。そしてりく也の指に触れた。
「…眼鏡をかける君を知らなかった。左手でサイン出来ることも…ここに来て初めて知ったよ。考え事をしている時には、前髪をかき上げるんだね…? それに…君の手はいつだって…温かい」
りく也の指を握りこむユアンの手は冷たかった。
「…学生に教える時も、子供の患者に接する時の顔も、初めて見る表情ばかりだ。…私の知らないことが、君にはまだまだある」
「人一人の全てを知ることなんて、出来ないさ」
「…それでも私は、君のことをもっと…もっと知りたい…」
りく也の言葉に、ユアンは自由にならない身体を起こそうとする。右手の管が一瞬ピンと張って、点滴のパックが揺れた。彼が思うように動けていたなら、腕から針は外れていただろうが、身体以上に痩せた体力では、背中が少し浮く程度が精一杯。それもすぐにベッドに引き戻され、パックの揺れも収まった。ずれた鼻のカニューラを、りく也は素早く直した。
頬を、一筋涙が伝う。
「死ぬのは恐くないんだ…、いつかは神の下に召されるのだもの。でも親しい人たちと別れるのが辛い。母や、兄や姉や、友人達。…誰よりも…君と会えないかと思うと、辛くてたまらない…」
りく也はぼんやりとその涙を見つめた。この光景は、かつて見たことがある。やはりこうしてやせ衰え、管に繋がれ、りく也を乞いながら逝った女がいた。二十年以上の時を経て、再び同じ光景を見ることになるとは。
「あとどれくらい…私の知らない君を、知ることが出来るだろう…?」
ただ、あの過去の女――母は、りく也を乞うたわけではなかった。鬱陶しいほどに呼びかけられた名も、「りく也」ではなく、彼女を捨てた、りく也に瓜二つの父のものだった。
「欲張るなよ。お前は他の人間が知らない俺を、知ってるじゃないか」
「リクヤ…?」
「俺の不機嫌な顔は、おまえしか知らないんだろ?」
ユアンがりく也を見た。薄闇の中に、見開かれた瞳の青い色が浮かぶ。その涙にほだされたから喜ぶことを言ったわけではなく、以前、彼が言ったことを引用したに過ぎない。
ユアンは握ったりく也の手を引き寄せ、愛惜しむように頬ずりした。声にならない呟きで、りく也の名を繰り返す。
「…君は私のことなんか…忘れてしまうのかな…?」
「それほど薄情じゃない」
「…それは、…友人として?」
色々な人間の死を見てきた。医師として患者の、子供として母親の。前者は通り過ぎる死で、後者は憶えておくに値しない死。どちらもりく也を『りく也』として求めなかった。だが、この『死』は違う。
「俺として」
ユアンの青い瞳が揺れた。薬の副作用は涙腺にも影響している。出辛い状態にある涙が、また一筋、先の跡を辿った。
「もう休め。疲れるから。俺も戻るよ」
何度も携帯電話がポケットの中で震えている。急患か指示かで、ERが呼んでいるのだ。手を離してくれと、りく也は付け加えた。今度はおとなしくユアンもそれに従った。離れて行くりく也の手を、彼が目で追うのがわかった。
「…キスしてくれないか、リクヤ?」
消え入りそうな声だった。
「何?」
「キスして、リクヤ…、この世の…名残に」
りく也の右の眉が、ピクリと上がった。
「生憎、後ろ向きなヤツにくれてやるキスは、持ち合わせていない」
「リクヤ…」
「何が『この世の名残に』、だ。俺がうんざりするほど、余命を伸ばす努力をするって言うならまだしも」
「リクヤ…?」
「どうなんだ?」
どうして、そんなことを言ったのか、りく也は自分でもわからなかった。身体中に転移した癌細胞で、見る度に衰弱して行くユアンに、多少なりとも同情しているのか? 余命を伸ばす努力など、され尽している。それでも、気力だけは保って欲しかった。自信に溢れ、生気に満ちたユアン・グリフィスを、りく也はもう一度見たいのかも知れない。
「生きたい」
泣き笑いのような表情を浮かべながらも、ハッキリとした口調でユアンが答える。
「よし」
りく也は眼鏡を外す。それからユアンの唇に自分のそれを重ねた。
彼の左腕が、りく也の肩に回される。
彼の唇は乾いていたが、歯列を割って触れる舌は、温かかった。
口内炎で痛むだろうに、それを感じさせず、深い口づけを求め続け、りく也もまた応えた。
左肩をユアンの手が掴み、いつの間にか抱きこまれる。彼の右腕の点滴が気になり、りく也は身動きが取れない。
少しでも他に気をやり、唇を離す素振りを見せると、ユアンはりく也の髪に手を差し入れ、それを許さなかった。
情熱的なキスに息が足りず、眩暈がする。
やせ細った病人の腕から逃れることなど容易い。しかし、りく也はそうはしなかった。黙って、彼の口づけを受け続ける。
握り締めていた眼鏡が手から滑り落ち、床で軽い音をたてた。
「…リクヤ」
ユアンの唇がりく也の耳朶を啄む。
どれくらい経ったのか――永遠とも思えたキスからやっと唇は解放されたが、身体はそのままユアンの腕の中に残った。
「何だ?」
「『I Love You』は、日本語で何と言うの?」
長いキスの余韻で、ユアンの胸が上下しているのが、りく也にも伝わる。
「…『アイシテル』だ」
「I…?」
「ア・イ・シ・テ・ル」
「アイ…スィ、ル?」
「ア・イ・シ・テ・ル」
「…アイ、シィ、テル?」
「アイシテル」
「…もう一度」
「アイシテル」
「…もう一度」
彼の腕に力が入り、
「アイシテル」
「…もう一度…、言って、リクヤ…」
吐息が耳にかかる。
とくん、とくん…と感じる鼓動は、どちらのものなのだろう?
「アイシテル」
「アイ…シテル」
「愛シテル」
ユアンが眠って、りく也は病室を出た。時計を見ると午前四時になろうとしていた。
特別室の前のソファには、ジェフリー・ジョーンズが座っていた。いつからそこにいたのかは知れないが、ジロリとりく也は一瞥くれる。そんな視線を彼は気にする風でもなく、腰を上げた。
「ERが君を探していたぞ。呼び出しにも出ないって。まあ、居所はわかっていたから、僕が来たわけだけど」
ニヤニヤとジェフリーが笑った。同期の中では出世頭で、心身ともに貫禄がついた彼だが、何か含みがある時の笑みには、少年っぽさが残る。
「じゃあ、サッサと呼びに入ればよかったじゃないか?」
「そこまで野暮じゃないさ」
「ふん」
りく也が鼻を鳴らしたところで、二人は並んで歩き出した。
「賭けは僕の勝ちだな」
下りのボタンを押して、エレベーターが来るのを待つ。一階から上がってくる軌跡を目で追いながら、ジェフリーが言った。
「賭け?」
「そ。『望みなし』、『デート止まり』、『ベッドイン』」
と、彼は片目を瞑って見せた。りく也は呆れて息を吐く。
ジェフリーの言う『賭け』とは、彼らがまだレジデントだった頃に行われたものだ。りく也に対するユアンのご執心は、医学生だった臨床ローテーションの時から知られていて、マクレインのE.R.のレジデンシィ・プログラムを選択してりく也が戻ってきたのを機に、誰からともなく面白がって始めたのだった。ジェフリーは常に一番人気のない『ベッドイン』に賭けていたが、勿論そんな賭けなどとっくに無効で、覚えている人間もいるかどうかなほど、大昔の思い出となっていた。
「あれから何年、経ってると思っているんだ? だいたい、ベッドインってのに相当するのか?」
対象にされていたりく也でさえ、忘れていた賭けだ。
「僕の中じゃ有効なんだよ。ちゃんと恋人のキスもしていたじゃないか?」
彼の訳知り顔の笑みに、りく也の頬が熱を帯び、口元がへの字に曲がった――いったい、いつ覗いたのだろうか?
「怒んなさんな。…まあ、そうだな、願望と歯止めもあったかな」
「願望と歯止め?」
「さっさと誰かのものになって欲しいって言うね。叶わないと思うくらい、君の事を愛している誰かに」
エレベーターがその階に着いて、ジェフリーが呆けているりく也の肩をポンと叩き、先に乗り込んだ。
「どう言う意味だ?」
閉まりかけるドアの中に、りく也は慌てて滑り込む。
「何で四回も離婚したと思ってるんだ」
ジェフリーは肩を竦めた。
「これが微妙でね、自分でも恋かどうかはわからない。ただ、ワイフとの結婚生活よりも、君との仕事を最優先していることに気づいたんだ。『賭け』が念頭にあるから、不思議と冷静でいられたってわけ。勝った今は、清清しい気持ちさ。これで君は一生彼のものだし」
「何、言ってる?」
「恋愛感情の有無はともかく、思い出には勝てないだろうからね」
カラカラと彼は笑った。りく也はと言えば、どう表情を作っていいかわからない。
会話が途切れたまま、エレベーターは一階に着いた。
「さ、戦場に着いた。僕の本音は賭けに勝った時点で、もう過去のことになったから、意識しないでくれよ。いいコンビでやって行こう、親友」
そう言うとジェフリーは乗り込んだ時同様、先に降りて行く。スタッフや患者が行きかう中に、彼の姿は紛れてしまった。
「先生! 休憩、長過ぎ! すごく忙しかったんですよ! さっさと指示下さい。ほら、カルテ!」
りく也の周りを、レジデントや看護師が取り囲む。カルテが次々と手に積み上げられた。クランケ・ボードに目をやると、火事による火傷、交通事故による外傷、強盗事件による銃創…と、書ききれないほどの患者名が残っている。携帯が何度も震えたはずだ。
キュッとりく也は唇を引き結んだ。カルテの重みが彼を現実に引き戻す――その唇に一瞬、蘇った甘やかな感触は、りく也の胸の奥底に封じられた。
四月の終わり、よく晴れた朝に、ユアンは逝った。
穏やかに、眠るように――――
2007.06.27(wed)
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