「六月十五日なんて、半年以上も先の話ですよ」
ジェフリーは思わず笑ってしまった。目の前のユアン・グリフィスは上品に微笑んで、肩を竦めてみせた。
クリスマス・イブの夜、マクレイン恒例のピアノ・コンサートが終わった後、ジェフリー・ジョーンズはユアンに呼び止められた。例によってリクヤ・ナカハラは、忙しさを理由に雲隠れしていて姿は見えなかった。もともとは彼の誕生日プレゼントとして始められたコンサートであるのに、ホール代わりの食堂で見かけたことがない。まったく、ユアン・グリフィスも報われない。「折り入って話がある」と言うので、空いている検査室にユアンを案内した。
「今から計画しておかないと、逃げられるからね。もう私一人の手には負えないんだ」
ユアンの話は、来年の六月十五日を何とかリクヤのオフに出来ないかと言うものだった。六月十五日は彼の誕生日で、毎年、友人達がバースデイ・パーティーを開いてくれるのだそうだ。もちろんユアンは欠かさず招待状をリクヤに送っているのだが、「仕事だから」の一言で片付けられ、一度も出席してくれたことがないらしい。
「僕が言ったって聞きゃしませんよ。あなたがらみの『楽しいこと』には意地でも参加しないって感じだから」
「そこをなんとか出来ないものかな? 君の知恵を拝借したいんだけど。何しろ仕事と言われてしまえば、私は無理強い出来ないから」
ジェフリーは腕を組んで、考える風に首を傾(かた)げた。
ジェフリーとリクヤは同い年である。そして二人ともMCATを取得した後、寄り道をして医学部に入学した。ジェフリーは経済的な理由から一度休学し、余裕が出来てから復学。リクヤの事情は知らないが日本に帰っていたらしい。そう言った境遇からか妙にウマが合って、親友もしくは戦友として良い関係が続いている。
リクヤ・ナカハラはとにかく女性によくモテて浮名も数知れず流したが、不思議とトラブルになることはなかった。本人曰く、「後腐れのない相手を選んでいる」。遊び――一時は性欲の捌け口にしているとレッテルを貼られていた――の対象としてしか見ていないせいか、四十五才の今日まで一度も結婚していない。
明らかに女しか相手にしていない真性へテロのリクヤに、アメリカが誇る世界的ピアニストのユアン・グリフィスが十何年も熱を上げていることは、マクレインの七不思議の一つとされていた――あとの六つが何なのかは、誰も知らないのだが。
とにかくリクヤはユアンには往々にして邪険で、両想いになる可能性は限りなくゼロに近いように思えるのに、ユアン・グリフィスは一向にあきらめない。
「しかしあれだけボロくそ言われて、よく愛想尽かさないねぇ」
「あれが良いんだよ。ゾクゾクする」
「マゾですか?」
ユアンが破顔した。「かも知れない」と答えると、今度はうっとりと笑んだ。
「あんな顔をするのは私に対してだけだろう? ちゃんと私だとわかって睨むんだもの。特別だと思えて、ついつい怒らせてしまうんだ。あのキツイ目を見たことあるかい。そりゃあセクシーだよ」
ジェフリーは目だけで天井を見た。彼自身、同性に対して恋愛感情を抱いたことがなかったので、ユアンの語るリクヤの目がどの程度セクシーなのか、理解するのはなかなかに難しい。しかし前半の「自分に対してだけ」はわかるような気がした。リクヤは患者にもレジデントや学生に対しても怒鳴ったことはない。患者が多くて倒れそうなくらい忙しい時でさえ、大声で指示は出しても理不尽に叱責することはなかった。人好きのする穏やかな笑顔で患者に接し、軽いジョークで周りを笑わせ、的確な指示で若い医師を導く。確かにそれらの表情の中には、キツイ目はない。彼が流暢なスラングを喋るのは、ユアンに対してだけだ。
(けなげだなぁ)
ユアンの我慢強い片想いを目の当たりにして、ジェフリーは頷いた。
「わかりました。何とか考えてみましょう。その代りと言っちゃあなんだけど、僕もお願いがあるんですが?」
「私に出来ることなら、何でも聞くよ」
「今度、ボストン・フィルと共演なさるでしょう? そのチケットを二枚。実は妻の誕生日週間でして。でもなかなかチケットが手に入らないから」
「お安いご用さ」
商談成立とばかりに、二人は固く握手をした。
何とか考えてみるとはとは言ったものの、
「さて、どうするかな」
ジェフリーは手もとのシフト表を見て、腕組みした。すでに六月。十五日まで何日もない。
スタッフのシフトを組むサラ・ヘイワードに頼んで、代わり易いようにリクヤとオフを一日違いにしてもらった。十五日はジェフリー、彼は十六日だ。ユアン・グリフィスからリクヤがバースデイ・パーティーの招待を、早々に断ってきたと聞いている。すっかり断った気でいるだろうから、ガードは緩んでいるだろう。あとはジェフリーの演技次第だ。
休みを代わる口実は考えてある。あまり早くから言っては勘ぐられかねない。切羽詰って『どうしようもない感』を出すのはやはり、前日辺りがベストかな…などと、診察以上の真剣さでジェフリーは考えた。
失敗は許されない。すでにユアンとボストン・フィルとのコンサートは聴きに行ってしまったのだ。それもカーネギーの特等席。
「リック!」
学生演劇で鍛えた演技力の見せ所だ。
「急で悪いんだけど、明後日の休み、明日と代わってくれないかな?」
十四日の午後、出勤して来たリクヤの姿を見つけるや、ジェフリーはその前に立ちはだかった。
「明後日、モニカの両親の金婚式なんだよ。そのホストだったってことすっかり忘れてたんだ。昨日の出掛けに念押しされて、忘れてたって言えなくってさ。この通り!」
彼の目の前で手を合わせる。モニカとはジェフリーの妻。この因果な稼業のおかげで私生活が疎かなジェフリーは、二度の離婚を経験していた。そしてモニカとも何度か危機を乗り越えて来た事は周知の事実だったので、これは結構使えるネタだとジェフリーは思っている。多少、自虐的だが、大げさに嘆いてみせた。
「なんだ、またか。いい加減に学習しないと、本当に愛想尽かされるぞ」
リクヤは笑った。
「予定はないから代わるよ」
「ありがとう、恩に着る」
「埋め合わせを期待してるさ」
疑う様子もなく、リクヤはドクター・ラウンジに入って行った。その姿に後ろめたさを感じなくもない。ユアンに同情して今回のことに荷担したはいいが、こうして何も知らずに明日を迎えるリクヤを見ると、それはそれで複雑な気持ちだ。
「ま、仕方ない。もう言っちゃったんだから」
そう言い聞かせて、自分を呼んでいる処置室に向かった。
六月十五日のE.R.は朝から忙しかった。まるでリクヤを騙したツケが回ってきたのではないかとジェフリーに思わせるほどに。気がつくと午後二時を過ぎていて、その頃にようやく彼は一息つけた。
外の空気を吸いに、搬入口から表に出た。非常階段の下に腰を下ろし、雲のない青空を見上げた。六月はニューヨークで一番美しい季節だ。ジェフリーは大きく伸び上がって深呼吸をした。
ユアン・グリフィスの今回のバースデイは、アフタヌーン・パーティーとナイト・クルーズ・パーティーの予定だと聞いている。
(豪勢だなぁ)
今ごろリクヤはマンハッタンの高級ホテルで、高い酒を飲み、ご馳走を食べていることだろう。うらやましいことだ。
一台のタクシーが非常階段の脇を通り過ぎ、搬入口に横付けされた。緊急車両以外は進入禁止のこのエリアに入ってくるということは、急患かも知れない。ジェフリーは立ち上がってタクシーを見た。
「れ、リック?」
後部座席から降り立ったのは、リクヤだった。まだアフタヌーン・パーティーは終わっていないはずだ。誰かが患者の件で連絡を入れたのだろうか――いや、それはない。今日、リクヤにコールするなとスタッフには言い含めておいたし、彼の受け持ちはジェフリー自身がカバーしていた。
リクヤは病棟の中に入り、その後ろにタクシーの運転手が続いた。ジェフリーも何事かと、その後を追う。
「あの人が、ジョーンズ先生だよ。先生」
受付を通り過ぎようとした彼を、ウォーレンが呼び止めた。
「この人が先生に用があるそうですよ」
ウォーレンは受付の前に立っている男を指した。
「ジョーンズ先生?」
浅黒い肌のその男に「そうだ」と答えると、彼は掌くらいのメモをジェフリーが読めるように、目の前に掲げた。
「なんだ、このメモは? えっと何々、『思い当たることがあるはずだ。タクシー代くらい出してもバチはあたらない』?」
走り書きの文字には見覚えがある。
「さっきの先生が、あんたに払ってもらえって。倍は出してくれるだろうって言ってたよ」
タクシーの運転手はにやりと白い歯を出して笑って、メモをひっくり返した。筆跡の違う文字で金額が書き記されている。メモに書かれた通り、思い当たることがあるジェフリーは苦笑いを浮かべて、仕方なくズボンのポケットからマネークリップを取り出す。額面の倍を渡すと、運転手はまた歯を出して笑い、車に戻って行った。
「今日はオフだろう?」
ドクター・ラウンジでは、リクヤがオペレーション・ウエアに着替えている最中だった。ジェフリーが声をかけると、脱いだ物をロッカーに突っ込んで、肩越しにまず視線を寄こす。鋭い眼差しが突き刺さるようで、ジェフリーは怯んだ。少し肩が開いて笑んだ口元が見えたが、その眼差しは緩和しなかった。
「オフだよ。だから、今から仮眠室で寝る」
ロッカーの扉が閉まると、微かにコロンが香った。普段、リクヤが使っているものとは違う。これはユアン・グリフィス愛用のテリュ・リリュの『oath(誓い)』。フラワー・ノートをベースにした、メンズにしてはかなりの芳香だ。その匂いには彼も気づいたらしく、口元がへの字になった。
「何か怒ってる?」
一応、聞いてみる。タクシー代を自分に回した時点で、今回の役割を彼に知られていることはわかっていた。
ポットからコーヒーを注ぎ、リクヤはジェフリーを見た。
「別に。たかがオフがパアになったくらいで、そんなに目くじらもたてないさ。人の交友関係にクレームつける権利はないしね」
今度は目にも笑みが浮かんでいた。いつものリクヤ・ナカハラだ。同僚にもナースにも患者にも人気のある、嫌味のない穏やかな笑顔に、一瞬、垣間見せた表情は紛れてしまった。
「まったく、いつの間に結託してたんだ? まさか君に裏切られるとは思ってなかったよ」
ジェフリーの分もコーヒーをコップに注いで差し出す。それを受け取って、ジェフリーは答えた。
「うーん、やっぱり賭けには勝ちたいからねぇ」
「賭け?」
「そう。『望みなし』、『デート止まり』、『ベッドイン』。もちろん僕はベッドインさ」
一本ずつ指を立てていくジェフリーに、呆れたようにリクヤは口を開けた。ジェフリーの言うところの賭けとは、彼らがレジデントだった大昔に行われていたものだったからだ。
「いつの話してるんだ」
リクヤに対するユアンの猛アタックは、医学生の臨床実習の時から周知であった。E.R.のレジデンシィ・プログラムが始まった頃から、誰からとなく賭けが始まった。リクヤがユアンに陥るかどうかを三択にしたもので、一番人気がなかったのは『ベッドイン』だった。ジェフリーは常にベッドインで大穴狙いである。ただし、賭けは無効となって久しい。
「僕の中では有効なんだよ。だから、ぜひともユアン・グリフィスには頑張って頂かないと」
「なんだそりゃ」
リクヤが不適な笑みを浮かべる。ジェフリーが賭けに勝つとは、これっぽっちも思っていないようだ。当のジェフリーでさえ、心の底では自分の勝利などありえないとあきらめている。
でも…とジェフリーは思った。
(少しは特別なんだろうな)
なぜならリクヤは他の人間を怒鳴ったりしない。ユアンを魅了しているであろうキツイ目は、他の人間に向けられたことはない。さきほど片鱗を見せはしたが、すぐに霧散してしまった。その誰も知らない表情は、ユアンの言うとおり、彼のために作り出されているのだから。
ラウンジのドアがノックされ、ナースのドミニクが顔を覗かせた。
「あら、ナカハラ先生。いらしてたんですか? ちょうどよかった、ゲオルギーさんが…」
と、もともとはリクヤの担当患者の容態を彼女が話そうとするのを、彼は制した。
「今日はオフ。ジョーンズ先生に言ってくれないか?」
隣を指差す。
「先生、転落事故のけが人が来ますよ」
別のナースがジェフリーを呼びに来た。助けを求めてリクヤを見るが、「オフ」の一言でそれも一蹴された。
「ランチ、まだなのになぁ」
恨めしげに、なおも彼にアピールする。しかしリクヤはコップを手に、ラウンジから続く仮眠室のドアに向かった。
「早く早く、ジョーンズ先生」
そしてジェフリーはナース達に追い立てられるようにして、ラウンジを後にした。
2006.06.06(tue)
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