[+14-a  June]                                   R45/Y47


 ムスッと口元を引き結んで、りく也は壁際に立っていた。
 タキシードなど前にいつ着たかわからない。高級ブランドのオートクチュールのそれは、りく也の持ち物ではなかった。しかし計ったように身体にフィットしている。それがまた彼の機嫌を損ねていた。
 目の前では着飾った男女達――圧倒的に男性の比率が高い――が、談笑したり音楽に合わせて踊ったりして、華やかな笑顔を振り撒いている。その中にあって、りく也はかなり異質だった。本人が思っているよりはるかに礼装は似合っているのだが、やはり不機嫌な表情が味噌をつけていた。
「Happy birthday! ユアン!」
 その声を合図に、一斉にクラッカーが鳴った。
 今日、六月十五日は、ユアン・グリフィスの四十七回目の誕生日だった。





 
「リック、急で悪いんだけど、明後日の休み、明日と代わってくれないかな?」
 副部長になったジェフリー・ジョーンズが、出勤して来たりく也を待ち構えていた。
「一日ズレるだけだから、予定が入ってなければ、ぜひ代わって欲しいんだけど」
 両手を胸の前で合わせて、必死な様相で彼は頼んだ。明後日の六月十六日は妻の両親の金婚式で、そのパーティーのホスト役を夫婦で引き受けていたことをすっかり忘れていたらしい。家族サービスは二の次にされがちなこの『稼業』のおかげで、ジェフリーは何度も離婚の危機を経験していた。「今回またすっぽかそうものなら、どうなることか」と彼が大げさに嘆く。最近のオフは部屋でゴロゴロ過ごすのがりく也のマイブームで、予定は最初から入れていない。ここのところ忙しかったから少々疲れが溜まっていることもあって、りく也は休みを交代した。
  で、翌六月十五日の朝、ドアベルが鳴った。ベッド・サイドのテーブルにある目覚まし時計を見ると、午前八時にもならない時間。りく也は午前三時に寝たばかりで、しかしベルは部屋の主の事情などおかまいなしに、等間隔で鳴りつづけた。
 ドアの前に立っていたのは例によってユアンだった。半分寝ぼけ眼のりく也が「うるさい」と音にならない声で抗議した。凄んだ目など気にしない笑みを浮かべ、
「おはよう、開けてくれないか?」
とチェーンキーを指差した。しかたなくドアを開けてやると、大きな手がりく也の手首を掴み、部屋の外に引きずり出された。
「ハミルトン、鍵はキッチン・カウンターの上だから」
 彼の陰になっていた人間に指示を出し、りく也の腕をぐいぐい引っ張って外に連れ出した。りく也の意思などまったく無視である。大した抵抗が出来なかったのは、低血圧と寝不足で頭が覚醒しきっていなかったからだ。そのまま彼所有の白いリムジンに押し込まれるのを合図に、車は滑るように走り出した。
「これはどういうことだ…」
 濡れタオルを目の上に乗せ、りく也は怒りを抑えてユアンに聞いた。
「今日は何の日か知っている?」
 傍らのユアンは入れたてのコーヒーを捧げ持つ。香りに惹かれてタオルを取る。
「知るか」
「私の誕生日だ。招待状を送っておいたけど」
 そう言えば、やけに仰々しい封筒がユアンから届いていたことを思い出した。一ヶ月くらい前のことだ。彼の誕生日パーティーへの招待状で、オフではないから断った。たとえオフであっても行く気はなかったのだが。
「オフじゃないから、断ったろうが」
「でもオフになっただろう?」
「なんで、それを知っ…」
 熱いコーヒーが頭の芯を刺激する。少しずつはっきりする中で、事情が飲み込めつつあった。ジェフリーとオフを代わったのはつい昨日のことだ。あの時のジェフリーは、やけに芝居がかってなかったか? 脳裏に彼の舌出し笑顔が浮かんだ。
「グルなのか、おまえ達? 一体、いつの間に」
「だって君は一度も来てくれないじゃないか」
「仕事だって言ってるだろーがっ」
「仕事を理由にしているくせに。オフだったこともあったはずだ」
「ないっ」
「あるっ」
 またしてもいつものパターンで二人が言い合いをしている間に車が静かに止まり、扉が開いた。開けたのはホテルのドア・ボーイだった。
「一度だけでいいんだ。次はもう言わない。リクヤ、お願いだから僕のバースディを祝ってくれないか?」
 ユアンの声が沈んだ。「引き返せ」一点張りのりく也に半分あきらめている。この顔は見飽きていた。もう車は目的地について着いてしまっているし、これ以上我を張るのも大人げない。開かれたドアの外には、まったくの他人がいるのだし。
「今度、こんな真似してみろ。病院にもアパートにも出入り禁止だ」
 そう言うと外に足を出した。
「リクヤ」
 ユアンの顔に見る見る嬉々とした表情が浮かぶ。彼が抱きつくより先に、りく也は車から降りた。
 目の前には歴史があって格式の高い、五つ星のホテルがそびえ立っていた。とてもパジャマ代わりのスエット・スーツで入れるような所ではない。続いて降りたユアンを振り返る。
「こんな服で入っちゃマズイんじゃないのか?」
「服は用意してあるよ。部屋を取ってあるから、そこで着替えるといい。その格好でも大丈夫さ、専用のエレベーターに乗るから」
 嬉しそうな笑顔をまだ保ったまま、ユアンが答えた。専用のエレベーターなど、ペントハウスにしか付かない。更にスエットでは場違いだろう。案の定、ベル・ボーイが不思議なモノを見る目で、りく也を見ていた。目が合うとあわててそらす。いい年の男が、言わば寝起きのパジャマ姿で、高級ホテルのアプローチに立っているのである。本人だって場違いなことはわかっている。
「さ、とにかく部屋に行こう」
 肩に回してくるユアンの手を払って、りく也は先んじて歩き出した。






「ハイ、えっと、僕はヴィヴィアン、君は?」
 どう贔屓目に見てもりく也より二十才は若い青年が、初対面相手とは思えない言葉遣いで声をかけてきた。そんな細かいことに目くじらを立てるほど若くないりく也は、患者向けの笑顔で「リック」と短く答えた。
 フロアにはピアノ曲が流れている。弾いているのは本日の主賓、『黄金のグリフィン』だ。もっとも最近、呼び名は『銀の』に変わった。白髪が混じったために金髪は白っぽく変わっていたからだった。
「クラシックはさっぱりだ。もっと景気のいい曲を弾けばいいのに」
 ヴィヴィアンと名乗った青年は、音の出所を見遣って言った。
「君もつまんなさそうな顔をしているね? さっきからずっと壁の花だ。ユアンの友達じゃないの?」
 人見知りのない笑顔で彼は続ける。仕事では営業用笑顔を振りまくりく也だが、オフな上に機嫌が最低に悪い今の状態では欠片も浮かばない。適当に、それからまったく興味なさそうな頷きから何かを感じ取って、青年は自分のよりも上にあるりく也の目を見つめた。
「ああ、失敬。年上の紳士に対する口の利き方じゃないよね。気になる?」
「いや、別に」
 紫色の不思議な瞳の色が珍しく、りく也は思わず見つめ返してしまった。相手はそれに応えてまた笑顔を作った。媚びて見えるのは気のせいかと思ったりく也に、
「実はパーティーが始まってから、ずっと気になっていたんだ。チャンスがあれば声をかけようと思って。不機嫌な口元、とてもセクシーだ」
と、彼は身体を寄せて来た。ますます唇を引き結んで、りく也は身体をずらす。
  ピアノからアンサンブルの演奏に変わり、フロアではダンスを楽しむ姿も見られたが、同性同士で踊っているのはやはりその手の人間という事なのだろう。ゲイに偏見はないが、自分も同類に見られるのは不本意なりく也だった。
「二人きりになれる静かなところにいかない?」
 ヴィヴィアンは一層媚びた調子で、りく也のタキシードの長いカラーに触れ、下から上に手を滑らせた。りく也が払うより先に、背後から大きな手がニュッと伸びて、その手を掴んだ。驚いた青年が振り返る。長身のユアンが彼を見下ろしていた。
「すまないけど、私の大事な人だから、遠慮してもらえないかな、ヴィヴィアン?」
「大事な人? え、もしかして、彼、リクヤ・ナカハラなの?」
 リクヤ・ナカハラの部分が強調されて、声が大きくなった。
「え? リクヤ・ナカハラ?」
と、まず近くのテーブルに居たカップルが振り返り、
「リクヤ・ナカハラだってさ」
次々と伝言ゲームのように、「リクヤ・ナカハラ?」の疑問形はフロアを走った。あっと言う間に周りには人が集まり、興味津々の視線にりく也は晒された。セクシーだと誉められた不機嫌な口元が緩む。笑みのせいではなく驚きのためであり、多くの目に気圧されて一歩後ろに無意識に下がった。しかしすぐに唇を結びなおし、ユアンを睨む。
「彼が噂のリクヤ・ナカハラか。ユアンも水臭い。呼んでいるのなら、さっさと紹介してくれなけりゃ。初めまして、確かドクターでしたよね? 僕はデニス・ケニングス。お噂はかねがね。ユアンから耳たこですよ」
 横幅のある男がまず歩み出て、ポッテリした右手を差し出した。
「どんな噂?」
 大人だから仕方なく握手をする。りく也の問いには次に手を差し出した気障な口ひげの男が答えた。
「もう十何年もぞっこんだって話。どんな相手にも本気にならないくらいにね。僕はレナート・スレイ」
「ゲイブル・ジャスパーだ。ツアーから戻ると必ず君のところへ行くだろう? 妬けるねぇ」
「なのに、誰にも紹介してくれないのよ。こんな隅に隠しておくなんて。私はエディスよ、よろしくね」
 エディスと名乗った女には見覚えがある。スーパーと称されるモデルで、以前、マクレインにも来たことがあった。誰が診るかでレジデント達が、ジャンケンで決めていたことを思い出す。
「確か、マクレインに来ていたな?」
「覚えていてくれたのね? そうなの、ちょっとあなたの顔を見に。でも、忙しくて診てくれなかったわね。さんざん待たされたあげく、むさいドクターに足を触られて虫唾が走ったわ。ユアンと同年代の一般人だって聞いたから、どんなおじ様かと思ったけど、あなたならぜんぜんオッケイよ」
 普段ならりく也も「全然オッケイ」なのだが、この状況では口説く気も起こらない。彼女の話が終わらない内に、また違う人間が割り込んだ。彼が終わればまた別の人間――ユアンがどれくらいりく也のことを自慢しているかを、自己紹介とともに聞かされる。周りの目はりく也の何らかのリアクションを期待していて、見世物のようでいい気持ちがしなかった。
 大人としてのりく也の分別にも、そろそろ限界が見えて来た頃、
「みんな、そろそろそれぐらいにしてくれないかな。私の愛しい人の機嫌が、これ以上悪くならないうちに」
とユアンがりく也の肩に腕を回した。ヒュッと誰かが口笛を鳴らしたのと、りく也がユアンに肘鉄をくらわしたのは同時だった。
「俺は見世物じゃない」
 りく也は腰を折ったユアンの耳元にそう囁くと、その場を離れた。怒鳴らなかったのは、欠片で残った分別ゆえだ。だから呼び止められても振り返らない。振り返れば今度こそ、怒鳴ってしまうに違いなかった。






 上着を脱ぎ、蝶タイを取った。それからエメラルドのカフスを外してシャツのボタンを緩める。フロント・マンが何事かと見守る中、それらをフロント・テーブルの上に無造作に置くと、りく也は車を呼ぶように頼んだ。
「これはユアン・グリフィスに返しておいてくれないか」
 ロビーのソファに腰を下ろし、車を待つ。朝、理由もわからないままに連れて来られたから、鍵も財布もない。とりあえずマクレインに行けばなんとかなるだろう。あの忌々しいジェフリー・ジョーンズにこの責任を取らせてやる。りく也はそう算段した。
 目の奥が痛い。寝不足のせいだ。両手で目を抑えて車を待つりく也の隣で、スプリングが軋んだ。コロンの匂いはテリュ・リリュのメンズ、座ったのが誰かは見なくてもわかった。
「リクヤ」
 甘めのコロンに似合ったユアンの声が聞こえた。無反応のりく也に、再度「リクヤ」と呼びかける。
「なんだ?」
 目を押さえたまま、答えてやる。
「気を悪くした? みんな、君に会いたがっていたから」
「寝不足で疲れてるだけだ。鍵、持ってるなら返せよ」
「ハミルトンが持っているから、少し待っていてくれないか?」
「ならいい。マクレインに行くから。鍵もそっちに持って来させろ」
「でも、オフだろう? 私の部屋で休んでいけばいい。後で送らせるよ」
「仮眠室で寝る。もう戻れよ。主賓が抜けたらマズいだろうが」
 ユアンの手がりく也の左手にかかり、やんわりと目から外した。覗き込む青い瞳。金髪は白っぽくなったが、この鮮やかな青だけは変わらない。笑みが浮かんでいるのが見える。
「なんだよ?」
 右手は自ら外して、彼を見る。
「君はいつも怒ってばかりだ」
「おまえが気に障ることをするからだろう」
「私にだけだよね、そんな顔をするのは?」
 ユアンが左手を握ったままだったので、それを振りほどく。少し強かったかも知れない。しかし彼は気にするどころか、とても嬉しそうに微笑んだ。
「誰も知らないリクヤ・ナカハラだ。私だけの」
「何、言ってやがる」
 車が来たと、フロント・マンが伝えた。立ち上がるりく也の左手は、またユアンに取られた。その指に彼が口づける。彼の予想しなかった行動に、りく也の引く手が遅れた。
「今日はありがとう。たとえ嫌々でも、君に祝ってもらえて嬉しかった」
 ここで怒ってはユアンを喜ばせるだけだとわかっている。が、捕まれた左手を取り戻した次の瞬間には、右腕が勝手に彼の頭を掴んでソファに引き倒していた。殴らなかったのは、いつものように加減する自信がなかったからだ。周りの客がギョッとした顔で、それぞれ腰を浮かせた。車が来たと知らせたフロントマンが、「お客様!」と叫ぶ。ユアンは自由になる手で、周りの反応を制した。
 頭を押さえつけられたまま、
「愛しているよ」
と彼は微笑んだ。
「一生言ってろ」
 りく也はユアンの頭から手を外して、車が待つホテルの玄関に足を向ける。目の痛みはこめかみの辺りに移動していた。こんな馬鹿馬鹿しいメロドラマ男を相手に、これ以上時間を無駄にはしたくなかった。さっさとマクレインに行って、寝心地は今一つの仮眠ベットで寝すむに限る。その方がよほど建設的だ。
 『私だけのリクヤ・ナカハラ』とユアンに言わしめた、不機嫌な表情を周りに振りまきながら、りく也はロビーを後にした。




2006.05.23(tue)


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