「ここは、相変わらずだね?」
マクレイン総合病院のERに足を踏み入れるなり、誰にともなくユアンは呟いた。外来待合室には人が溢れていた。皆、一様に顔色が悪く、場違いに華やかな容姿のユアンを物憂げに見る。中には彼が高名なピアニストだとわかる者もいたが、声をかける気力はなさそうだった。
「やあ、こんにちは。どうされたんです?」
通りかかったのはジェフリーだった。彼はカルテに何やら書き込むと、一緒に歩いていた看護師に手渡し、ユアンの脇で立ち止まる。
「さっきNYに戻ったんだ。リクヤは?」
「出勤していますよ。ああ、でも今日はすこぶる機嫌が悪いから、気をつけた方がいいかも」
「珍しいね」
リクヤが不機嫌な表情を見せるのは、ユアンを相手にする時に決まっていた。同僚や患者や女性に対しては当りが柔らかく、滅多に怒った顔を見せない。だから彼の不機嫌な表情と悪態は、自分が彼にとって少しばかり特別な存在なのだと、ユアンを喜ばせていた。
「最近、年のせいか結構、顔に出すようになってきましたよ」
ジェフリーの言葉にユアンは複雑な笑みを浮かべた。二人は肩を並べて歩き始めた。
リクヤの不機嫌の原因は、十月の半ばからニューヨークで流行しているインフルエンザにあるらしい。患者が増えるのは当たり前だが、病院スタッフにも平等に流行るものだから、人手不足に拍車がかかっていた。インフルエンザの患者に、事故や事件の急患、他科の応援に人手を取られ――もちろんERにも他科からの応援は来ているが――、勤務シフトは崩れる一方。ジェフリーもここ数日、病院に寝泊りする日が続いているのだと言う。
「それに彼自身も体調を崩しているし」
「リクヤが?」
「ええ、インフルエンザはネガティブなんですがね、熱があるようで。でもここがこんなだし、騙し騙し働いてもらっているんです。これでも少し患者が減ったから、今、仮眠を取っていますよ」
受付までの数メートル、ジェフリーは何度も看護師や医師に足を止められた。受付に着いたら着いたで次の患者のカルテが待っていた。これで「少しは減った」と言うのなら、今まではどれくらい忙しかったのだろう…とユアンは思った。
「勇気があるなら、仮眠室を覘いて来たらどうです…っと、噂をすれば」
ジェフリーはユアンの肩越しに目をやった。振り返るとマスク姿のリクヤが、全身に「不機嫌です」のオーラを醸し出して歩いてくる。三ヶ月ぶりのリクヤに、ユアンの顔には満面の笑みが浮かんだ。そんなユアンを一瞥した彼は片方の眉をピクリと上げる。「やあ」とユアンが言うより先に、リクヤはジェフリーの目の前に紙切れをヒラヒラと突き出した。
「この張り紙、君だな? 誰が魔王だ、誰が」
くぐもった声もまた、オーラ同様に不機嫌だった。
ユアンと受付にいた数人がその紙切れを読む。『危険! 魔王の眠りを妨げるものは…』と書かれていた。
ジェフリーがニヤリと笑う。
「君の安眠を守るために、腐心したんだよ。おかげでよく眠れたろう?」
「そりゃどうも。上がらせてもらえたら、もっと感謝するんだけど?」
「この状況を見たまえよ」
リクヤの言葉に、ジェフリーは顎で待合室を示した。リクヤはマスクの内で嘆息したようだった。ユアンが「大丈夫かい?」と声をかけると、
「なんだ、来ていたのか? こんな所でウロウロしていたら、うつるぞ」
と素気無く答える。ユアンを見上げた目は、熱のせいか潤んで見えた。結構重症なのではないかと、素人目にもわかる。しかしそれはそれで、なかなかにそそられた。不謹慎にも思わず抱きしめてしまいそうになるのを、ユアンは抑えた――が。
次の瞬間、リクヤの体がグラリと傾いだ。
「リクヤ?!」
ユアンが慌てて腕で支える。リクヤは辛うじて倒れこむのを踏むとどまり、その腕を借りて体勢を戻した。袖越しであるにもかかわらず、彼の体の熱さが伝わる。ユアンは空いた手で彼の額を触った。かなり熱い。
「熱がある。休まないとダメだよ」
リクヤは額の手を払いのけた。
「これくらい点滴すれば下がる」
「ダメだっ!」
ユアンの一喝に、周りの視線が集中する。そんなものを気にも留めず、リクヤの手首を掴み腕の中に収めた。
「ドクター・ジョーンズ、彼は連れて帰るから。いいね?!」
呆気に取られるジェフリーを振り返り、そう言い捨てると、ユアンは有無を言わさず、リクヤの肩を抱いてERを後にした。
夕方のマンハッタンは例のごとく渋滞していて、思うように車は進まなかった。
車窓に頭をもたせ掛けて、リクヤは目を閉じている。時折、マスク越しに咳が聞こえて、眠っていないことがわかった。ユアンは彼との間を大きく空けて「横たわれば?」と勧めたが、微かに首を振って体勢を変えない。
シートの隅にじっと身を寄せる姿は、手負いの動物のように見えた。彼のために温度を上げたエアコンも、熱のある身体を温めるには充分ではないのか、白衣の前をきっちり合わせて腕を組む。車に乗ってから、ずっとこの調子だ。職場では気が張って保てたものが弛んでしまったのだろう。本当に具合が良くないのだ。
ユアンは脱いだ自分の上着を彼にかけた。一瞬、薄く目が開いて、またすぐに閉じられる。ユアンは彼の身体を引き寄せ、背後から抱き込んだ。一度、強く抱きしめて、その頭に何度もキスをする。虚を突かれたからか、不調で抵抗する力が出ないせいか、リクヤはおとなしくされるがままだった。
「…何、しやがる?」
物言いは変わらなかった。ようやくいつもの彼の片鱗が見えて、ユアンは安心した。
「私が子供の頃、具合が悪くなると母がこうして抱きしめて、何度もキスをくれたんだ。不思議と安心出来て、よく眠れた」
「…俺は、子供か…。離せよ」
「いやだね。君に触れられるのは、弱っている時だけだもの。おとなしく抱かれていたまえよ。この方が暖かいし、楽だろう?」
かかるリクヤの重みが、増したように感じた。どうやら諦めたようだ。ユアンは腕の力を少し緩めた。
(あれは、何年前だったかな)
以前にもリクヤをこうして抱き締めて、一晩を過ごしたことがある。彼の兄・サクヤとそのパートナー・エツシが、ロサンゼルスで結婚式を上げた夜だった。正体を無くすくらいに酔ったリクヤをホテルの部屋に送り、一つのベッドで眠った。もちろん何もしなかった。同意がないセックスはユアンの主義に反する。確かに魅力的な状態だったし、誘惑がなかったわけではない。ただそうすれば、彼はユアンから離れてしまったろう。
ユアンはリクヤとちゃんとした恋愛をしたかった。身体だけではなく、彼の心にも触れたい。今までのどんな相手にも感じなかった愛おしさが、そのことをユアンに切望させる。彼の『視界』に自分が入るまで待つつもりで、気がつけば十六年経ってしまった。二人の距離は縮まらない。しかし開いてもいないように思う。
寄りかかるリクヤの重みが、聞けなかったことを言葉に綴る。
「リクヤ…、少しでも私のことを好いてくれているかい?」
腕の中のリクヤは動かなかった。寝入ってしまったのかも知れない。
「おまえは良いヤツだと思ってるさ。」
ユアンが答えを諦めかけた時、マスクでくぐもった声が聞こえた。彼の口元近くにユアンは耳を寄せる。答えは思いもよらないものだった。口元が弛んで、回した腕にも力が入ろうというものだ。
「愛とか恋とか言わなけりゃな」
リクヤはそれに釘を刺す。
「私は君と『お友達』になりたいわけじゃないんだ。それはわかっているだろう?」
リクヤがマスクの下でため息をついたのがわかった。
「君と一生を共に過ごしたい。病める時も健やかなる時も、君の隣にいたいんだ」
「…結婚式の誓いの言葉じゃないか」
「そうだよ。友達には贈らない言葉だ」
「おまえは錯覚しているだけだ。他のヤツと違って、俺が思うようにならないから、意地になってる」
今度はユアンがため息をつく。この言葉は、前に聞いたことがあった。彼からではなく、彼の兄・サクヤから。
「サクヤと同じことを言うんだね?」
「サクヤもおまえに靡かなかったからな。兄弟二人してモノにならなけりゃ、おまえだって意地になるだろ?」
「ねえ、リクヤ…」
リクヤの耳に唇を寄せる。誤解だけは解いておきたかった。
「確かに最初は振り向かせたいと思ったよ。でもそれだけで、こんなに長く追い続けることは、いくら僕でも出来ない。君は君の魅力で僕を惹きつけているんだ。サクヤの弟だからと言うわけではなく、君だから。出会ってから何年経っても、その魅力はちっとも褪せない」
「何…言ってやがる」
「だからリクヤ、もうそろそろ僕の想いを受け入れてくれないか? これからの人生を一緒に歩いて行こう。僕達はきっと良いパートナーになれる。二人で恋をし直そう」
「忘れているようだから言ってやるが、俺の恋愛対象は男じゃない。今までも、これから先もだ」
「君は相手が女性でも恋愛はしないじゃないか」
リクヤが首を動かし、ユアンを見た。視野に入れたと言ったほうが正しいだろう。完全にユアンの顔を見るには、体勢に無理がある。ユアンも彼の表情は確認出来なかったが、横顔から目の様子は辛うじて察せられた。逆鱗ほどではないにしろ、尻尾の先程度は踏んだかも知れない。
「君は恋をしようとしない」
「必要ないからな」
「僕には、君の恋心が必要なんだよ」
気持ちが先走って、言葉が口を突く。腕の中のリクヤの重みが後押しするかのようだ。彼を追い詰めるな…とユアンの頭の中で響いたが、止まらない。
「愛してる」
「…やめろ」
「愛されることを否定しないでくれ」
「おまえ、いい加減にっ…」
リクヤがついに身体を離そうとするが、ユアンは許さなかった。長い腕で抱きすくめる。リクヤは数度、抵抗を試みて身を捩った。しっかりと腕の中に入ってしまっている上に、熱と薬のせいで身体が思うように動かない。すぐにそれは断念され、再び彼の重みがユアンの腕と胸に伝わる。想いに応えて身を委ねたのではないとわかるだけに、ユアンは少しやるせない。無理強いするとリクヤは頑なになる。ユアンの盛り上がった気持ちは、やっと冷静さを取り戻した。
リクヤがなぜそこまで、愛されることや愛することを拒み続けるかはわからない。ユアン相手だからと言うわけではない。同性が恋愛対象にないということだけでもなさそうだった。相手がどんな美女であっても、リクヤが彼女達に求めるものは一夜の情事であって、恋愛ではないのだ。誰とも関係を続けようとせず、結婚もしない。彼との長いつきあいで、その口から愛だの恋だのと言う言葉を、ユアンは聞いたことがなかった――恋をしようとしない。恋と言うものを知らないのではないかと、ユアンは思う。
ナカハラ兄弟が幸せな幼少期を過ごしていないことは感じられる。リクヤの少ない家族の話の中で登場するのは、双子の兄ばかりだ。そこのところに彼が心に纏う鎧の理由がありそうなのだが、ユアンに踏み込んで聞く勇気はなかった。彼の内面を深く知ってしまったら、もう歯止めが利かなくなるのではないかと思うからだ。
ユアンには、その頑なな心が弛むのを待つことしか出来ない。
「ごめん、性急過ぎた」
十六年も待ちつづけて性急過ぎたもないものだが、ここは折れた方が得策だ。これも彼との長いつきあいで学習したことだった。
「謝ることはない」
「怒っていない?」
「おまえの戯言はいつものことだからな」
ユアンが思った通り、リクヤの語調が幾分か柔らかくなった。
「ひどいよ、リクヤ。僕はいつだって真剣なのに」
マスクの内で彼が鼻で笑ったのがわかった。
仕方がない、これが惚れた弱みと言うものだろう――ユアンはリクヤの髪に口づけて、彼の頭に自分の頭を乗せた。
車は相変わらず進まない。日は完全に落ちて暗闇に変わっているのが、スモーク・ガラス越しにも感じられた。時々、黄色い街灯の光が流れて行く。ゆっくり、ゆっくりと。
しばらくしてリクヤから静かな寝息が聞こえてきた。マクレインを出る際にジェフリーが飲ませた薬が、本格的に効いてきたのだろう。顔を覗き込む。
「いつか私の本気が、君の心に届くといいけど」
閉じられた双眸にそう囁くと、マスクの上からキスを落とす。微かな唇の温もりが感じられた。もっと感じたくて、マスクに指をかけると、
「…俺に触るな」
寝言か、それとも呟きか、ほんの少し見えるリクヤの唇から漏れた。何と言ったのかユアンには聞き取れない。「え?」と聞き返すが、返事はなかった。
マスクから指を離し、ユアンは苦笑した。弱っていても思い通りにはさせてもらえない。こうして抱きしめるのがせいぜいだ。
「まったく、君にはまいるよ」
子供をあやすようにリクヤの身体を撫でさすりながら、ユアンもまた目を閉じた。
翌日――
「頭、痛い…」
目が覚めた時、ユアンの気分は最悪だった。頭が痛く、身体が重だるい。背中がゾクゾクした。これは明らかに病気の兆候だ。甲斐甲斐しく看病しているのはハミルトンで、すでにリクヤの姿はなかった。
前日、リムジンはクィーンズのリクヤのアパートには行かず、アッパー・ウエストサイドのユアンのコンドミニアムに帰った。薬の効果と快適な環境で一晩ゆっくりと眠ったおかげか、リクヤはすっかり回復。始発が動く時間になるとマクレインに帰って行ったらしい。代わってユアンがベッドから起き上がれない状態となってしまった。まったく、お約束もいいところだ。
リクヤにこの状態を知られたら多分、「自業自得だ」の一言で済まされてしまうだろう。あきれたような表情で、ベッドに臥しているユアンを見ながら。そのシチュエーションもなかなか楽しそうだった。
ハミルトンに今の状況をリクヤに知らせてもらうのはどうだろう。それで彼が来てくれたなら、これから先の展開に、少しは希望もあるというものだ。調子が悪くても、この手のことには頭が回るユアンであった。
「ドクター・レイブラッドに連絡を致しました。風邪がうつっているようだから、朝になったら主治医に連絡するようにと、ドクター・ナカハラから申し付かっておりましたので」
ドクター・レイブラッドはグリフィス家の本当の主治医である。リクヤの方が一枚も二枚も上手だったと言うわけだ。思わず落胆のため息が吐き出される。その後に咳が続いた。ハミルトンは額のタオルを換えながら、慰めるように付け加えた。
「ですがユアン様、ドクター・ナカハラはこちらを出られるまで、ずっと付いて下さったのですよ。夜明け前からすごいお熱でしたからね。ご自分もまだ本調子ではないご様子でしたのに」
「リクヤが?」
「ええ、お薬を飲ませて頂いたことを、覚えてらっしゃいませんか? それで少しマシになられたので、病院に戻られたのですよ」
「口移しで?!」
このユアンの反応には、さすがのハミルトンも吹き出した。
「いつものユアン様で、安心いたしました」
ドアベルが鳴る。「ドクター・レイブラッドでしょう」とハミルトンは肝心のところを答えずに、笑いながら玄関ホールへと向かった。
リクヤが看病をしてくれていたことは意外だった。口移しで薬を飲ませ――と思うことにした。その方が更に幸せな気分になれる――、出かける時間になるまで傍らについてくれていたのだと知ると、頭の痛さや身体のだるさも緩和される。これで帰りに様子を見に寄ってくれれば申し分ないのだが、ユアンはそこまで期待しない。
悲しい時や辛い時には楽しいことを考えようと歌ったのは、『サウンド・オブ・ミュージック』のマリアだった。
回復したならマクレインに行き、そして不機嫌なリクヤの表情を見て、デートに誘う。彼はけんもほろろに断るだろうが、そのやりとりはきっと楽しいものになるだろう。ユアンは痛む頭で自分なりに楽しいことを思い浮かべた。
リクヤはいつもその感触をユアンの腕に残すだけだ。ロサンゼルスでも、昨日の車内でも。
ただそれは、決して消えずにユアンの中に留まり続ける――甘い記憶となって。
2007.01.13(sat)
|